映画『小さな村の小さなダンサー』
渋谷のBunkamuraで映画『小さな村の小さなダンサー』を見た。中国語を習っている先生から、この映画はいいから観てごらんと言われた。ようするに、オマエは拳法をやっているので、同じく自己鍛錬をして身体の動きを作り上げていくバレエの話で、かつ、オマエの好きな中国の話なので、この映画は良いのではないかということなのであろう。なるほど。じゃあちょっと見てみましょうかというわけで、ひさしぶりに渋谷にBunkamuraへと行った。
この映画はネットでの評判はとても良い。良いのであるが、観客の入りは非常に少なかった。東京で上映している映画館も、渋谷と銀座の二館だけだ。なぜ、もっと数多くの映画館で上映しないのかと言えば、理由は簡単なことで、客が入らないから、であろう。映画そのものの観客が減っているし、今の状況では中国関係の映画は客の入りが少ないのだろうなあと思う。
物語は、山東省の小さな村で貧しくとも家族みんなで楽しく暮らしていた少年リーが、ある時、北京から来た舞踏学校の視察団に選ばれて、バレエ学校の入学試験を受けることから始まる。これは、身体能力の優秀そうな子供たちを全国から選び、その中からさらに選別した子供たちに、バレエを学ばさせて国家の文化育成にしようという党の政策であった。しかし、本人からすれば、家族と離ればなれにさせられ、バレエという見たことも聴いたこともないものを覚え込まされるということだけのことで、とにかく少年リーにとって、教官に怒られてばかりのバレエはいやでいやでしょうがないものだった。
この少年リーが、ある出来事をきっかけに本来の西洋バレエのすばらしさを知り、真剣にバレエの稽古に取り組むようになる。数年がたち、彼は舞踏学校でトップクラスの練習生になる。
この北京舞踏学院の名誉校長は、江青であった。ある時、江青がこの学校を訪れ、練習生によるバレエ演舞を見る。ようするに、ごく普通のバレエの演舞である。これを見た江青曰く「踊りはいい、しかし、銃はどこ、革命を称えることはどこにあるのか」。この言葉を受けた教官たちは、本来の西洋バレエではなく、創作の革命劇のバレエにし、その次の演舞では、共産党を称える革命劇のバレエを上演する。これを見た江青は、喜ぶのであった。
これはバレエの物語であるが、例えば京劇でも『覇王別姫 』を見ると、文革当時、共産党による激しい弾圧があったことがわかる。
中国共産党が、中国の文化史に残した罪は大きい。共産党は、中国の歴史的文化をすさまじく弾圧した。文化を抹殺しようとしたと言って良い。それは1960年代から始まるいわゆる文化大革命からそうであったわけではなく、その前の国共内戦の頃からそうであった。むしろ、国民党の方がそうしたものを擁護していた。そのため、それらの多くが国民党とともに大陸を去り、台湾へと移った。ちなみに、中国拳法もまた同じく共産党が弾圧すべき「悪しき古き中国」であり、数多くの武術家も国民党と一緒に台湾へ移った。このため、古き良き中国の文化の多くは、今日、大陸の方ではなく、台湾の方にあると言っても良い。今の中国は、あの当時の弾圧を間違っていたとし台湾に逃れたそうした文化遺産を取り戻そうとしている。しかし、今の中国は文革を「間違っていた」としているが、だからと言って文革を正面から批判するのは今でもできない。
時代は変わり、1970年代になり、毛沢東の死去の後、江青は逮捕され、失脚していた鄧小平が復活し、文革は終わる。対米関係の関係改善が行われ、アメリカからバレエ団が北京舞踏学院を訪れる。このバレエ団に見いだされ、リーはヒューストンのバレエ団での研修に参加することになり、アメリカへと行く。
この「アメリカに行く」ということもまた、政府の政策であった。なにしろ、党が許可しなくては外国に行けないのである。この時代、中国政府は各分野の優秀な若者たちを欧米に送り、知識や技術を学ばせて、帰国後、国家建設に貢献させるという政策を行っていた。
