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February 2014

February 23, 2014

当事者意識のない東京都民

 今回の東京都知事選挙の結果は、東京都民には原発事故の当事者的な意識はないということだ。

 日が昇り日が沈むのは自然である。人がなにをしようがしまいが、日は昇り日は沈む。しかしながら、都市に電力や食料を供給するのは人が作ったシステムであり、それらのシステムが滞れば都市には電力や食料はこない。当選過ぎる程当然なこの事実を、都市の中の人々は「意識しない」ことが多い。

 ここで極端なことを言えば、東京都民は原発を稼働すべきなのか、すべきではないのか。福島原発事故の意味することはなんであったのかといったことにもほや関心を持っていない。3.11はもはや風化しつつある。政府が風化させようとし、(少なくとも東京の)人々は自ら忘れ去ろうとしている。

 日本全国の都道府県で見ると、東京都は日本で最も優遇された地方都市である。東京都民としては「必要な電力が提供される」というサービスに代価を支払っているだけで、その電力がどこからこようと、どのような方法で発電しようと意識する必要はないという考えもあるのかもしれない。この考え方は「我々はお客様である」という意識でしかない。

 東京は大量で安い電力を必要とする。電力会社は地方の過疎地に原発や原発関連施設を建て、そこで発電をし東京へ送電する。原発や原発関連施設を建てられる地方の過疎地には、その見返り料金として、国から(もともとは国民の税金の)補助金が支払われる。これらは見事な電力供給システムだった。

 ところがその発電の原子力発電について、これが完全無欠なまったく問題がないテクノロジーに「進歩」していればすべては問題なかったのであるが、原子力発電はいわば発展途上のテクノロジーであり、3.11では発電所の設計に欠陥があったため事故に至った。

 東京で45年ぶりという大雪から1週間たった今日でも奥多摩ではまだ孤立状態になっている集落があるという。現代社会は「管理できないこと」が起こると脆い。

 今の世の中は「想定できること」つまり「管理できること」の中で成り立っていて、「管理できないこと」は「存在しないこと」になっている。しかし、地震にせよ津波にせよ大雪にせよ、人間の都合で来たりこなかったりするわけではない。「存在しないことになっている」といっても明らかに存在する。結局、リアルとはなんであるのか、リアルの立脚点をどこに置くのかということなのである。

 日が昇り日が沈むように、東京に食料があり電気があるわけではない。この状況から導き出される結論とは、あたりまえの結論であるが、食料供給や電力供給が途絶えることもあるということであり、ではそうした途絶えた状態になったらどうしたらよいのか、ということを意識する必要があるという常識的な想像力である。

 この想像力があれば「我々はお客さんである」という考え方は正しいものではないことがわかるだろう。「我々はお客さんである」というのはある作られた枠の中、管理された舞台の上での話でしかない。今起きていることは、その「ある作られた枠」「管理された舞台」そのものの存続の可能性の問題なのである。次の世代への持続可能な社会であるためには、その「ある作られた枠」「管理された舞台」そのもののを根底から変えなくてはならない。そうした時期に今来ている。

 東京都民は別に福島を犠牲にして自分たちの豊かさを望んでいるわけではないのに、結果としてそうした構図になっていることは認めざるを得ない。その構図を作ったのは政治である。東京都民はその構図を変えるべきだ。しかしながら、今回の東京都知事選挙の結果を見ると、東京都民にはそうした当事者意識がないと思わざるを得ない。

 今回の都知事選の細川候補の応援演説に来ていた南相馬市の桜井市長の応援演説を聴いて以上のことを思った。


February 16, 2014

ソニーの一人負け

 ソニーが一人負けの赤字転落になったという。カンタンに言えば、パソコン事業とテレビ事業が不振なのである。他のメーカーはそれら以外でも商売をしていて、それなりに利益を上げているので転落にはならなかったが、ソニーだけはメインがパソコンとテレビだったので転落になってしまったということだ。

