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September 2013

September 23, 2013

アメリカは新孤立主義へと向かっている

 アメリカで外国への軍事介入を避けようとする「新孤立主義」が拡大しているという。シリアへの攻撃について、かつてはイラク戦争を支持した共和党でさえもが強行に反対した。

 9月22日の毎日新聞の記事によると以下のようにある。

「孤立志向の中心は「反戦の民主党リベラル派」と「財政再建重視の共和党保守派」。後者には「小さな政府」を目指す草の根保守「茶会運動」系議員が多い。シリア攻撃に傾いたオバマ大統領も(1)財政難(2)えん戦機運で当選した政治的出自(3)議会の孤立志向--を踏まえ介入に慎重だ。」

 他国への不必要な軍事介入をしないということや、国内の財政再建を重視しようということは、別におかしいことでもなんでもなく、アメリカ国内にとってみれば、ごく普通の当然のことだ。ところが、アメリカがそれらを重視するようになると「アメリカは孤立主義になった」「アメリカの世界覇権力が希薄になった」と外国から言われるようになる。このへんが、アメリカのアメリカたる所以である。それほど20世紀後半からの世界はアメリカの世紀だった。それが終わろうとしている。毎日新聞のこの記事では、共和党主流はネオコンから新孤立主義に変わったという。

 もともと、アメリカには外交について二つの理念がある。ひとつは、アメリカ革命の理念である民主主義を全人類の普遍的な政治思想であるとし広げようとするものであり、もうひとつはアメリカは自分たちの国が侵略される場合は戦うが、それ以外には他国には関わらないというものである。建国してまもない頃、第5代大統領ジェームズ・モンローはアメリカはヨーロッパの出来事には介入しないとし、以後、この考え方がアメリカの外交の基本方針であった。しかしながら20世紀になり、アメリカの工業力が大きく進展し、世界の大国への道を歩み始めると、アメリカはこの方針を大きく変え、世界中にアメリカン・デモクラシーの理念を広げようとする国になる。

 この代表的な考え方を提唱したのが、第28代大統領のウッドロー・ウィルソンである。彼はアメリカは世界の国々に介入し、民主主義の社会を作ることをアメリカの使命とした。以後、アメリカはこの路線に進む。ウィルソン以前の外国不介入の時代は孤立主義と呼ばれていた。従って、今のアメリカの態度は「新」孤立主義と呼ばれている。世界にデモクラシーの理念を広げようとしたウイルソン主義の時代が終わりつつあり、アメリカは孤立主義に戻ろうとしていると言われるようになった。

 今の中近東の状況やシリア空爆回避を見ても、アメリカは世界の警官の役割をやめようとしていることがわかるであろう。これからの世界は、アフター・アメリカン・ヘゲモニーの世界に突入する。イラク戦争は泥沼化し、共和党保守の孤立主義の台頭、言論界でのネオコンの没落、シェールガス革命による中近東の石油依存の低下、こうしたことが複合的に重なり合い、時代は大きく動いている。世界のパワーバランスは、大きく変わろうとしている。アメリカがこうなることは、同盟国は自国の安全保証を再考せざる得ない。

 日本が望もうと望まざるとに関わらず、アメリカの世界覇権力は低下する。このことは、世界各地で地域紛争が起こりやすいということを意味する。東アジアで言えば、中国の勃興を妨げるものがなくなるということである。アメリカの新孤立主義化は、アメリカ依存になっている日本の安全保証に大きく関わってくる。明治日本が大国ロシアに対抗したように、中国に対して日本は独自の道を模索していく以外にない。これからの日米関係も、こうした大きな枠組みの変化の中で対応していかなくてはならない。

 またしても「アメリカがいつまでも守ってくれると思うなよ」なのである。

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September 21, 2013

河野談話で話は終わるはずだ

 産経新聞に以下の記事があった。
「河野洋平氏を提訴へ 「国民運動」談話撤回求める署名も3万超」

 河野談話の撤廃を求め署名運動や河野洋平氏を提訴せよという声もあるようである。私には河野談話のどこがどう悪いのかさっぱりわからない。河野談話は、しごく当然でまともなことを言っていると思う。

 むしろ、河野談話というものがあるのに、なにゆえ韓国政府は日本に向かって謝罪、謝罪と言うのか。おそらくは韓国政府に河野談話が伝わっていないのだろう。私はかねがね、韓国政府が謝罪云々と言ってきたら河野談話をメールで1万通ぐらい送ればいいと思っている。ついでに国連にも10万通ぐらい送ってもいいなと思う。日本は韓国政府に対して、河野談話で謝罪すべきことを謝罪しているのである。以上、終わりだ。

