当事者意識のない東京都民
今回の東京都知事選挙の結果は、東京都民には原発事故の当事者的な意識はないということだ。
日が昇り日が沈むのは自然である。人がなにをしようがしまいが、日は昇り日は沈む。しかしながら、都市に電力や食料を供給するのは人が作ったシステムであり、それらのシステムが滞れば都市には電力や食料はこない。当選過ぎる程当然なこの事実を、都市の中の人々は「意識しない」ことが多い。
ここで極端なことを言えば、東京都民は原発を稼働すべきなのか、すべきではないのか。福島原発事故の意味することはなんであったのかといったことにもほや関心を持っていない。3.11はもはや風化しつつある。政府が風化させようとし、(少なくとも東京の)人々は自ら忘れ去ろうとしている。
日本全国の都道府県で見ると、東京都は日本で最も優遇された地方都市である。東京都民としては「必要な電力が提供される」というサービスに代価を支払っているだけで、その電力がどこからこようと、どのような方法で発電しようと意識する必要はないという考えもあるのかもしれない。この考え方は「我々はお客様である」という意識でしかない。
東京は大量で安い電力を必要とする。電力会社は地方の過疎地に原発や原発関連施設を建て、そこで発電をし東京へ送電する。原発や原発関連施設を建てられる地方の過疎地には、その見返り料金として、国から(もともとは国民の税金の)補助金が支払われる。これらは見事な電力供給システムだった。
ところがその発電の原子力発電について、これが完全無欠なまったく問題がないテクノロジーに「進歩」していればすべては問題なかったのであるが、原子力発電はいわば発展途上のテクノロジーであり、3.11では発電所の設計に欠陥があったため事故に至った。
東京で45年ぶりという大雪から1週間たった今日でも奥多摩ではまだ孤立状態になっている集落があるという。現代社会は「管理できないこと」が起こると脆い。
今の世の中は「想定できること」つまり「管理できること」の中で成り立っていて、「管理できないこと」は「存在しないこと」になっている。しかし、地震にせよ津波にせよ大雪にせよ、人間の都合で来たりこなかったりするわけではない。「存在しないことになっている」といっても明らかに存在する。結局、リアルとはなんであるのか、リアルの立脚点をどこに置くのかということなのである。
日が昇り日が沈むように、東京に食料があり電気があるわけではない。この状況から導き出される結論とは、あたりまえの結論であるが、食料供給や電力供給が途絶えることもあるということであり、ではそうした途絶えた状態になったらどうしたらよいのか、ということを意識する必要があるという常識的な想像力である。
この想像力があれば「我々はお客さんである」という考え方は正しいものではないことがわかるだろう。「我々はお客さんである」というのはある作られた枠の中、管理された舞台の上での話でしかない。今起きていることは、その「ある作られた枠」「管理された舞台」そのものの存続の可能性の問題なのである。次の世代への持続可能な社会であるためには、その「ある作られた枠」「管理された舞台」そのもののを根底から変えなくてはならない。そうした時期に今来ている。
東京都民は別に福島を犠牲にして自分たちの豊かさを望んでいるわけではないのに、結果としてそうした構図になっていることは認めざるを得ない。その構図を作ったのは政治である。東京都民はその構図を変えるべきだ。しかしながら、今回の東京都知事選挙の結果を見ると、東京都民にはそうした当事者意識がないと思わざるを得ない。
今回の都知事選の細川候補の応援演説に来ていた南相馬市の桜井市長の応援演説を聴いて以上のことを思った。
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