 記事の中に

「「若いころはゲーム、大人になってからは映画・音楽、最後は金融分野で生涯つきあえるようなビジネスモデルを構築すべきだ」(メリルリンチ日本証券の片山栄一調査部長)との指摘も聞こえる。」

とあるが、パソコンとテレビを作ってきたメーカーが、ゲーム企業や映画・音楽企業、そして金融企業になるのはほとんど不可能に近いことだ。ソニーがなりたい企業はブランドとプラットフォームで販売ができるAppleであろうが、ソニーがAppleになれるとはとても思えない。

 ようはソニーのスマホやタブレット端末が南米や中国やインドやアフリカ諸国でじゃんじゃん売れる、じゃんじゃんでなくても、そこそこには売れるようになればいいのであるが、そうなるとはとても思えない。もちろん、今のソニーはデザインを日本で行い、世界各地の安いコストの場所で生産をしているわけではあるが、それでもサムスン電子やAppleに太刀打ちができなくなっている。

 もう一方の点は、もはや製造業は国内の大量雇用の場にはならないということだ。これは日本だけではなくアメリカはすでにそうなっている。日本企業は日本企業にしかできない独自の技術でやっていけば良いかのような声をよく聴くが、そうした日本独自の技術の市場は割合としては小さく、日本国の主要産業としての大量の雇用の場にはとてもならない。大量雇用の場としての工場は、同じことが外国ではもっと安くできる。従って、産業政策のメインはサービス産業にシフトし、国の大量雇用の場としてのサービス産業を考えなくてはならない。

 こうしたことは10年前、20年前から言われてきたことであり、21世紀になったらどうやって国の産業を栄えさせるのか、このままの製造業一本ではもう成り立たないと言われ続けてきた。21世紀になりその時に言われてたように韓国、台湾・中国の企業が日本企業を追い抜いた今になっても、相変わらず国の政策のメインは昔のままの建設業と製造業である。

 本来は情報通信技術やハード技術をつかって、どのような新しい社会、新しい未来が創れるのか。夢を描かなくてはならないのだろう。日本の製造業とかソニーとかいった概念を捨て去って、新しい製造業のコンセプトが必要なんだと思う。思えば今の時代、産業と技術に対してもっと想像力や構想力を持たなくてはならない。

 アメリカの場合は、これを映画がやっている。アメリカは映画と技術革新と産業が結びついており、技術の夢を描くことができる。日本は日本が本来もっていた文学や歴史や文化のコンテンツを技術を使っていかに表現できるか、それを表現するためにはいかなる技術の開発が必要なのかといったことから新しい技術が生まれ、それが産業になる。日本にもそうしたルートがあって欲しい。

February 15, 2014

ネット選挙

 今朝の朝日新聞に、先日の都知事選挙で最も若い候補者であった家入一真氏のインタビュー記事が載っていた。この人は告示日に「マイク替わりにiPhoneを! ビラ替わりにホームページを! 事務所替わりにFacebookを! 握手替わりにTwitterを!」と宣言し、クラウドファンディングで選挙資金を集めたという。

 あとは投票してくれる人が増えればそれでオッケーだった。しかしながら、そうはならなかった。つまり、なぜ票が伸びないのかということである。

 ここで問題なのは、家入氏は「一緒になにができるか、考える参加型の政治を作りたいと思った」ということだ。これはこれで正しいが、すべての有権者にこの考え方は通じない。基本的に日本の政治は「お任せ政治」である。有権者は「この人」に投票をすることで、あとは「この人」に一切合切を任す。その代わり任された方は私利私欲より公のために尽くすという倫理規範があった。それが日本の江戸時代以来の為政者の文化であったと思う。そうした倫理規範が今もう失われてしまった。

 こうした「お任せする」有権者に対しては「一緒に考えましょう」は通じない。こちらで「私たちはこのように考えています」と説明をする必要がある。自分が当選すればこのようなことをやりますという情報の伝達が必要なのだ。政策の企画力であり、それをいかにわかりやすく表現できるかであり、それをいかに伝達するかということである。