 これ以上、日本国政府がなにかをする必要はない。いわゆる従軍慰安婦問題について、日本と韓国の政府間においては河野談話で、以上、終わりだ。

 ところがなぜか終わりにならない。しかも河野談話を撤回せよという声が多い。話を終わりにしたくないのであろうか。

 日本と朝鮮の近代史において、江華島事件から壬午事変や甲申政変や乙未事変などについて、はっきりさせなくてはならないことが山のようにある。これらについては話は終わっていないどころか、話すら出ていない。いや、出てなくもないのであるが、マスコミで話題になるのはいつも従軍慰安婦なのである。日韓の歴史問題をかくも矮小化してしまったのはマスコミであり、実際のところ日本と韓国は、マスコミと世論が従軍慰安婦問題に固執していて、本当に問うべき歴史問題を考えようとしていない。

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September 16, 2013

オリンピックの東京開催が決まった

 オリンピックの東京開催が決まった。このオリンピック開催都市を決めるIOC総会での安倍総理のプレゼンがウソとはったりであったことは、今や周知のことだろう。「私が安全を保証する」というのははったり以外のなにものでもなく、汚染水は「完全にコントロール下にある」というのはウソ以外のなにものでもない。

 このことについて安倍総理への批判が多いようだが、オリンピックの誘致のプレゼンというものは、そうしたウソとはったりにまみれたものであることはどこの国も似たり寄ったりで、とてもではないが清く正しく美しいものではない。本当のことを言っていたら、オリンピックの誘致はできないということなのだろう。なぜ、そうまでしてオリンピックを誘致したいかと言えば、オリンピックは莫大なカネになるからである。ようするに、そういうことなのであろう。

 イスタンブール、東京、バクー、ドーハ、マドリードでの選択ということでは、現実的に考えて東京という選択はありだとは思う。オリンピックという管理された国際行事を行う上では現代の東京は極めて管理された都市であり、治安の状況や周辺国の状態において東京が最適であるという判断は間違ってはいないと思う。

 京都民というか震災を受けていない場所の人々が、自分たちの目の前の商売と震災復興のどちらを優先させるのかと言えば、まごうことなく自分たちの商売の方でろう。そもそも、東北の地に東京都民が使う原発を置くということ自体にそうした考え方がある。東京は原発が生む電気を使い、東北は原発を置くことで中央からカネを貰う。どちらも利益になるという構図である。この構図から言えば東京はウソとはったりでオリンピックを誘致し、その景気向上でカネが震災復興にも廻るであろうということなのだろう。

 それについてどうこう言おうとは思わない。そういうもんなんだなと思うだけである。

 ただ、東京は福島から離れているから安全だという言い方はないだろうとは思った。オリンピックの利権が目的なのではなくはなく震災復興のことも考えていますとは、この言葉からはとても思えない。本音といえばこれほどの本音はなく、東京は福島から離れているから安全と言って誘致に成功したわけだから、いっそのこと堂々と「東京は福島から離れているから安全です」というフレーズを東京都のオリンピック宣伝コピーとして採用したらどうか。「福島は東京から離れているから」原発を置きました。そして、今回、原発事故が起きました。でも「東京は福島から離れているから」安全です、とはっきり言えばいいではないか。

 3.11で日本は変わると言われた。ところが、この国はなにも変わらなかった。変わることはなく世の中は、3.11を忘れようとしている。東京オリンピックで景気が良くなって震災地の復興も進むと言うが、そんなことはない。結局のところ東京とそれ以外の地域の格差がさらに広がるだろう。

 オリンピックでは経済は成長しない。オリンピック景気というものはある。景気よって経済は上昇することはある。しかしながら、それはバブルようなものであり、本当の意味での経済成長にはならない。オリンピックは国の富にはならない。今の日本に必要なことは脱工業社会への移行であり、中国や韓国には作れないものが作れる経済になることだ。そうしたことはオリンピック云々とはまた別の話であり、オリンピックがあろうとなかろうと、ボーダーレス経済の動向をしっかりと把握して、やるべきことをやっていかなくてはならない。

