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March 2014

March 30, 2014

台湾は台湾であり続ける

 台湾の大学生たちが、台湾の国会である立法院を占拠して1週間以上になる。去年の夏、ぶらぶらと歩いていた台北で、半年後にこうしたことが起こるとは思ってもいなかった。台湾大学の近くの定食屋さんでお昼ご飯を食べたり、本屋で過ごしたりしていたが、あの時そこにいた学生さんたちも今、立法院にいるのかもしれない。

 ことの発端は中国と台湾の間で調印された「サービス貿易協定」にある。これは中国、台湾双方が双方の市場を開放する協定である。台湾の野党はこの協定は中国側に有利なものになっていると調印に反対していたが、与党である国民党は野党の意見には応じず、時間切れとして審議を一方的に打ち切り。十分に話し合うことなく強引に協定の調印を進めた。このことに大学生たちが抗議し、今回の立法院を占拠となった。

 つまり、大学生たちが抗議している点はふたつある。ひとつは「サービス貿易協定」そのものの内容であり、もうひとつはきちんと十分の時間をかけて審議することなく、密室で中国と調印したかのようなやり方をしたことことである。こうした国の将来に関わることで国民に十分な説明がなく政府が独断で調印することは、民主主義国家としてあるべきことではないのは当然のことだ。

 台湾では2008年以後、総裁は親中の馬英九総裁になっている。馬政権がめざすものは中国と台湾の密接な関係である。この関係が、対等な関係になるのか、それとも大陸中国に含まれる関係になるのか。極めて難しい状況になっている。中国の望みは言うまでも台湾を併合することだ。中国は香港に見られるように一国二制度をとっており、この方法で台湾も中国の一部に組み込むことができる。習近平政権のいう中台統一とはこうしたことだ。

 香港について言えば、主権がイギリスから中国に戻されてから20年近くたったが、さまざまなところで大陸中国が大きく関与し数々の問題をもたらしている。最近、中国政府を批判する報道への規制があり報道の自由が脅かされつつあるとして市民ら6千人以上によるデモがあった。香港も香港行政長官は親中派の梁振英である。まぎれもなく香港は中国であるが、大陸中国とは一線を引き続けたいというのが香港の市民の意識であろう。

 この香港を台湾は見ている。そして、台湾はアメリカの動向も見ている。シリア問題やロシアに組み込まれるクリミアに対してアメリカはなにもしかなった。では、台湾についてアメリカはどうなのだろうか。

 今回の台湾での大学生たちよる立法院の占拠は、大きな枠組みで見ると私がかねがね述べているアジアにおける「アメリカのパワーの衰退と中国の台頭」によるものと考えることができる。アジアでのアメリカのプレゼンスの低下は日本だけではなく台湾にも大きく関わっているのだ。

 今のアメリカの国際政治学では台湾放棄が言われ始めている。例えば、ジョン・ミアシャイマーは最近「The National Interest」誌に「Say Goodbye to Taiwan」というエッセイを寄稿している。アメリカにとって台湾を防衛するというのは、いわば朝鮮戦争以後の対共産主義シフトの名残であって、21世紀の今日ではもはや実質的な意味を持たなくなってきている。地政学的には朝鮮半島と同様に台湾もまた中国の台頭に直面し、遠く離れたアメリカがこれを防ぐのは難しい。台湾防衛はアメリカにとって巨大なコストになっている。その半面、台湾を防衛することでのアメリカへの利益は少ない。アメリカの外交はウィルソン主義的な理想論ではなく、リアルなバランスを重視するようになってきている。いわば日本以上に台湾は「いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ」(by 産経新聞の古森さん)なのである。

 ちなみに、いずれそのうちこのミアシャイマーか、「パックス・アメリカーナの終焉後に来るべき世界像」を論じているオフショア・バランシング論のクリストファー・レインあたりが「Say Goodbye to Korea」とか「Say Goodbye to Japan」とか、さらに言えば「Say Goodbye to NATO」とか「Say Goodbye to Middle East」というエッセイも書くようになるのではないかと思う。将来、そうした時代がやってくるだろう。

 今、アメリカの国際関係論では次の時代の新しい世界戦略論の模索が始まっている。これに対して、日本では旧態依然とした世界の警察官であるアメリカとか、パックス・アメリカーナの世界がこれからも続くかのような国際認識しかないのは嘆かわしいといわざるを得ない。

