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May 06, 2013

四川地震

 中国の今回の四川地震では、募金が被災地にまわることなく、関係者に横領されることについての痛烈な反対が起きたという。前回の2008年に起きた四川大地震では支援金の多くは関係者に着服され、被災地の人々の支援にはならなかった。そして、今回もそれが繰り返されたわけだ。

 中国の一般市民にあるのは、政治及び政府への不信である。もちろん、これは今に始まったことではない。昔から中国はそういう国だった。政府がなぜ一般市民の生命財産よりも自分たちの利益を優先させるのかというと、いうまでなく一般市民の生命財産などどうでもいいと思っているからであり、さらにつきつめれば、人間は誰でも等しく平等であり、どんな人でも人であることの権利を持っているという社会意識がない。

 「人権」という概念は西洋のものである。アジアには「人権」という考え方はなかった。西洋思想に「人権」という考え方がなぜ生まれたのかというテーマはかなり奥深く、そう簡単には言えない。そう簡単には言えないが、あえて簡単に言ってみると「神様がそうしたから」としか言えない。神が人に「人権」を与えたのである。

 「人権」の思想は、西洋の神様が絡んでくる話なので、アジアやイスラムでは話が違ってくる。現代の人類社会のややこしさは、「人権」という考え方について、アジアやイスラムでは話が違ってくるというところにある。中国においても当然のことながら、その歴史において「人権」という概念ない。ただし、だからといって中国には法も秩序もないというわけではなく、中国は歴然たる法治社会である。しかしながら、その一方において汚職と嘘と隠蔽がつきまとう。

 今回、注目すべきことは前回の震災の時以上に、そうした現状に対する市民からの怒りが強く見られたということだという。

 中国赤十字に募金を送っても関係者が私腹を肥やすだけになり、被災地に渡ることがないという。つまり、中国では被災支援にお金を送ろうと思っても、被災支援になるまともなルートなり組織なりが存在しないということになる。

 「人権」という概念があろがなかろうが、こうしたことは一般市民にかなり大きなフラストレーションをもたらすことになる。これはつまり、パブリック・サービスというものがパブリック ・サービスとして正しく機能していないということになる。

 これまでの中国の通念では、民衆は体制や権威に服従するしかなかった。なにしろ、「人権」がない社会なのだ。しかしどうも、今の時代はそうはならないようになってきたように思われる。昔から中国はそうした国だった、で済まない状態になりつつあるように思われる。

 グローバリゼーションによって中産階級の生活様式が同じようになってくると、同じような考え方をするようになる。かつてソ連で、生活水準が向上し、欧米のメディアに接している中産階級の意識の高まりがソ連の変革を導いた。

 中国は民主化されることなく経済成長を遂げている。中国の姿を見ると経済発展と民主化は関係がないように思われるという意見もある。しかしながら、民主化されようがされまいが、欧米や日本のような生活水準に達してくると、人々はパブリック・サービスがパブリック・サービスとして正しく機能してくれないと困ると思うようになる。欧米や日本のような政治でなくては納得しないようになる。

 逆から言えば、共産党が信頼のできる政治を行ってくれれば、それでいいということだ。別に共産党であってはいけないとは思ってはいない。欧米のような民主化が、中国で起こりうるのかどうかはまだわからない。しかし、権力の腐敗を防ぐには、国民に情報を開示し、国民が権力を監視するのが最も効率的な方法だ。習近平の中国がこのことに気がついた時、共産党の体制でありながら情報公開をしていかざる得なくなるだろう。

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