 オリンピックが始まれば、また例によっていたる所で「がんばれニッポン」と声高に言われるだろう。その「ニッポン」とはなにか。その「ニッポン」に福島は含まれるのか。

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September 11, 2013

円滑で密接な日米関係のために

 安倍政権において日米関係が悪化している。

 9月7日の東京新聞によると、先日、サンクトペテルブルクで開かれたG20での日米首脳会談で安倍総理はオバマ大統領に日米関係の強化を強調したが、当のオバマ大統領はこれに賛意を述べず、逆に安倍総理に沖縄や尖閣諸島をめぐる中国との対立が激化しないようくぎを刺されたと報道している。この記事は、G20での日米首脳会談の真実を正しく伝えた唯一の記事だ。

 大杉はるか記者はこう書いている。

「安倍首相は五日のオバマ米大統領との会談で、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を検討していることなどを紹介し、日米同盟の強化が目的だと強調した。しかし、オバマ氏から賛意は得られず、逆に沖縄県・尖閣諸島をめぐる中国との対立が激化しないようにくぎを刺され、日米の温度差が表面化した。」

 また、安倍総理の「国家安全保障会議」の設置は日米同盟強化を見据えたものだという説明に、オバマ大統領はさして関心を示すことなく2プラス2で議論をしていくことを述べたという。ようするに、オバマ大統領は日本の憲法改正とか集団的自衛権の行使とかはどうでもいいことなのであろう。オバマ大統領は中国による強制的な問題解決には反対したが、日本にも自制を求めたという。

 そして記事はこうしめくくられている。

「日米首脳会議は、米国の関心が日本独自の安全保障政策よりも、日中関係の悪化によるアジア地域の不安定化にあることを示した。」

 これまで通りの日米関係の維持と強化を述べる人々は、安倍総理と同じく、あたかもアメリカの意向に沿うような対応をアメリカに示そうとする。しかしながら、当の相手のアメリカは日本の願望など知ったことではない。アメリカが求めるものは、アジア地域の安定である。

 日米同盟は日本側のことばかりではなく、もっと大局的に考えなくてはならない。日本が対米関係をどうしたいのかということではなく、まずアメリカが対日関係をどうしようとしているのかを見なくてはならない。必要なことは、アメリカは対日関係において何を求めているのかということであり、それに対して日本は対米関係をどのようするのかということである。日本は対米依存をやめてどうするのか、右翼のナショナリズムで自主独立するのか云々といった日本の国内的なことはまったくの的はずれの話だ。そういうことを言っている人は、問題の本質がアメリカ側の対日関係の変化であることがわからない、国際社会がわからないただのバカなのであろう。

 中国に対してアメリカは、日本の安全保障を実行してくれるだろうか。答えはノーだ。これまでのオバマ政権の対応とアメリカの世論を考えると、日本が望むかたちでの中国に対しての日本の安全保障をアメリカが実行する可能性は著しく低いと判断するのが妥当である。日米同盟を当然で自明のこととする従来の日本の安全保障が成立しなくなりつつあることだけは確かであり、我々はそのことを自覚すべき時期にきている。対米依存の安全保障は、もはや時代遅れのものになっている。また、そうした考え方はアメリカ側の意向にも合わないため、安倍総理のように日米関係がちぐはくなものになってしまっているのだ。

 日本の安全保障は、アジア地域全体の視野を持って考えなくてはならない時期になっている。そして、そう考えていくことが、実は円滑で密接な日米関係をもたらすのである。

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September 07, 2013

台北で考えた

 台湾について、まだ考えている。

 司馬さんが『台湾紀行』で論じていた「台湾という国について」である。台湾という国ついて考えることは、国家とはなにかということにつながる。

 国家とはなにか。それを考えるために、台湾という島の歴史をさかのぼりたい。日本列島と同じく台湾島もまたそのはるかな太古の昔はユーラシア大陸とつながっていた。地殻の変動によりユーラシア大陸から分離され、というか大陸と台湾の間に水が流れ込み海になって、いわゆる台湾島ができた。もちろん、この島の上で人類が最初から発生したわけではない。その周囲から海を渡って台湾にやってきたのであろう。今日の台湾で、原住民、先住民、山地人と呼ばれる人々である。また、中国大陸の福建省あたりからも漢族の人々が台湾に渡り暮らしていた。

