« March 2012 | Main | May 2012 »

April 2012

April 30, 2012

普天間問題について、ぼおーと考える

 沖縄の基地問題は、鳩山元総理の「最低でも県外移転」発言から始まったという。なぜか。県外移転ということは、つまりは、沖縄県以外からすれば自分の所に米軍基地が来るということであり、それはイヤだなと沖縄県以外の都道府県のみなさんが思っているからだ。

 一方、沖縄県の方はどうか。米軍基地を置けば、原発誘致のようになにかと政府からカネが降ってくるので県の財政とはまったくの結構なことではないかと思う。しかしながら、何が困るのかというと、色々あるのだけど、やはり住宅地の中に基地があるかのような状況になっいるのが困るというわけだ。

 これが人跡未踏、人っ子一人いない、基地があっても自然破壊はまったくない一面の砂漠地帯みたいなだだっぴろいところに米軍基地があります、誰にも迷惑はかけていません、というのであるば全然問題がないのであろうけど、大体、そんな場所は沖縄県のどこにもないのであった。従って、沖縄に基地を置くのならば、どうしても住宅地のそば、あるいは自然破壊しまくりになる。だから、「出て行ってくれ」という話になる。そして、沖縄県が「出て行ってくれ」と言いっている背景には、「沖縄だけに押しつけるな」という意識がある。

 沖縄県は「出て行ってくれ」と言い、他の都道府県は「うちに来るなよ」と言っているので、残る選択肢は、日本国から出て行くしかない、ということになる。

 すると、ここで出て来るイシューは「では、日本国の安全保障はどうなるんですか」ということだ。「沖縄の在日米軍が日本からいなくなると、どうなるんですか」ということである。

 この場合の安全保障とは、外国からの侵略的行為から国民の生命と財産を守るということだ。どこの国が侵略的行為をするんですかというと、アメリカがそうしたことをやるとはまず思えないよなということで、やはりここはお決まりの中国・ロシアということになるだろう。もう少し具体的に言って、中国なんだろうなと思う。

 しかしながら、沖縄の在日米軍の規模が縮小されると、人民解放軍が海を越えて日本国の領土・領海に進入し、日本国の領土・領海を軍事的に制圧する、ということがリアルに起こりうるのか、というと、どうもそうは思えない。いや、やるかどうかというと、あの中国のことだからややるんじゃないかと思うかもしれないが、仮にやったとして、こっちも報復をするんでしょう。軍事行為というのは、「やる」ということと「やったばあい、どのような反撃を受けるか」を常に踏まえなくてはならず、反撃とは軍事行動に限ったものではない。日本と戦争を「やる」ならば、それそうとうの覚悟をしなくてはならない。

 というか、沖縄の在日米軍の規模がどうであろうと、中国の対外膨張路線や領土紛争はなくならないし、朝鮮半島の危機もなくならない。実は基地問題よりも、こっちの問題の方がずっと大きい。

 今の国際社会で危険地帯・紛争地帯は中近東であって、東アジアでその可能性があるのは朝鮮半島ぐらいである。もちろん、中国・ロシア、中国・インドの紛争は起こりえる。しかし、それらは日本列島から離れているため、まず大きな危険と考えなくてよいだろう。やはり、メインは朝鮮半島であり、もっと具体的に言うと北朝鮮が南に侵攻してくる、もしくは政治体制の崩壊が起こるであろう。もうひとつの可能性は、中国の共産党体制の崩壊であり、軍が分裂して内乱から大規模な紛争になり、その影響を日本が受けるということだ。

 いずにせよ、韓国・北朝鮮、中国に注目し、日本国のもっかの危機的状況はこうしたことが考えられます。従って、国はこういう対処をします。その対処の中で、北海道はコレコレ、本州はコレコレ、四国はコレコレ、九州はコレコレ、で、まことに申し訳ありませんが沖縄県さんはコレコレを分担して下さい、という話になるのならば、「沖縄だけに押しつけている」にならないのではないかと思うが、もっかの話はそういう話になっていない。

 軍事のことになると日本側に決定権はなく、日本はアメリカの決定に唯々諾々と従うしかない。日米は平等になっていない、日本はアメリカの属国である、というようになっているけど、日本側が決定権を持とうとしていないだけなのではないか。アメリカはアンフェアというが、アメリカほどフェアな国はない。タテマエとしてフェアであろうとするのがアメリカであり、その場に出ていってフェアにアメリカと対峙しようとしていないのは日本側だ。

 このままでは結局何も変わらない。辺野古移転はできないということで、普天間はこのままとなり、沖縄県外の人々は沖縄のことをまた忘れる。そして5年、10年がまた過ぎ去っていく。

April 28, 2012

『平清盛』の視聴率が低いこと

 NHK大河ドラマ『平清盛』の視聴率が低いという。「NHK大河 視聴率11.3%  清盛 苦戦」(東京新聞)

 そもそも視聴率を気にしなくて番組放送ができるのがNHKの強みであったはずなのだけど、テレビ番組である以上、どうしても視聴者の反応を気にしなくてはならないのかと思う。