 本来、ITはこうしたことのために生まれたテクノロジーであり、今の世の中はこうしたことを行うのにハードやソフトやインフラ的にはすでに十分過ぎるほど整っている。街頭演説では政策を説明することなどとてもできない。あれはエモーショナルな場である。ネットで説明する。いわば「政策」というパッケージをネットという宅配便で有権者にお届けするということだ。必要ならば人が有権者の現地に行って説明する。ネットでなければならないということない。

 もちろん、政策は一方通行だけであるわけではなく、多くの人々との対話で集団的に形成されていくこともある。つまり、トップダウンの政策伝達もあれば、集合知による政策形成もある。そうした柔軟なマネジメントが必要だ。

 当然のことながら、上記のようなことをやるには、その技術とマネジメントができる人がそれなりの数で集まらなくてはできない。結局、ネットは人なのである。

 今のこの国ではネット選挙を活用し運用していくことができる層が浅く、マネジメントも含めた技術が低い。ネットではネット保守とかネトウヨが強いとか言っているようでは話にならない。結局、この分野はそうした技術やノウハウを持っている人でなくてはならないが、そうした人材が不足している。そうした人材を育てようとする理念はなく、教育するネットの場もない。いわばなにもしてこなかったツケが、今の日本のネットを狭窄的な愛国心しかないネット保守がはびこるだけの場所にしてしまった。

February 11, 2014

都知事選挙でのネット保守について

 今日の朝日新聞に「田母神氏、60万票の意味 「ネット保守」の支持」という記事があった。ようするに、今回の都知事選で泡沫候補だと思っていた田母神氏が60万票の票を獲得したことに驚き、田母神氏を支持したネット保守、ネトウヨの存在の大きさに注目しなければならないという記事である。

 しかしながら、私はネット保守、ネトウヨは政治の表舞台には出れないと思う。今回の都知事選挙でもわかるように、有権者の大半は中高年以上の老人世代であり、これらの人々が日本は侵略戦争はしていないとか、南京で大虐殺なんかしていないとか、従軍慰安婦などはいかったという候補者を支持するようになるとはとても思えない。

 ネット保守、ネトウヨが今後大きな政治勢力になるという人は、これから多くの人々がネット保守、ネトウヨになるとでも言うのだろうか。宇都宮健児や細川護熙に票を入れなかった人たちが、どうしてネット保守、ネトウヨになるのであろうか。若い世代の支持を多く受けたというが、その若い世代がこれから少なくなってくるのである。今の若い世代が、歳をとってもネット保守、ネトウヨであり続けるとでも言うのだろうか。

 ネット保守、ネトウヨが政治勢力として主流になることはないが、無視できない勢力になるという見方も私はしない。それなりの投票数は獲得するであろうが当選するとは思えない。むしろ、無視してよい勢力になると思う。

 東京はネット保守、ネトウヨでどうこうできるものではない。東京は世界で最先端のサービス産業都市になる以外に生き残る道はない。今の産業構造では若者に未来はないと言われ続けて20年たった。この間、この国は何ら変わることはなかった。20年後の今、確かに若者に未来はない国になった。その若者の行く先がネット保守、ネトウヨというのはあまりも貧困すぎる話ではないか。

 東京には本来、やるべきこと、変えなくてはならないことは山のようにあり、それらをかたっぱしからどんどん「やっていく」ことが必要なはずだ。脱原発というのは、そのやるべきこと、変えなくてはならないことのひとつでしかない。

February 09, 2014

都知事選の結果を見て

 昨日「自分としては選挙の結果がどうなろうと、誰が東京都知事になろうとも、この「変わることがない東京らしさ」にかけたい。東京の良さ、東京の活力はここにあると思うからだ。」と書いたのは、どうもこれは当選するのは舛添要一になるような気がしていたからだ。