 17世紀にオランダは、インドネシアを拠点として日本と交易をするようになって台湾という島があることを知った。しかしながら、この島には首狩り族の山地人と漢族の人々が住んでいるだけで交易の相手国にはならないため、別に台湾を知ったところでどうこうすることはなかった。やがて、山地人の狩る鹿の皮や砂糖の栽培と精製・販売などが日本で商売になることがわかり、それではということでオランダは台南に交易基地を置き、福建省から中国人の移住を勧めた。ポルトガルやスペイン人も台湾に要塞などを置くようになる。この時代、台湾は誰の所有というわけではなく、ようするに、いろいろな民族が雑多に暮らしている移民の島だった。

 時に大陸中国は明が滅び清になる。福建の海賊の親玉とも言うべき鄭芝龍は、日本の平戸の大名松浦氏との商売で巨利を得た。彼は明朝の庇護を受け財を成したわけであるが、最後は明を裏切り清につく、しかし、その息子の成功は滅びゆく明を助けようと清と戦い、台湾からオランダの勢力を追い払った。鄭成功は台湾を清朝の軍と戦う拠点としたかっただけなのであるが、とにかく台湾から西洋人を追い出した。彼は、その志半ばで夭折する。異民族である清朝への漢族の明の抵抗の地であった台湾は清朝に下る。鄭成功の母親は日本人である。鄭成功の物語は後に日本で近松門左衛門が戯曲にする。国性爺合戦である。

 さらに時代が下り、19世紀の中国において鄭成功は漢民族のナショナリズムのヒーローとして脚光を浴びることになる。何度も言うが、別に鄭成功は中国人としての愛国心をもってオランダと戦い、台湾を中国の地としたわけではないのだが、そうしたものとして政治的に利用されることになる。まことにもってバカバカしい限りなのであるが。

 アジア的「版図」の概念で言えば、台湾は中国の「版図」になる。中国の「版図」になると言っても、たまたま近くの大文明が中国だったからそうであるだけであり、台湾島が例えばインド大陸の近くであればインドになるのであろう。ようするに「島」という洋上の岩っころは、そういう大ざっぱであいまいなものなのである。

 ちなみに、琉球国は中国と日本の両方の「版図」であった。この関係が変わるのは、日本が明治維新を経て大日本帝国という国になり、明治4年に日本はいち早く琉球を西洋の近代法をもって西洋式の領土として明確にしたからである。これに対して清はなにも言うことはなく、なにごともなかった。おそらく、日本がなにをしたのか、西洋の領土というものがいかなるものであるのかが、この当時の大清帝国には理解できなかったのであろう。ただし、本来の意味で言うのならば琉球は琉球の人々の地であり、日本のものでも中国のものでもない。

 19世紀末、日清戦争が日本の勝利で終わり清朝は台湾を日本に割譲する。講和条約の全権大使であった李鴻章にすれば台湾を中国の地とも思っていなかったという。李鴻章にとって、何度も言うが、洋上の岩っころ(岩っころと言うには台湾は大きすぎるけど)のことなどどうだってよかったのである。日本側も台湾をもらってどうするのかという意見が多かった。ただ、海軍が軍艦の石炭補充の基地として高尾港が欲しかったという。それではということで、台湾は大日本帝国に属することになる。それは台湾の人々が初めて体験した「国家」であっただろう。日本はこの先住民と大陸からの移民が住む島に、上から覆い被せるように大日本帝国を被せた。

 本来、帝国主義とは国内の産業が発展し生産性の向上により、国内市場だけでは商品の販売が十分すぎる程行き渡っているので、その余剰を商品を国外の市場に求めることから始まる。そして国外に市場を拡大し、さらに生産を向上させるために、国外の資源を求め、それを低コストで得る。帝国主義の原点はそうしたものである。16世紀以後のヨーロッパ諸国はそうして発展してきた。

 ところが、である。大日本帝国には、そうした高度な産業などというものはなかった。なかったのであるが、ヨーロッパ諸国の並の近代軍隊を持とうとした。これはたいへんな負担であった。その上、さらに(海軍が軍艦の石炭補充の基地として高尾が欲しかっただけなのであるが)成り行き上、台湾を植民地とし、その経営を行うことになる。これは日本にとって、さらにたいへんな負担であった。台湾の人々からは恨みを買うであろう。そうしたモロモロを思えば、帝国主義というのはコストがかり過ぎて、そこから利益を挙げることなど、大英帝国ではない日本程度の国には不可能なことであった。ただし、この当時、そう考える人はあまりいなかった。そういう時代だったとしか言いようがない。

