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May 2012

May 29, 2012

「未解決事件 オウム真理教 17年目の真実」

 NHKオンデマンドで「未解決事件 オウム真理教 17年目の真実」を見た。

 あの事件はなんであったのかというより、この番組をもってあの事件を問うということにものすごい違和感を感じた。この番組はオウムを宗教テロ団体としてしか扱わない。なぜならば、この番組は当然のことながら、未解決犯罪事件としての地下鉄サリン事件の番組だからだ。

 その一方で、例えばオウム真理教の信者を扱ったドキュメンタリー映画の『A』『A2』には犯罪性は出てこない。なぜならば、オウム真理教団は犯罪とはまったく関係ない信者たちの集まりでもあったからだ。

 この「犯罪とはまったく関係ない信者たち」の一部が一連の犯罪行為を犯したのは、番組では教祖の性格や思考にその原因があった、信者はそうした教祖にだまされていた、でオワリというのはあまりにも短絡ではないかと思う。

 地下鉄サリン事件は、宗教による無差別テロ事件だった。NHKの番組は、未解決事件として、なぜこんな事件が起きたのかを問うが、古来、人間は宗教の名のもとで膨大な数の殺戮を行ってきた。今でも世界の各地で行われている。そのことはなぜ問わないのかと思う。

 宗教テロ組織として、アルカーイダ、ハマス、東トルキスタンイスラム運動、等々、数多くある。なぜ宗教団体がテロを行うのか。あるいは、宗教と精神病理の違いはなんなのか、精神医学から見てオウム真理教はどうだったのか。このように、いくつかの観点が挙げられると思うのだが、この番組ではそうしたことまで範囲を広げることはなかった。

 仮にこの番組が言うように、教祖の心理にその原因があったのならば、ではなぜこの者がそうした心性を持つに至ったのか。この教団がこうした反社会的犯罪を犯したのは事実だとして、では社会の側はこの教団に対してどうであったのか、ということはこの番組は問わない。チベット仏教の観点から、この教団の教義の何がどう間違っているのか、ということをこの番組は問わない。

 何度も言うが、なぜならば、この番組は、未解決犯罪事件としての地下鉄サリン事件の番組だからだ。それ以上、それ以下でもない。第三部の「オウムVS警察 知られざる攻防」の方が見応えがあった。

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May 18, 2012

『製造業が日本を滅ぼす』を読む

 野口先生の『経済危機のルーツ』に続き、『製造業が日本を滅ぼす』(ダイヤモンド社)を読んだ。

 野口先生の本は、なんかどうも自分の感覚にしっくりこない違和感があってこれまで読むことがなかった。野口先生は超整理法で有名な先生である。超整理法については、どんなものか読んでみたが、なにがどうすごいのかさっぱりわからなかった。野口先生のやり方は、自分には合わないのだろう。

 というわけで、これまで読むことがなかった野口先生の本であるが、『経済危機のルーツ』と『製造業が日本を滅ぼす』の2冊は、その自分が馴染まない野口先生の本の中で、この2冊については、初めて自分から読んでみようかなと思い、そして初めて読み通した2冊の本であった(全然、自慢にはならないんだけど)。

 なぜ、この2冊の本を選んだのか。この2冊の本は関連しているからだ。『経済危機のルーツ』は、1970年代以後の世界の政治と経済を歴史的なスパンで捉えて、なぜこのような「現代」になったのかを論じている。現在の変化の背後には歴史がある。「これまで」を理解しなくては「現在」がわからず、また「これから」もわからない。だからこそ、マクロなタイムスパンで見る必要がある。

 では、そうだとして第二次世界大戦以後の経済の変遷を俯瞰しようとして、どんな本を読めばいいのか。かなりの数の本がある。どれにすればいいのか。ここでコレだ!と決めたのが野口先生の『経済危機のルーツ』であった。そして、なるほどそうか、そうだったのかとクリアにわかった。その理解を踏まえて「現在」について、さらにもう一歩踏み込んだのが『製造業が日本を滅ぼす』である。

 製造業が日本を滅ぼす、などと言うと、製造業関係の方々はムカッぱらが立つだろう。しかし、これは別に製造業そのものが国を滅ぼすと言っているわけではなくて、これまでの日本の製造業のあり方や製造業についての国の政策の間違いが、国を滅ぼすと野口先生は言っているのである。

 これまでの製造業は、日本国内に会社があり、そこで設計・デザインを作成し、その設計・デザインに基づいて、国内にある工場で生産を行い、そして完成した製品を外国へ売る、というスタイルである。

 もちろん、大手メーカーの工場だけでは製造できない部品は数多くある。そうした部品の製造はそのメーカーの下請け企業にまわされ、その下請け企業が自社ではできない場合はさらに孫請け企業へと回される。そうした系列、つまり垂直統合の強さ、細やかさが日本の製造業のメリットだった。

 このメリットによって、戦後日本は工業大国アメリカを追い抜き、経済大国へと躍進したのである。1970年代から1980年代にかけて、日本型経営万々歳の時代になり、世界の国々は日本企業の強さに注目していた。

 ところが、ここに中国・韓国という競争相手が出現する。大ざっぱに言うと、日本に遅れた世界の製造業は、全世界を覆う情報通信網とIT技術の発達の波に乗り、大きく変革していった。

 ここで1990年代に誕生した製造業の新しいスタイルが「EMS」(Electronics Manufacturing Service)である。EMSには、設計は発注元が行って、生産のみを委託する「OEM」や設計も含めて委託する「ODM」などがある。日本では系列会社がやっていたことを、外国では「系列」という枠で固定することなく、広く世界に相手を求め、また受注側もそれに特化したメーカーが現れたというわけである。

