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March 2013

March 31, 2013

沖縄から米軍がいなくなることを考えよう

 今朝の毎日新聞の一面に以下の記事が載っていた。

「沖縄米軍基地:嘉手納以南返還「普天間切り離し」を撤回」毎日新聞 2013年3月31日

「政府は沖縄の米軍基地問題をめぐり、嘉手納(かでな)基地(嘉手納町など)より南の5施設・区域の返還を普天間飛行場(宜野湾<ぎのわん>市)の県内移設と切り離して進める方針を撤回し、近く発表する嘉手納以南の返還計画に普天間飛行場の返還時期も明記する検討に入った。」

 しかしながら、これはおかしい。「普天間を県内に移設すれば嘉手納以南の多くの土地が返ってくる」(政府関係者)ということのようであるが、これらは根本的にアメリカ側が在日米軍再編に基づいてやっていることで、日本政府がどうこうという話ではない。日本側にはなんの決定権もないのが実情なのであるが、日本側の意思でやっているかのようにしているのだろう。むしろ、追い込まれているのは日本の側で、アメリカとしてはいかに日本からグアム移転の負担金を多く出させるかということだろう。

 さらに興味深いのは、先日の沖縄タイムズにあった次の記事だ。

「在沖海兵隊 ハワイ知事が受け入れ計画」沖縄タイムズ 2013年3月12日

 この記事によれば、ハワイのアバクロンビー州知事は「沖縄の基地は政治的に持続可能ではない、そろそろ解決に向けて動くべきだ」と述べ、最適な海兵隊の移転先としてハワイ島のポハクロア訓練施設への海兵隊移転を提案しているという。

 このように、アメリカでは、もはや米軍基地は県外移転どころか国外移転の話になっている。抑止力として沖縄に海兵隊が必要だとか言っていた連中がなぜ黙っているのか不思議でならない。沖縄の海兵隊は、台湾有事や尖閣諸島防衛に必要だと言っていたのではないのだろうか。

 ようするに、アメリカ側はそんなことはまったく思っていないということだ。「普天間の固定化は避けたい」とか、「嘉手納以南は返還するから辺野古移設をさせろ」と言っているには日本政府だけだ。アメリカとしては、普天間にも辺野古にも米軍はいなくなる。せいぜい、嘉手納の飛行場は残るということだろう。

 北朝鮮の軍隊主導のハリボテ核ミサイル外交は終わりに近づきつつある。北朝鮮の変化に加え、アメリカの国防費の強制削減が加わり、いよいよ、在日米軍が沖縄からいなくなる、その初めの一歩が始まりそうだ。

March 30, 2013

『サバイビング・プログレス - 進歩の罠』

 渋谷のアップリンクでドキュメンタリー映画『サバイビング・プログレス - 進歩の罠』を見てきた。いわゆる「成長の限界」を現代文明に警告する映画である。

 1980年代にNHK番組で『21世紀は警告する』という番組があった。このまま、この文明が今のままで進んでいくと様々なところで破局的な危機になることを述べた番組だった。当時、高校生だった自分にとって、この番組は衝撃的だった。もう21世紀はこの世界はダメだなと思っていた。

 そのダメだなと思っていた21世紀になってもう10年以上がたった。

 『21世紀は警告する』が放送された1980年代、さらに言えば1970年代の頃からこうした「成長の限界」論はあった。あったというわけで、つまり40年間同じようなことを言われ続けていたが、未だに人類は地球全体を「ひとつ」の「有限なワールド」と思うようになっていない。世界は、むしろアメリカも含めて自国のことで手一杯になっている。今、どの国も経済問題に直面している。世界のどの国の指導者たちも、自国の国民がどんどんものを買うようにするためにはどうしたいいかと悩んでいる。消費者の購買意欲が高まらなければ、この大不況からの脱却はないと言われている。その中で、この映画は消費を制限せよと言っているのだ。

 もうひとつ、最大の問題は中国の経済成長だ。20世紀の後半あたりから、将来、中国が経済成長し、アメリカや日本のような暮らしをするようになったら地球資源は枯渇すると言われていたが、それが本当になる時代になってしまった。この映画でも、中国の映像が数多く出て来る。

