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August 2010

August 17, 2010

薩頂頂のファンです

 甄子丹(ドニー・イェン)主演の最近の映画で『錦衣衛 』というのがある。例よって例のごとく、この映画も日本公開はないので、例よって例のごとく、僕は香港の通販サイトでDVDを購入して、この映画を観た。この映画そのものの話は別の機会に書くとして、この映画のラストで流れる歌が、なんかすごく良かった。そこで、サントラCDが出ているのならば買わねばと思い、ネットで調べてみた。そして、この歌は薩頂頂(サー・ディンディン)という中国の女性アーティストが歌っているということを知った。

 これが、僕が薩頂頂を知った始まりであった。

 薩頂頂は、中国系の父とモンゴル系の母のもと内モンゴルで生まれ、幼少期をモンゴルで過ごした。モンゴルで少数民族の音楽から影響を受け、さらに仏教への関心からチベット語とサンスクリット語を学ぶ。長じて、北京の中央音楽学院で哲学と音楽を学んだ。彼女の曲は、一般的なチャイニーズポップとは違う。よくぞ、こうした音楽を作ってくれたという感がある。

 今のチャイニーズポップは、アジア圏や欧米圏にも「売れる」ことも念頭においた音楽作りになっていて、いい意味にせよ、悪い意味にせよ、ジャパニーズポップやアメリカの流行曲のような音楽になっている。それはそれでいいし、どんどん洗練された良いものになっていると思い。しかしながら、音楽とは本来そうしたものだけではなく、スピリチュアリティなものを含んだものをある。1980年代に欧米で、ニューエイジ・ミュージックというジャンルが現れるのも、そうした音楽本来が持っている精神的なものへの回帰だったのだろうと思う。そのジャンルに、中国から新星のごとく現れたというのは意外だった。中国の音楽シーンは、ここまで来たのかという感じであった。

 彼女の音楽には、一種独特の宗教的な雰囲気すらある。彼女は、自分で作った言語でも曲を作るのだ。しかし「言語」としてどうなのかは、よくわからん。自分の言語能力では、なんとなく中国語(北京語)ではないなということしかわからず、チベット語とサンスクリット語の違いすらわからん。ましてや、彼女が自分で作った言語なのかどうかもわかるわけがない。ちなみに、彼女はモンゴル語もできるんだろうなと思う。

 彼女の音楽は、チベット仏教を電子音楽に乗せて、新しいカタチで表現して現代によみがえさせる。それは見事というほかない。実は、薩頂頂の前に、彼女のような曲を作る左佐樹(サージュ)という中国女性アーティストがいた。左佐樹はアルバムを2枚出して、1998年のアニメ映画『スプリガン』の主題歌は左佐樹が歌っている。その後、チベットで事故にあい重傷をおったため、しばらく音楽活動から遠ざかっているそうだ。左佐樹の音楽にはチベット音楽が大きく影響していた。薩頂頂の音楽にもチベット音楽が大きく影響している。ただ、薩頂頂の音楽の方は現代風なポップさがある。

 おもしろいことに、薩頂頂の音楽活動の、もともとの始まりは、今のようなアンビエントものではなくダンスミュージックだった。モロ、欧米のポピュラーではないですか、ということなのだ。さらには、フツーの歌謡曲のシンガーとして音楽活動を開始している。そして、そうして始めた音楽活動の中で、これからもダンスミュージシャンとして、あるいはフツーの歌謡曲のシンガーとして、このまま続けていくのかどうか迷った末に、今のスタイルを確立したという。

 チベット音楽の影響があるからといって、瞑想的な神秘的な音楽なのかというとそうではなく、全然、欧米風の音楽なのである。だからこそ、イギリスで絶賛されるのだろうなと思う。この彼女の音楽スタイルの変化には、音楽活動のレーベルがUniversal Music Groupになったということも関係している。Universal Music Groupは、彼女の中に、彼女の本来の音楽スタイルを「発見」し、彼女もまたその方向へ進んでいったのだと思う。かくて、サー・ディンディンが誕生した。異なる民族文化が融合し、現代のグローバルシーンでも通用するスタンダードさも持つ、ということに、これからの中国のもうひとつの進むべき方向があると思う。彼女の音楽に、これからの中国が進んでいって欲しい方向を僕は感じる。