 いずれにせよ、台湾は台湾でやっていくしかない。

 しかしながら、立法院を占拠すればそれでいいわけではない。今回、長期にわたって大学生たちは立法院を占拠し、野党も協定の見直しを要求しているが、かりに「サービス貿易協定」が破棄になったとしても、今後も同じようなことは中台間で何度も繰り返し起こるだろう。

 台湾は今後もますます巨大化する大陸中国の存在に直面せざる得ない。韓国は中国とアメリカの間に立って立ち回りつつ、基本的にはかつての宗主国である中国に帰属する道を選択した。香港はもはや中国の一部になってしまった。では、台湾はどうするのか。

 台湾には台湾のとるべき道がある。大陸中国に飲み込まれない、台湾としてのアイデンティティと台湾の独自性を守り、維持していく方向だ。このボーダーレス・ワールドでは、政治的な中台統一や台湾独立は実質的な意味を持たない。中台統一や台湾独立とは違う将来の台湾のビジョンが必要だ。

 台湾が進むべき道は、大陸中国に併呑されることでもなく、台湾一国で国を閉ざし経済の自由化をしないことでもない、本当の意味で世界に開かれたボーダーレス・ワールドの中の民主主義国家台湾になることである。そして、そうしたこれからの台湾を担っていくのは民主化した台湾に生まれ、育ち、学んできた台湾の若者たちだ。日本統治下の台湾人でも、大陸から来た国民党中国人でも、民主主義を勝ち取った親の世代でもない、今の台湾の若い世代なのだ。

March 23, 2014

アメリカがアジアから撤退する日

 来週の「核安全保障サミットの場を利用しての日米韓首脳会談で、韓国の朴槿恵大統領は就任後、初めて安倍晋三首相と正式に会談することになる。」

 韓国と日本を同じテーブルにつけさせたいアメリカが、安倍総理に河野談話の見直しをしないと言わせることで韓国側に承認させた会談である。アメリカとしては、日韓が反目しあっているのは好ましくない。

 以前、「アメリカが朝鮮半島から撤退する日」という記事を書いたが、そもそもよく考えてみれば、中長期的に見てアメリカはアジアそのものから撤退することが十分考えられる。

 将来、日米安保が終わる日がくるのならば、それはアメリカ側の意向によるものになるだろう。このブログでは何度も論じているように、アメリカは中国に対して直接的、正面的に軍事力を向かわせる気はまったくない。日韓に中国の防波堤になってもらおうとしている。アメリカの意図は日韓の軍事力の増加であり、できることなら日本と韓国、台湾を防衛する義務から解放され、自国の実戦部隊は中国のミサイルが届かないオーストラリア辺りまでバックしようとしている。朝鮮半島や日本列島はあまりにも中国大陸から近すぎるのだ。

 アメリカはもはや世界に自由と民主主義を広げるというイデオロギーで海外派兵をする国ではない。このことは今後、共和党政権になったとしても変わることはない。とにかく、アメリカには巨大な軍事力を行使できるカネがないのだ。

「ヘーゲル米国防長官は24日、2015会計年度(14年10月~15年9月)の国防予算案の概要を発表した。現在約52万人の陸軍兵力を第2次大戦後、最小規模の44万~45万人に削減する。」

 もちろん、これらはアメリカの軍事力が弱体化することを意味するのではない。湾岸戦争やイラク戦争のように、大規模に歩兵部隊を運用することはなくなったからだ。実質的には、不用な人員と旧式になった兵器を捨て、改めて最新の兵器システムと少数精鋭の軍事組織に生まれ変わろうとしている。これからもアメリカ軍は世界最強の軍隊であり続ける。重要なのはその軍事力の使い方だ。自由と民主主義のために外国に介入するアメリカはもはや過去のものになったと言ってもよいだろう。

 中国に対座するのは日本と韓国、アメリカその背後にいて影響力を及ぼす。東アジアの覇権は、アメリカと中国の双方が分担する。これがこれからのアメリカのアジア戦略になるだろう。イデオロギーありきの政策ではなく、現実的なバランスを重視した政策になる。

 さらに言えば、これはアジアだけではなくヨーロッパや中東でも、今後こうした戦略に大きく転換することが考えらる。ヨーロッパ・ロシアはヨーロッパ・ロシアに任せ、中近東は中近東でやっていくようにする、アメリカは「世界」から手を引く。同盟国への遂行義務から解放され自由になる。その一方で、必要不可欠な事態が起きたらアメリカは地球上のいかなる場所にでも影響力を及ぼすことができる。良くも悪くも、これがこれからのアメリカになるだろう。