 中国の観光ツアー業者の人が、映画の中のインタビューで出てくる。お金持ち相手に、車を何十台も連ねて大陸奥地への観光ツアーを行うビジネスのようだ。ものすごい山岳の景観の中とかを車が延々と続いて走っていくのだ。風光明媚な場所で停まり、ツアー客たちは記念撮影をばしゃばしゃと撮っている。ツアー業者の人は先頭車を運転し、カーナビを完備した車の中で、時には携帯電話で指示を出す。携帯電話かけまくりである。いわば、自動車、カーナビ、携帯電話というテクノロジーを使いまくり観光案内ビジネスをやっているわけだ。子供頃は貧乏だったが、今では豊かに暮らしていると言う。こんな暮らしができるようになるとは思っていなかったと言う。

 映画のシーンは、この人の実家に移る。この人の父親は大学の教授だそうだ。このお父さんが、今の中国は経済発展はしているが環境破壊がひどいということを言うと、息子はそんなことを言うと不機嫌になると言う。この息子は、自分たちがやっている「豊かな暮らしになること」が、その一方では環境汚染を招いているという事実を知ってはいるのだろうが、考えたくはないのだろう。このシーンは印象深かった。ようするに、今の中国の13億とも14億とも言われる人々は、みんなそうなのだろうと思う。ある意味において、この映画で述べられているその当事者のひとつは、紛れもなく中国なのであるが、仮にこの映画を中国で上映したとして、見る人がいるのか、というところにこの問題の深さがある。

 豊かな暮らしになることが、なぜ悪いと言われるのかというと、別に誰もあんたが豊かな暮らしになることが悪いと言っているわけではないのだが、みんながみんな、豊かな暮らしをやろうとすると、結果的に有限な地球資源を食いつぶすことになる、というわけで、じゃあ、あんた、地球資源がなくなってみんな滅んでもいいつーのか、というわけで、話は堂々めぐりになる。

 先進国の経済に規制をかけることは、まず不可能だろう。資本主義は規制、規則、制限を嫌う。自由経済のイデオロギーは強い。

 映画では、生物工学による食料の人工製造や劣悪環境でも生きていけるように人間がなることや、他の惑星を植民地にすることが挙げられていたが、そんなことはこれまで何度も繰り返してきたことと同じだ。解決にはならない。映画もこれらが解決策だみたいなことはいっていない。結論はなく、映画は終わる。


March 29, 2013

NHKスペシャル『ロボット革命 人間を超えられるか』を見て

 先日の日曜日の17日に見たNHKスペシャル『ロボット革命 人間を超えられるか』は興味深かった。というのも、つい最近『機械との競争』(日経BP社)という本を読んだばかりだったからだ。エリク・ブリニョルフソンというMITのスローンスクール経済学教授が書いたこの本は、失業者が減らない原因は技術の進歩が進み、人の労働が機械が行うようになり、結果的に人々の就業機会を奪い失業をもたらしているのだと述べている。

 雇用の低下は、人々の購買力を下げる。では、一部の高給取りがじゃんじゃん消費をすればそれでいいではないかと思うかもしれないが、数少ない者たちが高額の消費をするよりも、数多くの人々がそれなりの消費をしていくことの方が経済全体の規模が広がっていく。一部の高給取りよりも、社会の大多数を占める中間大衆層がどんどん消費してくれた方がいい。昭和の高成長時代の日本はそうだった。

 しかしながら、今の日本はそうはなっていない。ならないところに問題がある。

 なぜ消費が増えないのかといえば、賃金が上がらないということと、非雇用者にとっての雇用機会が少ないからだ。雇用機会が少ないということについて言えば、むしろある。ありすぎる程ある。コンビニとかいった接客業や、福祉や介護の現場の現場では慢性的な人手不足になっている。では、なぜ人々はそうした職業にシフトしていかないのか。それは賃金が安くて、労働環境が良いとは言えないからだ。では、そうした職業の賃金を上げ、労働環境を改善すればいいではないかということになるが、そうはカンタンにはいかず、ここで社会全体的に賃金が上がらないという壁にぶつかる。

 基本的に、ITを使った組織改革や業務改善は人が増えるようにならない。むしろ逆にある作業についている人を減らし、その人を他の仕事に向けることができるようにする。他の仕事があれば良いが、なかった場合、だからと言って日本の会社はその人を辞めさせることはできない。とりあえず他の仕事をしてもらうということで、会社としては今の雇っている正規社員の職は守り、かつ大量の新規雇用は行わないということになる。かくて、正規社員は職はあるが賃金は増えることはない。新規雇用の枠は広がらない。

