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January 25, 2014

好きで地域主権をやるわけではない

 NewsWeak日本版オンラインでの1月21日のコラム『「地域主権」が国家を破壊する』で池田信夫センセイが産経新聞の社説のような時代錯誤も甚だしいご意見を述べている。

 池田センセイはこう述べている。

「主権とは「他の意思に支配されない国家統治の権力」(『広辞苑』)で、本来は絶対君主の権力を示す。具体的には、軍事力や警察力や通貨発行権である。「主権在民」などというが、国民には選挙権・被選挙権しかない。まして地方自治体に主権があるはずがない。」

「ところが最近、自治体が国家を超える「主権」を主張するケースが目立つ。」

 と述べ、そのケースとして、沖縄県の名護市長選挙での「辺野古の海にも陸にも基地をつくらせない」という稲嶺市長の公約や、新潟県の泉田知事が東電の再建計画について「モラルハザードだ」と批判し柏崎刈羽原発の再稼動を阻止していることや、さらに東京都知事選挙に出馬を表明した細川元首相が「原発再稼働を認めない」と主張していることを挙げている。いずれも、地方自治体には米軍基地の辺野古移転を拒否したり、柏崎刈羽原発の再稼動を阻止したり、原発再稼働を認めないなどといったことの権限はないと池田センセイは述べている。

 そして、池田センセイはこう述べる。

「基地や原発がきらいだという彼らの気持ちはわかる。そういう迷惑施設が好きな人はいないが、国としては必要だ。地元に拒否権を与えたら、どこにも建てられない。米軍基地については、日米地位協定によって国にも拒否権はない。それがいやなら、国会で法律や条約を改正するしかない。」

 権限の話で言うのならば、池田センセイの言われる通りであって、地方にはそうした権限は確かにない。しかしながら、地方自治体が治める「地方」とは国家から「一地方」であろうが、そこに住む人々にとっては「全生活の場」であり「すべての場所」である。そこに住む人々が「我々は国家の下の一地方でしかない」という意識を持つかどうかは別の話であろう。

 国家が国権として地方を統括・管理したいのあるのならば簡単だ。沖縄県の知事に辺野古移転を承認させたように、地方にそれ相応のカネを出せば良いのである。地方の行政・運用を中央政府が一切合切面倒を見れば良いのである。中央の政府がそれだけの巨大な財力を持てばいいのである。

 中央政府が地方に潤沢な交付金を出し、きちんと指導をしてくれるのならば、地方は地域分権などといったことをやらない。何度も言うが、国家の判断は常に正しく、国家は限りなく強く、国家がその地方に住む人々に利益をもたらしてくれるのならば、地方は唯々諾々として喜んで従うであろう。

 しかしながら、中央政府がそうであった時代はとうの昔に終わってしまった。地方自治体は好きで地方分権をしようとしているのではない、政府にそうしたカネも力もなくなってしまったから、地方は地方でやっていくしかならなくなったのだ。311で我々が学んだことは、いざとなったら国とか政府とかは信用できないということである。

 最後に池田センセイはこう述べている。

「ところが迷惑施設については、近隣の自治体に遠慮して国が法律を実行しないケースが多い。これは地元の「空気」が法律を超える拘束力をもつためだろう。」

「これは少数派の意見を尊重する点では悪くないが、利害の一致しないむずかしい問題が先送りされる。財政支出にはみんな賛成するが増税には反対するので、政府債務は1000兆円を超えてしまった。」

「決まらない政治の原因は憲法ではなく、このような「空気の支配」を容認する日本社会にある。厄介な問題を「総論賛成・各論反対」で先送りしていると、最終的には国民全体に大きなツケが回ってくる。そういう巨視的な判断をすることが政治の役割だ。日本の政治を建て直すためには、何よりも法の支配を確立し、ルールにもとづいて意思決定を行なうことが重要である。」

 地方にとっての迷惑施設というのはありうる。米軍基地や原発以外にもありうる。それをどのように地方に置くかというのは、池田センセイの言われる通り国家の采配である。だからこそ、国家はこの迷惑施設をこの地方に置くべきなのか、そもそもこの迷惑施設は必要なのか、他に代替案はないのか、等々を常に模索する必要がある。

 「空気の支配」というのは確かにある。かつての時代は国家の権威が「空気の支配」を抑えてきた。しかし、そうした国家の権威がなくなり、ただの「空気の支配」だけがまかり通っている国になっている。これは確かにその通りであろう。

 「空気の支配」を抑えるには、権威を持ち出してくるのが一番手っ取り早く簡単だ。しかしながら、今の時代は権威は実体がともなわなくては権威にはならない。今の日本の政府にはその実体があるようには見えない。では、権威が通用しないとなると次は何に頼るか。法律(規則)である。規則なんだから従えと「空気の支配」を抑えようとする。池田センセイが言われているのは、結局のところそういうことだ。ところが、国権に従うという規則を守れば、それで大丈夫なのかという不安感が地方にはある。とても大丈夫とは思えないから、地方は地方で判断せざる得ない。

 つまり、国家が地方を管理する国家として正しく運用しているようには思えないので、地方はやむなく地域主権を掲げざる得ないのである。不思議に思うのは、池田センセイもこのへんのことをよくおわかりのはずなのに、なにゆえ規則なんだから国権に従えという小役人的な教条主義を持ち出してくるのだろうか。

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