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May 17, 2008

『王道の狗』を読む

 今年のGWは、前半は道場で稽古の日々、後半はもっぱら韓国ドラマをレンタルのDVDで見る、というものであった。

 韓国ドラマは以前『朱蒙』を見ていたのだが、あまりの長さに、クムワ王を演じたチョン・グァンリョルが主役をしている『ホジュン』の方を見始め、これはいいということで(こっちも全64話という長さなのであるが)延々と見ている。『ホジュン』は、『朱蒙』と同じ歴史ものである。時代は、秀吉による日本軍の侵攻の場面もあるので、その頃なんだなと思う。このドラマは、実在した医師許浚の生涯のドラマである。朝鮮のこの当時の医学と言えば、当然のことながら古代中国から朝鮮に伝わった医学である。これを今日の韓国では漢医学と呼ぶようだ。すなわち古代中国の医学である。その内容の高度さに驚く。日本では、明治になって西洋の医学が導入され、漢方医学は、ほとんど絶えてしまった。今の日本では、古代中国の人間観に基づいた漢方医学をマスターしている人は数が少ない。このへん、『ホジュン』を見ながら、日本では失われしまった中国からの知識と技術の伝承について、うーむとうなってしまうのである。

 というわけで、『ホジュン』の話ではなくて。

 安彦良和の『王道の狗』全4巻を読む。この作品は、なぜか今まで読むことがなかった。昭和前期の日中戦争やノモンハン事件の話である『虹色のトロツキー』も、日本の古代史ものも、アレキサンダーもネロも、安彦さんの歴史ものは全部読んできたワタシであったが、なぜか『王道の狗』をこれまで読むことはなかった。

 なぜか。ひとつは、この物語の時代背景について、自分はよく知らないということが挙げられる。『王道の狗』は、明治17年の秩父事件から物語が始まる。そして、囚人の強制労働によって行われる北海道開拓の話になり、やがて話は朝鮮の甲申事変から金玉均の日本亡命、そして日清戦争へと進んでいく。つまり、大ざっぱに言うと、西南戦争の後から日清戦争へ至る過程の中で、この国ではどのようなことが起こったのかという物語である。実際のところ、この明治17年の秩父事件から日清戦争の始まる明治27年の間の10年間こそ、日本の近代史において最も大きなターニングポイントの時代であった。しかしながら、それはわかっているのであるが、では何が起きたのかということを深く知ることなく、ただ年月がたってしまった。この時代について、自分は何も知らないという思いから、なんとなく『王道の狗』を避けてきたのかもしれない。日清戦争がなぜ起きたのかということについて、ワタシが日本と朝鮮の関係において理解できるようになったのはつい最近のことだ。日本の近代史において、朝鮮との関係はいかなるものであったのかということの理解なしに、日本の近代は理解できない。それほどつまりは、日本にとって朝鮮は大きな意味を持っている。

 しかし、まあ。当然のことかもしれないが、『王道の狗』を読んでみても、よくわからない。つまるところ、アジアの島国であるこの国は、19世紀に西欧列強の圧力に反応するかたちで、近代国家へと国を変えていった。その国が、やがて隣国の朝鮮を支配し、中国大陸に傀儡国家である満州国を作るようになったのは、そもそも、なぜなのか。これを、今の一部の史家が言うような、ロシアの南下に対抗するために祖国防衛のために行ったとは、どう考えても言えない。ちなみに、シバリョーによると、カンタンに言うと、明治が良くて、昭和はダメだったということになる。しかし、明治17年以後の辺りから、この国はある方向へ大きく曲がっていった(「曲がっていったという」表現もナンであるが)のは確かである。それは一体何であり、なぜそうなったのか。