 今の日本では、新規ビジネスが生まれていくことと、人々の労働の移り変わりができなくては経済成長はない。アベノミクスとやらで、円安にして株価を上げればそれで良いというものではない。

 その意味で、NHKスペシャル『ロボット革命 人間を超えられるか』では、福島原発事故などといった大規模災害に対応できるヒューマノイド型ロボットが数多く出ていたが、そうしたロボットよりも工場の工作ラインでラジオ体操するロボットが一番印象深かった。

 原発事故対応については、事故が起こった今から、その修理をするロボットをこれから開発するなど話にならんなと思った。現状では、事故対応ロボットは使い物にならない。まさに、泥縄だ。事故対応には30年から40年かかるので、この先30年でも40年でもかけて開発して下さいとしか言いようがない。

 むしろ、注目すべきは工業ロボットだった。これほど進歩しているのかと思った。ファーストフード店で販売カウンターに立って客の相手をするロボットももうまもなく出て来るという。まさに『機械との競争』の世界がここにある。番組の中のでロボット学者たちは、ノーテンキな未来を語っていたが、急速な技術の進歩が社会に与える影響について考えなくてはならない。もちろん、それはロボット工学者の仕事ではないが。

 番組で出ていたある企業の工場に導入された工業ロボットは、まだ実験的に数台導入しているだけであったが、すぐにでもひとつのラインを全部ロボットでやることになるだろう。もちろん、ロボットを管理する人とメンテナンス要員は必要だ。そしてうまくいくようだったら、工場内でロボット化できるものは全部ロボットにするだろう。かくて、工場から人はほとんどいなくなり、ロボットが24時間延々と作業を行っていく光景がみられるようになるだろう。当然、すぐにそうなる。

 そうした時代がもうやってきている。

March 25, 2013

米軍を日本防護に引きずり込む

 産経の[防衛オフレコ放談]「米ミサイル防衛の「最高機密」 日本守る気ゼロ」は大変おもしろかった。未読の方々はぜひとも読んでもらいたい。

「迎撃オペレーションに限っていえば、米海軍が米領土の防護しか眼中になかったと指摘せざるを得ない。これには米海軍との「一体感」に自信を示してきた海自には落胆する幹部も多かったという。」

という箇所には大笑いした。

 そして、まったくもって当然のことが書いてある。

「ただ、海自内には「米軍の非」ととらえる雰囲気はない。「自分の国は自分で守る」のは自明の理だからだ。弾道ミサイルで自国が攻撃される危険性が高まれば、持てる能力を自国向けにあてるのは当然だ。」

 産経新聞が述べているように、実際のところ、アメリカは日本守る気ゼロどころか、そもそも日本を守る気はない。自衛隊にあるのは米国への不信感である。では、アメリカ側はどうかというと、こちらも自衛隊への不信というか、そもそも日本を頼むに値する国とは思っていない。原発事故対応ひとつをとってみても、この国が危機的状況にまともに対処できる国ではないことは、国際社会、少なくともアメリカはわかりすぎるほどよくわかっている。

 だからこそ有事の際に必要なことは、この産経の記事にあるように「米軍を日本防護に引きずり込む」ことが必要なのだ。日米安保を日本の観点に立って考え直す必要がある。

 考えるべきことは、日本が生き残るために米軍をどう利用するのかということであり、自由と民主主義を守るとか、日米は共通の価値観で結ばれているとか、強固なる日米同盟とかいった題目を掲げていさえすればいいわけではない。何度も言うが、米軍を日本防護に引きずり込む必要がある、だからこそ、日米は密接でなくてはならない。これが日本にとっての日米関係であり日米安保なのである。

March 24, 2013

米国は日本の防衛負担ができなくなった

 3月23日の産経新聞でのワシントン在住の古森義久氏の記事「緯度経度」は大変興味深かった。ワシントンの大手シンクタンクのアメリカン・エンタープライズ政策研究所の日本部長マイケル・オースリン氏がある下院の共和党議員から聞いた話しとして古森氏にこう語ったという。