 日本の台湾統治は決して褒められたものではなく、映画『セデック・パレ』にもあったように日本人は台湾の原住民たちや漢族の人々を侮蔑していた。この侮蔑や迫害が日本人への反乱を招き、幾度となく暴動事件や抗日運動が起きた。アジア人である日本人が同じアジア人を侮蔑するのは、欧米への劣等感と近代国家にならなければ欧米の植民地になるという強烈な恐怖感の裏返しだったと思う。もちろん、だから侮蔑して良いということはない。

 何度も言うが、日本の台湾統治は決して褒められたことばかりではない。そもそも、統治といってもされる側から見れば侵略であり支配であった。他民族の言語や文化を押しつけられて気分が良いわけがない。当然のことながら抵抗がある。統治初期の頃の台湾総督府がやったことは反乱分子を討伐することだけだったという。

 日本の台湾統治は50年に及ぶ。その行政の基礎を作ったのは第四代総督の児玉源太郎であり、児玉が民政局長として抜擢した後藤新平の二人である。日本の台湾統治は、児玉と後藤の二人から始まったと言えるだろう。植民地に対して宗主国はその国としての最も良いものを施そうとするという。日本は台湾に上下水道を施設し学校教育を整え、鉄道と郵便の制度を設け、帝国大学を設けるなどを行った。これも何度も言うが、貧乏な日本が台湾に対して精一杯のことをやったということは否定できないであろう。

 太平洋戦争での日本の敗北をもって日本の台湾統治は終わる。日本が去って行った台湾に大陸から蒋介石と国民党政府がやってきた。そして、中華民国という国家を台湾に上から覆い被せた。彼らは台湾に本来住んでいた人々を激しく虐待し管理した。このへんのことは、日本人にはわかりずらい。同じ中国人でなんでそんなことをするのかという感じであるが、そういう人々なのであるとしか言いようがない。蒋介石にとって台湾は私有物のようなものであったのだろう。ただし、これは蒋介石一人の話ではなく、そもそも中国では古来、権力者にとって国土と人民は私有物であった。中華民国の国父は孫文である。孫文は若い頃ハワイでアメリカの教育を受けたためか、そうした意識はなかった。しかし、孫文はどちらかというと文人、思想家、革命家であり、政治権力者というタイプではない。孫文の亡き後、国民党で権力を握ったのは蒋介石であり、蒋介石と中国の常として権力を私有化した。ちなみに、毛沢東も若い頃はともかくその晩年は権力を私有化し、人民を私有物のように扱った。

 今日、日本の台湾統治が台湾の人々からそれなりの評価を持って扱われているのに対して、朝鮮統治の方は恨まれるだけになっているのはなぜだろうか。台北滞在中、少し考えてみたが、よくわからない。ひとつの考えとして、日本の台湾統治は権力を私有化することが極めて少なかったことに対して、その後に来た蒋介石の国民党軍は民衆を虐待し、権力を私物化した。台湾の人々は日本が去り、これで自由な時代になったかと思っていたが、やってきたのは暴虐の限りをつくす連中であった。これなら日本人の方がまだましだったという思いがあるからという意見がある。そうした思いがあったことが否定できないだろう。しかし、そうであるのならば、朝鮮もまた日本人が去った後、アメリカ・中国が介入して朝鮮戦争になり、民族分断後、韓国は長く軍事政権だった。日本統治の頃の方がまだましだったという思いがあっても悪くはないように思うのだが、このへん単純な比較はできないのでなんとも言えない。

 台湾の人々にとって、国家とは常に他人が外からもってきて、自分たちに上から覆い被せるようなものであった。これが変わるのが、1988年に蒋介石の息子の蒋経国が死去し李登輝が総裁になってからである。李登輝は台湾で生まれ育った台湾の人、いわゆる内省人であり、大陸の中国人、いわゆる外省人ではなかった。李登輝が総裁になったということは、内省人の政権になったということであり、台湾の民主化はここから始まる。

 以上、ざっと台湾という島の上で繰り広げられてきた国家史みたいなものを考えてきた。

 台湾では、「国家」はその時その時で変わってきた。台湾の地で生きる人々からすれば、「国家」などというものは常に上から無理矢理に押しつけられるものであった。

 大陸が台湾を軍事的に占領し併呑するのではないかという危険性があるという。大陸中国が台湾を侵略することは可能であろうし、台湾にそれに太刀打ちできる軍事力はない。その防衛の役割をアメリカが担っている。だから、中華民国という強固な国家が必要なのであるという意見があるかもしれない。しかしながら、中華民国のアイデンティティーとはなんであろうか。第二次世界大戦後、大陸から蒋介石がもってきた国家は台湾に本来住んでいた人々にとってはなんの関係もないものだ。

