3.11をまだ考えている
3.11をまだ考えている。あの大震災について、この2年間で改めてなにがどうなったのかがわかってきたということと、結局、なにも変わっていないではないかということをつくづく感じるようになってきた。メルトダウンした放射性物質の回収と廃炉が終わるまで、この先40年はかかると言われている。原発事故は今なお続いている。
ネットに2011年3月11日の夜から12日の朝にかけてのNHKの番組の動画がある。私はこの日は神奈川県の勤め先から自宅に歩いて帰った。深夜に自宅にようやくたどり着き、そのまま寝たので、この日のテレビを見ていない。というわけで、先日、この日のNHKのテレビ報道を初めて見た。その動画を見ながら、この時、こんなことが起きていたのかということと、初めて見る被災の光景を見ていると、まるで「この日」に戻ったかのような意識になった。
前回書いた『遺体 震災、津波の果てに』を原作にした映画『遺体 明日への十日間』を新宿で見てきた。この映画を見ることには、最初戸惑いがあった。本の強烈の内容が、映画になって果たしてどこまで伝えることができるのだろうか、よくあるお涙ちょうだいの映画になるのではないかという懸念があった。さらに言えば、自分たちのような津波の体験者ではない者たちが、この映画を見て被災地の人々の想いを「わかる」ことができるのだろうかという思いがあった。
映画館の中は満席だった。東京・新宿で東京人たちが岩手県釜石市に起きた出来事を映画で見るということは、どういうことなのかと思いながら映画を見た。映画そのものついては、「映画」として論じるものなのかどうかわからない。ただ映画が始まると、映画の中に引き込まれていったことは確かだ。この映画は、原作本の持つ「死体を目の前にするということはどういうことなのか」ということをよく表していたと思う。
映画は釜石市の遺体安置所の話であるが、この震災はこの「遺体」が2万人分発生した震災だったのだということを考えると、この出来事は途方もない大きな出来事だったことをまざまざと感じる。この世はなんと不条理で理不尽なものなのか。
我々は、というか自分は、震災も津波も、さらには原発事故を体験したわけでもなく、東京でのうのうと暮らしている自分は、東日本大震災の被害を「わかる」ことができるのだろうかという問いかけが自分にはある。そうした体験を持たない自分であるからこそ、「本を読む」「映画を見る」「ネットから情報を得る」「考える」等々のことを行っていくことで「知っていく」しかない。
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