「米国のこの財政緊縮の時代に他国の防衛を60年以上も引き受けるというのは無理だから、日本は自国の防衛には自国で責任を持つべきだ、というのだ」

 古森氏は日米安保の強化論者であるオースリン氏からこのような言葉を聞くことを驚いていたと書いている。そして、そういえばと古森氏は、最近、ニューヨークタイムズにあった寄稿論文「カムホーム、アメリカ」のことを思い出したという。

 私もニューヨーク・タイムズのサイトでこの寄稿論文を読んでみた。

 イラクとアフガンから米軍を撤退をするのならば、いっそのことドイツと日本からも撤退したらどうだろうかと、サンディエゴ州立大学の歴史学者ホフマン教授は述べている。

 ホフマン教授が述べていることをカンタンに言うとこうだ。第二次世界大戦以後、トルーマン・ドクトリンによりアメリカは西側諸国を支援し、世界の警察官としてパックス・アメリカーナの世界を作ってきた。しかしながら、冷戦は終わり、トルーマン・ドクトリンも終わりを告げた。しかるに、なぜドイツや日本に米軍が今でも駐留しているのか。アメリカがドイツと日本に必要以上に関わっているから、ドイツも日本も自分で自分の役割を果たそうとしてないのだ。アメリカが手を引けば、彼らは自分で立ち上がっていくだろう。

 なぜ米軍はドイツや日本から撤退するのか。その理由は言うまでもなく予算の強制削減によるものである。アメリカにはもはや日本の防衛を負担するゆとりはない。

 そして、古森氏はこう書いている。

「中国の沖縄県・尖閣諸島への軍事威嚇をともなう攻撃や北朝鮮の核とミサイルの脅威の切迫で日本側でも国防の意識は高まっているようにみえる。しかし、主体はあくまでも日米同盟、つまり米国の軍事力への依存だろう。それが戦後の日本のあり方そのものなのだ。」

 この「つまり米国の軍事力への依存だろう。それが戦後の日本のあり方そのものなのだ」の認識にそもそもの間違いがある。冷戦は終わり、トルーマン・ドクトリンは終わった。アメリカは財政問題が重くのし掛かり、軍事予算は強制的に削減されるようになった。古森氏が「「つまり米国の軍事力への依存だろう。それが戦後の日本のあり方そのものなのだ」といくら述べても、当のアメリカには日本から依存される余裕はもうないのだ。

 だからこそ、アメリカ側が日本の防衛負担を見直そうとしているように、日本側も戦後レジームそのものの従来の日米同盟からの脱却が必要なのである。

 古森氏は最後にヘリテージ財団のアジア専門家ブルース・クリングナー氏の言葉で締めくくっている。オバマ政権の「アジアへの旋回」についてクリングナー氏はこう述べたという。「このアジア旋回策は言葉だけで、米軍の実際の強化措置はなにも取られていない」と。

 つまり、米軍は日米同盟の強化をしようという意思もなければ、仮にやりたいとしてもそんなカネはどこにもないということなのだ。これをもっても、安倍政権で日米同盟の強化されたとか言っている人々はオメデタイ人々であることがよくわかるだろう。

アメリカン・エンタープライズ政策研究所やヘリテージ財団ですら、こうしたことを言い始めたということに注目したい。こうした観点から見れば、アーミテージらが言っているようなことはタワゴトであることがよくわかるだろう。

 古森氏は「日本の防衛をもう負担するなという声が出てきたことは知っておくべきであろう」と書いているが、こんなことは今に始まったことはではなく、アメリカ国内ではずいぶん前から言われてきている。対米従属筆頭の新聞である産経新聞の、対米従属筆頭の記者である古森義久氏ですら、ようやくこのことを無視できなくなったのだろう。

March 23, 2013

3.11をまだ考えている

 3.11をまだ考えている。あの大震災について、この2年間で改めてなにがどうなったのかがわかってきたということと、結局、なにも変わっていないではないかということをつくづく感じるようになってきた。メルトダウンした放射性物質の回収と廃炉が終わるまで、この先40年はかかると言われている。原発事故は今なお続いている。

 ネットに2011年3月11日の夜から12日の朝にかけてのNHKの番組の動画がある。私はこの日は神奈川県の勤め先から自宅に歩いて帰った。深夜に自宅にようやくたどり着き、そのまま寝たので、この日のテレビを見ていない。というわけで、先日、この日のNHKのテレビ報道を初めて見た。その動画を見ながら、この時、こんなことが起きていたのかということと、初めて見る被災の光景を見ていると、まるで「この日」に戻ったかのような意識になった。