 生産機械の進歩により、熟練した人の技術がなくても、機械による製造が可能になった現在、必要なのは、受注品ができる生産機械があるかどうかであり、あとは価格の話になる。であるのならば、生産機械があって、安い人件費の中国が有利に立ちことは言うまでもない。日本のメーカーには系列がある。これまで系列があることが、日本のメーカーのメリットであったが、このメリットが逆に足枷になった。

 メーカーの系列とは、イコール、ニッポンの雇用でもあった。系列を捨てて、中国のメーカ-と提携することは、ニッポンの雇用が失われることであった。しかし、そういうわけにもいかない。なに、日本人の技術力は優秀だ。技術力で勝負だ。なんだかんだ言っても、モノ作りが大切だ、モノ作りの精神を失ってはいけない。

 で、あっという間に20年たってしまったのが、「失われた20年」だった。そして、中国に抜かれ、韓国に抜かれていったのが、この20年だった。アメリカもイギリスも繁栄の成長に返り咲いたのに対して、世界の中で日本だけが没落している、そうした世の中になった。

 いささか時期は遅かったが、今こそ日本の製造業は、EMS企業へと転換する時ではないだろうか。しかし、日本の製造業がEMS企業へと転換するのは、かなり根本的な転換になる。いわば、商社みたいなメーカーになるのである。そうしたことができるであろうかという程の転換になるが、この転換できなくては、日本の製造業に未来はないだろう。日本の製造業がこのままの姿であり続けるのならば、EMSでできるカメラとかガソリンとかハイブリットの車とか、テレビとか、家電とか、コピー機などのモノを作っている企業が残る可能性はほとんどない。

 製造業が、日本人の雇用を支えているという考え方をもうやめよう。これからは製造業が、国内雇用を吸収するという思考を捨てて、「製造業」と「日本」はすっぱりと別れるべきだ。これからの製造業はグローバルにEMSを行っていく。中国・台湾、韓国、シンガポール、タイ、ミャンマー、ベトナム、インド、等々と関わっていくのである。

 では、ニッポンの雇用はどうなるのか。当然、これが問題になる。

 やせても枯れても日本である。少子化とは言え、この日本列島の上から、ある日突然に人々がぱっといなくなるわけではない。ここに一億二千万の人々が住んでいる、暮らしている。日本という国がある。製造業がグローバル化し縮小して、金融や情報サービスや医療・介護などの分野でこれまで以上に労働力が必要になる。製造業での雇用は十分吸収されて、それでもまた足りないという世の中になる。

 さらに、対中国輸出だけでは、日本経済を支えることはできない。中国頼みの日本経済では未来はない。アメリカやイギリスなど先進国でも十分通用するサービスを日本から生み出していかなくてはならない。

 やらなくてはならない仕事は、山のようにある。中国とは違う意味で、本当は、この国には雇用がうなるほどあるはずなのだ。国の産業構造を変えなくてはならないというこの時期に、若者の雇用が少ないとかになるはずがない。本来、今のこの国は脱工業化していて、金融や情報サービスや文化、映像・音楽コンテンツ制作や医療・介護などで、仕事はちょっとたいへんだけど収入はいい、という仕事がじゃんじゃんある、となっていないのはおかしい。それが今そうなっていないのは国の政策が間違っているからだ。

 しかしながら、「間違っているからだ」でこの国の政策が変わるわけもない。実際のところ、今期の歴史的赤字を受けて各メーカーは国内でのテレビ製造をやめて、工場の海外移転やEMSを進めている。その一方で産業構造の転換は、さっぱり進んでいない。従って、雇用問題がさらに悪化することが今後予測される。

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May 17, 2012

「韓国が日本より優れている」しかし「日本と韓国は底辺が違う」

 韓国の「中央日報」でのインタビューで大前研一さんが今の韓国経済について論じている。

 大前さんは、こう語る。

「海外留学をして外国語に堪能な若者を見ると、韓国が日本より優れている。 韓国の若者に深い感銘を受けている。」

 しかしながら、その一方で韓国は、まだまだ日本に及ばない点が数多くあると述べている。

「--ソニーやパナソニックなど日本の看板大企業の退潮が目立つ。 サムスン電子、現代自動車など好調な韓国大企業と対照的だ。」

という「中央日報」の記者の質問に対して、大前さんはこう述べる。

「日本と韓国は底辺が違う。 日本にはサムスン電子、現代自動車のようなグローバル大企業が100社以上ある。 サムスン電子がソニー・パナソニックに勝ってグローバルITトップ企業になったことを国対国のレベルで見るべきではない。 企業世界の自然な世代交代だ。 ソニーもかつて米国企業に勝って頂上を極めた。 同じように今の韓国企業の相当数はチャイワン(中国+台湾)企業の猛追撃を受けている。 日本企業は最近、日本国内よりも海外に拠点を置いて収益を出している。 過去には、韓国の大企業が日本の部品を大量に購入し、日本との貿易不均衡が大きいという指摘があった。 最近、韓国の対日貿易赤字が減ったようだが、実際にはそうではない。 多くの日本企業が韓国に工場を設立し、以前よりもはるかに速かに韓国の大企業に部品を供給しているということを知らなければならない」