 細川・小泉は最初の演説を見た時からこれはダメではないかと思っていた。「脱原発」というのはワンフレーズにはあるが、もう今の世の中はワンフレーズではウケないだろうと思っていた。小泉のカリスマはもう通用する時代ではない。有権者側の反応もいまひとつな感じであった。これはアカンなと思っていた。

 今回、投票率は低くなるだろうと思っていたが、50%以下になるとは思っていなかった。東京は昨日記録的な大雪だったため今日も雪が残る寒い日であったが、それで投票に行かないというのは、つまりは無関心というか誰が都知事になっても同じだろうという毎度お決まりの意識がまだあるのだろう。この「誰が都知事になっても同じ」。つまり、日本の政治は個人がどうこうするものではなく組織での決まりごと従う、だから個人を特定しても意味がないと思っている、この意識を変えない限り投票率は上がらない。

 Twitterで「東京都民は雪でも会社には行くのに投票には行かないのか」みたいなツイートがあった。組織で投票する組織票は、ある候補者に投票することで自分たちの組織の利益になるから投票をする。投票が自分の利益にはならない人々は投票などやる価値がないのであろうか。

 結局、昨日書いたものと同じになるが、選挙の結果がどうなろうと、誰が東京都知事になろうとも、変わらない東京というのは確かにある。その一方で、都知事が誰であるかで変わる部分もある。このことを投票権を持っていても投票に行かない人々にきちんと説明し、理解してもらう以外に方法はないであろう。

 いずれにせよ、どの候補者が都知事になろうと防災や福祉は変わらない。だからこそ、原発が論点の選挙になるはずだったが、そうならなかった。なんのための選挙だったのだろうか。これでまたもや原発についてはっきりしない世論が続くことになった。

 猪瀬直樹が都知事に当選した時、ああいう最後になるとは思っていなかった。今回、桝添都知事はどうなるのだろうか。

February 08, 2014

東京都知事選投票日の前に

 民意を政治に反映させる手段が選挙である。しかしながら、今の世の中は選挙で変わることはない。また有権者は必ず投票しなければならないわけではない。投票率がいくつ以下の場合は、その選挙は無効になるというわけではない。無投票というのは、それはそれで政治的な意思表明ではあるのだが、獲得票数で当選を決めることに対して意味を持たない。

 立候補者が意見を表明し、それが有権者に正しく伝わり、有権者はそれらの情報をもとに判断し投票を行い。数多くの票を獲得した人がその任につき、有権者に約束をした政策を実行していく。そうした社会であり、かつ、その過程が誰が見てもわかるようになっている。という世の中なのかというと、そうなっていない。そうなっていないので、民主主義というシステムの意味がよくわからなくなっている。ここのところをどうにかしないと民主主義も選挙もなにも始まらない。しかし、どうにかしなければならないのに、いっこうにそうはならないところを見ると、そう単純なものではないのかもしれない。

 いま「そうなっていない」と書いたが、本当にそうなのかというと、例えば今回の都知事選挙を見ても、有権者の主張や街頭演説などはネットで読んだり見たりすることができる。立候補者側は有権者に「伝えている」と言えば確かに「伝えている」わけであり、有権者側も「知らない」とか「伝えられていない」とは言えない。テレビや新聞ではそれらの情報は断片的であるが、ネットで読んだり見たりすることができる人はそうした情報をトータルに入手することができる。

 ところが、ではそうしたネット環境やスキルを持っていない人々の方がそうでない人々と比べて「正しい」判断をしているのか、というとそうしたわけではない。この国の今のネット世論は右に傾く傾向がある。

 東京はもっと国際都市になれるし、もっと江戸風情のある街になれる。中華人民共和国香港特別行政区、すなわち香港は誰が香港の行政長官になろうとも、いわゆる香港らしさがある。台北もまた誰が行政の長になろうとも、いわゆる台北らしさがある。同様に、東京もまた誰が都知事になろうとも、いわゆる東京らしさがある。