 前回書いた『遺体 震災、津波の果てに』を原作にした映画『遺体 明日への十日間』を新宿で見てきた。この映画を見ることには、最初戸惑いがあった。本の強烈の内容が、映画になって果たしてどこまで伝えることができるのだろうか、よくあるお涙ちょうだいの映画になるのではないかという懸念があった。さらに言えば、自分たちのような津波の体験者ではない者たちが、この映画を見て被災地の人々の想いを「わかる」ことができるのだろうかという思いがあった。

 映画館の中は満席だった。東京・新宿で東京人たちが岩手県釜石市に起きた出来事を映画で見るということは、どういうことなのかと思いながら映画を見た。映画そのものついては、「映画」として論じるものなのかどうかわからない。ただ映画が始まると、映画の中に引き込まれていったことは確かだ。この映画は、原作本の持つ「死体を目の前にするということはどういうことなのか」ということをよく表していたと思う。

 映画は釜石市の遺体安置所の話であるが、この震災はこの「遺体」が2万人分発生した震災だったのだということを考えると、この出来事は途方もない大きな出来事だったことをまざまざと感じる。この世はなんと不条理で理不尽なものなのか。

 我々は、というか自分は、震災も津波も、さらには原発事故を体験したわけでもなく、東京でのうのうと暮らしている自分は、東日本大震災の被害を「わかる」ことができるのだろうかという問いかけが自分にはある。そうした体験を持たない自分であるからこそ、「本を読む」「映画を見る」「ネットから情報を得る」「考える」等々のことを行っていくことで「知っていく」しかない。

March 11, 2013

2年目の3.11

 去年の1年目の今日は台湾にいたので実感もなにもなかったが、今年の今日はこうして東京の自宅にいて、2年前の出来事のことをボンヤリと思い出している。もう2年たったのか。

 東京都民である私には3.11の震災とか津波とかの体験はない。東京都民の大多数にとっては、この日は大地震や津波があった日ではなくバスや電車が止まった日になるのだろう。このことについては、これはこれで考えてみたい。

 しかしながら、なによりも考えるべきことは東北にあれほどの大きな地震と津波とそして原発事故が起きたことだ。そして、さらに考えるべきことは、2万人もの人々が亡くなったということだ。

 あの日以後、テレビやネットの映像で津波の映像を数多く見てきた。船が、車が、家が濁流に流されていく映像を何度も見てきた。救助された人の体験談を聞いてきた。ただ、ここで出てこないものがあった。それは人の死であり、物体としての遺体だ。

 昨日、石井光太著『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)という本を読み始めた。神保町のタリーズでアマゾンでKindle版を購入してKindleで読み始めたのだが、そのあまりに生々しい内容のためがどうかわからないが、気分が滅入ってきて、腹も痛くなり、窓の外を見ると風もかなり強いので、これは家に帰るかと、早々に自宅へ帰った。帰ってまた読み始めたが、読んでいて辛かった。辛かったが、これは読まなくてはならないと思った。昨日、三分の二まで読み、今日残りを読み終わった。

 この本を読みながら、色々考える。死者と生者を分けたものはなんだったのだろうか。この日、釜石にいたということ、津波巻き込まれる場所にいたということ、それだけで人生が終わってしまった、ということをどう受け止めればいいのだろうか。

 印象に残ったシーンがある。震災のあった日の夜、消防団員の人々が、生き残った人がいないかと夜の海辺を歩いていると、遠くから「助けて」という女性の声が聞こえた。海に浮いた浮遊物の上に乗っている、泳げないし暗くて何も見えないという。消防団員の一人が、自分が泳いで助けに行くと言うが、消防団のリーダーの人がそれを引き止める。「今行ったら、お前が死ぬぞ。どうやっても、彼女を助けてやることが出来ない」と。彼は助けを求める女性に声をかけるが、やがて女性の声は海の闇の中で聞こえなくなったという。

 本書のあとがきにこうある。

「震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。」

 復興ということが、もし震災前の状態に戻ることであるのならば、それはできない。戻ることはできない。亡くなった者たちは戻らない。復興よりも、その前にこの2万人の死を受け止め、受け入れることなく、次のステップである復興はできない。