 上記の東京新聞の記事にはこうある。

「批判的な意見をまとめると、こうなる。

・これまでの清盛像と違いすぎる違和感

・話の助走が長く、主人公がスカッと活躍しないモヤモヤ感

・登場人物が多く、とくに朝廷や貴族の関係が複雑

・映像が暗くて汚い印象

 これらをNHKの磯智明チーフプロデューサーにぶつけると、同局に寄せられた投書やメールにも同じような指摘があった。だが、そうしたマイナス評価の根拠は、逆に高い評価の理由にもなっているという。例えば「人物が多彩で面白い」「映像がリアルだ」-などという評価だ。」

 僕もこうしたマイナス評価部分が、逆にこの番組を気にいっている点になっている。これまでに清盛像と違うことに興味を感じた。この時代の知識は高校の日本史で習った程度のことしか知らないので、改めていろいろと本を読んでみると「こうだったのか!」と思うことばかりだ。

 「こうだったのか!」ということは「なんかよくわからん」と対になっていて、今のところ僕のこの時代についての理解は「なんかよくわからん」の状態にある。

 歴史というのは、過去に起こった出来事の理解である。しかも、現代のように記録がしっかりとした時代のことではなく、いわば断片的な情報しかない時代の理解である。従って、その解釈がいかようにできる。このへんが、理学や工学とは違う。しかしながら、いかようにも解釈ができる、では困るので、実証に基づいて考えていこうとするのが近代の歴史学である。

 ちなみに、高校の日本史は実に完結、単純にできていて、おもしろいものであるかどうかは別にして、ああいう歴史理解は、あれはあれでアリなんだと思う。しかし、あれが真実なのかというとそういうわけにはいかなくて、あくまでも高校の日本史程度の理解になる。

 で、高校の日本史程度の理解で、今回の『平清盛』を見てみると、とたんに「はあああ?」という感じになる。これまでの清盛像と違う、なんか話がスカッとしない、登場人物が多いし、しかも源のなんとかとか、平のなんとかとか、藤原のなんとかとは名字が同じでわからない。朝廷や貴族の関係が複雑。そしてなによりも画面が暗い、汚い。主役の顔も格好も汚い、みたいな感じになる。

 これらはもう、この通りというか。そういう時代だったとしか言いようがないんだけど。じゃあ、過去の大河ドラマの『平家物語』とか『義経』はそうだったかというと、そうではなかったわけで。今回の『平清盛』は別なんですと言うしかない。

 一般的に、ある物事を多数のみなさんに伝える時は、完結・単純に伝えなくては伝わらない。会社なりなんなりで行う説明やプレゼンでは、コレコレはこうです、と表現する。世間に数多くある「情報の伝え方」とか「プレゼンのしかた」なんか、みんなそうだ。しかしながら、『平清盛』のおもしろいところは、「なんかよくわからん」あの時代のあの出来事を、「なんかよくわからん」けど、番組を撮るということで決めなくてはならないので、とりあえずこうしました、みたいな試行錯誤がある。

 このスタイルは、きわめて基礎学問的だと思う。学問を学ぶということは、学んでいくことにより、これまで、こうだと思っていた考え方、概念がガラガラと崩れ去り、あとに残るのは「なんかよくわからん」という感覚だけになる。実際のところ「なんかよくわからん」ことが「わかる」ようになるのが「学ぶ」ということだと言えよう。

 逆に、このへんに視聴率が低い理由があるのだろう。プレゼンみたく、ビジュアルに、コレコレはこうです、と伝えなくては「伝わらない」のが今の時代なので、こうしたスタイルは今の世の中ではウケないだろうなと思う。

 『平清盛』には、実に数多くの歴史学のテーマが含まれている。藤原摂関家、院政、王家、武士の発生、軍事貴族、河内源氏、伊勢平氏、平家一門の勃興と没落、鎌倉幕府の成立、関東武士団、等々、どれもこれも、踏み込んでいくと奥が深い、日本史の「こうだったのか!」と「なんかよくわからん」状態がある。

 最近、僕はこうしたことについての本を読んでいるのだけど、大学の文学部史学科の学生さんになった気分で実に楽しい。

April 25, 2012

良いものはコストがかかる

 今の世の中は、なんでもかんでもコスト削減だ。とにかくより少ないコストで、より大きな利益を得ることを良しとされる社会である。

 それはわかる。よくわかる。わかりすぎる程、よくわかる。

 しかしながら、どうも今の世の中はあまりにもコスト削減ばかりというか、それ以外のことがもはや考えることができない状態になっているのではないかと思う。

 良いものを作ったり、やっていったりすることは時間とお金がかかる。つまり、高いコストがかかる。この当たり前のことが、今の世の中は当たり前になっていない。

 良いものには価値がある。これは、皆さんわかっている。その価値があるものを、時間とお金をかけないでやっていくことを良しする考え方がいたるところにある。これが常識みたくなっている。ここが間違っている。間違っているというか、それが当然のことかのようになっていることが間違っている。

 本来、良いものは時間とお金がかかる。だから、良いもの、良い製品、良いサービス、等々、とにかく良いものを購入する価格は高いものなのである。

 今の世の中は、なんでもかんでも安ければいいみたいな風潮になっている。よって誰もがコスト削減を強要する、強要される。マネジメントとはコスト削減のことだと思っている。

