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May 2013

May 27, 2013

『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』

 NHKのBS世界のドキュメンタリーで5月から一ヶ月に数回に分けて放送している映画監督オリバー・ストーンと歴史学者ピーター・カズニックが作った『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』は、かなり衝撃的な内容であった。

 第二次世界大戦での日本への原爆の投下は必要なかったということについては、日本では当然のことであるが、日本からアメリカに問題提起をしたことがない。これはこれで考えるべきことだろう。

 重要なのはこの時、トルーマンは、不必要な日本の脅威を煽り、原爆投下の正当性を作ったということだ。今日、第二次世界大戦は「良い戦争」であるかように思われているが、この戦争の始まりはイギリスの世界資源の支配の野望が大きく関わっている。ナチスを壊滅させたのは英米ではなくロシアであった。

 このドキュメンタリーは、ここから始まる。

 このドキュメンタリーの最も興味深い論点は、米ソ冷戦はアメリカが作った虚像だったということだ。この番組ははっきりと、冷戦を始めたのはトルーマンであったと述べている。ルーズベルトはスターリンを信頼できる相手としていた。ルーズベルトの副大統領のヘンリー・ウォレスは、アメリカがイギリスのような帝国主義国になるべきではないと考えていた。彼は、ソ連と友好的な関係を築き、アメリカが世界の警察になるかのようなパックス・アメリカーナなど望んでもいなかった。ソ連もまたアメリカとの対立を望んではいなかった。

 しかしながら、ルーズベルトが亡くなり、そして第二次世界大戦が終わり、トルーマンとCIAと国務省がソ連の脅威と核戦争の恐怖を煽り立て、米ソ冷戦をでっち上げた。その路線は、その後のアイゼンハワー、ケネディの初期、ジョンソン、ニクソンへと受け継がれ、ベトナム戦争の泥沼へと至る。

 来月6月は、レーガンの中南米への政策やブッシュ・シニア、クリントン、ブッシュの中近東の政策がいかに愚かしいものであったか、そして、オバマがいかに間違ったことを行っているかを描く。オバマによるパキスタンでの無人機による攻撃は一般市民を殺害している。そうした行為がアメリカへの憎悪をもたらし、テロ犯罪を生んでいる。この悪循環を断つべきだ。

 ありもしない軍事脅威を煽り立て、アメリカの正義を掲げる人々は、今の世の中にもいる。中国について、中東について、彼らは我々を攻撃しようとしている、我々は対抗しなければならないと声高く叫び、結果的にはそれが数多くの殺戮や悲劇を生み、憎悪を招き、市民の自由を奪っている。その姿は、かつてトルーマンが原爆投下の正当性を作った時と少しも変わっていない。

 19世紀末以後、今日に至るまで、対外恐怖症でありながら拡張主義的な野心を持つ、世界で最も危険な国はアメリカである。しかし、それはヘンリー・ウォレスやケネディのアメリカではない。彼らの理念は消し去られ、今もアメリカは愚かしい外交と軍事政策を続けている。『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』はそのことを教えてくれる。

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May 23, 2013

過剰な反日は韓国に良くない

 今週号のニューズウィーク日本版のカバーストーリーの「韓国の自滅外交」は興味深かかった。韓国の自滅外交とは言うまでもなく、過剰な反日が韓国にとって不利益をもたらすということだ。

 韓国が反日であることは、当然のことであり、よくわかることではある。が、そうであったとしても、今だ反日を国是としているかのような朴大統領の振る舞いには、以前も書いたように、いささか不安を感じるものだ。

 ニューズウィークにも書かれていたように、韓国は将来的にはアメリカ依存から脱し、中国側へと大きくシフトし始めている。朴政権の外交の主軸は中国、アメリカ、そして韓国の三つである。ここに日本はない。

 この日本外しは、韓国の視線が中国に向いているからだと思う。朝鮮は長い間、(好むと好まざるとに関わらず)中国を宗主国としてきた。宗主国がなにを望んでいるかを察することは、朝鮮が国家として生きていく上で必要なものであり、朝鮮はそうして存続してきた。19世紀末から20世紀初頭の日本と朝鮮の不幸な関係も、朝鮮は清を宗主国としており、この宗主国の存在を無視することができなかった。故に、日本に対してのああした結果になり、日韓併合になってしまったとも考えることができる。

