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July 2013

July 16, 2013

参議院選挙

 参院選の論議がいまひとつ盛り上がっていない。盛り上がっていないのは、自民党か、そうでないかの選択にしかなっていないからだ。そして、自民党かそうでないか、そうでないかの選択ならば、自民圧勝だろうから選択の余地なしで話が終わる。そもそも投票するという投票率がかなり低くなるだろうと言われている。投票によって選挙の結果が変わるのならばともかく、自民圧勝ならば投票するまでもないということなのであろう。

 しかしながら、仮に自民党を支持する人であったとしても、政権は自民党であるのだから、参院は別に自民党が多数政党である必要はない。

 本来、この選挙で問われていることは(実際は「この」選挙で問われているだけではなく、「これまでの」選挙でも問われていたことは)、原発・憲法・TPP・消費税・沖縄(もしくは在日米軍)・震災復興・社会保障であるはずだ。これらのモノゴトはかなり大きな議題になる。かなり大きな議題であるのだが、「かなり大きな議題である」ことが広く認識されていない。

 この国では、政治がまったく脆弱になっていてまともに機能していない。日本の政治は戦後の経済復興の枠組みとして作られ、その枠組みの中ではとりあえず滞りなく機能してきた。滞りなく機能してきたために国民は政治を考えることなく、すべて「お上」「お役人」に任せてきた。ところが、戦後復興が終わり、経済大国になった頃から、この枠組みでは政治も経済も機能しなくなってきた。だからこそ、枠組みを変えることをしてこなくてはならなかったわけであるが、これまで政治改革とか経済改革とか何度も何度も言ってきて、さほど変わることなく今に至っている。

 政治に対する無関心というのは、無関心であっても生活ができているからである。組織票、業界票の有権者であれば生活に即関わってくるので関心を持たざる得ないが、そうした背景がない有権者、無党者は政治は無関心であってもまったく困らない。しかしながら、原発や憲法や社会保証のことになると、そうした無党者であっても関わってくる。ところが、原発や憲法や社会保証が選挙で争点として出てこない。また、それらが争点になったとしても自民党とその他の政党の多くが明確な違いを打ち出していない。

 また、日本の選挙では政策論争ではなく、顔の売り合いになる。その理由の一つとして、党議拘束があり個人として政治家の公約や考えがどんなものであって党議に従うことになるので、そうしたものはどうでもよい状況になっている。こうなると論点での対立を有権者にアピールするよりも、票をカネで買うような組織票、業界票を確保する方が良いということになる。しかし、そうであったのならば、自民党から民主党の政権が交代したことはなぜ起きたのかということになる。ただし、もはや民主党に政権担当能力はなしと思われている。民主党は、自民党ではない政党であり続けるべきであった。

 今回、アベノミクスとやらで景気が良くなったというのならば、景気以外のことについて、各政党はなにを言っているのかを見てはどうだろうか。景気以外のことについて判断をして投票したらどうだろうか。今、確実にわかっていることがある。参院選後、これからこの国は、少なくとも社会保障と財政問題、そして日米関係と中国問題にはいやでも直面せざる得なくなる。これをどうするのかということが選挙の争点になる時がやがて来る。

 

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July 13, 2013

『官僚たちの夏』

 今週、近所のTSUTAYAで数年前にTBSで放送されたドラマ『官僚たちの夏』のDVDを少しつづ借りて全10話を見た。このドラマや城山三郎の小説のことは知っていたが、今頃になって、じゃあ見てみるかなと思って見てみた。

 見てみて驚いた。このドラマはあの時代、1950年代後半から60年代にかけての通産省の産業政策は正しかったというスタンスに立っている。話が国民車構想から始まるのであるが、日本の自動車産業は国の介入を受けなかったからこそ成功した産業だった。このドラマは話の内容が戦後の日本経済史の事実と違う。戦後日本の政府の産業政策の功罪は大きい。このドラマはそのへんが出てこない理想的な国家を憂う通産官僚のフィクションのお話しだった。こりゃあ放送当時あまり話題になることもなかったのは当然だよなと思いながら、1話、2話、3話と見続けていた。