 もちろん、値段は安いにこしたことはない。しかし、このなんでもかんでも安ければいい風潮が、巡り巡って僕たちの収入を落とし、労働時間を長くさせている。

 低価格競争でお互いがひたすら貧しくなっていくのではなく、良いものには高いコストがかかる、その高いコストは支払わなくてはならないとみんなが思い、そして良いものを作っていくことで、しかるべき値段での売買が行われ、みなさん豊かになっていく。そうしたようにならないものだろうか。

 何かを行う時、そこにかかる時間とお金を少なくするように努力しなければならない。コスト削減をしていないのは怠けているからであるという考え方がある。この考え方に間違いが含まれている。別に怠けているからコストがかかるわけではない。かかることにはかかるとしか言いようがない。

 もちろん、ただ闇雲にコストをかければいいというわけではない。時代の要求に応えるものである必要がある。

 つまり、何にフォーカスをあてるかであり、あてたフォーカスに対して、人とカネと時間を投入して良いものをつくっていこうということだ。そのあてたフォーカスが間違っていれば、市場原理に従い「売れない」ということになる。

 しかし、それはコンセプトの誤りであって、価格がどうこうという話しではない。良いものは値段が高いものであるという前提の上での市場競争は、価格の勝負ではなく、コンテンツ、コンセプトの競争になる。マネジメントとは、コスト削減や効率化のことだけではない。必要ならば、非効率や無駄があってもいい。何を目的とするかは、多種多様なのである。

 今のコスト削減至上主義、安ければいい、安くなければならないという思考は、結局のところ、ものの価値が判別できない、ものの分別ができない、価値の判断基準を持っていないのではないかと思う。安いものは安くていい。しかし、安いのだから、この程度のものなんだな、だって安いんだから、で意識や思考が停止してしまい、本当に良いものを見いだそう、持とう、創ろうとしない。良いものへの活力や意欲がない。これが今の日本の状態である。

 もともと、自分たちの手でものを創っていく、創ったものを販売していくということは、もっと楽しいものであったはずだ。産業というものは、もっと楽しいものであったはずだ。それを面白くもなんともない、つまらないものにしているのがコスト削減至上主義なのである。

 昔は、良いものは値段が高いのは当たり前だとみんな思っていたと思う。80年代は、バブル景気でコスト意識なんてなかった。その後、景気が悪くなり、経済が停滞し始めると、コスト削減がさかんに言われ始めてきた。そして、21世紀の今になり中国・韓国の経済が勃興してくると、もはやなんでもかんでもコスト削減をしなくてはならない世の中になった。

 コスト削減とは、無能な管理者がまず最初に行う、それしかできない唯一の方法である。コスト削減ではなく、高いコストをかけて良いものをもつくり、高価格で販売してコストが十分回収できる。そうした良い製品、良いサービスを提供する体制なりシステムなりを創るのが優れたマネジメントである。本当の高度な産業社会とはそうしたものだ。

 良いものはお金と時間がかかる、高いコストがかかるのは当然だ。

April 19, 2012

石原都知事による「ヘリテージ財団」での講演

 石原都知事の東京都による尖閣諸島購入の発言は、都知事がアメリカの「ヘリテージ財団」に講演で発言したことである。この尖閣諸島購入発言が(当然だけど)大いに持ち上げられているわけであるが、実際のところ石原都知事は「ヘリテージ財団」でどのような講演を行ったのだろうか。

 この4月16日の「ヘリテージ財団」での石原都知事の日本語での講演は、「ヘリテージ財団」のサイトで見ることができる。

Apr 16 The U.S.-Japan Alliance and the Debate Over Japan's Role in Asia
The Heritage Foundation

 都知事は日頃の言論と同じく、相変わらずのことを言っている。その内容について、同意できるところもあるし、そうでないところもある。しかしながら、彼が共和党保守系のシンクタンクである「ヘリテージ財団」で堂々とこうしたことを言うということは、これはこれで高く評価すべきだと思う。日本の政治家はなぜこういうことをやらないのかわからない。民主党には英語ができる人が数多くいるではないか。

 そして、アメリカという国は、保守であろうとリベラルであろうと、どのような政治信条であろうと、堂々と自分の見解を正面から言う人はきちんと評価される。というか、自分の見解を言うということは、アメリカでは当たり前の、なんでもない、当然のことなのだ。まあ、この日本人は変わった人だなとは思われてはいるだろうけど。

 都知事の講演の後でのパネラーのスピーチでは、都知事の講演の英語通訳がそこまで通訳しなかったのか、東京都による尖閣諸島の購入ついてはまったく触れていない。しかし、通訳されていたとしても、アメリカ及び国際政治において、どうでもいいことなので触れるに足りずだったのだろう。そのどうでもいいことが、日本国内では大騒ぎになっている。

 しかし、盛り上がりに欠ける講演会だよな。今のワシントンでは、日本の扱いはこんなものなのだろうか。本来は、アメリカの対中国政策において、日本の役割を強く押し出すことができるはずなんだけど、そういう前向き(?)な内容は出せなかったのかね。

April 18, 2012

東京都の尖閣諸島購入について

石原都知事による東京都の尖閣諸島購入について、Twitterでつぶやいたこと及びその補足です。

よくわからんけど。「東京都は尖閣諸島を買うことにしました」って、我々、都民にとってどういうメリットがあるの?
ーー>東京都のやるべきことは都民への行政サービスの向上であり、そのために僕たち東京都民は税金を払っている。尖閣諸島の購入が、東京都にとってどのようなメリットをもたらすのかを東京都民に説明する義務が東京都にはある。