 この、あえて言えば、悪いくせがまた出てきた。中国は韓国が反日であることを望んでいるのだろう、反日である韓国を中国は喜ぶだろう、という世界認識だ。実際のところ、中国が韓国に反日であること望んでいるかというと疑問だ。中国からすれば、ある種どうでもいいことであり、韓国が反日であっても別に中国にとって困ることではないのでそのままにしておくだろう。かくて、韓国は「中国はこれを望んでいるだろう」という空想的な国際認識をますます膨らましていくことになる。

 韓国にとってアメリカと手を組んでいる意味はなにかというと、もちろん北朝鮮があるからだ。では、北朝鮮が体制維持のために軍事国家であるよりも、経済国家であるようになろうとしたら、あるいは韓半島が統一国家になったのなら、もはや韓国にはアメリカ側にいる意味はない。

 アメリカは、もはやかつてのようにベトナムに介入した頃のアメリカではなくなっている。日韓や日中の紛争に、あるいは北朝鮮問題そのものについてもさえ、アメリカは関わるつもりはまったくない。

 今の東アジアは、アメリカの軍事的プレゼンスの低下と勃興する中国の狭間にある。韓国がアメリカ依存から離れていくのはやむを得ないことだ。しかし、過剰に反日感情を煽り、日韓関係を不和にすることは韓国にとって有益なことではない。韓国は、宗主国がよかれと思う世界を自ら求めるという思考傾向と、反日がナショナリズムの基軸になるという朝鮮近現代史の軛から脱却しなければならない。

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May 19, 2013

「橋下発言」について

 「橋下発言」について、ここ数日考えている。あの時代の通念では○○と判断するのは間違っていない。よって、○○とすることは正しい。というロジックが成り立つのかどうか。

 例えば、5月18日の産経新聞は「産経抄」でこう書いている。

「織田信長が、現代に生きていたらどうだろう。殺人と「人道に対する罪」に問われ、明智光秀に暗殺される前に刑死していたのは間違いない。」

 しかるに「だからといって彼の功績を全否定する史家はいない。」と。

 そして、「産経抄」の矛先は例によって韓国・中国に向かう。

「中国のテレビは悪逆非道な日本兵を正義の味方、八路軍がやっつけるドラマばかりやっている。韓国はといえば、証拠もないのに慰安所を「日本政府による強制的な軍の売春システム」とでっちあげ、慰安婦を「性奴隷」と毒々しく英訳して宣伝し続けている。」

 さらに、「産経抄」は橋下徹大阪市長の発言を「言語道断で、侮辱的だ」とののしったというアメリカ国務書の報道官を糾弾する。

「当時の状況を無視して「日本だけを特別に非難するのはアンフェア」という彼の言い分はうなずける。くだんの報道官は、占領時代の東京や沖縄などでの米兵の蛮行をご存じないのであろう。」

 お前たちもやっているだろ、あんたらに非難される覚えはない、ということなのだろう。この意味において、「産経抄」も橋下徹大阪市長も同じようだ。

 このなぜ日本だけが非難されるのかについて言えば、欧米諸国の歴史認識で言えば、日本は悪逆非道なファシズム国であり、この国を倒し、民主主義国家にしたというのが第二次世界大戦であったということになっており、その歴史認識においては日本は今だに「敵国」になっている。20世紀の歴史を顧みる時、日本はネガティブなイメージで見られることを避けることはできない。欧米がこの観点から見る限りにおいて、(今でも)日本は無条件降伏をした敗戦国なのである。

 だからこそ、日本のこうしたことについての発言はかなり意識をした発言をする必要がある。しかしながら、実際のところ、こうした意識が持たれることなく、政治家の発言が外交問題になることが何度も繰り返されてきた。これからも、何度も繰り返されるだろう。