 つまり、「韓国が日本より優れている」しかし「日本と韓国は底辺が違う」。だから、韓国はもっと頑張っていかなくてはならないのだと述べている。

 このへんが、大前さんのさすがなことだ。どこの国の側(だけ)にも立っていない。

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May 13, 2012

野口悠紀雄著『経済危機のルーツ モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか』を読む

 野口悠紀雄著『経済危機のルーツ』(東洋経済新報社)を読んだ。

 パナソニックとソニー、シャープの電機大手3社の2012年3月期決算では過去最大の最終赤字を記録。赤字額は計1兆6000億円と空前の規模に膨らんだという。この赤字は、今回のだけというより、このままでいれば今後も増え続けるだろう。

 なぜこうなったのか。韓国や台湾・中国のメーカーが日本製品よりも低価格の製品を提供できるようになったからだ。これまでの日本の製造業は、終焉したと言えるだろう。

 ではどうするのか。

 ではどうするのか、を考えると共に、なぜこうなったのか、ということを考える必要がある。今の時代が「こうなっている」というのは、当然のことながら、ある日ある時突然こうなったわけではなく、長い年月のある過程を経てこうなった。

 今の日本経済が没落しているというのならば、過去、繁栄していたことがあるということだ。では、なぜ「その時」は繁栄ができたのか。その繁栄の条件が、その後変わったために、繁栄ができなくなったのではないか。その繁栄の条件とはどういうものであり、それはどのように変わったのか。そして、これからどうなるのか。

 第二次世界大戦以後の世界経済は、国内産業は無傷であり、高い工業力を持つアメリカと、戦勝国側とは言え戦争により荒廃したヨーロッパと、敗戦国の日本とドイツ、そして内戦状態に突入した中国、朝鮮があった。20世紀後半、日本は経済発展がめざましく世界第二経済大国になった。それが21世紀の今日、中国が世界第二位の経済大国となり、韓国のメーカーは日本を追い抜いた。日本経済は奈落の底に沈んでいこうとしている。

 これは一体、いかなることがあったのか。

 という大きな枠で見なくては、今の中国や韓国やアメリカやヨーロッパや、そして日本を考えることはできない。

 というわけで、野口先生の『経済危機のルーツ』である。

 第二次世界大戦以後の世界経済をどう捉えるか。著者は今日いたる変化の始まりは1970年代にあったという。なぜか。この時代に、ブレトンウッズ体制が変動相場制へと移った。そして、コンピュータ技術の変化が始まった。つまり、金融とITで変化が始まったということだ。

 よく言われる「ヒト、モノ、カネ、情報」で言うのならば、「カネ」の姿がこの時代に大きく変わった。この時にできた世界金融の姿が今でも続いていると言っていい。特に、金融について言えば、この変化を受けて、イギリスは新しい金融立国として確立している。

 続く1980年代は、サッチャーとレーガンによる経済体制の改革が行われ、新しい経済思想が生まれた。ソ連では、ゴルバチョフが登場し、その改革が、ソ連の崩壊へと進む。中国では鄧小平の開放政策が始まる。この時以後、中国は世界の工場へと大きく舵を切る。思えば、この舵の先に、今日の世界第2位の経済大国中国があり、2012年3月期のパナソニックとソニーとシャープの巨額の赤字があるとも言えるだろう。

 1990年代は、情報通信の技術が本格的に産業に関わり始めた時代だった。「ヒト、モノ、カネ、情報」で言えば、「情報」に大きな変革があった。金融での変革にも、このIT技術の革新は大きく関わっていることを見れば、情報通信技術の進歩こそ20世紀後半の人類史の変革の要であったとも言えるだろう。

 2000年代、日本では、アメリカでのサブプライムローンの破綻、リーマンショックは金融工学の失敗のように思われているが、金融工学の失敗というよりも、この新しい金融工学を運用できなかったマネジメントの失敗だった。

 大ざっぱに言えば、中国が世界の工場として世界経済にどれだけ台頭しようとも、あるいは、韓国メーカーが世界市場で自動車や家電をどれだけ販売しようとも、1970年以後、様々な変革を経て脱工業化をし金融が中心になっているアメリカやイギリスは影響を受けない。それに対して、「ものづくりが大切なのだ」とか言って、1970年以後も変わることなくずーと製造業が中心のままになっている日本は、モロにダメージを受けているというわけだ。

 ではなぜ、1970年以後、日本は、小手先的な改革は細々とやってきたが、根本的な改革をすることなく、21世紀の今日に至り、中国と韓国に追い抜かれ、日本の製造業は終焉を迎えることになったのか。

 この時期、イギリス、アメリカが行ったことの概要を著者の言葉も交えて挙げてみると、

第一に、中国が世界の工場になるのならば、製造業依存の産業から脱却しなくてはならない。価格競争ではかなわない。それよりも、中国の安い製品を利用し、付加価値の高い産業に特化する必要がある。
第二に、金融産業は大きな雇用吸収力がある。「金融では数多く雇用が生まれない。やはり製造業でなくてはならない」と言われているが、そんなことはない。金融産業が中心と言っても、みんな銀行や保険会社勤めになるわけではない。専門知識はない者でも十分に働ける雇用の場はたくさんある。
第三に、新しい金融産業はITやファイナンス理論と深く関わっている。
第四に、経済はグローバル化している。

ということだ。

 そして、この国の現状を見れば

第一については、依然として製造業依存の産業のままである。
第二については、「金融では数多く雇用が生まれない。やはり製造業でなくてはならない」とか言って、金融産業が大きくならない。
第三については、ITやファイナンス理論は学校では教えない。社会人になって勉強ができる場がない。これについて、著者はこう書いている「社会人の勉強を支援する制度がほとんどない。税制上の措置もないし、奨学金も十分ではない。企業もMBAを評価しない。エコカーの購入支援や高速道路の無料化が行われる半面で、将来のための人材教育がまったく議論されないのは、驚くべきことだ。」。
第四については、資本やヒトのグローバル化がしていない。