 この国は3.11があっても、2万人の死者があっても、変わることはなかった。そして、被災地以外の場所、例えば東京はこの震災を忘れようとしている。もとより東京は、10万人が死んだ関東大震災も東京大空襲も忘れている。同様に、3.11も忘れられるだろう。この「忘れる」ということはやむを得ないことだ。しかしながら、変わることがなかったのは、この震災で亡くなった人々を、その遺体を、見るということをしてこなかったからだ。「見る」というのは、実際に目で見る、体験するだけではなく、想像力で、意識で「見る」ことができる。この社会は、その「見る」ということをしていない。

 だからこそ、我々は自分が体験しないこと、直面したわけではない物事を、こうした本を読み、想像力で「体験し」「直面する」ことを行っていく以外に方法はない。

March 10, 2013

朴槿恵大統領について

 韓国の去年の大統領選挙は世代闘争だったとも言われている。保守のセヌリ党大統領候補の朴槿惠(パク・クネ)は財閥、中高年、高齢者層からの支持があったのに対して、民主統合党の文在寅(ムン・ジェイン)は中小企業や若者層からの支持があったという。今、韓国では既得権益を持った層とこれから社会で働いていく若者たちの間で利害の不一致がある。

 今の韓国では日本と同様に社会の旧態化が進み、若者の就業機会の減少が問題になっている。韓国では大学に入学するのは、日本より競争が激烈である。その激烈な受験競争を勝ち残って大学を卒業しても就職難になっている。この背景には様々なことが言えるが、ひとつは大学生の大企業志向があることが挙げられるだろう。韓国の大学生には、サムスン電子や現代自動車といったに財閥系・大企業に就職できなくては勝ち組になれない意識がある。事実、韓国経済は財閥系・大企業が主体であり、そのピラミッド的構造が強くある。これが韓国経済の強さでもあり、この強さをもって日本との競争に打ち勝ってきたとも言える。しかし、大学生の大企業志向は、そうした世の中であることの反映であり、当然のことながら、そうした大企業に就職できない、しない若者の方が多い。そうした若者が実力を発揮できる場がない。

 朴大統領は就任影説の中で「第2の漢江(ハンガン)の奇跡」を成し遂げると述べた。しかし、これはおかしなことだ。父親の朴正煕大統領が行った財閥を中心とした輸出志向型工業化政策であり、独裁政権下の政府主導の経済政策だ。「漢江の奇跡」が今日の韓国の経済を作ったとも言っていい。だが、今の韓国がこの方法をやめて、新しい経済政策に転換しなくてはならない時期にきている。この「漢江の奇跡」こそ、もうやめるべきことであり、またやろうと思っても、もはやこんなことができる時代ではない。今の時代は、お金も人も物も情報も国境を越えて自由に流れている。韓国経済が新しいステージに進むためにも、「漢江の奇跡」という考え方を変えなくてはならい。

 ところが、朴大統領はこれをやると言っている。これは朴大統領が当選した時からわかっていたことだ。従来の旧体制が、自分たちを守るために朴大統領を選んだのだ。もちろん、朴大統領は父親の「漢江の奇跡」と同じことをやろうというわけではないだろう。新しい試みも数多く行うであろう。だか、「第2の漢江の奇跡」とわざわざ言うところに、旧体制を守り、経済を変革する意思はないことがわかる。韓国には中国という広大な市場と膨大な労働力がある。中国を頼れば、今の体制を維持していくことができるかもしれない。あるいは「第2の漢江の奇跡」はできるのかもしれない。しかし、それが韓国にとって良いこととは私は思わない。

 もう1点、朴大統領についてわからないことは、「3・1独立運動」の94周年記念式典で演説での「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変えることはできない」という文言だ。人類の歴史の中で、ヨーロッパだろうとアフリカだろうと中近東だろうとユーラシアだろういと南北アメリカだろうと、どこでも陰惨な出来事は無数にある。では、例えばドイツとフランスはどうせよというのか。アメリカとイギリスは。イギリスとインドは。こんなことを言っていたら、なにもできない。まともな人は、こんなことは言わない。もはや話にならない低レベルの見解としかいいようがない。さらに言えば、もしこのセリフを言いたいのならば、日本には言って、なぜ中国には言わないのか。

 このままでは韓国は、日本の「失われた20年」のようになる。だからこそ、今回の大統領選挙はその変革の始まりの一歩になるはずだった。しかしながら、結果は旧体制の勝利であり、このままでは韓国の旧態依然とした経済構造は変わらない。

