続・STAP細胞論文騒動
理研のSTAP細胞論文騒動について前回の記事を書き終えて、その後もしばらくこのことをぼおーと考えていたら、
理研の理事長の未熟な研究者がすべて悪いかのような発言はどう考えておかしいとしか思えない。小保方さんは言うまでもなく「未熟な研究者」なのであろう。では、そうした未熟な研究者を持つ理研の長としての責任はどうなのであろうか。ワカイモンが未熟なのは当然であって、それを教育する側の責任はどうなのだろうか。
実際のところ論文の体裁が良くないとしても、これほど小保方さんが非難されることなのだろうか。ことはペーパーの話であって、例えば小保方さんが危険な薬品を作って、それによって死者が何人も出たという話ではない。論文としての体裁が問題なのであって、そうであるのならば「正しい」体裁で再度、論文を出せばよいだけの話ではないのか。重要なのは論文としての体裁ではなく、その内容であるはずだ。
かつて、東京大学の教養学部の教官として当時、東京外大の助手だった中沢新一が候補に挙げられ、ほぼ決まりかけていた時、中沢さんの論文は論文としての体裁に問題があるという指摘が東大の教授会議から出て、結局、教官就任の話が流れたことがあった。科学論文ではない中沢さんの論文の中の記述に「再現性がないことは科学ではない」というような指摘は今思ってもいちゃもん以外の何者でもなかった。
STAP細胞論文騒動はまっとうな科学の論文のことだ。しかも、中沢新一さんの東大駒場騒動よりも遙かにレベルの低い「コピペやりました」であったわけであるが、これほど大騒ぎする話なのだろうかと思う。
学術論文の体裁には決まり事がある。しかしながら、それは「決まり事」であるだけであって、その「決まり事」の通りにせよというのならば、再度その「決まり事」に従うように体裁を訂正すればいいだけのことであるはずだ。いわば事務的な手続きのことなのだ。重箱の隅をつついて若い研究者を潰して、なんの意味があるのか。
こうしたことを書くと、オマエ、前の記事では今の教育では未熟な研究者が出るのは当然である、改善すべきだみたいに書いていたじゃないかと言われそうであるが、ワカイモンの未熟さは、大上段からその人個人を咎めても意味はなく、教育の現場で地道に正しくていくしかないではないかと言っているのだ。正しい体裁の論文を書くことは必要なことであるが、学問的に意味のある論文を書くことの方がもっと重要なはずだ。コピペをやっていいとは思わない。ただ、たかが論文の体裁のことでこれほど大騒ぎをして、一人の若い研究者の将来を潰すほどのことなのだろうかと言いたいのだ。
研究者が完璧な論文を書こうとすることは当然のことであるが、完璧な論文であることを求めていては、いつまでたっても論文を発表することができない。論文を書き、世間に広く公表し、他人の誰かがそれに反論したり、その論文の不備を指定する。指摘された事項を検証し、正しい指摘である場合、自分の仮説を訂正する。科学の研究とはそうしたものだ。
博士論文にコピペがあってけしからんというのならば、すべての博士論文審査では院生が提出してきた博士論文でコピペがあるかないか調べよというのだろうか。審査する側のコストは大きい。コピペ探しを徹底的にやって、それで研究全体、学問全体のレベルがあがるとでもいうのだろうか。
欧米の大学の博士号は厳格な審査に基づき権威あるものになっている、日本もそうならなければならないという声があるが、日本の大学の博士号はこれで十分だと思う。そもそも学位というものは完全無欠なものではない。なにかを保証するものではない。博士号は目安であって、目安以外のなにものでもない。そんなものに完全無欠性を求めるというのはいかがなものであろうか。
どうも今の世の中は、決まり事にあまりにも束縛されすぎる。決まり事さえ守っていればいいということが多すぎる。決まり事に従っているか、従っていないかのどちらかしかない。決まり事に従っていないと、どこぞからすぐ糾弾される。本来、決まり事とはどのように運用していくのかということであったはずだ。
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