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August 2013

August 16, 2013

『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』

 保守筆頭の新聞である産経新聞の親米筆頭の記者である古森義久記者が新刊を出した。その名もずばり『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』(幻冬舎新書)である。

 おおっ!と思った。ついに、というか、とうとう古森記者も真実に目覚めたのかと思った。今、まともにアメリカの政界をウォッチャーしていれば、親密な日米同盟を維持するなどということはタワゴトであり、日米同盟重視とか言っているのは日米同盟ゴロのアーミテージとかマイケル・グリーンとかが言っているだけで、ワシントンではとにかく中国と紛争を起こしたくないと願っている、というか中国と戦争をする予算なんて今のアメリカの財政にはない、という極めて当然な真実に気がつくことは当たり前のことだ。

 というわけで、この本を読んでみると、保守筆頭の新聞である産経新聞の親米筆頭の記者である古森義・・しつこいか(笑)らしく、そうした今のオバマのアメリカを、この人はアメリカらしくないと言う。古森氏の言うアメリカらしいアメリカとは、世界一強くリーダーシップを発揮するアメリカだ。しかしながら、この人はリビアに介入せず、エジプトの民主化を支援しないオバマ政権が気に入らないらしい。

 今のアメリカは、中国との経済関係を重視し、中東でも軍事力の行使をなるべく避け、力による世界管理を止めようとしている。オバマ政権の特徴は、アメリカに根強くあるマニフェスト・デスティニーやウィルソン主義の考え方をしないということだ。日米同盟は重視せず、対中関係を重視するのがオバマ政権である。

 もちろん、これらに対して共和党はもとより民主党のグローバリスト一派も反対している。しかし、反対しているといっても、もはやアメリカは以前のアメリカではない。今のアメリカの有権者は白人以外のアフリカ系、ヒスパニック系、アジア系が多くを占めるようになってきている。そうした人々がオバマの支持者であることを考えると、この流れは今後も変わるどころかますます大きくなっていくと思われる。古森氏が、いくらオバマはアメリカという国家の主要な担い手である白人中年男性層の求める政策や価値観に背を向けていると言っても、そういう時代ではなくなったとしか言いようがない。

 日米同盟も同様であり、オバマ政権は日本に引きずられて対中関係を悪くする気はまったくない。「いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ」というか、さらに言うならば「いつまでもアメリカが圧倒的な軍事力をもって超大国としてのプレゼンスを発揮すると思うなよ」なのである。

 古森氏が言っていることは、つまりはそういうことだ。古森氏が言っているというか、オバマがそう言っているようなものだ。合衆国大統領がそう言っているというか、おもに白人中年男性以外の、有権者大多数の女性の皆さんや、アフリカ系、ヒスパニック系、アジア系の皆さんがそう言っているということなのだ。

 これをアメリカらしくないと言っても、そうなんだから仕方がないであろう。今のアメリカは、かつてのトルーマンやアイゼンハワーの時代のように、ありもしないソ連の脅威をでっち上げて反共イデオロギーへと世論を誘導し、ソ連や中国に向けて厖大な数の核ミサイルを配備したような時代とは違うのである。

 古森氏が述べているように、今のアメリカはそうなっているということを日本は踏まえる必要がある。これまでのような日米同盟はもう続かない。この点について私と古森氏は意見が一致する。では、どうすべきなのか。

 だからこそ、日本は対米従属をさっさとやめて、自主独立した対米関係、対中関係を構築していくしかないではないかと私は思うのであるが、保守筆頭の新聞である産経新聞の親米筆頭の記者である古森義・・しつこいか(笑)はまだアメリカ依存にしがみつこうというのであろうか。

August 04, 2013

『風立ちぬ』

 宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見た。見てみて驚いた。今までのジブリアニメと違って、大人向けの作家性の高い映画だった。