 橋下徹大阪市長の言ったことが、なにが悪いのかわからない、正しいことを言っているではないかという声が、どうもかなり多い。あの戦争とはなんであったのかということが、現代日本の統一的見解としてまとまっているわけではなく、バラバラの状態になっている。バラバラの状態になっているということに、戦後日本の教育もまた政治の中に組み込まれていることを思わざる得ない。

 そこで、冒頭の、あの時代の通念では○○と判断するのは間違っていない。よって、○○とすることは正しい。というロジックが成り立つのかどうか。に戻るが、歴史学的に言えば、この「ロジック」そのものが「ロジック」たり得ない。例えば、戦争での残虐行為は当然だという話にしても、そうでなかったこともあることもまた事実だ。歴史の話にそうした論法を持ち込んでも成り立たないことが多い。歴史があたかも法廷の弁論のように論じられたり、国家間の不和や政治の駆け引きにつかわれることに歴史学者はなぜなにも言わないのだろうか。

 少なくとも言えることは、大阪市の市長のような考えでは、例えば今、NHKで放送しているオリバー・ストーンの現代アメリカ史のドキュメンタリー番組のようなものは、日本では決して作れないということだ。

 「産経抄」の信長について言えば、例えば叡山焼き討ちが、あの時代の感覚で言えば「悪くない」とはとても言えず、あの時代であっても「悪いこと」であった。室町幕府の社会秩序が歴然と存在していれば「産経抄」が指摘したように「明智光秀に暗殺される前に刑死していたのは間違いない。」。信長を裁くことができる公権力がなかったから、信長は罰せられないだけのことであり、信長が罰せられないことをもって、信長の行為の正当性や室町時代末の社会観念を云々することはできない。

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May 12, 2013

アベノミクスというより、アベノバブルと言うべきだ

 10日の東京外国為替市場の円相場は1ドルが101円台まで下落し、日本経済が回復しつつあるという。いわゆる、アベノミクスである。日銀の自動車や電機などといった輸出企業が円安効果により業績が向上しているという。

 為替の変動に左右されずに安定した収益が得られる国際的な競争力を持つことが必要なのであって、円安になったから業績が上がったというのは、勿論、そうしたことは事実であると言えば事実であるが、だからといって諸手を挙げて喜んでいる場合ではない。

 もともと、最近まで製造業の低迷化の原因は、ガラパゴス化した日本の製造業がアメリカ・中国・韓国に対抗することができなかったためと言われていた。これは、まったくその通りの正しい見方であり、「為替の変動に左右されずに安定した収益が得られる国際的な競争力を持つ」ためには、なにをどうしたら良いかを模索していた。

 それが、安倍政権によるアベノミクスとらやらで株価が上昇し、円安になり、製造業はまともな国際競争力を持つのではなく、株価と円安で業績が上がるという安易な方向に向かってしまった。アメリカ・中国・韓国と真っ正面から向き合い、日本経済に欠けているものはなんなのかと自問自答する態度がマスコミにも感じられなくなった。

 日銀によるカネのバラマキは、この失われた20年間の間で何度も行われきた。それでも、日本経済は回復しなかった。今回のアベノミクスとやらは、そのバラマキの規模が大きいだけであって、やっていることは同じである。このやり方では、物価上昇と本当の意味での景気の拡大はできない。できないということが、この20年でわかったはずなのにまだやっているということは、もはやこの方法以外のことができないのだろう。

 何度も繰り返して申し訳ないが、日本の製造業は「為替の変動に左右されずに安定した収益が得られる国際的な競争力を持つ」ことが必要なのであって、それ以外のことは必要ない。しかしながら、アベノミクスとやらは、日本の製造業をそうした方向に進ませることはなく、株価と円安でひたすら延命を図るというまったく逆の方向へ進ませている。

 もちろん、株価と円安により大きな利益は得られる。しかしながら、そうした利益は「為替の変動に左右されずに安定した収益が得られる国際的な競争力を持つ」ことために使うべきであり、そうであるからこそ安易な景気回復にはならないはずだ。日本は、今が我慢のしどころであって、今はそれこそ臥薪嘗胆としてアメリカ・中国・韓国と戦う力を養う時なのである。しかし、マスコミはそうした論調にならず、日本経済が回復したかのような気分を煽っている。この「気分」で景気を良くしよう。具体的に言えば、ものをどんどん買う世の中にしようというのである。

