東アジアの1945年
8月15日が「戦争が終わった日」だと意識するのは(太平洋戦争の終結の日は、正しくは降伏文書調印が行われた9月2日である)、戦後のマスメディアが作ったイメージでしかないことを以前ここで書いたことがあるが、そうであったとしても、やはり8月15日になると、大東亜戦争のことを考えてしまう。それほど、私も戦後の日本人の一人として「8月15日」というものが染み付いているのであろう。
加藤聖文著『「大日本帝国」の崩壊』(中公新書)を読む。この本は、たいへん興味深い本である。
戦前の日本は、「大日本帝国」と名称する国であった。この帝国の領域は、朝鮮、台湾、満州だけではない。樺太も南洋諸島も、この帝国の領域であり、大日本帝国は東アジアの数多くの地域にまたがる国際国家であった。つまり、大日本帝国の崩壊は、日本列島とそこに住む人々たちの国だけの崩壊ではなく、東アジアのこれらの地域の統治機構の崩壊でもあった。そして、この帝国は、大東亜共栄圏を提唱しながら、その末路において、そうした東アジアの諸地域の人々および日本人を考慮することはなかった。東アジアの諸地域では、大日本帝国の敗戦による崩壊と混乱の中で、アメリカとソ連の対立にまきこまれていったのである。我々は、太平洋戦争での敗戦を、日本国の敗戦としてしか意識しないが、実際は上記のように、視点をもっと大きく、東アジア全体の視点で考えることができる。そのことを、この本は教えてくれるものである。
8月15日を境にして、日本国内では戦争は終わった。しかし、帝国の版図では、その日が終わりではなかった。京城や台北や重慶・新京や南洋群島・樺太では、その後も、それぞれの地域での「戦争」が続いていった。帝国の臣民とは、内地および外地の日本人のみならず朝鮮人、台湾人、その他の少数民族もまた、タテマエ上は帝国の臣民であった。しかしながら、8月15日は、そうした人々を切り捨て、一方的に帝国であることを放棄した日だったのである。切り捨てられた民族と外地の日本人は、自分たちで自分たちの運命を切り開いていかなくてはならなかった。ここに出てくるのが、「大日本帝国」の崩壊後、東アジアを分断するアメリカとソ連の存在である。
例えば、朝鮮では8月15日の日本の敗戦により、日本による支配統治が終わり、悲願であった独立ができるものと思っていたが、実際はアメリカによる支配の始まりであった。さらに、米ソの場当たり的な対応の中で、なかばいい加減に38度線で分断され、米ソの代理戦争ともいうべき朝鮮戦争に突入してしまった。
著者は書く「結局、大日本帝国の誕生から崩壊まで、ほとんどの日本人は日本人による日本人だけの帝国という意識を捨て切れなかったのである」と。
このことは、戦後65年になっても、今なお日本は、あの戦争の被害者意識だけがあり、加害者意識を持っていない、持とうとしない、目を向けようとしないことにも関連している。
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