 ところが韓国はそうしたアメリカのシナリオ通りにはなってくれそうもない。韓国の中央日報によると、朴槿恵大統領はハーグで習近平とも会談するという。このへんが韓国のアメリカ側にもつき、中国側にもつく二股外交である。米中の間でなんとかしていこうというのが韓国の対応だ。韓国としては米韓日というスクラムを組みつつ、中国への配慮を欠かすことはない。中国と地続きの隣国韓国としては、そうせざる得ない。

 対米依存をこの先もやめる気はなく、日韓関係や日中関係を悪化させるだけの日本もアメリカは困りものだろう。日中関係は東アジアの安定の要である。だからこそ、アメリカは日本国内の政治動向やナショナリズムの状況、日中関係や日韓関係に介入してくるのである。こうした不安が解消しない限り、アメリカは安心してアジアから撤退できないのだ。

 そして、徐々にではあるがアメリカは「世界」から手を引き、内政に専念するようになる。おそらく21世紀前半は、こうしたことが続くのだろう。

March 22, 2014

続・STAP細胞論文騒動

 理研のSTAP細胞論文騒動について前回の記事を書き終えて、その後もしばらくこのことをぼおーと考えていたら、

 理研の理事長の未熟な研究者がすべて悪いかのような発言はどう考えておかしいとしか思えない。小保方さんは言うまでもなく「未熟な研究者」なのであろう。では、そうした未熟な研究者を持つ理研の長としての責任はどうなのであろうか。ワカイモンが未熟なのは当然であって、それを教育する側の責任はどうなのだろうか。

 実際のところ論文の体裁が良くないとしても、これほど小保方さんが非難されることなのだろうか。ことはペーパーの話であって、例えば小保方さんが危険な薬品を作って、それによって死者が何人も出たという話ではない。論文としての体裁が問題なのであって、そうであるのならば「正しい」体裁で再度、論文を出せばよいだけの話ではないのか。重要なのは論文としての体裁ではなく、その内容であるはずだ。

 かつて、東京大学の教養学部の教官として当時、東京外大の助手だった中沢新一が候補に挙げられ、ほぼ決まりかけていた時、中沢さんの論文は論文としての体裁に問題があるという指摘が東大の教授会議から出て、結局、教官就任の話が流れたことがあった。科学論文ではない中沢さんの論文の中の記述に「再現性がないことは科学ではない」というような指摘は今思ってもいちゃもん以外の何者でもなかった。

 STAP細胞論文騒動はまっとうな科学の論文のことだ。しかも、中沢新一さんの東大駒場騒動よりも遙かにレベルの低い「コピペやりました」であったわけであるが、これほど大騒ぎする話なのだろうかと思う。

 学術論文の体裁には決まり事がある。しかしながら、それは「決まり事」であるだけであって、その「決まり事」の通りにせよというのならば、再度その「決まり事」に従うように体裁を訂正すればいいだけのことであるはずだ。いわば事務的な手続きのことなのだ。重箱の隅をつついて若い研究者を潰して、なんの意味があるのか。

 こうしたことを書くと、オマエ、前の記事では今の教育では未熟な研究者が出るのは当然である、改善すべきだみたいに書いていたじゃないかと言われそうであるが、ワカイモンの未熟さは、大上段からその人個人を咎めても意味はなく、教育の現場で地道に正しくていくしかないではないかと言っているのだ。正しい体裁の論文を書くことは必要なことであるが、学問的に意味のある論文を書くことの方がもっと重要なはずだ。コピペをやっていいとは思わない。ただ、たかが論文の体裁のことでこれほど大騒ぎをして、一人の若い研究者の将来を潰すほどのことなのだろうかと言いたいのだ。

 研究者が完璧な論文を書こうとすることは当然のことであるが、完璧な論文であることを求めていては、いつまでたっても論文を発表することができない。論文を書き、世間に広く公表し、他人の誰かがそれに反論したり、その論文の不備を指定する。指摘された事項を検証し、正しい指摘である場合、自分の仮説を訂正する。科学の研究とはそうしたものだ。

 博士論文にコピペがあってけしからんというのならば、すべての博士論文審査では院生が提出してきた博士論文でコピペがあるかないか調べよというのだろうか。審査する側のコストは大きい。コピペ探しを徹底的にやって、それで研究全体、学問全体のレベルがあがるとでもいうのだろうか。