リーが初めてアメリカへ行き、ヒューストンの空港に着き、そこから街へタクシーで移動するシーンで、彼はタクシーの窓から初めて見るアメリカの都市の景観に驚く。街の風景が、彼が中国で教えられてきたアメリカの姿とはあまりにも違うのだ。面白いことに、このシーンを見ながら、僕は自分が去年行った北京を思い出した。自分もまた北京空港からタクシーに乗って北京市内へ行ったわけであるが、もう夜であったが、タクシーの窓から見る風景は、それまでの自分の知識の中にある中国の街とはまったく違う、超近代的な都市の夜景がそこに広がっていた。1970年代に北京からヒューストンに行ったリーは、その都市の景観のすごさに驚いたが、2009年に東京から北京へ行った僕は北京の街の景観のすごさに驚いた。つまり、この40年間で北京の景観は一変したのである。
アメリカの実際の生活を知ったリーは、それまで教えられてきたアメリカ資本主義帝国の話が間違っていることに気がつく。そして、彼は亡命を決意する。
思えば、山東省の小さな村から北京へ行ったことも、北京からアメリカへ行ったことも、彼個人の意思ではなく、党や周囲の意思であった。亡命は、その彼が、初めて自分の意思で決定したことだった。初めて自分の意思で決定したことが、自分の祖国を捨てるということだったことにやるせなさを感じる。
かつての中国では、能力のある若者で自由を求める者は亡命をせざるえなかった。しかし、今や中国は世界の大国である。今の中国の若者たちは、欧米に行っても、彼の地の文明のレベルの高さや文化の洗練さに気後れすることはないのではないか。欧米で知識と技術を学び、母国中国に帰って、中国でそれらを発揮する場と機会が十分にある。その違いを思うと、リー個人の人生と中国現代史の重なりがさらに感じられて、さらにやるせなくなる。もちろん、アメリカでバレエダンサーとして生きていくことだけが幸福であるわけではないだろう。そもそも、小学生の時、視察団に選ばれることがなければ、山東省の村の農夫としての人生を送っていただろう。どう生きていくのが一番いいのかは誰もわからない。結局は、自分の意思に従うしかない。だが、彼の国は、自分の意思に従う自由を否定し、党の意思に従うことを強制される国であった。
この物語は、実話をもとにしている。
主役のリーを演じたのは、イギリスのバーミンガム・ロイヤル・バレエ団の人で、その身体の動きは見事としかいいようがない。僕は、バレエについてはまったく知らない。この映画の中で出てくるバレエシーンのなにがなんであるのか、なんという作品のどの部分なのか、さっぱりわからない。わかるのは、とにかく、この人の身体の動きが奇麗だなとか、こうした動きができるようになるにはそうとう練習をしたのだろうな、ということぐらいである。それだけはよくわかる。
リーの母親をジョアン・チェンが演じている。『ラストエンペラー』で皇后の婉容を演じた彼女が、これがまた見事に田舎のお母さんを演じている。リーが亡命したので、そのことを糾弾しにきた村の人たちに向かって、「国が自分の子供を取り上げておいて何を言うか!」「私の子供を今すぐ返せ!」と叫ぶシーンがある。なるほど、親からすれば、国に息子を取られただけのことであった。
誰も好きこのんで国や家族を捨てるわけではない。それでも亡命したいという意思の裏には、自分は身勝手な人間である、自分は祖国にはもう戻れず、この世界に一人である、という思いが常につきまとっていた。そのへんの描写が、リーが故郷の村を出る時に家族と一緒にとった写真を手にとって見るシーンにある。この屈折した心理が、リーをバレエの猛稽古に向かわさせたのだろう。もって生まれた才能と絶えざる修練が、彼を優れたダンサーにした。そして、彼はダンサーとしての名声と栄達を手にした。その心情は、後悔なき人生であったであろうが、かといってまったく幸福な人生だったとは言えないのではないか。彼の前半生は、中国の政治に動かされた前半生だった。
この映画は、オーストリアの監督の映画である。原作者リー・ツンシンは、現在オーストラリアに住んでいる。中国へは戻っていない。
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