石原さんがやりたいカジノをここでやってマカオみたくするのかしら?いっそのこと東京都の経済特区にして、中国・台湾・韓国の企業はフリーパス、非関税で商売できるとする。映画館は各国と同じように公開。都民は格安でこの経済特区に旅行できるっていうのがいいな。
ーー>これは良いアイディアだと思ったけど、東京都が購入しようとしている魚釣島、北小島、南小島の三島はそんな経済特区にできる程の大きさではないことを後で知った。

名古屋市長といい東京都知事といい、どうしてこんなことばっかりやるかなあ(´・ω・`)
ーー>これはホントにそう思う。

尖閣諸島の実効支配は日本が行っていることをホンネでは中国もわかっているので、今回の東京都購入に反発はすれども、それ以上になにかをするわけではない。中国政府が気になるのは国内で反日感情が高まるかどうかということ。
ーー>日中関係がこじれるのは困るのは日本政府も中国政府も同じだ。

東京都が尖閣諸島を購入したとしても、日本と中国(実質的には台湾)がおのおの自分の領土だと主張している状況はなにも変わらない。(´・ω・`)
ーー>なにも変わらない。これで、なんか変わったように思うのは間違い。

例えば、サンクトペテルブルク市が国後島を購入したとしても、日本人はふーんという感じで、でも北方四島は日本の領土だよと思い続ける。同様に、東京都が尖閣諸島を購入したとしても、中国側は依然として、ここは中国領土だと言い続ける。なにも変わらない。
ーー>とにかく、なにも変わらない。国はなにもしない、東京都よくぞやった、とかいう声が多いけど、実質的にはなにも変わらない。

April 16, 2012

素直な目で世界を見て、基本に戻って考える

 先日、「日本の家電産業の終焉」というブログ記事を書いたが、日本の家電産業が終わってしまっては私も困るし、我々の税金で保護される産業になってもらっても困る。「日本はこれからそもそも何でメシを食っていくのか」ということを考えねばならなくなる、ということは、もっと具体的に言うと、中国・韓国との競争に、どうすれば対抗できるかということを真剣に考えなくてはならない、ということだ。もっと言うと、中国・韓国に勝つためにはどうしたらいいのかを考え実行していく、ということだ。

 中国・韓国の製品の方が品質も十分で価格も安い。だから、日本企業は勝てません。どうしましょう。で、以上オワリ、では話にならない。NHKスペシャルや日経新聞の番組や記事であればそれでいいだろうが、企業の現場はそうはいかない。

 この状況ではどうあっても勝ち目はない、という状況であっても勝つ方法を考えるのが経営戦略の務めである。実際のところ、こうした中国・韓国に対しての今の日本の置かれた状況であって、いくつもの策は考えられる。ようは、マネジメントの話であり、戦略の話なのだ。そのために経営戦略論がある。

 戦後半世紀間の「ニッポンのやり方」が通用しなくなっただけのことであり、新しい状況の中で、新しいやり方を考えていけばいい。もう一度、白紙の状態から今の状況を客観的に正しく捉え、中国・韓国がコレコレであるのならば、我々はコレコレでやっていこうと進むべき道を見いだすのである。それは素直な目で世界を見て、基本に戻って考える、ということだ。

 新しいことを考える、そしてその考えに基づいて新しいことをやっていく。日本経済が弱いのはこの点だ。戦後半世紀、先人が作ってくれた「ニッポンのやり方」をただ実直に守り、黙々と働き、アメリカ及び世界のマーケットに自動車や家電を売って経済大国であり続けたのだから、そうなったのもしかたがないとも言える。しかし、この先それが通用しなくなったのだから、いつまでも「これまでのニッポンのやり方」に従って終焉するのを待つのではなく、「新しいニッポンのやり方」を作って中国・韓国の企業に対抗していかなくてはならない。

 新しいやり方がわからない、作れない、日本を取り巻く今の国際社会(そこには、アメリカやヨーロッパだけではなく、中国もあり、韓国もあり、香港、台湾、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポールがあり、ロシアがある、インドがある)がどういうものかわからない。だから、古いやり方に固執するしかなくなる。しかし、心の中では、このままでは、この国の将来はないことはみんなわかっている、でも、新しい道がわからないからどうしようもない。今の日本社会の閉塞感の原因はここにあると思う。ガラパゴスな日本で、閉塞感の中で衰退していくだけになってはならない。中国・韓国と戦うために、やるべきことは山のようにある。

April 15, 2012

平清盛について、また少し考えた

 清盛のすごいところは、800年前の時代にこれからは中国だと考えたことだ。これからは中国だって思ったって、具体的にどういうことかというと、それまで九州の太宰府などとかでそれなりにやっていた中国との交易を、もっと本格的にバンバンやっていこうとしたことだ。

 交易であるということは、当然のことながら、中国から文物を輸入すると共に、日本側からも「なにか」を輸出するということだ。中国側は随、唐という世界史に輝く大文明の時代は過ぎたとは言え、なにしろ大中華帝国である。日本にないもの、日本より優れているものは膨大にある。つまり、輸入品はある。山のようにある。

