久しぶりに東京堂書店に行ってきました
昨日、久しぶりに神保町に行った。そして、これも久しぶりに東京堂書店に行ってきた。なんと、お店は改装されていてリニューアルされていた。
ほほう、これは、と思い、さっそく入ってみた。
うーん、やりたいことはわかるんだけど、うーむ、これは。
まず、一階のカフェだけど、なにゆえこの神保町という場所で店内にカフェを置く必要があるのだろうか。店の周りに、カフェは数多くあるではないか。顧客の動きとしては、神保町では、本屋さんで本を買って、カフェ専門店で珈琲を飲むだろう。僕もまたそうだし。書店が高いビルになっている三省堂や新宿の紀伊國屋や池袋のジュンク堂みたいな店であるのならば、店内で珈琲を飲むということはある。しかしながら、中規模書店の東京堂書店で、しかも周りにはカフェが数多くある場所で、なぜ店内にカフェを置く必要があるのか。
書店の本はデジタルデータではなく、実際のモノである。本屋は、そのモノを置いて並べなくて成らないのだから店内の床面積は貴重であるはずだ。その貴重な床面積をカフェに割り当てるということと、集客効果を比較してカフェを置くことにしたのだろうが、そのへんの理由が知りたい。
この本屋さんは、いわば総合ジャンルを扱う本屋さんであって、人文科学、社会科学、自然科学、工学、アート、等々のいわば大手の本屋さんと同様の領域を扱う。しかし、この規模の本屋さんでそれをやると、今の時代、どの分野も中途半端になってしまって品揃えに貧弱感を感じてしまう。あれも、あれも、あれも、ないじゃんということになる。
さらには、店員さんの方も、これらの全ジャンルをカバーするのはなかなか困難だろう。顧客からの問い合わせや、本の品揃えの選択や関連をもって本を本棚に並べるには、その分野についてそれなりの知識がなくてはならない。店員はフロアーごとに担当範囲を持っているとしても、この分野の多さに対応できるかどうか。
フロアーごとにコンセプトがあり、そのコンセプトに基づいて本を置いているというのは意味はわかる。しかし、あのコンセプトにもし忠実に従うのならば、この規模の本屋ではこれは無理だと思う。本の数が足りない。この規模の本屋では、もっとコアとする部分に絞った方がいいと思う。
例えば、2階の「原節子」と当時の日本映画のコーナーは良かったけど、あまりも数が少ない。あれでも少ない。「原節子」をキーとして、もっと往年の日本映画の関連本、写真集、DVDへと広がっていって欲しかった。それで、ひとフロアー全部を使ってもいいのではないか。もちろん、それでも足りるわけではなく、その先はネット情報で提示してくれるような仕掛けがあって欲しい。「本」には、リアル書店もネットも区別はない。しかし、我々が「出会う」のはリアルな場の本屋なのだ。このへんの仕掛けがしっかりしているのならば、本屋の内装とかは極端なことを言えばどうでもよく、昔の本屋さんのようにただ本が棚に置かれているだけでもいい。
昔の読書人は、ただ本が置かれているだけの本棚をざっと見て、それらの本から「つながり」をスパッと把握する。なぜ、そういうことができるのかというと、その分野での知識と教養を持っているからだ。今の顧客は、なかなかそれができないから、本屋側をその「きっかけ」を提供し、顧客の側はその「きっかけ」から自分で本の空間を進んでいくことができる。そうしたことができる「装置」として、今の本屋はある。そういう「装置」になっているかどうかが重要なのだと思う。これは本屋の規模の大小とか本の品揃えの数の多い少ないではない。
つまり、「きっかけ」の場としては、リアル本屋さんには規模の条件があるからコアを定める。そのコアから広大な読書空間へと誘う「仕掛け」を置く。その広大な読書空間には、アマゾンさんが待っているんじゃないですかという声もあるだろうけど、アマゾンさんがいようが、三省堂さんがいようが、紀伊國屋さんがいようがいいではないか。トータルに「本の販売」全体を扱う、大きなvehicle(乗り物)としての本屋さんってないよね。
新保町という本屋が密集したこの場所で、かつ、アマゾンというネット書店に対抗しなくてはならないとなると、そうとうの独自価値を出さなくてならない。このリニューアルにかけたコストを回収し、かつ利益を出さなくてはならないことを考えると、ああっ東京堂書店さんはたいへんだなと思う。
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