 さらに、アメリカやイギリスは大学や研究機関の質が高い。これに対して、日本はどうであるかは言わずもがであろう。

 この本のサブタイトルは「モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか」とあるが、これは正しくない。この本で述べられていることは、日本の家電や自動車は、グーグルとウォール街に負けたわけではなく、フォックスコンやサムスン電子や現代自動車に負けたのである。グーグルとウォール街があるアメリカは、もはや同じ次元で勝負をしていない。中国や韓国がどうであろうと負けることはない。むしろ、日本はグーグルとウォール街がないから中国・韓国に負けるのだ、ということだろう。

 この本の最後で著者は「韓国に学べ」と述べている。

「日本と韓国の間で、なぜこのような差が生じてしまうのだろうか?基本的な差は、「外国に学ぶ」という謙虚さを、日本人は失ったが、韓国人は持ち続けていることだと思う。
謙虚さを取戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つこと。今の日本で最も求められるのは、このことだ。」

 私もそう思う。韓国のなりふり構わず学んでいく姿に、日本は学ばなくてはならない。

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May 10, 2012

『平清盛』は見たい人が見るで良し

 いやあ、いいです。大河ドラマ『平清盛』。視聴率が低いとかどうとか、もうどうでもいいです。見たい人が見る。それでいいと思います。

 法皇と上皇の争いの狭間に置かれることになった清盛が、「法皇様と上皇様に仲良くしていただく!!」と大声で言い切ったシーンは、いやまあ、いいですね、このキャラクターは(笑)。

 近衛天皇が病気になり崩御、次の天皇に後白河天皇が即位するまでのことを、先日の「第18回 誕生、後白河帝」は見事な展開でさっと進ませた。こんな話でいいのかと思ったりもするけど、日本史の授業ではなくドラマなのだから、細かいことをゆっくりやっていては1年間で終わらない。

 このドラマ、いろいろ言われていますが、歴史へのきっかけになると思います。「この時代は、こんなことがあったのか」と興味を持って、あとは自分で本を読んだりすればいい。そして、『平清盛』を見ながら、これは史実ではないとか、ここはこうだったのかとか思い巡らせばいいと思う。

 その意味で、今回の大河ドラマは実にいい。なんかこー、自分で探求できる、思い巡らせることがラクにできる雰囲気がある。

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May 07, 2012

『中国化する日本』を読む

 與那覇潤著『中国化する日本』(文藝春秋)を読んだ時に思ったことのひとつは、京都の学者はこれをどう評価するだろうかということだった。あの京都中華主義とも言うべき京都学派は、この「中国化」と「江戸封建制」の分類と流れをどう捉えるか。そもそも、この本の出発点である内藤湖南だったら、これをどう思うか。

 アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。内藤のこの史観を述べながら、著者は次のように書く。

「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」

 ここに中華文明が作った「チャイナ・スタンダード」が「グローバル・スタンダード」になる。この時代、西欧はいち地方の辺境の田舎でしかありえない。この宋時代の「チャイナ・スタンダード」を、本書では「中国化」と呼ぶ。

 日本は、すでに9世紀に中国からの文化導入をやめていたが、平清盛がやろうとした日宋交易を、農本主義の鎌倉幕府が受け継ぐことなく、以後、後醍醐天皇の建武の新政や室町時代の足利義満といった「中国化」的な動きはあったが、すぐに消され、以後、戦国時代、江戸時代へとこの路線は変わることなく続いていったという。

 上記については、僕もまったく同意するのだけど、細かく言うといくつかの点でそうかなと思うことがある。

 なぜ日本は、大唐文明に学ぶことをやめたのか。具体的には894(寛平六)年の菅原道真の提言により遣唐使は廃止されたのか、つまり834(承和元)年の遣唐使が最後になったのか、ということを、単純に日本には「中国化」がなじまなかったからと言っていいのかどうか。

 日本は、宋文明に学ぶことをしていなかったというが、清盛の日宋貿易を潰した京都及び武士団一派は、単純にチャイナ・スタンダードの導入をしたくなかったからみたいな言い方で言っていいのか。

 それと、この本に出てくる権門体制論の理解は正しくないだろう。このへん、筆者の専門は日本近現代史であるそうだが、専門違いとは言え中世史について素人以上の知識はあってしかるべきだ。その意味では、中世史専門の本郷和人の方が近代史について勉強しているし、誠実かつ堅実な思索をしている。

 さて、中国の歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」と内藤湖南は言ったが、その内藤は、では日本史についてはどう言ったであろうか。「日本史を一か所で切るのなら、応仁の乱の前後で切れる」と述べている。

 著者は次のように書く。

「私は、この内藤湖南のふたつの近世論は、室町時代までの日本中世は「いくつかの中国化政権の樹立を通じて、日本でも宋朝と同様の中国的な社会が作られる可能性があった時代」、戦国時代以後の日本近世は「中国的な社会とは180度正反対の、日本独自の近世社会のしくみが定着した時代」として考えろ、という意味だと思っています。」