 日本を追い抜き、世界に大きく躍進した今こそ、韓国は脱工業化社会へと進んでいかなくてはならない。製造業以上に、ITや金融、科学技術、文化、映画・音楽等々のコンテンツ産業が国の経済の主体になっていかなくてはならない。新しいビジョンを掲げ、国の産業構造を変える政治のリーダーシップが必要だ。

 韓国はこれからの10年で、アメリカから離れ、日本を見下し、中国に従うだけのただの小国になるか、韓半島に独立自尊して立国し、アメリカ、中国、日本、その他どこの国とも対等な関係を持つ脱工業化したクオリティ国家になるかどうかが決まるだろう。それが「第2の漢江の奇跡」とか「1000年の歴史が流れても変わらない」とか言った低レベルなことを言っている大統領で大丈夫なのだろうか。


March 03, 2013

韓国は中国を選択する

 先日、『中国に立ち向かう日本、つき従う韓国』(鈴置高史著日経BP社)を読んだ。この人の本は『朝鮮半島201Z年』が出た時に読んでいるが、この時はなるほどこうしたこと(韓国は米韓同盟をやめて中国側につく)はありえるかもしれないなと思った程度だったが、それからわずか2年後の今、この『中国に立ち向かう日本、つき従う韓国』を読むと、これは極めて現実感のある話になったと強く実感した。以下、本書を踏まえ韓国について考えてみたい。

 去年の韓国で大統領選挙に当選した槿惠氏が最初に会った外国の大使は一番目が駐韓米国大使であり、その次は中国大使であったという。これまでの通例としては、二番目は日本大使であった。ところが、今回、日本大使は中国大使の次の三番目だった。もはや、韓国では日本より中国の方が重要な国になった。

 なぜか。理由は二つある。

 一つ目は、当然のことながら、韓国での日本の存在意義は著しく小さくなり、中国の影響力が著しく大きくなったからである。東アジアでの日本の地位の没落はここ数年で(本当にここ数年で!)大きくなった。日本経済の国際競争力は弱くなり、中国・韓国との領土問題での日本政府の対応を見て「日本はなにもできない」と(中国・韓国も含めた)東アジア諸国は思うようになった。竹島や尖閣諸島についての韓国や中国の態度を見て、日本人の多くが「日本は中国や韓国からなめされている」と感じているが、。しかし、「なめられている」というのは、本当はこっちは強い力があるのに、相手から弱いヤツだと思われているという意味があると思うが、実際に韓国や中国からすれば日本は弱くなっているので、日本を弱いヤツと見るのは当然というか当たり前のことになっている。それほど、外国での日本の位置は低くなっている。この事実が、日本の中でごく普通に暮らしているとわからない。

 二つ目の理由は、アメリカの衰退である。アメリカは北朝鮮に対して、やっていることは経済封鎖ぐらいで実質的に有効な対応をしていない。日本の領土問題にも直接的な介入はせず、距離を持って傍観しているだけだ。これは、傍観せざる得ないからだ。中近東と東アジアの両方にアメリカの意向を徹底させるほど、財政問題を抱えた今のアメリカに力はない。オバマのいわゆる「アジア重視」演説があるが、今月から始まる強制的予算削減で真っ先に削られるのが東アジアの兵力であるので、いわばはったりをかましたようなものだ。

 実際のところ、オバマ政権、というか今のアメリカは軍事的にアジアを重視していない。冷戦以後のアメリカがアジアに関心があるのは経済であり、北朝鮮の核武装を阻止することでもないし、急速に膨張する中国の軍事力に正面から対抗することではない。そんな余裕がもう今のアメリカにはない。オバマ外交はなにもしないオバマ政権によりアメリカはますますダメになったとよく言われるが、これはオバマ外交、あるいは民主党政権が悪いのでない。仮にに共和党政権になっても同じだ。アメリカそのものが弱体化しているのである。アメリカの望みはミャンマーに民主主義国家が誕生することと、北朝鮮を懐柔し、中国支配から脱却させることだろう。あとは、フィリピン、ベトナム、マレーシア、そして日本の近海に巡視船を派遣することぐらいである。それで、なんとかアメリカの影響力を維持しようとしている。

