中国旅記4
1日から3日の3日間、中国は連休であった。北京では、「今年メーデーの連休中、北京市は国内外の観光客、延べ370万人を受け入れ、去年同期より22.7%増えた」であったという。だから、あんなに人が多かったのかと思う。とにかく、天安門広場の人の数がものすごかった。地下鉄の人の数もものすごかった。「人海」という言葉を実感したというのが、いかにも中国に来たな感じがすると思ったものだったが。とにかく、人の数が多かったのである。
というわけで、4日の今日は平日なので、それほど混むことはないだろうと天安門広場へ再度行ってみると、2日ほどではなかったが、それでも結構な人の数であった。とにかくまあ、いつ行っても人が多いということなのであろう。
前回は、人の多さで恐れをなして入ることがなかった故宮博物館、つまりは紫禁城へ入る。
紫禁城は、かつての皇帝の政務の場所であり、住居である。今では、世界遺産となり、世界各国の観光客のみなさんが、こうしてどんどん入っていく。
自分もまた観光客の一人として、紫禁城の中へ入っていた。おおっ、これは『ラストエンペラー』のあのシーンではないかみたいな光景が多く、興味深かったわけであるが。この中を歩きながら考えてしまった。ワタシは日本人である。日本には、今でもエンペラーがいるのである。
これを日本の場合で考えてみれば、共産党が革命によって政権を奪取し、日本が共産主義国家になったとして、その政府が皇室一家を皇居から撤去させて、皇居が観光地になるということなのである。皇居は世界遺産にでもなって、全世界からの観光客が押し寄せる、ということなのである。今、京都の御所は観光地にはなっていない。あの場所には、一般人は入ることはできない。これは、天皇制であることには、明治以前も、以後も変わっていないからだ。
中国の歴史では、王朝が変われば、前の王朝のものなどガラクタ同然のものになるかというと必ずしもそうではない。紫禁城は、清朝の前の明朝でもあったし、さらにその前の元朝の時からあった。王朝が変われば、前の王朝のものは破壊されるのならば紫禁城など、元から明に変わった時になくなるものであった。しかしながら、紫禁城は受け継がれ続けたのである。そして、中華人民共和国はこれを受け継ぐことはなかった。
ただ、これを共産主義革命による変化と考えるのも十分ではないと思う。そもそも、紫禁城をシンボルとする中華文明では近代に対応することはできなかった。紫禁城的なものがある限り、中国は近代化できないということは、20世紀の中国の時代の雰囲気のようなものであったし、それを実行し、紫禁城的なものを徹底的に破壊し、紫禁城そのものを広大な観光地にしたのは、いわばなるべくしてなったとも言えるであろう。さらに言えば、日本はエンペラーを残しつつ近代化に成功したが、中国はエンペラーを叩き出さなくては近代化はできなかった。もちろん、どちらが良い悪いというわけではない。
明治政府は、徳川宗家の居城であり、徳川幕府の中心地でもあった江戸城を破壊することをなく、そのまま天皇家が居住する場所とした。このことに政治的な意味があったとするのならば、明治維新は徳川日本から天皇日本への「革命」であり、武家政権が確立した以前の古代日本と同じになるという「王政復古」であった。しかし、天皇が政務を行うわけではなく、つまりは、祭政一致ではなく政教分離であった。ただし、それでは完全な政教分離であったのかというと、そうではなく、その曖昧さが軍部の独走を生み、20世紀の日本は戦争へと進み、国家が崩壊した。
で、それでは中国はどうか。晩年の毛沢東はエンペラーのようではなかったのかとか。広い紫禁城の中を歩き回りながら、疲れ果てたアタマでそういったことぼおーと考えていた。
紫禁城の中のスタバを探したのだか見つからず。なくなったようだ。紫禁城の中で、グローバル資本主義の代表たるスタバでコーヒーを飲むことを楽しみにしていたんだけどなあ。
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