 応仁の乱以後、戦国時代、戦国大名の治世スタイルから中国とは異なる日本独自の仕組みが生まれ(ただし、織田信長は除く)、確立し、そして定着していったと著者は述べる。このへん、16世紀の西欧文明との出会い、いわゆるウェスタン・インパクトがあっても、日本社会は変わることなく淡々と続いていったことを考えるとうなずけるものがある。信長という例外はあるにせよ、なぜこの時代、日本は南蛮文化を積極的に導入することなく、世界交易にも出ることなく、一国の経済に留まる決断を徳川幕府は行ったのかは深いテーマだ。

 ちなみに、NHK大河ドラマ『平清盛』の視聴率が上がらないのも、我々は応仁の乱以後の日本人なので、応仁の乱以前の、それも文字通り「中国化」を目指そうとした清盛に馴染むことができないからということも言える。

 さて、ではなぜ江戸時代は「中国化」しなかったのか。なぜ身分制度をわざわざ「作った」のか。

 著者は次のように書く。

「考えてもみてください。お隣の中国では近世から、すなわち宋の時代から、身分制などというものは廃止されているわけです。さらに、江戸時代というのはよく知られているとおり、書物文化や印刷出版業が花開いた時代ですから、ある意味でメディアの面で宋朝に追いついたというか科挙をやろうと思えばできる環境に到達した時代ともいえます。それにもかかわらず、隣国では600年も昔になくなっている身分制度を維持し続けるというのは、異様というほかない。」

 その(宋朝中国という)「グローバル・スタンダード」から見て、異様というほかないことをやったのはなぜか。筆者は、近年の歴史学の見解を紹介している。細かいことは省くが、ざっと挙げれば、鎖国、コメの普及、イエ制度の確立、商工業・流通・サービス業の徹底管理、つまりは「封建制」である。これらを行うことによって、みんなが食っていける世の中にしていったというわけだ。

 ただし、この「みんな」の中には、「イエ」に属していない農家の次男三男と未婚女性は含まれていない。「封建制」のセーフティ・ネットの機能を果たすのは、「イエ」であり「ムラ」であり「藩」であった。従って、そうした組織に属していなければならないということになる。属していない人、属せない人はどうなるのか。自己責任なんだから、どうなっても知りませんというわけだ。

 「封建制」の江戸日本では、商工業・流通・サービス業が自由闊達に発展することはできない。技術の進歩はない。なにを言っても自由であるが、ご政道への批判、お上への批判はご法度、外国の知識を学ぶことは禁止、等々、こうしたことを制限することで社会が成り立っていた。

 ちなみに、この「引きこもり」的な江戸時代に、当然のことかもしれないが、世界にない特殊な文化が花開いていたことを考えると、こうしたガラパゴス時代にも文化的な意義はあったと思う。

 近現代に至り、世界はようやく「中国化」する。欧米諸国の近代化とは、遅れた中国化だったと著者は述べる。明治以後から平成の今日に至るまでの日本人で、(内藤湖南先生のような東洋史の碩学を除けば)自分たちが行っていることは実は「中国化」だったということは一度も思ったことはないだろう。実は、宋朝中国が成し遂げたことを欧米という国々でめぐりめぐって、再び日本人の前に現れただけのことだったというのは興味深い視点だ。

 江戸時代の、本書の文脈に従うと、応仁の乱以後の、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の、これらの諸々が、明治期は民族存亡の危機を目前としたので一時的に「中国化」したが、すぐに江戸時代の封建制に戻り、以後、大正、昭和、平成と続き今日に到る。

 世界は「中国化」し続けてきたが、日本は「封建制」のままになっている。「ムラ」である大企業の正社員ではない人、「イエ」に属さない結婚しない未婚女性は自己責任なのだから、どうなっても知らないというわけだ。

 しかし、今、「江戸」日本は、巨大な大国中国を隣国とし目の前にしている。経済の停滞により、「封建制」のセーフティ・ネットであった「ムラ」である企業はセーフティ・ネットの機能を果たせなくなり、未婚女性が増加して「イエ」はなくなり、公務員や正社員の人々とそうではない人々の格差が広がるままになった。江戸時代以降の(細かく言うと応仁の乱以後の)(しつこいか)(笑)「封建制」は崩壊しつつある。それが現代なのだ。(応仁の乱以後の路線では立ち行かなくなったということは、それ以前の、足利義満、後醍醐帝、そして、おー平清盛ではないか!!やはり清盛に着目すべきなんだな)

 今の中国を考える上で、なるほどと思ったのが、著者の次の文章だ。

「中国社会の怖さ、とはなんでしょうか(しつこいですが、中国という国家の軍事力の怖さ、と無関係です)。おそらくそれは、法の支配や基本的人権や議会制民主主義の欠如でしょう。
私たち日本人は、少なくとも日本国憲法ができて以来、これらの制度をそれなりにきちんとした形で持っているので、それがまるで欠けているように見える中国を、軍事的・経済的には超大国になったとされる今でも、どこか「怖い国」「遅れた国」「野蛮な国」とみてしまう癖がついています。(中略)
しかし歴史的に考えれば、これは逆なのです。
中国というのは本来、人類史上最初に身分制を廃止し、前近代には世界の富のほとんどを独占する「進んだ」国だったわけですから、むしろ、「なぜ遅れた野蛮な地域であるはずのヨーロッパの近代の方に、法の支配や基本的人権や議会制民主主義があるのか」を考えないといけないのです。中国近世の方がより「普通」の社会なのであり、西洋近代の方が「特殊」なんだと思わないといけない。」