 アメリカの衰退を最も強く感じているのは韓国であろう。韓国は小国だ。地続きで北朝鮮があり、中国がある。中国の台頭をまさに肌で感じるように実感せざる得ない場所にいる。韓国の仮想敵国は北朝鮮である。その北朝鮮に影響力を行使できる国がアメリカではなく中国になりつつある今、アメリカ側につくか、中国側につくかの選択を韓国は迫られている。そして、韓国の選択は中国へと向かいつつある。もちろん、すぐにはそうならない。当面は、アメリカと中国の双方にいい顔をする二股外交になる。二股外交でありつつ、じわじわと中国側へ組み込まれていくだろう。

 アメリカの意向は米日韓による中国の軍事力への牽制である。現状の日本はその路線に従っている。しかしながら、韓国はそうはいかない。米日韓の三国による軍事関係の強化を妨げているのは中国であり、中国の意向がそうである以上、韓国は日米と密接な関係を結ぶわけにはいかない。

 特に大きく変化したのが日本との関係である。今、韓国は実行支配をしている竹島のことで日本を刺激したり、日本大使館の前に従軍慰安婦の像を建てて、ことさら対日関係を悪化させているのは、これまで経済で日本を追い抜いた解放感もあるであろうが、中国へのアピールでもある。韓国に対して日本が圧倒的に強かった時代には、そんなことをする必要はなかった。しかし、今や日本は弱くなった。中国は韓国に反日であることを求め、韓国は反日であることで中国側につくことを中国に示している。従って、今後も韓国の反日路線は変わらない。

 強調しておきたいのは、韓国は好きでそうしているわけではないということだ。遠い昔、朝鮮国がこの世にできてから、否応なく朝鮮は大国中国からの侵略と蹂躙と支配を受けてきた。大日本帝国による朝鮮統治は数十年であるが、中国は千年にわたって朝鮮の宗主国であり続けてきた。そして2010年代の今、韓国経済は日本以上に中国に依存している。軍事力についてはもはや話にならない。領土紛争については、日中間の尖閣諸島など子供のケンカと思える程の激しい衝突が韓国と中国の間では起きており、常に中国の横暴に押しまくられ、泣き寝入りするしかない出来事がいくつも起きているという。それが韓国の現実なのである。

 日本の親米は媚米とも呼ばれるが、日本が媚米である以上に韓国は媚中にならざるを得ない。日韓併合して日本がいかに朝鮮の発展につくしたかとか、韓国の今日の発展は日本のおかげである、しかるに韓国は反日をやっているのはなにごとかのような論調が多いが、そんな韓国批判は時代遅れも甚だしい。今の韓国がどうであるかだ。今、韓国は中国のくびきの中に押し込まれようとされている。日本が中国に対して依然として上位であり、韓国に対して影響力を持つ国であり続けていれば、韓国もまた中国に従うことはなかった。

 ところが、韓国は、反日であっても国の経済は成り立つようになった。それほど、ここ数年で韓国経済における日本と中国の位置が急激に逆転した。東アジアにおける中国の台頭の日本の没落は、中国経済そのものが大きくなったというより、本来、日本経済が得るべき利益を中国が得るようになったとも言えるだろう。ここでもし日本が中国経済のターゲットとは違うポイントに移り、そこで韓国でも影響力を持つようになれば、日本は依然として韓国にとって重要な国であり続けた。しかし、そうした産業構造の転換をすることなく日本経済は没落の一途を辿っている。

 近い将来、韓国が中国に完全に組み込まれた時、次の標的は日本になるのではないかと思う。その時、アメリカは今よりも衰退しているだろう。中国は日米同盟破棄を求めてくるかもしれない。日本企業は中国から離れ、東南アジアと関係を結ぶという意見もあるが、日本企業が世界のどこで何をやろうと、結局、中国が立ちふさがってくるだろう。

 アメリカが衰退していく中、巨大になった中国にどう対応すべきなのか。韓国が今直面していることはこのことであり、韓国は中国に従っていくことを選択した。次は日本の番だ。日本と韓国(朝鮮)は歴史が違う。日本は韓国のように中国に従うことはしない。そもそも、できない。しかし、中国は様々な圧力をかけてくる。頼ってきた強いアメリカはもはやいない。ではどうしたらいいのか。日本が考えるべきことはこのことであり、密接な日米同盟を持つとか、米日韓の共同で中国に対抗するとか言っていてもなんの解決にもならない。

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