 その一方で、円安により輸入価格が上昇し、食品や電気・ガス料金など生活必需の商品やサービスの値が上げ、さらには物価全般が上昇し、これによりデフレから脱却するというシナリオなのだろう。

 これはアベノミクスというより、アベノバブルと言うべきだ。またもや、バブル頼みなのである。

 アベノミクスでは、本当の意味での物価上昇と景気拡大は実現しない。後に残るのは、膨大な政府債務だ。そして、日本円や日本国債に対する国際信認が失墜したとき、日本の財政は破綻し、国民の生活は困窮へと真っ逆さまに落ちる。

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May 06, 2013

四川地震

 中国の今回の四川地震では、募金が被災地にまわることなく、関係者に横領されることについての痛烈な反対が起きたという。前回の2008年に起きた四川大地震では支援金の多くは関係者に着服され、被災地の人々の支援にはならなかった。そして、今回もそれが繰り返されたわけだ。

 中国の一般市民にあるのは、政治及び政府への不信である。もちろん、これは今に始まったことではない。昔から中国はそういう国だった。政府がなぜ一般市民の生命財産よりも自分たちの利益を優先させるのかというと、いうまでなく一般市民の生命財産などどうでもいいと思っているからであり、さらにつきつめれば、人間は誰でも等しく平等であり、どんな人でも人であることの権利を持っているという社会意識がない。

 「人権」という概念は西洋のものである。アジアには「人権」という考え方はなかった。西洋思想に「人権」という考え方がなぜ生まれたのかというテーマはかなり奥深く、そう簡単には言えない。そう簡単には言えないが、あえて簡単に言ってみると「神様がそうしたから」としか言えない。神が人に「人権」を与えたのである。

 「人権」の思想は、西洋の神様が絡んでくる話なので、アジアやイスラムでは話が違ってくる。現代の人類社会のややこしさは、「人権」という考え方について、アジアやイスラムでは話が違ってくるというところにある。中国においても当然のことながら、その歴史において「人権」という概念ない。ただし、だからといって中国には法も秩序もないというわけではなく、中国は歴然たる法治社会である。しかしながら、その一方において汚職と嘘と隠蔽がつきまとう。

 今回、注目すべきことは前回の震災の時以上に、そうした現状に対する市民からの怒りが強く見られたということだという。

 中国赤十字に募金を送っても関係者が私腹を肥やすだけになり、被災地に渡ることがないという。つまり、中国では被災支援にお金を送ろうと思っても、被災支援になるまともなルートなり組織なりが存在しないということになる。

 「人権」という概念があろがなかろうが、こうしたことは一般市民にかなり大きなフラストレーションをもたらすことになる。これはつまり、パブリック・サービスというものがパブリック ・サービスとして正しく機能していないということになる。

 これまでの中国の通念では、民衆は体制や権威に服従するしかなかった。なにしろ、「人権」がない社会なのだ。しかしどうも、今の時代はそうはならないようになってきたように思われる。昔から中国はそうした国だった、で済まない状態になりつつあるように思われる。

 グローバリゼーションによって中産階級の生活様式が同じようになってくると、同じような考え方をするようになる。かつてソ連で、生活水準が向上し、欧米のメディアに接している中産階級の意識の高まりがソ連の変革を導いた。

 中国は民主化されることなく経済成長を遂げている。中国の姿を見ると経済発展と民主化は関係がないように思われるという意見もある。しかしながら、民主化されようがされまいが、欧米や日本のような生活水準に達してくると、人々はパブリック・サービスがパブリック・サービスとして正しく機能してくれないと困ると思うようになる。欧米や日本のような政治でなくては納得しないようになる。