 薩頂頂の東京ライブの公演は、むずかしいだろうなと思う。1980年代のサブカルチャー全盛の頃の日本の音楽シーンであるならば、彼女の曲は高く評価されて、日本でもライブ公演をやるであろうけど、今の日本で彼女の曲で人が集まるとは思えん。ファーストアルバムは、日本でも発売されたが、セカンドアルバムは日本での発売はないようだ。つまり、ファーストアルバムが日本では売れなかったということなのだろう。さらに言えば、日本ではファーストアルバムはすでに廃盤になっている。よっぽど、売れなかったのであろう(まあ、僕もドニー・イェンの映画で知ったわけであるが)。となると、ライブを見に行くには中国とかイギリスとかに行かなくてはならんな。


August 15, 2010

東アジアの1945年

8月15日が「戦争が終わった日」だと意識するのは(太平洋戦争の終結の日は、正しくは降伏文書調印が行われた9月2日である)、戦後のマスメディアが作ったイメージでしかないことを以前ここで書いたことがあるが、そうであったとしても、やはり8月15日になると、大東亜戦争のことを考えてしまう。それほど、私も戦後の日本人の一人として「8月15日」というものが染み付いているのであろう。

 加藤聖文著『「大日本帝国」の崩壊』(中公新書)を読む。この本は、たいへん興味深い本である。

 戦前の日本は、「大日本帝国」と名称する国であった。この帝国の領域は、朝鮮、台湾、満州だけではない。樺太も南洋諸島も、この帝国の領域であり、大日本帝国は東アジアの数多くの地域にまたがる国際国家であった。つまり、大日本帝国の崩壊は、日本列島とそこに住む人々たちの国だけの崩壊ではなく、東アジアのこれらの地域の統治機構の崩壊でもあった。そして、この帝国は、大東亜共栄圏を提唱しながら、その末路において、そうした東アジアの諸地域の人々および日本人を考慮することはなかった。東アジアの諸地域では、大日本帝国の敗戦による崩壊と混乱の中で、アメリカとソ連の対立にまきこまれていったのである。我々は、太平洋戦争での敗戦を、日本国の敗戦としてしか意識しないが、実際は上記のように、視点をもっと大きく、東アジア全体の視点で考えることができる。そのことを、この本は教えてくれるものである。

 8月15日を境にして、日本国内では戦争は終わった。しかし、帝国の版図では、その日が終わりではなかった。京城や台北や重慶・新京や南洋群島・樺太では、その後も、それぞれの地域での「戦争」が続いていった。帝国の臣民とは、内地および外地の日本人のみならず朝鮮人、台湾人、その他の少数民族もまた、タテマエ上は帝国の臣民であった。しかしながら、8月15日は、そうした人々を切り捨て、一方的に帝国であることを放棄した日だったのである。切り捨てられた民族と外地の日本人は、自分たちで自分たちの運命を切り開いていかなくてはならなかった。ここに出てくるのが、「大日本帝国」の崩壊後、東アジアを分断するアメリカとソ連の存在である。

 例えば、朝鮮では8月15日の日本の敗戦により、日本による支配統治が終わり、悲願であった独立ができるものと思っていたが、実際はアメリカによる支配の始まりであった。さらに、米ソの場当たり的な対応の中で、なかばいい加減に38度線で分断され、米ソの代理戦争ともいうべき朝鮮戦争に突入してしまった。

 著者は書く「結局、大日本帝国の誕生から崩壊まで、ほとんどの日本人は日本人による日本人だけの帝国という意識を捨て切れなかったのである」と。

 このことは、戦後65年になっても、今なお日本は、あの戦争の被害者意識だけがあり、加害者意識を持っていない、持とうとしない、目を向けようとしないことにも関連している。

August 14, 2010

こうやって韓国より遅れていく

 ちょっと最近、イ・ジュンギくん主演の時代もののドラマ『イルジメ』を見始めているけど、これ結構おもしろい。日本はテレビドラマもガラパゴス化しているなと思う。

 で、

 我が国のみなさんは、首相が韓国に「謝罪」すると、なんで謝罪なんぞするのか。謝罪する必要なし!!朝鮮が日本の植民地になったのは朝鮮がバカだったからである、イギリスがインドに謝ることをしたか、朝鮮人は甘やかすと傲慢になり牙をむく。一度でも餌を与えると、要求がエスカレートしとどまることがない、等々と騒いでいる。

 こうやってこの国は、はっと気がつくと韓国より遅れた国になっていく。
 
 だから、今の韓国のコレコレはこうで、これは我が国より進んでいるではないか。これはイカン!!!韓国に負けずにガンバロウ、という話にはならないのである。それはそれで、別の話になるらしい。


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