 通常、今の商業映画では制作予算が大きく、映画を上映してのその採算を考える、つまり、商業的に売れるようにする、つまりは顧客の見たいニーズの合わせるということをやらなくてはならなくなっているが、『風立ちぬ』にはそうしたものがない。『風立ちぬ』は、宮崎監督がつくりたいものをつくりたいようにつくった作品だ。観客への媚びが一切ない。ようするに観客に不親切な映画なのであるが、そもそも映画とはそうしたものだった。そうしたものだったわけだが、商業映画全盛の今日、これが通るのは巨匠宮崎駿とジブリの名前があるからだろう。

 戦前の日本は階級社会だった。堀越二郎は裕福な家庭に生まれ、一高、東京帝大へと進み、卒業後は三菱に入社し航空機の設計に従事するいわば中産階級の上位に属する人生だった。『風立ちぬ』では、大正の関東大震災や昭和初期の銀行の取り付け騒ぎの光景が描かれるが、主人公の二郎はそうした人々を風景のようにただ淡々と見ているだけだ。もちろん、ただのいち大学生であり、あるいはただの三菱の航空機技師でしかない二郎になにができるというわけでもなく(関東大震災のシーンでは後の話につながる出会いがあるが)眺めるだけしかできないことは事実そうなのだろう。

 しかしながら、通常、そうした現状に対してなにかを感じ、なにかを行っていくことで物語は進んでいくものであるが、二郎はそうしたことについては徹頭徹尾に淡泊である。航空機エンジニアとして、美しい飛行機を作ることだけに興味と関心を持つ。

 かつて飛行機は、酔狂な人間がやっている酔狂なテクノロジーだった。技術の発明とは、たいてい酔狂な人間がやっている酔狂な機械から始まるものであるが、その中でも特に飛行機は酔狂な機械だったと思う。なにしろ、空を飛ぶ機械なのである。なぜ、そんなことをするのかと問えば答えなんてないであろう。とにかく、空を飛びたいから空を飛ぶ機械を作るとしか言いようがない。そうした酔狂な機械の数え切れない試作と失敗の積み重ねの末に、どうやら人は空飛ぶ機械で空を飛ぶことができるらしいということになり、戦争の兵器として使えるということでこの空飛ぶ機械、飛行機に初めて実用性が与えられた。以後、開発費が注ぎ込まれ、飛行機は大きく発展した。堀越二郎はそうした時代の人である。航空機機体設計エンジニアである二郎は、軍用機を作る以外にない。

 ちなみに、私個人は空を飛ぶ機械を造りたいとかは思わないし、そうした機械を造ることにロマンを感じるかと言えば感じない。そもそも、地を歩く生き物である人間が重力に逆らって空を飛ぶ意味がわからん。昆虫や恐竜の一派は空を飛ぶ生物に進化したが、ヒトは技術で無理に「空を飛んでいる」。だから、その技術になんらかの不具合が起これば「空から落ちる」。その技術に対して己がなにかをすればなにかになるのかというと、そういうわけにもなっておらず、いわば、その技術に我が身を預けなくてはならない。本来であれば、そのような己の才覚ではなにもできないものに身を預けなくてはならない状況をなるべく避けるようにするのが正しい姿であろう。しかしながら、今の時代はそうは言っていては車にも電車にも乗れなくなるので、とりあえずテクノロジーを信じるしかない。現代は、テクノロジーを信じることを強制させられる時代である。

 映画の中の二郎の夢のシーンで、夢の中のカプローニ伯爵から「君はピラミッドがある社会がよいのか、ピラミッドのない社会がよいのか」と問われるシーンがある。この「ピラミッドのある世界と、ない世界」のセリフを聞いた時、自分はてっきり「探求すべきロマンがある世界と、ない世界のこと」と思ったが、どうやらピラミッドがある社会とは、古代社会でピラミッドのような巨大建築物を作ることができる階級社会のことを言っていたようだ。そういう意味であるのならば「よいかのか、わるいのか」ということを簡単に一言で言えるものではない。個人としての意見を言えということであったとしても、自分の所属している社会階層によって違う。そして、決して下層階層ではない二郎もカプローニ伯爵も「ある社会の方がいいという。このへんは、別に政治イデオロギーがどうこうということではなく、一介の、しかも天才的な才能を持つ航空機機体設計エンジニアである二郎の正直な気持ちなのだろう。極端なことを言えば、二郎が美しい飛行気の設計ができる社会であるために、ピラミッドがある社会である必要があると思っているだけで、ただそれだけことなのだろう。