 欧米の大学の博士号は厳格な審査に基づき権威あるものになっている、日本もそうならなければならないという声があるが、日本の大学の博士号はこれで十分だと思う。そもそも学位というものは完全無欠なものではない。なにかを保証するものではない。博士号は目安であって、目安以外のなにものでもない。そんなものに完全無欠性を求めるというのはいかがなものであろうか。

 どうも今の世の中は、決まり事にあまりにも束縛されすぎる。決まり事さえ守っていればいいということが多すぎる。決まり事に従っているか、従っていないかのどちらかしかない。決まり事に従っていないと、どこぞからすぐ糾弾される。本来、決まり事とはどのように運用していくのかということであったはずだ。

March 21, 2014

STAP細胞論文騒動

 理研の小保方晴子氏のSTAP細胞論文騒動について、もちろん自分にはSTAP細胞についての専門的な知識はなく、Nature誌の論文を読んでもなにが書いてあるのかさっぱり内容はわからないだろう。ここで私が論じることができるのは、いわゆる「コピペ疑惑」である。疑惑というより「コピペをやった」ということだ。

 この「コピペをやった」ということがよくわからない。学術論文はその文体にもよるが、コピペは引用であるとわかるように記述し、引用文献に載せればいいだけのことだ。こんなことは博士号取得者どころか大学の学部の学生でもできることであり、それだけのことがなぜできなかったのか。よくわからない。ようするに、それだけの話なのだ。論じるもなにもない。それだけの話だ。

 論文はそうした体裁を持っているということは、誰に教わることなく学術書をそれなりに読んでいればわかる。基本的には学部4年生になって卒業論文を書く頃には、そうした論文の書き方の常識なことはすでにわかっていることとし、卒論の内容そのものの方がウェイトが大きくなるものなのである。少なくとも1980年代を高校生から大学院生を過ごした私はそうだった。

 ただし、私がそうであったというだけで、大多数の大学生がそうであるわけではない。というか、日本の大学は学生はそうしたことは常識になっているという前提を持ち、論文の書き方という基本的なことをいちいち教える文化というか風土がない。

 このへん、そうしたことを徹底的に教えるアメリカの大学とは違う。論文の書き方など、大学生として日々本を読んでいれば自然に憶えるものだという意識が大学の教師にある。教師もまた自分が大学生の頃はそうだったわけであるし、その恩師の教師もまたそうであった。みんなそうやってきたのだ。戦前の旧制教育の時代から日本の大学はそういうものだった。自分の場合は日本の大学はそういうものであることを知っていたから、自分で知的生産の技術を身につけなくてならないと思っていた。

 日本の大学教育は昔からなぜそういうものなのであるのかというのは、そうカンタンには言えない。言えないが、あえてカンタンに言ってしまうと、この国における知識や技術の伝承は教わる側の主体性に大きく依存するということなのだろう。日本の大学は「教師が勉強しろと言わなくても学生が勝手に勉強していく」「論文の書き方など常識的なことは学生はすでにわかっている」「実利的なことよりも、もっと高度な理論や観念を学ぶ」といことがタテマエになっている。それがいいのか悪いのかはよくわからない。私個人にとっては、日本の大学の自由放任的な教育スタイルは良かったと思う。

 自由放任であるから許容範囲も広い。卒業論文に他人が書いた本の記述の丸写しの箇所があっても、まあまあで通すのが日本の大学である。そうでなくては卒業ができない大学生がごまんといる以上、細かいことは言っていられない。公的にバレれば「良い」とは言えないが、ケース・バイ・ケースで判断せざる得ない。よく言われているように、日本の大学はなにも学ばなくても卒業できる。実利的なことは卒業後に学ぶ。それが日本の大学だった。このへんの(良い意味でも悪い意味での)「ゆるさ」は大学院にもある。修士号にせよ博士号にせよ、完全な内容審査だけよる授与ではない場合もある。そこに様々な事情がからむ。

 今回のように30歳の研究者が「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」と堂々と言うということは、これまでなかったことだろう。今回の騒動で理研の理事長は「未熟な研究者がデータをずさん、無責任に扱った。徹底的に教育し直さないといけない」と言った。それは理研の理事長だけではなく、日本の大学教育の自由放任さの中で学ぶことを学んできたかつての大学生にとってのホンネの声だろう。何度も言うが、教わる側の主体性に大きく依存する日本の大学教育は教育する側の資質や教育の体制ではなく、教育される側の自己責任が大になるのである。