 選挙の前にこんなことを書いたのは、今回も東京都知事選の候補者の誰にも期待が持てないからだ。しかし、期待が持てないからといって投票をしないわけにはいかない。そもそも選挙というのは、自分が立候補していないのならば、自分の意思と完全に一致する候補者がいるわけがなく、自分とは違う考えを持つ人を選択しなくてはならないものなのである。投票ではなるべく自分の意思に近い候補者を選択するしかない。それが選挙だ。

 自分としては選挙の結果がどうなろうと、誰が東京都知事になろうとも、この「変わることがない東京らしさ」にかけたい。東京の良さ、東京の活力はここにあると思うからだ。

 それでは、選挙したって「変わることがない東京らしさ」にかけたいというのならば、投票する意味はないではないかという意見が聞こえてきそうだけど、都知事が誰であるかで変わる部分もある。これはこれとして投票をしたい。

February 03, 2014

アメリカが朝鮮半島から撤退する日

 中長期的に見て、アメリカが朝鮮半島から撤退することもありうるという興味深い見方を日経新聞の鈴置高史氏が『中国という蟻地獄に落ちた韓国』という本の中で書いている。この本は日経ビジネスオンラインでの鈴置高史氏の連載コラム「早読み 深読み 朝鮮半島」を本にまとめたものだ。

 まず今のアメリカには北朝鮮核問題を解決する力もその意思もない。アメリカは東アジアの外交トラブルメーカーである北朝鮮にはできるのならばもう関わりたくないと思っている。北朝鮮に影響力を及ぼすことできる国は現状、中国である。そこで韓国としては隣国の核兵器をなくしたいが故に、中国に北朝鮮核問題の解決を全面依存する。そこで中国は北朝鮮の軍部にクーデターを起こさせ、親中政権を樹立し核兵器を廃棄させる。そして、北朝鮮に核の脅威がなくなったので、韓国に在韓米軍の撤退を求める。アメリカは朝鮮半島という重荷から解放されるので在韓米軍を撤退させる、というシナリオだ。

 このシナリオは大変興味深い。これは米中韓いずれにもに利益をもたらすというシナリオだ。アメリカは、朝鮮半島にあまり価値を置いていない。ベトナム戦争はアメリカが望んで介入した戦争であったあが、朝鮮戦争はアメリカが望んで行った戦争ではない。アメリカは朝鮮半島から撤退しても、アメリカ国内の世論的には大きな反対の声が出ることもなく、むしろ重荷であった韓国の防衛から解放されることになる。地政学的に言えば、これが正しい。世界の警察官をやめた、つまりアジアの警察官もやめたアメリカには、遠く離れた朝鮮半島にわざわざ軍事力を置く必要がないからだ。

 2015年12月に韓国軍の戦時の作戦統帥権がアメリカから韓国に返還される。在日米軍は自衛隊の指揮下には入らないように、在韓米軍も韓国軍の指揮下には入らない。となると、在韓米軍がそのままの編成であるかは疑問である。北朝鮮は核兵器を持つようになる(軍事兵器として使いものになるかどうかは別の話だ)。このことを考えてみると、今の朴槿恵政権の対中傾斜にひた走るのも韓国の安全保障としてうなずけることだ。日本のように対米従属一辺倒ではなく、そうした米中双方に二股をかける韓国の態度にアメリカは警戒心をもっている。また韓国もいざとなったらアメリカが助けてくれるとは思っていない。韓国には日本以上にアメリカへの不信感がある。

 アメリカが朝鮮半島から撤退して、一番大きな利益を得るのが中国である。北朝鮮を非核化させ親中政権で支配ができ、かつて日本が日清戦争の時にやったように韓国を「外国軍(米軍)を入れない」「中立化する」といいながら属国にすることができる。つまり日清戦争前の中国の冊封国であった李氏朝鮮に戻るのである。北朝鮮から核がなくなればロシアも喜ぶ。かくて東アジアは、アヘン戦争以前に戻るのである。