 では、日本側からの輸出品はどうか。なにしろ大中華帝国に対して、文化などペンペンたるものしかなかった日本に売れるものがあったのか。まず銀である。日本列島から大量の銀がとれたので、これで中国から文物を買っていた。それと一部の工芸品だった。日本刀とか高級美術品としての扇とかだった。

 ここで、うーむとワタシならば思う。工芸品が売れるのならば、それはそれでいい。ではもっとどおーんと工芸品を作るべきじゃあないか。ほそぼそとやっているんじゃなくて、もーインダストリーとしてばあーんとやっていくべきではないか。

 この「中国と商売をする」ということが政策の中心となったのならば、日本国内のさまざまな分野での改革・改善が必要になる。中国と日本を往復する船だって、当時の和船はとても遠洋航海ができるしろものではなかった。だから、中国の造船技術に学ぶことが必要だ。

 もーとにかく、なんでもかんでも、日本は中華文明圏のスタンダードに追いつくことが必要だ。朝廷は、東アジアの世界情勢の収集・分析ができなくてならん。役人も商人も、もっとどんどん中国に行かなくてはならん。東アジアの公用語は中国語だ。ボーダーレスな中華経済圏の中で、日本は大きく繁栄していこうじゃないか。

 これまでの王家と藤原摂関家と神社仏閣の勢力とか、なんかわけのわからん源氏及び東国武士団たちとか、ごちゃごちゃしたものは全部リセットするために福原に遷都する。そして、(今の時代のシンガポールみたいな)貿易立国に日本がなろう!!

 清盛がここまで考えていたかどうかはわからない。そして、仮に清盛がこうしたことを考えていたとして、あの時代にこれができたとは思えない。王家と藤原摂関家と神社仏閣の勢力とか、なんかわけのわからん源氏及び東国武士団たちとか、みんな一斉に反対したであろう。

 事実、そうなった。そして、清盛の夢は歴史から消されてしまった。

 後の世の『平家物語』を代表とする軍記物語では、清盛は悪の権力者としてしか書かれず、義経はヒーローとして描かれ、平家一門は武士なのに公家になって栄華に溺れ、滅びていった悲劇の一族としてしか日本人の心情に残らなくなった。

 それから、千年近くの年月がたった。

 今、僕たちは中国の勃興を前にしている。この時代に、平清盛がNHKの大河ドラマに出て来た意味は大きいと思う。

April 14, 2012

日本の家電産業の終焉

 先日のシャープの台湾企業との企業提携の報道の数日後、シャープの抱える巨額の赤字の報道があった。それを見た時、ああっシャープは台湾の企業と提携したわけではなく、台湾企業に買収されたんだなと思った。ようするに、そういうことだ。日本のメーカーは台湾(中国)の企業に買収される、そうした時代になったということだ。巨額の負債を抱えているのはシャープだけではない。ソニーもパナソニックも、どこも同じだ。

 例えば、日本のテレビは高品質・多機能である。しかしながら、値段が高い。これに対して、中国や韓国のテレビは、日本のテレビほどのクリアな画質はないが、テレビを見る上では十分満足ができる画質である。それに、とにかく安い。

 別に困ることなく使えて、しかも安いのならば、顧客は当然、中国や韓国のメーカーのテレビを買うだろう。であるのならば、売るためにやるべきことは決まっているということだ。とりあえず満足する画質で、値段が安いテレビを日本のメーカーも販売すれば良い。

 ところが、これができない。製造コストが違う。日本の家電産業の大規模な赤字は、もはや生産拠点を中国に置くしかないことを意味している。従って、日本のメーカーは工場をどんどん中国に移転している。

 しかし、それでは国内の雇用がなくなる。国はそれでは困るので、家電メーカーに補助金を与え、なんとか国内で生産を続けてもらうようにするだろう。家電産業は、保護産業になる。

 家電産業だけではない。自動車産業も同じだ。半導体も同じだ。家電・自動車・半導体という日本を経済大国にした主要製品は、今や韓国、台湾・中国のメーカーの時代になっている。

 国民も高齢化している。老人保護社会になる。産業も国民もみんな国の保護なしではやっていけなくなるだろう。

 一方で、少子化なので労働人口はますます下がる。日本は移民を受けれることはしないので、生産に従事する人口はどんどん少なくなる。就業人口の低さによって、まったくお先真っ暗になったら、日本は移民を受け入れるようになるかもしれない。しかし、その時はもはや遅い。

April 13, 2012

韓国は発展している

 韓国の新聞の中央日報オンライン日本語版にコラム「噴水台」というのがある。4月11日のそれは「「韓国はまだまだ」と話していた大前研一氏…今は何と言うだろうか」というタイトルで、サムスン電子について大前さんが述べたことを論じている。

 書き手であるペ・ミョンボク論説委員氏は、サムスン電子と韓国経済について問題点を指摘する大前さんにやや腹立たしくなり、サムスン電子と今やサムスン電子より収益が下になったソニーの実績表を突きつけたという。

 ペ・ミョンボク論説委員氏はこう書いている。

「予想通りだった。サムスン電子の成功を認めながらも、「サムスン電子を韓国企業と考えれば誤算」という奇怪な答弁が返ってきた。サムスン電子は外観だけが韓国企業であり、実際には日本企業の強みと長所を徹底的に内化して自分のものにした事実上の日本企業だという論理だった。サムスン電子は日本という母体とへその緒でつながっているという表現まで使った。サムスン電子は韓国で日本製品の最大輸入会社であり、核心部品・装備を日本に依存しているという事実を忘れてはいけないという言葉も述べた。」