 しかしながら、今の大学や大学院の教育はそうした「未熟な研究者」を生み出す可能性があることはわかっていたはずだ。わかっていないのならば、今の大学教育の姿、研究の現場を知らないとしか言いようがない。

 いわば「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してきた学生に、「オマエ、そんなことは常識だろ。オマエが悪い」と突っぱねるようなものである。もちろん、それは正しい。しかしながら、それで話を終わりにすれば、いつかまた「コピペすることが悪いことだと教えてくれなかったじゃないですか」と糾弾してくる学生が現れる。「コピペすることが悪いこととは思っていませんでした」という学生がいるのならば、「それは悪いことなのだ」と徹底的に教える教育の仕組みを考えなくてならないだろう。大学はそんな基本的なことをいちいち教えないでは世の中がやっていけない時代になったのだろう。

 こんなことは今に始まったことではない。今回たまたま、その「未熟な研究者」が国際的に有名な権威ある学術雑誌に掲載した論文の体裁がネットで指摘にされたことによって話が大きくなっただけのことだ。程度の違いをもって同様なことは数多くあるのだろう。こんなことはいつか起こると思っていた、というのが大学教育の現場にいる人たちの声なのではないだろうか。

March 02, 2014

河野談話を見直してどうしようというのか

 政府が河野談話を作成経緯を検証することになったという。河野談話を見直してどうしようというのか。いや、見直したい人々は日本軍が女性を強制的に連行し、慰安婦にしたということを河野談話は「認めている」ということが気にくわないのであろう。その見直しであるということは、日本軍が女性を強制的に連行し、慰安婦にしたことはないと言いたいのであろう。

 常識的に考えても、このあり得ないことになぜこだわるのか。過去の朝鮮で行った日本の行為をそれほどに直視したくないのか。このへんが、私にはさっぱりわからない。大日本帝国の朝鮮統治では間違ったことが数多く行われた。河野談話を見直せよという人々は、この事実をなぜ認めようとしないのであろうか。

 またこのこと、つまり「日本軍が女性を強制的に連行し、慰安婦にしたということ」を韓国が言ってくることについて、日本だけが非難されていると右往左往することが私にはさっぱり理解できない。韓国が言っていることはしごくまっとうなことであり、これについて謝罪をするのが当然ではないか。非難されてしかるべきことを過去の日本は行っている。これに不満があるのならば、100年前の日本に行って、あなたたちは100年後に非難されることをこれらからやろうとしているというしかないであろう。

 もちろん、過去に行くことはできない。であるのならば、過去のどこにどのような間違いあったのかを学び、未来の誤りを防ぐしかない。「謝罪すると韓国は図に乗る」というが、韓国が図に乗ろうが乗るまいが、今の日本ができることは行い、できないことはできない。

 今の日本ができることとは、河野談話をひたすら伝え続けることである。韓国は河野談話でなにをどう述べられていようとも、日本への反日政策を変えることはない。日本が河野談話を見直そうがなにをしようが朴槿恵政権の反日政策は変わることはない。だからこそ、日本には河野談話がある。河野談話を何度も何度も繰り返すべきである。韓国の中央日報は社説で「「河野談話」否定すれば韓日関係は破綻する」とさえ述べている。

 朴槿恵政権の反日政策の背後には中国に認められたいという韓国の思惑がある。今の韓国は日本に向かって反日をやっているようで、実質は中国に向かって「我々はこのように反日をやっております」という政治メッセージを示しているだけだ。そうしたことなのに、日本は韓国の反日態度に狼狽し河野談話を見直すことで、韓国の反日トーンは変わらず、逆に国際社会から不信と危惧の念を持たれるだけという大きなマイナスになるであろう。アメリカのシーファー元駐日大使は「河野談話を見直せば、アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」ということを述べたという。

 そうなると日本はまた「事実を理解して欲しい」とか「誤解している」とか「日本だけが非難されている」とか言うだろう。こうして、この国は世界から孤立していく。

 だからこそ、河野談話を見直すとかおかしなことはせずに、愚直であろうとも河野談話を主張し続けていくことが必要なのである。むしろ国際社会は日本が河野談話を見直すとなると危機感を感じるが、河野談話を主張し続けていけば当然の一貫性を感じる。それが日本への信頼につながる。韓国が日本に向けて行っているわけではないように、日本もまた韓国に向けて行うのではなく世界に向けて主張することが必要だ。

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