 これについての、なぜかという問いに対する著者の最近の歴史学の見解の紹介は、なにを言っているのかよくわかない。例えば、なぜ大塚久雄や角山栄への言及がないのか。

 これからの中国を考える上でも最も重要な点は、西欧に生まれた議会制民主主義と人権というものをどう考えるのかということだ。議会制民主主義と人権というものは、そもそもなんであったのか、なんであるのか我々の社会において、それらは必要なのものなのか、なくてもなんとかなるものなのか。欧米は、それらがあることは必要不可欠であるとするが、その根拠は一体なんであるのか。

 それらが「ある」とされているこの国を見た場合、果たしてそれらがあることに十分な意義があるのか。それらは、どにように機能しているのか、といったことも踏まえなくてはならない。議会制民主主義と人権は、なくてもなんとかなる。それらは人間の社会において必要不可欠なものではないとなると、今の中国のあり方でもオッケーということになる。

 宋朝中国が人類史のグローバル・スタンダードであることは認めるものであるが、だからといって西欧がやろうとし、やってきた辺境での冒険的な試みも、それはそれで人類にとって意義のあることではないのか。西欧は西欧であり、アメリカはアメリカなのではないか。これを全部引っ括めて「中国化」と呼んでいいのか、というと、うーむという気がしないでもない。

 そうした考察が本書にはない。本書にはないというか、それは私が考えるべきことなのだろう。そういう意味では、自分の思考の整理に大いに役にたった本であった。

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May 06, 2012

在日米軍は縮小されていく

 沖縄の在日米軍のみならず、アメリカが海外に展開しているアメリカ軍の規模を縮小させようという意見は、以前からいくつか出ていたが、最近その数が多くなってきた。

 アメリカの有名な外交・国際政治専門誌『フォーリン・アフェアーズ』の日本版である『フォーリン・アフェアーズ日本語版』2011年12月号で、マイアミ大学政治学准教授のジョセフ・M・パレントとウェルズリー大学政治学准教授のポール・K・マクドナルドは共同論文「外国からの米前方展開軍の撤退を」で以下のように書いている。

「アジアでも米軍のプレゼンスを削減する余地は十分にある。日本と韓国の領土保全を維持し、中国や北朝鮮の冒険主義を封じ込めるには、日韓にそれぞれ駐留する3万の兵力ではなく、強固な予備役部隊がバックアップする緊急展開戦力で十分だ。在日米軍、在韓米軍の規模を段階的に20%削減し、一方で、他の戦力をグアムやハワイに移転しても、現在と同じ戦略機能をより効率的に果たせる。後退戦略をとっても、国際秩序が不安定化するとは限らないし、むしろ、アメリカの改革と復活に向けた基盤を作り出せる。」

 また同じ号で、ジム・ウエッブ上院外交委員会アジア・太平洋小委員会委員長は「われわれは沖縄から海兵隊を撤退させることができる。」と書いている。

 さらに、同誌の2011年の9月号では、ランド研究所の研究者2人と、マサチューセッツ工科大学教授のリチャード・サミュエルズが「海兵隊を沖縄から移動させても、ほとんどの緊急事態における作戦遂行上、大きな支障は生じない」と指摘しているという。

 興味深いのは、海兵隊については「訓練施設とインフラさえ適切なら、西太平洋のどこに拠点を持つかはこだわる理由はない。どこを基地にしようとも、海兵隊は想定されるいかなる任務もこなしていく能力がある」とし、海兵隊を沖縄に駐留しなくとも機能は維持できると指摘しているという点だ。また、日本政府が普天間の県内移設を推進する理由として強調している「沖縄の地政学的な優位性」を否定しているという。

 また『ウォール・ストリート・ジャーナル』がバーニー・フランク下院議員について記事を載せている。フランク下院議員は、MSNBCの番組「モーニング・ジョー」で「海兵隊がいまだに沖縄にいる意味が私にはよく分からないね」と述べたという。

 この『ウォール・ストリート・ジャーナル』の2010年7月の記事の中に出てくる共和党フランク氏とリバータリアンのロン・ポール氏の両下院議員が、米国の有名論壇サイト「ハフィントン・ポスト」に載せた論文が以下である。

 「Why We Must Reduce Military Spending (なぜわれわれは軍事費を削減しなければならないのか)」と題し、2010年度の軍事費6930億ドル(約61兆円)は歳出全体の42%にも上り、経済活動や国民生活を圧迫していると説明。米国が超大国として他国に関与することが、逆に反米感情を生み出している側面も指摘しているという。

 このように『フォーリン・アフェアーズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』に上記のような論文が出てきたことは、これまで水面下で述べられてきた在日米軍の縮小が本格的に論じされるようになってきたことを意味している。共和党でも民主党でもリバータリアンでも、沖縄の在日米軍の規模縮小、他の国々への分散を主張している。

 実際のところ、今回の在日米軍再編で、沖縄に残るのは結局のところ数千人ぐらいになるようだ。もはや、沖縄の海兵隊だけで韓半島や台湾有事に即時対応する意志はアメリカにはない。もちろん、これは沖縄だけで対応しようと思っていないからだ。アメリカは自国の安全保障と財政問題のために在日米軍を縮小し、アジア各国に分散配備しようとしている。結果的に、沖縄の在日米軍は縮小する。

 何度も申して申し訳ないが、沖縄に大規模な在日米軍がこれからも必要だとか、沖縄は戦略的に重要なので米軍を動かすなどできないとか言っている輩は、基地利権が目当てか、アメリカのことを知らないただのバカと言って良い。鳩山元首相は「学べば学ぶほど米海兵隊の抑止力が分かった」と言ったそうであるが、鳩山元首相は、間違ったレクチャーを受けたのだろう。「学べば学ぶほど、沖縄の在日米軍は縮小していく」と言うのが正しい。