 ところが見続けるにつれ、これは重要なドラマなのかもしれないと思うようになってきた。昭和の高度成長や日米の繊維交渉や貿易摩擦の時代が過ぎ去った今の時代に、ミスター通産省と呼ばれる風越の言っていることを考えると、これはこれで極めてまっとうな正しいことを言っているのではないかと思うようになってきた。

 風越の主張は、国家は「国民経済」に基づくということである。「国民経済」とはなにか。それは日本国に居住する人々すべてが雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得るというものである。そのために政府があり、官僚機構があり、官僚があり、産業政策があるという極めてシンプルかつラディカルなものだ。

 ここで少し、視点を広げて考えてみたい。

 戦後まもない時期、日本人は食うものがあまりなく、貧しさの中で懸命に働き、例えば品質の高い、燃費の良い、価格の安い車を作った。それらの車は日本だけではなく、外国、特に車の使用が世界一のアメリカで売れるようになった。

 ここで困ったのがアメリカの自動車メーカーであり、そうした企業で働く労働者であった。日本車が売れることで、国産車は売れなくなった。日本の政治家が有権者の雇用を危惧するのと同様に、アメリカの政治家も自国の労働者の雇用を危惧する。そこで、アメリカの政治家としては日本にアメリカに自動車を売る数を減らし、アメリカ国内に工場を建ててアメリカの労働者を使って欲しいとするのはある意味当然のことであろう。

 すると、日本の労働者はどうなるのか。日本に工場があり、アメリカにも工場があるのならばまだ良い。しかし、日本で自動車が売れ続けるのならば日本の工場は必要であろうが、販売が飽和状態になれば、やがて自動車はそれほど売れなくなる。そうなれば日本の工場は規模を縮小、あるいはなくすこともあるだろう。そうなると日本の労働者はどうしたよいのだろうか。雇用を確保し、所得を上げ、生活の安定を得る、ということができなくなるではないか。

 ここで、産業政策というものが必要になる。自動車に変わり、大量の雇用をまかなう産業の育成が必要になる。今「必要になるであろう」と書いたが、実際その通りの産業政策になっているのかどうかというとなっていない。国が巨大な権限をもって産業政策を実施していくことで産業が育成されたことがない。その一方で、上記は自動車の例で書いたが、いまや家電製品もそうであり、今の日本は大量の雇用の確保を引き受けてくれる産業が急速になくなりつつある。

 ただし、製品そのもので言えば、今の時代は「官僚たちの夏」の頃とは違う。国産自動者と言っても、デザインや研究開発は日本であったとしても、各パーツは世界の各地で製造しており、いわゆる「日本国産」の自動者というものはいまや存在しない。市場がグローバルになり、製品がグローバルになり、企業もグローバルになっている。こうした産業は国の産業政策でどうこうできるものではない。

 むしろ、国がやるべきことはそうしたグローバルな部分ではなく、国内的な部分だろう。

 ドラマの中で風越は「弱い者も幸福になる世の中」という意味のセリフを言っている。ちょっと聴くと、風越の考え方は社会主義のようにも聞こえる。風越は社会主義者なのかというと難しい。彼は官僚なのであり、官僚である以上、こうしたことを言うのは当然である。官僚が国民の雇用を守ることをせずして、誰が守るのかと風越は思っているのであろう。この考え方はこれはこれで正しい。

 ドラマでは国内産業の保護派と国際通商優先派に別れているが、実際のところ、国の経済にはこの二つが必要であって、国際競争力を持つ付加価値で商売をするグローバルに活動する企業と大量の雇用を吸収する産業がなくてはならない。自由化すべきものは自由化して外資を導入し、保護すべきものは手厚く保護をする、政府に必要なのはこの采配なのである。

 そして、産業の育成とは、例えば半導体産業を守ろうとか、クールジャパンがどうしたこうしたということではなく、政府の権限を民間に与え、民間に自由にやらせることが、結果的には産業の育成になるということだ。

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