 ここでまず思うのは、「サムスン電子を韓国企業と考えれば誤算」という大前さんの言葉を奇怪な答弁としていることだ。大前さんのグローバル企業論では、ある国の企業がグローバル企業としてやっていくには、その国の会社ではなく、あたかも外国の会社のようになって当然であるとする。

 サムスン電子が先行する日本企業に学び、日本企業そのものになったかのようになったことは、日本企業になったからではなく、それほど他の国の企業になれたということで褒めているのだ。別に日本企業でなくても、アメリカ企業でもなんでもいい。

 このへんを理解せず、大前さんはあくまでも日本の方が韓国よりも優れていると言っていると解釈するのは間違いだ。今や韓国は発展している。日本の自動車・家電製品は、韓国・台湾(と中国大陸)の企業に大きく遅れをとっている。

April 07, 2012

経済の主体は中間層の生産力と購買力だ

 私が大学で経済学や産業社会学や経営学を学んで、今日に至るまで20年近くの年月がたった。

 最近になって、ようやくわかったことがある。それは、経済の主体とは、中間階級層であるということだ。中間階級層の生産力、購買力こそが経済の主体である。これは国やイデオロギーによっての違いはない。先進国も新興国も同じだ。

 私が大学依頼関心を持ってきたテーマのひとつは、この産業社会はどのようにして生まれ、これからどうなっていくのかということだった。かつて、この社会は主な産業は農業だった。そこに、ある時代からテクノロジーが生産技術に応用され、テクノロジーを基盤とした産業社会へと変わっていった。このテクノロジーが産業社会を作り、その中で人々はどうなってきたかということが、大ざっぱに言えば私の関心事だった。

 しかしながら、これまで日本と世界の国々の変遷を見てきて、ある国の経済は豊かであり、ある国の経済はそうではないことや。また、ある国では以前は貧しい国であったが、現在では豊かな国になっているなど、そうした違いはなにによるものなのかなどということを考えるようになってきた。そして、最近出したその結論は、中間階級層の生産力、購買力こそが経済の主体なのだということだ。リーマンショックとユーロ危機から我々が学んだこととは、これだ。

 豊かな国というのは、その国の規模が大きい小さいではなく、また、その国には資源が豊富にあるとかないとかでなく、中間階級層の生産力、購買力があるから豊かな国になっているのである。かつて貧しかった国が豊かな国になったのは、中間階級層の生産力、購買力が高まっていったからである。豊かな国が貧しい国になるのは、中間階級層の生産力、購買力がなくなっていったからである。

 従って、中間階級層が円滑に働き、購買していくように社会の仕組みがなっていなければならない。この仕組みを作り、維持していくのが国の勤めなのである。中間階級層が円滑に働き、購買していかなくては、経済の発展はなく、社会格差が広がり、政治的安定はなくなる。金融投資と巨大インフラへの支出が必要なのではなく、中間階級層が円滑に働き、購買していくことができるように、教育を充実させ、医療制度を改善し、中小企業を育成し、法律制度を整えることが必要なのだ。

 何度も強調するが、アメリカでも、中国でも、韓国でも、台湾でも、シンガポールでも、タイでも、インドでも、ロシアでも、トルコでも、みんなそうなのだ。資本主義とか社会主義とかの区別はない。

 まあ、当たり前のことなんだけど。

誰が本や映画や音楽や演劇やアートを見たり、聴いたり、読んだりするのか

 大前研一さんのコラム「日本でも若者の失業が深刻な社会問題になる」によれば、「安定的な就業をしている若者は「2人に1人以下」」であるという。これは、かなり深刻な事態になっていることを表している。

 とーとつな話で恐縮であるが、本や映画や音楽や演劇やアートを見たり、聴いたり、読んだりするのは、やはり若者層が多いと考えるのが一般的だろう。結婚して自分の家族を持つと、なかなかそうしたことにお金と時間をかけることができない。しかしながら、その若者層が安定した職業に就き、安定した収入を得ていないとなると、そうしたことにまわすカネと時間がないということになる。

 ようするに、今の世の中で、本や映画や音楽や演劇やアートを見たり、聴いたり、読んだりするのは、どのような顧客なのであろうかということだ。これまでの世の中であるのならば、そうした顧客は学生、若者がメインであると思うことができた。しかし、今の時代は、もはや学生、若者は関心的にも、また経済的、時間的にも、そうしたことに費やすことができない、しないようになってきたのならば、誰がそうしたことをやっていくのかということだ。

 もちろん、大ざっぱに「本や映画や音楽や演劇やアートを見たり、聴いたり、読んだりする顧客」という区分け自体がもはや成り立たない。もっと細かく子細に見ていく必要がある。経営戦略を考える時、三つのC、カスタマー(顧客)、コンペティター(競争相手)、カンパニー(自分の会社)を考えなくてはならない。そういうわけで、今、どのような人が「本や映画や音楽や演劇やアートを見たり、聴いたり、読んだりする顧客」なのだろうかと漠然と考えている。

 そして、日本国内を相手にしていくのならば、少子化で子供が減り、若者が安定した就業ができない、しない世の中になっていくということは、「本や映画や音楽や演劇やアート」の顧客層は増えることはせず、減っていく一方になるということになる。なにをいまさら、こんなことは誰でもわかっていることなのだけど。