 そして、「沖縄の在日米軍は縮小していく」の次に、「では、そうしたこれからの状況の中で、日本の安全保障はどうしたいいのだろうか」と考えるべきだ。在日米軍の再編成はアメリカの都合上のことであって、日本人の日本人による日本人のための安全保証の戦略から沖縄の在日米軍を考えてこうなったというわけではない。

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May 02, 2012

在日米軍の再編

 日本の意図や思いとは別に、というか、日本の意図や思いは無視して、アメリカは行動する。

 これは当然のことであって、日本はアメリカの同盟国だからとか、ゆるぎない日米関係がある(「ゆるぎない」ってナンだよ)(笑)とかいうことはまったく意味を持たない。

 さて、4月29日の日経社説には

「移設をさらに遅らせれば、米議会などの見直し論はさらに勢いづきかねない。そうなれば、現行案は白紙となり、結局、普天間の固定化を招く恐れがある。そんな最悪の結末を避けるため、今こそ移設を急がなければならない。」

 とあるが、沖縄の状況を見れば、辺野古移設はできないことは明らかだ。日経に限らず、日本の大手マスコミで辺野古移設は不可能とはっきり言っているところはひとつもない。むしろ、アメリカの議会の方が正しく現状を正しく認識している。

 何度も書いて恐縮であるが、沖縄は「県外移転せよ」、沖縄以外の都道府県は「うちにくるな」と言っているのである。これが今の状態である。ようするに、沖縄県も含めた日本の全都道府県は在日米軍は日本から出て行って欲しいと言と言っている。

 原発の場合、国の政策と地方の利益を一致させて原発を置くやり方を行ってきた。そして今日に至っても、財政を考えると原発を稼働させるしかないみたいなことを言っている地方自治体はまだある。しかしながら、在日米軍基地の場合、沖縄に対して国は政策と地方の利益を一致させる手をこれまで使ってきたが、もはやその手は通用しなくなった。ここまで話が大きくなった今、辺野古移設が通るようになったのならば、カネで受け入れを承認したのかと騒がれることになるだろう。沖縄はカネはいらないから米軍出いていけと言っているのであり、そうなるとカネで物事を解決してきた政府には打つ手がなくなる。

 というわけで、(何度も書いて恐縮であるが)沖縄は「県外移転せよ」、沖縄以外の都道府県は「うちにくるな」と言っている、ということはどうなるのかというと、普天間に居座るまま、ということなる。

 これを「普天間の固定化という最悪の事態」と考えるべきなのか、どうか、ということである。

 ちなみに、政府及び大手マスコミの思考法だと、これを「普天間の固定化という最悪の事態」と考える、の次には「だから、辺野古移設をすべきだ」となり、「そうすることによって普天間の負担を軽減できる。これが沖縄のためである」と続く。

 しかし、そうなのだろうか。これは「普天間の固定化」になるのだろうか。

 私の考えは、「普天間の固定化」になることはなる。先の述べたように、普天間に居座るまま、ということなる。ただし、おの「固定化」「居座るまま」をどう考えるかといことで見方が変わる。

 この見方について、以下の2点を挙げたい。

 上記の日経社説によると、

「日米合意によると、沖縄に駐留している約1万9000人の米海兵隊のうち、約9000人をグアムやハワイ、オーストラリアに分散させる。グアムには約4000人が移るという。」

 とある。つまり、普天間基地の内容が縮小するということだ。

 今の時代は、沖縄に大規模の海兵隊を置くことはもはや抑止力にならない。親米のみなさんは、沖縄に在日米軍があることで東アジアの安定維持できるとかなんとか言っているが、それは与太話しだと思っていい。

 現に「沖縄に駐留している約1万9000人の米海兵隊のうち、約9000人をグアムやハワイ、オーストラリアに分散させる。グアムには約4000人が移る」。そういうことをやっても、アメリカは安全保障上問題ないからやる。沖縄に大規模な海兵隊を置き続けることは必要ないということだ。このことについて、沖縄の海兵隊を削減するなどとんでもない。沖縄は抑止力として必要だ、とか言っていた親米のみなさんはどうするのだろうか。

 その意味で親米のみなさんは、日本側のことしか考えない人々であり、アメリカが弱体化して欲しいと言っているのだと思って差し支えない。ゆるぎない日米同盟が必要だと言っているのは、日本人と親日アメリカ人だけだ。アメリカは、もはや日本など眼中にない。日米安保条約の範囲内でアメリカはやるべきことはやる、それだけだ。

 今回も沖縄の海兵隊を日本国外に分散は、こうしたことを行っても日米安保範囲内での日本防衛の義務は果たせると判断したから行うのである。アメリカは在日米軍の再編と縮小の方向へ進み出した。

 日本側は、日米安保に基づき、この判断が正しいのかどうか考える必要があるのだが、そうしたことは政府も大手マスコミもしないようだ。

 いずれにせよ、「普天間の固定化」はする、固定化するが、その内容が大きく変わる。海兵隊はこれまでのような普天間依存が低下する。「普天間返還」にこだわり、「普天間返還」ができないのならばダメだ的な見方は短絡である。

 もう1点は、アメリカ議会上院のレビン軍事委員長らの言う嘉手納統合案である。

 私は、この嘉手納統合に成らざる得ないと思う。これからの進むべき方向は、軍事委員会が主張する嘉手納統合だと思う。ただし、これは沖縄から見れば辺野古から嘉手納に変わっただけ、「県外移転せよ」と言っているではないかという声があるだろう。これもどのような内容で嘉手納に統合しようとしているのかということが重要だ。