 ただし、二郎はイタリアでもフランスでもアメリカでもない。日本の軍用航空機機体設計エンジニアであった。

 戦闘の目的は自己の被害を最小限にし、敵の被害を最大とすることであろう。しかしながら、昭和の軍隊ではこの常識がなかった。いや、なかったと言えば語弊がある。日露戦争以後の軍隊にもこの常識はあった。あったのだが、第一次世界大戦以後、戦争の概念が大きく変わり、戦争はその国の工業力そのものが直結する総力戦の時代になった。ここで、日本軍は困った。国力が弱小な国である日本は戦争ができない国になったのである。

 ところが、「だから、もう日本は戦争はできない時代になりました」で話しを終えることはできなかった。

 日本軍は、弱小国力の日本が大きな工業力を持つ国と戦争をして勝つためにはどうしたらよいのかと考えた。ここで出て来たのが精神論である。本来、科学と合理主義を持つ組織であった大日本帝国陸海軍は、ここか精神論至上主義へと大きく傾いていった。

 兵器の設計思想もまた人命軽視になった。零戦の欠点のひとつは、装甲の薄さや防弾機能がないことだった。そうした機能な余分な重さになり、そうしたものを排除して造った飛行機が零戦だった。もちろん、これは零戦だけの欠点ではなく、日本の軍用機そのものの特徴だった。その意味で、堀越二郎の設計思想がとりわけそうだったとは言えない。

 人命を守る機能はどのようなものであり、それを装備するとどのくらいの重量になる。その重量を搭載してなおかつ要求された性能を出すにどのような性能スペックでなければならないかということは、計算尺で計算できることであり、その性能を満たすエンジンなり機体強度なりが必要でありことは単純に論理的な帰結である。

 では、現実にそうしたエンジンなり材料なりがこの国に存在するのか、開発できるのかという話になると、それはないという話になる。従って、これも単純な論理的帰結として、ではそんな軍用機は「できません」という結論になって話は終わる。

 ところが、(何度も言うが)「できません」で話しを終えることができなかったのが、この時代だった。

 余談ながら、どう考えても日本がアメリカと戦争をすることなどできるわけがない、単純に論理的に考えて、戦争ができる話にはまったくならない。にもかかわらず、日本はアメリカと戦争をした。当時の日本をまったく理解できない。ということが言えるであろうが、では今の日本はどうなのかというと、財政や社会保障がこのままではどう考えても成り立つわけがない。破綻する。単純に論理的に考えてそうなるのだが、それでもアベノミクスとやらで意味のない散財財政をまだ続けている今のこの国はどうなのであろうか。

 映画の中で、三菱の設計技師たちの新型機(後の三菱九六式艦上戦闘機になる)についての議論をしているシーンで、重量を少なくさるために機関銃なんかはずしましょうと二郎が言うセリフがある。なるほど、この男にとっては機関銃など邪魔以外のなにものでもないんだろうなと思った。この男には、自分が今設計しているものは「美しい飛行機」である前に軍用機なのである、空の上で敵と撃ち合わなくてならないのだ。攻撃と防御をどうするのか。そうした意識は、二郎にはないんだなと思った。こういう男の設計した飛行機は運動性能が高く、航続距離は長いだろう。しかし、十分な攻撃力や防弾機能がない。性能の良い通信機の搭載もない。まともな技術将校ならそう考える。結果的に、日本軍の一般通念には人命重視という考えはなく、育成にカネと時間がかかるパイロットを使い捨てにするかのような運用だったことが敗因のひとつにもなった。もちろん、これは二郎の責任というわけではない。あえていうのならば、そういう時代だったとしかいいようがない。

 人は「時代」や「社会」や「自己の才覚」や、その他様々なものの制約の中にある。それらの制約を負いながら、それでも生きていかなくてはならないのだろう。『風立ちぬ』は、それを短編小説のように淡々と伝えてくれる。

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