April 03, 2012

「文章を書く」をクラウド化する

 最近のエディタは、クラウド対応になっているものがある。

 これはメッチャ便利だ。どういうものかと言うと、例えば、自宅のディスクトップで文章を書いていて、途中までの書きかけ状態で終わったとする。次に外出先でiPhoneでこの書きかけ文章を出して、続きを書いて、これも途中で終わる。そして、自宅へ戻りディスクトップで、さっきiPhoneで書き続けていた文章に、さらに書き続けることができるというものだ。

 本来、クラウドというのは、こうした使い方をするためにある。これまでクラウドの時代とか色々言われてきたけど、ようやくクラウドに対応したアプリが出始めてきたので楽しい。

 僕は、オンラインストレージサービスのDropboxというのを使っている。このネット上の保管庫を経由して、自宅でのiMac、ノマドで使うレッツノートや、レッツノートを持っていない時に使うiPhoneの3つで、同じ文章ファイル使うことができる。どんな場所でも、とぎれることなく、前の続きの作業が継続できるというのは素晴らしい。

 もちろん、以前、ここで紹介した「Simplenote」と「JustNotes」の組み合わせもいい。これはただのプレーンな文章ファイルの単体ではなく、情報の整理、タグつけができるので、これはこれで使えるツールだ。

 とにかく、情報はどんどん出す。アタマの外に出す、アウトプットする、ネットに置く、クラウド化する。クラウド化することで、ネットにつながる環境とデバイスさえあれば、どこででも作業ができる。

 もう自分がこれまで書いてきたデジタル文章のファイルのすべてを一式全部、ネット上のDropboxに移動させちゃってもいいかもしれない。

April 02, 2012

久しぶりに東京堂書店に行ってきました

送信

 昨日、久しぶりに神保町に行った。そして、これも久しぶりに東京堂書店に行ってきた。なんと、お店は改装されていてリニューアルされていた。

 ほほう、これは、と思い、さっそく入ってみた。

 うーん、やりたいことはわかるんだけど、うーむ、これは。

 まず、一階のカフェだけど、なにゆえこの神保町という場所で店内にカフェを置く必要があるのだろうか。店の周りに、カフェは数多くあるではないか。顧客の動きとしては、神保町では、本屋さんで本を買って、カフェ専門店で珈琲を飲むだろう。僕もまたそうだし。書店が高いビルになっている三省堂や新宿の紀伊國屋や池袋のジュンク堂みたいな店であるのならば、店内で珈琲を飲むということはある。しかしながら、中規模書店の東京堂書店で、しかも周りにはカフェが数多くある場所で、なぜ店内にカフェを置く必要があるのか。

 書店の本はデジタルデータではなく、実際のモノである。本屋は、そのモノを置いて並べなくて成らないのだから店内の床面積は貴重であるはずだ。その貴重な床面積をカフェに割り当てるということと、集客効果を比較してカフェを置くことにしたのだろうが、そのへんの理由が知りたい。

 この本屋さんは、いわば総合ジャンルを扱う本屋さんであって、人文科学、社会科学、自然科学、工学、アート、等々のいわば大手の本屋さんと同様の領域を扱う。しかし、この規模の本屋さんでそれをやると、今の時代、どの分野も中途半端になってしまって品揃えに貧弱感を感じてしまう。あれも、あれも、あれも、ないじゃんということになる。

 さらには、店員さんの方も、これらの全ジャンルをカバーするのはなかなか困難だろう。顧客からの問い合わせや、本の品揃えの選択や関連をもって本を本棚に並べるには、その分野についてそれなりの知識がなくてはならない。店員はフロアーごとに担当範囲を持っているとしても、この分野の多さに対応できるかどうか。

 フロアーごとにコンセプトがあり、そのコンセプトに基づいて本を置いているというのは意味はわかる。しかし、あのコンセプトにもし忠実に従うのならば、この規模の本屋ではこれは無理だと思う。本の数が足りない。この規模の本屋では、もっとコアとする部分に絞った方がいいと思う。
 
 例えば、2階の「原節子」と当時の日本映画のコーナーは良かったけど、あまりも数が少ない。あれでも少ない。「原節子」をキーとして、もっと往年の日本映画の関連本、写真集、DVDへと広がっていって欲しかった。それで、ひとフロアー全部を使ってもいいのではないか。もちろん、それでも足りるわけではなく、その先はネット情報で提示してくれるような仕掛けがあって欲しい。「本」には、リアル書店もネットも区別はない。しかし、我々が「出会う」のはリアルな場の本屋なのだ。このへんの仕掛けがしっかりしているのならば、本屋の内装とかは極端なことを言えばどうでもよく、昔の本屋さんのようにただ本が棚に置かれているだけでもいい。

 昔の読書人は、ただ本が置かれているだけの本棚をざっと見て、それらの本から「つながり」をスパッと把握する。なぜ、そういうことができるのかというと、その分野での知識と教養を持っているからだ。今の顧客は、なかなかそれができないから、本屋側をその「きっかけ」を提供し、顧客の側はその「きっかけ」から自分で本の空間を進んでいくことができる。そうしたことができる「装置」として、今の本屋はある。そういう「装置」になっているかどうかが重要なのだと思う。これは本屋の規模の大小とか本の品揃えの数の多い少ないではない。