 在日米軍の縮小は、この先さらに行われるだろう。今後、沖縄の海兵隊のさらに大規模なグアム移転もありうる。北朝鮮が崩壊し、韓半島に統一国家ができれば、沖縄の戦略的意味はさらに変わる。

 普天間がどうこう、辺野古がどうこう、嘉手納がどうこう、沖縄がどうこう、日本がどうこう、というのは部分であって、アメリカはもっと大きなグローバルな視点で、同盟国である韓国やオーストラリアなどとの関係の強化も踏まえて米軍再編を行っている。

 では、日本の安全保障はどうするのだろうか。日米安保に依存し続けてきたこれまでのやり方が、いやでもできなくなる。そうした時代が、もうまもなく来る。

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May 01, 2012

被災地でのNPO活動が資金不足になっている

 東日本大震災の被災地でのNPO活動が資金不足になっているという。

「東日本大震災の被災地で、地元の人たちが多くの復興支援NPOを作って活動している。震災から1年以上たった今も地域に根付いて被災者を支えるが、知名度が低く、寄付を集めるノウハウもないため、多くの団体が運営費不足に頭を悩ませている。団体を支援する仕組みをどう作ればいいのか。」
毎日新聞 2012年05月01日 東京朝刊

 震災が起きた当初は、とりあえずというわけで集まってきたボランティアのみなさんが自費でやっていたわけであるが、長期にわたって活動していくためにはどうしても経済的基盤を作る必要がある。つまりは、お金の話である。お金をどう集めるかの仕組み作りが必要だ。

 では、どうやってお金を集めるか。当然のことながら、NPOは非営利団体である、つまり、非営利なことをやっている。つまり、やっていることから、その代価としてお金を得ることはできない。

 となると、基本、これは寄付でお金を得るしかない。では、寄付でお金を得るにはどうしたらいいのか。

 寄付でお金を出すところなんてあるのですかと思うかもしれないが、お金は銀行の口座とかに預けて金利で増やすということだけではない。お金は流通している。

 まず、純然たる寄付というものはある。リターンを求めないお金の提供である。税金対策のために寄付を行うということもある。投資、ビジネスとしてお金を出すということもある。この活動にお金を出すことは、めぐりめぐって自分の利益になるということだ。このように出す側には、そうした様々な理由なり背景なりがある。こうした諸々をきちんと把握して整理する必要がある。

 「お金をもらう」側、つまりNPO側はどうすればよいのか。これはもうとにかく情報提供であり、情報発信をする。「お金を出す」側に伝わるように伝える必要がある。

 しかしながら、NPO側には、こうしたことを専任で行うスタッフがいない。人材がいない。上記の記事にも、このようにある。

「「寄付を集めなければ思うように活動できない」と分かっていても、忙しさに追われて資金を集める余裕がない。」
「「自分から『寄付してください』とも言いにくいんです。自前でなんとかしなくちゃと思ってしまう」
「「どこも目の前の被災者の支援に精いっぱいで、寄付につながるような活動報告をブログにアップする時間もない。こうした団体を側面支援する仕組みが必要だ」」

 まさに、「こうした団体を側面支援する仕組みが必要だ」と思う。「お金を出す側」と「お金をもらう」側の間を取り持つ作業が必要だ。そうしたパブリシティ担当、コミュニケーション・ディレクターのような仕事を行う人が必要だ。

 なにゆえ、もっと多くの人々、若者たちがこの分野で活躍しようとしないのか不思議でならない。これは、いわゆる従来のメディア業界とは違う。アニメとかデジタルイメージ技術とかも違うし、従来の放送・マスコミ・出版とも違う。いわば、従来の放送・マスコミ・出版業界では扱えない情報の流通が必要になってきている。こういうことをやる人間がもっと増えるべきだと私は思うし、増えなくてはおかしい。

 この分野こそIT技術が威力を発揮する分野であり、この分野はここ数年でものすごく進歩している。こうした新しい、個人や小さな組織が社会とコミュニケーションするための技術としてITはこの世に生まれてきたと言ってもいい。

 そして、この分野は日本は遅れている。

 この遅れているということと、例えば被災地の人々が政府に対して説明がないという感じを持っているのも同じだ。政府と被災地の方々の間に、コミュニケーションができていない。今の時代に対応したコミュニケーションの仕組みができていないからだ。政府もメディアもネットは「放送」「テレビ」「新聞」「出版」とは違う別のものだという認識がない。「放送」「テレビ」「新聞」「出版」の側からネットを見て、ネットは自分たちに付属するもの、補完するもの、みたいな程度の認識しかない。

 お金の流通に合わせた情報の流通が必要だ。NPOの活動を、お金の流通の中に位置づけ、活動と情報のコミュニケーションとお金の流れのフロー全体を管理するモデルなりフレームなりを作ることから始めなくてはならない。

 しかし、それは新聞社や放送局や出版社などといった従来のメディア産業ではできない。アメリカの場合だと、例えば、NPOならNPOの内部からそうしたことが生まれてくる。本来は、個々の業界の内部から自発的にITを使った動きがでてくるものなのであるが(例えば、ホームページなどはそうだった。アメリカでは自発的に個人や団体や企業が勝手にどんどんやっていったが)、日本ではそうした動きがないか、少ない。このへんに、日本ではこの分野が進んでいない原因がある。

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