 逆から言えば、共産党が信頼のできる政治を行ってくれれば、それでいいということだ。別に共産党であってはいけないとは思ってはいない。欧米のような民主化が、中国で起こりうるのかどうかはまだわからない。しかし、権力の腐敗を防ぐには、国民に情報を開示し、国民が権力を監視するのが最も効率的な方法だ。習近平の中国がこのことに気がついた時、共産党の体制でありながら情報公開をしていかざる得なくなるだろう。

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May 02, 2013

『セデック・バレ』を観た

 台湾映画『セデック・バレ』を観た。

 これは2011年に公開された台湾映画で、1930年の日本統治下の台湾で起こった霧社事件と呼ばれる先住民セデック族による抗日暴動をセデック族の視点から描いた映画だ。この映画のことは、台湾で公開されていた時から知っていたが、日本での公開はまだされていなかったし、そもそもこの映画が日本で公開するのかどうかもわからなかった。それが、去年あたりに来年の春頃に日本で公開することが決まったことを知り楽しみに待っていた。

 映画は二部構成で、総時間4時間半の長時間におよぶ超大作なのであるが、これが見てみると内容の濃さにあっという間に時間がたつ感じだった。そう長い映画のように感じられない。

 第一部は、日清戦争での日本の勝利により、台湾の主権が清国から日本に委譲されたことにより、日本による台湾統治が始まり、台湾の先住民が住む場所にも日本人の植民が行われ、先住民のセデック族もまた日本人の開墾の労働者として扱われることになることから始まる。

 ちなみに、セデック族が話している言葉は、中国語ではなくセデック語だ。こうしたことは最近のアメリカ映画ではめずらしくないが、中国映画で使う原語は普通語が通常であり、香港映画の場合は普通語版と広東語版がある。台湾の使用言語は基本は普通語(北京語)(ただし、標準の普通語よりかなり訛りがある)だ。もちろん、今の時代ではどの民族も普通語を話すことはおかしくないが、この時代にセデック族が普通語を話すわけがない。こうした歴史物の場合、中国映画はさほど言語には配慮せず、例えば満州族も普通語を話すものなのであるが、その点、この映画は先住民は先住民の言葉で話す。漢人は普通語だし、日本人は日本語だ。ただし、日本人役の役者が日本人でない者も数多くいて、それらの人々が話す日本語は発音が少しおかしいが、十分許容できる程度だ。

 さて、日本による台湾統治である。

 台湾統治の目的は、当然のことながら台湾の資源と労働力を日本のために利用することであり、先住民に対しては同化政策を行った。日本人は先住民が住む地域に町を作り、学校を作り、彼らの子供たちも学校へ通わせた。成績が良い子供には日本本土の学校への進学もでき、卒業後は台湾での警察官になる者もいた。つまりは、日本は台湾の先住民に文明を教え、これに従う限りにおいて、とりあえずは日本人と同じ境遇を与えるというものだった。もちろん、それらはタテマエであって実際は日本人は彼らを差別していたが、少なくともタテマエは「日本人と同じに扱う」ということだった。ただし、日本人と同じ義務は課せられたが権利は与えられなかった。国家神道を強制し、氏名を日本風に改名させた。先住民固有の文化や伝統は否定された。

 こうしてみると、日本の侵略はまごうことなき悪行であったということになる。しかし、日本側にも言い分はある。

 明治日本の国是は、富国強兵であり文明開化である。19世紀の欧米諸国よるアジア侵略を目の当たりに見た日本は、大きな危機感と恐怖を抱き、それまで長い間、小さな農業国として穏やかに暮らしていた自国を工業力と軍事力を持つ近代国家に変えようとした。この変えることは、そう簡単に変えられたわけではなく、国内は改革を是とする勢力と否とする勢力に二分され、同じ民族どおしで殺しあう凄惨な状態になった。改革を是とする勢力は否とする勢力を滅ぼし、一応の安定をみたが、それでもその後何度も旧勢力の反乱は各地で勃発し、明治10年にその最大の反乱が鹿児島で起こり、それを鎮圧することでようやく国内を富国強兵・文明開化の路線にまとめることができた。

