STAP細胞論文騒動
理研の小保方晴子氏のSTAP細胞論文騒動について、もちろん自分にはSTAP細胞についての専門的な知識はなく、Nature誌の論文を読んでもなにが書いてあるのかさっぱり内容はわからないだろう。ここで私が論じることができるのは、いわゆる「コピペ疑惑」である。疑惑というより「コピペをやった」ということだ。
この「コピペをやった」ということがよくわからない。学術論文はその文体にもよるが、コピペは引用であるとわかるように記述し、引用文献に載せればいいだけのことだ。こんなことは博士号取得者どころか大学の学部の学生でもできることであり、それだけのことがなぜできなかったのか。よくわからない。ようするに、それだけの話なのだ。論じるもなにもない。それだけの話だ。
論文はそうした体裁を持っているということは、誰に教わることなく学術書をそれなりに読んでいればわかる。基本的には学部4年生になって卒業論文を書く頃には、そうした論文の書き方の常識なことはすでにわかっていることとし、卒論の内容そのものの方がウェイトが大きくなるものなのである。少なくとも1980年代を高校生から大学院生を過ごした私はそうだった。
ただし、私がそうであったというだけで、大多数の大学生がそうであるわけではない。というか、日本の大学は学生はそうしたことは常識になっているという前提を持ち、論文の書き方という基本的なことをいちいち教える文化というか風土がない。
このへん、そうしたことを徹底的に教えるアメリカの大学とは違う。論文の書き方など、大学生として日々本を読んでいれば自然に憶えるものだという意識が大学の教師にある。教師もまた自分が大学生の頃はそうだったわけであるし、その恩師の教師もまたそうであった。みんなそうやってきたのだ。戦前の旧制教育の時代から日本の大学はそういうものだった。自分の場合は日本の大学はそういうものであることを知っていたから、自分で知的生産の技術を身につけなくてならないと思っていた。
日本の大学教育は昔からなぜそういうものなのであるのかというのは、そうカンタンには言えない。言えないが、あえてカンタンに言ってしまうと、この国における知識や技術の伝承は教わる側の主体性に大きく依存するということなのだろう。日本の大学は「教師が勉強しろと言わなくても学生が勝手に勉強していく」「論文の書き方など常識的なことは学生はすでにわかっている」「実利的なことよりも、もっと高度な理論や観念を学ぶ」といことがタテマエになっている。それがいいのか悪いのかはよくわからない。私個人にとっては、日本の大学の自由放任的な教育スタイルは良かったと思う。
自由放任であるから許容範囲も広い。卒業論文に他人が書いた本の記述の丸写しの箇所があっても、まあまあで通すのが日本の大学である。そうでなくては卒業ができない大学生がごまんといる以上、細かいことは言っていられない。公的にバレれば「良い」とは言えないが、ケース・バイ・ケースで判断せざる得ない。よく言われているように、日本の大学はなにも学ばなくても卒業できる。実利的なことは卒業後に学ぶ。それが日本の大学だった。このへんの(良い意味でも悪い意味での)「ゆるさ」は大学院にもある。修士号にせよ博士号にせよ、完全な内容審査だけよる授与ではない場合もある。そこに様々な事情がからむ。
今回のように30歳の研究者が「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」と堂々と言うということは、これまでなかったことだろう。今回の騒動で理研の理事長は「未熟な研究者がデータをずさん、無責任に扱った。徹底的に教育し直さないといけない」と言った。それは理研の理事長だけではなく、日本の大学教育の自由放任さの中で学ぶことを学んできたかつての大学生にとってのホンネの声だろう。何度も言うが、教わる側の主体性に大きく依存する日本の大学教育は教育する側の資質や教育の体制ではなく、教育される側の自己責任が大になるのである。
しかしながら、今の大学や大学院の教育はそうした「未熟な研究者」を生み出す可能性があることはわかっていたはずだ。わかっていないのならば、今の大学教育の姿、研究の現場を知らないとしか言いようがない。
いわば「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してきた学生に、「オマエ、そんなことは常識だろ。オマエが悪い」と突っぱねるようなものである。もちろん、それは正しい。しかしながら、それで話を終わりにすれば、いつかまた「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してくる学生が現れる。「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」という学生がいるのならば、「それは悪いことなのだ」と徹底的に教える教育の仕組みを考えなくてならないだろう。大学はそんな基本的なことをいちいち教えないでは世の中がやっていけない時代になったのだろう。
こんなことは今に始まったことではない。今回たまたま、その「未熟な研究者」が国際的に有名な権威ある学術雑誌に掲載した論文の体裁がネットで指摘にされたことによって話が大きくなっただけのことだ。程度の違いをもって同様なことは数多くあるのだろう。こんなことはいつか起こると思っていた、というのが大学教育の現場にいる人たちの声なのではないだろうか。
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