 ただし、ないものだと言うのは台湾に昔から住んでいた内省人のみなさんで、最近大陸から来た外省人のみなさんにとってみれば祖国は大陸中国なのであろう。ひとつの「国家」で割り切れるものではない。このへん、ややこしい。

 さらに親が内省人あるいは外省人であっても、子の世代や孫の世代になると、もはやそうしたことはどうでもよくなる。台湾人のアイデンティティーはその人、その人によって幾重にも折り重なっている。ようするに、そういうものなのであろう。みんなまとめて台湾に住む人々なのだ。彼らが台湾をつくっている。重々しく、これが国家であり、オマエたちは国民なのだという観念を押しつけることは不用だ。そうしたものがなくても、人は生きていく。

 台北101やここは日本の原宿か!と思うような西門を歩くとはっきりとわかる。興味深いことに、日本、中国、韓国は国家としては不和な関係にあるが、国家などというもんにはまったく関係がない人々の暮らしでは、おのおのつながり合い「ひとつの経済圏」を作っている。台北のテレビでは大陸や韓国のドラマや香港の映画や日本のアニメが放送されている。その昔の戦前の日本人が今の台湾を見れば、それこそ大東亜共栄圏がここにあると思うだろう、かつて数多くの日本人が夢見た「アジアはひとつ」の想いは、21世紀の今、ボーダーレス経済として実現している。

 台北に行って、そう思った。

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September 01, 2013

台北に行ってきた

 8月の19日から25日にかけての一週間ばかり夏休みをとって、台湾の台北に行ってきた。

 台湾にはこれまで台中に2度訪れたことがある。どれも所用の団体での訪問であって、自分個人で自由に街を歩き回ることはできなかった。そこでいつかは、一人でふらっと台湾を旅することをしてみたいとかねてから思っていた。

 本当は台北だけでなく、電車に乗ってできれば台南まで旅をする予定であった。ところがなんと台湾には台風が直撃していて、台北に着いたその翌日から連日ほとんど雨であった。それに湿度が高く蒸し暑い。台北に着いた時、深夜の桃園空港に着き、入国手続きを経て空港を出ようと出口の自動ドアが開いた時、一歩外へ出た私のメガネがむわっと曇った。これがいわばマイ・ファースト台北の印象だった。とにかく蒸し暑く、異常に暑い東京を出て、夏休みは南の島でのんびり過ごそうと思っていたのであるが、そうした人の想いなど大自然にはなんの意味もないのであった。自然は人間の思い通りにはならない。

 ようするに、そういう天候の時期なのであろう。雨なので旧所名跡に出歩くことができず、地下鉄やバスに乗って建屋の中、つまり博物館やショッピングセンターへ行き、歩き回った。歩き疲れたらカフェーでぐったりとし、夜は夜市に行きたかったが当然雨でやっておらず、つまりは夜もカフェーで過ごしていた。そして早めにホテルに戻り、シャワーを浴びてテレビを見て早々に寝るというまことに健全・健康な生活をしていた。暴風雨は連日台湾全土を覆い、とてもではないがのんびりと各駅停車の旅行に出るわけにもいかず、そういうわけで台北で一週間、ほぼそうしていた。

 夜、カフェーやホテルの部屋では本を読んでいた。日本を出る時、台湾で読もうと司馬遼太郎の『街道をゆく・台湾紀行』の文庫本を買って持っていった。この本は読んだことはあったが、もうそうとう前のことなのでずいぶん内容を忘れている。今回、改めて台湾でゆっくり読んでみようと思ったのだ。

 実際の所、これまで外国へ旅に出ると、旅先で読もうと日本から何冊もの本を持って行くが、まず読まずに帰ってくる。外国旅行では、本を読むという気力・体力の余裕がなくなるのである。もう一つの理由は、英語圏の国に行くと、英語の新聞を読み、英語の本を読むので日本語の本をわざわざ読もうという気にならない。

 ところが、今回の台湾旅行は、それなりの時間的な余裕があったことと、自分の中国語の能力では中文の新聞や本などとても読めず、そういうわけで台北のカフェーで一人日本語の本を読んでいた。