 そうした近代化への辛酸を経てきた日本人から見ると、この時代の中国人や朝鮮人や台湾の先住民たちは、唾棄すべきアジアの劣等民に見えたことであろう。こんなことだから、(自分たち日本人も、かつてそうなりかかったように)欧米列強に侮られ、支配されるのである、と。

 もちろん仮にそれが事実であったとしても、そう「見られる」側からすればおせっかいであり、だからといって「侵略される」ことの正当性があるわけでもなく、日本人のやることは、台湾側からすれば、いわばありがた迷惑以外のなにものでなかった。

 しかしながら、とにかくなにがなんでも欧米諸国と同列になることこそ正義であり、他のアジア諸国もまたそうすることが正しいことであるとする当時の日本人にはそうした考えはなかった。明治日本の文明開化のイデオロギーには、欧米文化に対する劣等感があったことは否定できない。自分たちの過去の文化も含めて、近代以前や近代文明以外の文化・文明もまた高度で優れたものであった、ということを人類が知るのは20世紀後半になってからである。

 セデック族は、これまでと同じように生きていきたいと思った。日本人の中でも、これまで通りの生き方をしていきたと思った人々は数多くいた。先祖から受け継ぎ、父親から学んだこと自分も行い、自分の子の世代に伝えていくことをしたいと思った人々はたくさんいた。しかし、そう思った日本人たちは結局、反乱蜂起をせざる得なかった。そうした日本人が、上野や会津や鹿児島で滅ぼされたように、セデック族もまた滅ぼされる運命にあったのだろう。滅ぼされる運命にあるということは、セデック族たちもよくわかっており、それでもやらざる得なかった。自分たちの狩場を守り、戦って死ぬことを価値とする文化に対して、近代日本はこれを排除せざる得なかったであろう。

 第二部では、蜂起したセデック族とこれを鎮圧する日本軍との壮絶な戦闘と、当初はゲリラ戦で優位に立ちながらも、航空機や重火器により次第に劣勢になり、追い詰められ、自害していく話だ。実際の霧社事件では、蜂起したセデック族が殺害した日本人は140人程度だったのであるが、ここでこの映画はアクション・エンターテイメント映画になる。数多くの日本人が薙ぎ倒され、撃たれまくる。なにしろ、中隊規模の日本の歩兵部隊がほとんど全滅するシーンもある。この、とにかく日本人を片っ端から叩きのめすのは中華映画でよくあるシーンであり、その意味でこの映画は商業映画としてもよく計算されて作られている。

 霧社事件は、国民党政府の抗日教育において高く評価され、蜂起したセデック族は抗日の英雄とされた。しかし、この映画にはそうしたものがない。『セデック・バレ』は、この映画として扱うことが難しい出来事を題材として、よくぞ作った映画だと思う。台湾のエスニシティーは複雑で、台湾には先住民以外にはいわゆる「中国人」がいるが、「中国人」にも本省人、外省人、客家等々がいて、おのおの異なるグループを作っている。そうした中で、先住民を扱ったこの映画は、だからといって先住民のナショナリズムを煽っているわけでなく、日本による台湾統治を糾弾しているわけではない。このへんの作り方が上手い。最後のシーンでの日本軍の指揮官が「日本ではもうなくなってしまった武士道が・・」と言う唐突で、とって付けたようなシーンは日本側への配慮としか思えない。このへんが上手い。

 こうした配慮がところどころにあることで、この映画は観る側に反日・抗日感情を持たせることなく、いわば「あの時代はこうだったね」で受け入れることができる歴史についての健全な距離感がある。逆から言えば、もう遠い昔の出来事である日本の台湾統治や霧社事件を、今、その良し悪しを挙げつらってなんの意味もないということをこの映画は述べているのだと思う。。必要なのは、こうした出来事があったということを知るということなのだろうと思う。それも今の台湾の人々だけではなく、今の日本の人々もだ。

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』が日本近代史のいわば表であるのならば、台湾映画『セデック・バレ』は裏になる。坂の上の雲を見上げて歩いていた少年の国は、台湾からみるとこうした国だったということなのだろう。表と裏、このどちらも正しい。この表と裏の双方を観なくては、日本の近代は理解できない。

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