 つまり、「きっかけ」の場としては、リアル本屋さんには規模の条件があるからコアを定める。そのコアから広大な読書空間へと誘う「仕掛け」を置く。その広大な読書空間には、アマゾンさんが待っているんじゃないですかという声もあるだろうけど、アマゾンさんがいようが、三省堂さんがいようが、紀伊國屋さんがいようがいいではないか。トータルに「本の販売」全体を扱う、大きなvehicle(乗り物)としての本屋さんってないよね。

 新保町という本屋が密集したこの場所で、かつ、アマゾンというネット書店に対抗しなくてはならないとなると、そうとうの独自価値を出さなくてならない。このリニューアルにかけたコストを回収し、かつ利益を出さなくてはならないことを考えると、ああっ東京堂書店さんはたいへんだなと思う。

April 01, 2012

東日本大震災と都市東京

 東日本大震災について、これまであまり書くことがなかった。あえて書かなかったのではなく、書くことがなかった。

 東日本大震災での地震や津波や原発事故の直接的被害は、僕にとっては他人事である。震災後、東北の被災地へ行こうと思えば行く機会はあった。しかし、行っていない。行けばいろいろなことを考えただろうなとは思う。しかし、それは直接に震災被害を受けた者ではない、当事者ではない、ただの旅行者の感傷のような思考だ。

 あの日、僕は神奈川の職場から東京の自宅まで歩いて帰った。5時間ぐらい歩いたと思う。とにかく歩いた。携帯電話での通話はできなかった。iPhoneのバッテリーを気にしながら、時々、Twitterを見たり、ツイートを書き込んだ。iPhoneでネットにアクセスすることができたので、今何が起きているのか、どこで何がどうなっているのかについてある程度知ることができた。

 路上で帰宅難民になった人々を見た。交通インフラが停止した平日の夜の東京はどうなるのか、ということを実体験した。それが、僕の東日本大震災の体験だ。それが、地震や津波や原発事故の直接的被害を受けたわけではない東京都民である僕の体験だった。311の後、しばらくの間、夜の街の照明やネオンが消され、新宿や池袋や渋谷の駅前が暗かった。この時の暗さも、311について覚えていることだ。逆から言えば、これらしかない。

 あの日の夜、数多くの帰宅者の中の一人として、ただ延々と歩いていた僕が思ったことは、地震のことや津波のことや、ましてや原発事故のことでもない。この程度の地震で交通インフラが止まるという都市の脆さについてだった。交通インフラが地震で簡単に止まり、数多くの人々が帰宅難民になるということと、地震で電力供給が停止して事故になった福島原発も同じだ。つまり、文明は脆い。

 もちろん、文明は脆いと呑気に僕が思うことができたのは、東京が直接の震災を受けたわけではないからだ。東京でも大規模な地震が起きていれば、交通インフラが止まるだけの被害にはならない。建物が崩壊し、橋が陥落し、高速道路が倒れるなどいったことが起こり、東京でも死傷者の数は甚大なものになっただろう。

 今回の震災では、2万人が亡くなったという。2万人である。この2万人が亡くなったということが、東京にいると本当の出来事だったのかどうか実感を持って感じることができない。

 17年前の大地震は神戸で起きた。だから、関西の人々は震災を実感を持って感じることができる。東京には、これがない。東京で大規模な数の人々が死んだのは、60年以上前の太平洋戦争の時の東京大空襲だ。その前となると、100年近く前の関東大震災になる。もはや歴史の話だ。つまり、東京都民は震災あるいは災害をリアルに感じることがない、できない人々なのだ。

 つまり、当事者ではない。当事者ではないと、どうなるか。当事者ではないと、考え方が傍観者的視点になる。そして、この出来事をすぐに忘れる。

 311、あの日、文明のカプセルが少し崩れた。崩れて、しばらくの間、外の本当の世界の暗闇が、文明のカプセルの中に流れ込んできた。人々はその闇に最初は戸惑ったが、やがて慣れた。我々が住んでいるのは、文明のカプセルの中であって、その外には本当の暗闇が広がっている。文明のカプセルは脆いものなのだということを、僕たちはなんとなく感じたのだと思う。文明は脆く、命には限りがあるということを。

 そのカプセルのほころびは為政者とメディアによってすぐに塞がれてしまった。東京の夜は、以前と同じ明るさに戻った。すると、僕たちの意識もまた以前の状態に戻った。ナニゴトもなかったかのように。当事者ではないと、2万人が亡くなったこの震災から、何も学ぶことなく、きれいさっぱりに忘れることである。大正12年の関東大震災や、昭和20年の東京大空襲のように、平成21年の東日本大震災として、ただの歴史の出来事になるということだ。

 しかしながら、もう一方で当事者ではないということは、この出来事を距離を持って客観的に見ることができるということだ。震災にせよ、原発事故にせよ、被害は終わっていない。今でも続いている。福島原発でさらに事故が起これば、東京もまた壊滅的被害に直面する。なによりも、東京に大地震が起これば都市東京は終わる。

 当事者ではないからこそ、被災地ではない東京にいるからこそ、考えることができる。考え続けることができる。

« March 2012 | Main | May 2012 »

September 2022
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