 『台湾紀行』を読むと、司馬さんは台湾を歩きながら「国家とはなにか」を考えたという。自分はこの雨ばかりで暑くて蒸す天気のもとでそんな小難しいことを考えることはなく、司馬さんの本をゆっくりと読みながら、ただ漠然と台湾と日本のことを考えていた。

 日本で思う台湾は、大陸中国と「同じ」と思ってしまう。しかしながら、実際の台湾の地で思うと、当たり前のことであるが台湾は台湾であり、台湾の大多数の人々は、もちろん民族的、歴史的、文化的に中国人であるが台湾人である。大陸の中国とは違う。この当たり前のことが、日本にいると実感として感じることができない。

 今の台湾の若者たちは、当然のことながら日本の統治時代を知らない。その後の大陸からの国民党による圧政も知らない。台湾の民主化は李登輝が総統になった1988年から始まる。つまり、80年代に生まれた世代以後は物心ついた時から民主主義の社会だった。80年代から国際社会は情報と経済のグローバル化が進展し、台湾もまたグローバル経済により大きく発展した。80年代以後、日本は音楽、アニメ、漫画、映画といったポップカルチャーを爆発的に生み出していくが、それらに憧れ、それらを積極的に吸収し学んでいったのが80年代以後の台湾の若い世代だった。

 かつて半世紀以上前、台湾を植民地とした日本は台湾に日本の良きものを伝えようとし、それはそれで台湾の人々に大きな影響は与えたが、なにぶんそれは国家の政策であり、昭和になると大アジア主義や大東亜共栄圏というイデオロギーのもとでの日本の文物の流入であった。

 ところが20世紀末に起きた出来事は、日本は日本で国策でもなんでもなく各人各様に好きなようなやっていた音楽やアニメや漫画や映画が、はるかな南方の台湾の人々に好まれたということだ。台湾の人々は長い時を経て再び「日本」と対面し「日本」と共にある。全地球社会がボーダーレス・ワールドであることによりそうしたことになった。戦前のような日本の日本による日本のための大アジア主義とか大東亜共栄圏とかいったものがなくても、国境を越えて経済が発展していけばアジアは自然に「ひとつ」になっていく。

 台北にある台湾で一番大きな書店であるという誠品書店へ行った。行ってみて驚いた。本棚には英語、中国語、日本語の本がまざって並べられているのである。ちなみに以前行った北京の王府井の大きな書店には、当然のことながら中国語の本しかなかった。香港の本屋さんには中国語と英語の本があったよう思う。英語と中国語と日本語の本がまじって置いてある書店というのは台湾に来て始めて見た。台湾では大学を出た人は英語と中国語とそれなりの日本語ができるというのは当然になっているのだろう。ショッピングセンターの台北101の近くにある誠品書店は文学系や芸術系の本の品揃えが良く、本棚のデザインや売り場の雰囲気が洗練されていた。あえて言えば、歴史学や社会科学系の本の品揃えはそれほど良くはなかった。そっち方面は弱いのであろう。

 台北市内は、MRTという地下鉄・電車が走っている。これに乗ってみると、スマホやタブレット端末を見ている人が多い。ガラケーを持っている人は一人もいなかった。そうしたスマホの画面を、横からちらっと覗いてみると動画を見ていたりLINEをやっていたりしている。台北は電車の中でもネットが途切れることがない。こうした光景は東京と同じだ。台湾でもLINEやWeChatなどといったメッセンジャーアプリのユーザは多い。市内には公衆のWi-Fiスポットが多い。

 司馬さんが台湾で「国家とはなにか」を考え、『台湾紀行』を書いたのは1990年代前半である。今の台湾はそれから20年近い歳月を経た。日本統治時代の台湾や国民党圧政の台湾ではなく、今、新しい台湾が生まれている。

 台湾は正確には台湾省という呼び名になる。大陸の中華人民共和国がそう呼んでいるのではなく、台湾の中華民国がそう呼んでいる。それは中華民国にとって自己こそが正当な中国の国家であり、中国の国家とは台湾も含めた中国大陸であり、たまたま「台湾省」という場所にいま中華民国はあるだけにすぎないという意思を示している。

 しかしながら、今の台湾の若者たちにはそうした重さがない。台湾は台湾であって、そうしたことはある意味どうでも良いことなのだろう。それは司馬さんが見ることがなかったアフター『街道をゆく・台湾紀行』の台湾だった。

 その台湾を歩いてきた。

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