 今のところ韓国は米中の間でゆれている。アメリカが朝鮮半島から撤退する日が本当に来るのかどうかはまだ明確にはなっていない。しかし十分可能性のある予測である。韓国の反日路線はその米中の間のゆらぎであり、その背後にある米中関係、日中関係がその実体である。

 このことで一番不利益をこうむるのが言うまでもなく日本だ。だからこそ、いつまでもアメリカが世界の警察官をやってもらいたがっている人は多い。辺野古に在日米軍がいてもらわなくては困る人が多い。しかしながら、リアルな世界はそうはならない。アメリカなき東アジア、中国が朝鮮半島を掌握した東アジアに日本は直面することになる。韓国の反日路線はその現れのひとつなのである。

February 02, 2014

フランスでの「慰安婦漫画」展に思う

 1月30日に開幕したフランス・アングレーム国際漫画祭で、元慰安婦がテーマの韓国政府による企画展が開催されたという。初日だけで約600人の見学者が訪れる盛況ぶりだったとのことだ。

 しかしながら、どうもよくわからない。

 例えば、私がこうした企画展をフランスで見たとしよう。するとどのように思うだろうか。韓国の人たちはわざわざフランスという欧州の地においてまで、旧日本軍が自国に行ったことをフランスの人々に伝えようとするのはなぜなのだろうかと漠然と疑問に思うであろう。

 自国のある時代において、日本からこんなにひどい扱いを受けました、ということだけをわざわざフランスで企画展を開いてまで伝える必要がどこにあるのだろう。

 歴史の展示なのであろうか。であるのならば、朝鮮史において朝鮮の人々を苦しめたのは李氏朝鮮の王朝とその制度である。他民族からの支配と蹂躙という意味では、中国の歴代王朝からの支配と蹂躙があった。もちろん日韓併合もあった。そのへんの「歴史の事実」はどうなのだろうかと思うだろう。

 いや、そうした日本以外がなにをどうしたという話ではなく、日本が朝鮮にこのようなことを行ったということを伝えたいのだ、日本はこの事実をいまだに認めていない、日本はこんなに極悪非道な国なのであるとフランスの人々に伝えたいというのであろうか。しかしながら、伝えられた側は困るだろう。アジアの歴史にあまり詳しくないのフランスの人々は、こんなことが過去にあったのかと初めて知り、驚くだけだ。

 せっかくフランスで開催したのならば、フランスでも過去に同じようなことがあった。そうした例をひもときながら、戦争下で起こる人間の異常な心理状態や行動を伝える企画展でもあってよかったはずだ。過去のある時代に日本が朝鮮で行ったことは、今の時代でも、どこでも戦争という状態になれば起こりうることであることを示唆する内容であってもよかった。日本統治下での抗日暴動を描いた台湾映画『セデック・パレ』は、これを見る日本人に感動と内省を与える。韓国映画でこうした映画がなぜできないのだろうかと思う。

 この企画展に対して、日本大使館はこのような対応を行ったという。

「日本大使館は1月30日、韓国政府の慰安婦漫画は漫画祭の趣旨に反すると懸念を示す声明文を英語とフランス語で発表。日本政府が韓国側に「心からのお詫びと反省の気持ち」を表明している事実や、日韓政府間で補償問題が解決済みであることが書かれた文書を現地で配布するなどした。」

 興味深いのは、日本政府が韓国側に「心からのお詫びと反省の気持ち」を表明しているということだ。これは具体的にはどのようなことなのであろうか。「河野談話」や「村山談話」のことであろうか。今の日本国内には「河野談話」や「村山談話」を認めない政治家、メディアが数多くいる。いまだに総理大臣が靖国神社に参拝をしている国である。こうしたことで「心からのお詫びと反省の気持ち」を表明していると言ってもなんの説得力もない。

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