 わからないまま、考えてみたい。

 庶民にとって、明治の日本は、増税と不況が続き、そして国権はひたすら重いものであった。1882年に、ヨーロッパで起きた生糸価格の大暴落の影響は日本にも波及し、日本国内でも生糸の価格の大暴落が発生した。埼玉県秩父地方は、養蚕が盛んであったため、その収入のほとんどを生糸の生産に頼っていた。生糸市場の暴落と増税等は、彼らの生活を圧迫し、そこにつけこむ銀行や高利貸したちが、彼らをさらに貧困に貶めた。この農民の困窮を前にして、自由民権思想を掲げる自由党党員らが秩父困民党を結成し、武装蜂起をしたのが秩父事件である。この当時、こうした民衆の苦境を救うために自由民権運動の者たちが蜂起する事件が日本各地で数多く起こっていた。秩父事件は、それらの中でも大規模なものであった。この蜂起は、政府の警察隊や憲兵隊、そして最後には陸軍の鎮台部隊との戦闘に至り、秩父困民党は壊滅する。その後、秩父困民党の指導者や参加者は各地で次々と捕縛された。彼らの多くは、北海道の刑務所へ送られ、そこで政府の行う石狩道路の建設に使役させられる。この当時、未開拓の原野が広がる北海道で、政府は囚人を使って、過酷な労働のもとに道路建設を行っていたのである。

 その囚人の中に、『王道の狗』の二人の主人公、加納周助と風間一太郎がいた。この二人が脱獄するところから、この物語は始まる。そして、二人は、警察の執拗な追跡を振り切り、アイヌの猟師に助けられる。アイヌとしての名前を与えられ、彼らは新しい人生を始める。この二人の若者は、その後、対称的な人生を歩むことになる。

 加納が大東流合気柔術の武田惣角から柔術を学ぶところは、こんな短時間で取得できるわけないだろうと思ったが、そこはまあ、お話ということで。

 やがて加納は柔術の腕を見込まれて、金玉均のボディーガードになり、ここで加納は、朝鮮の政治家、金玉均と出会う。金玉均のことについて、今の日本では(韓国の側でも)あまり知られていない。知られていないが、この人物をキーにして、日本と朝鮮の過去を振り返ることなくして、この二つの国の近代史は理解できない。

 金玉均が、この時、日本にいたのは、甲申事変により日本に亡命してきたからである。甲申事変とは、何であったのかということを考えるには、その前に起きた壬午事変のことを考えなくてならず、壬午事変のことを考えるには、その前に起きた江華島事件について考えなくてはならず、つまりは、明治日本と李氏朝鮮はどのように出会ったのかということから考えなくてはならない。

 革命によって誕生した国家というのは、革命がひとまず終了すると、得てして、その革命のイデオロギーを他国へ伝えようとする。こんな素晴らしい人類普遍の価値を、おたくの国も取り入れなさい、ということである。しかしながら、これは伝えようする側は善の行為であると思っているが、伝えられる側は迷惑な行為になることが多い。迷惑な行為なのであるが、社会変動というのは、往々にして、そうやって行われてきたとも言える。19世紀のアジアにとって、日本は迷惑な国でもあった。

 欧米文明と出会い、その衝撃から近代国家への道を進んでいった明治日本が、隣の朝鮮を見ると、未だ極めてアジア的な旧態依然たる封建社会国家がそこにあった。欧米の近代文明を導入することこそ、アジア諸国が西洋列強の植民地なることから脱却できることなのであると考える明治日本にとって、朝鮮、そして清朝中国は、手助けして、近代化への道を歩んで欲しい相手であり、できることならば、共に近代化して、西洋列強と相対峙したいという願いのようなものがあった。幕末では、薩摩藩主の島津斉彬や勝海舟、福沢諭吉などは、そう考えていた。

 しかしながら、この理想があっさりと実現できる程、この世界は単純ではなかった。どの国にも、その国の内部事情というものがある。1868年、明治政府は朝鮮に、新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を送ったが、朝鮮側は洋服を着て、皇の詔勅だというものを倭奴が持ってくることは何事であるかと、これを拒否する。李氏朝鮮にとって、皇とは、北京にいる中国皇帝のことであり、詔勅とは、中国皇帝のみが発するものである。中華帝国の華夷秩序こそ守るべき価値観であった。しかし、明治日本にとってすれば、その考え方こそアジア的なものであり、そんなものはあっさりと捨てて、欧米の文明を導入することこそ善であるという考え方であった。ここで日本と朝鮮の双方は決裂する。

 明治日本が考える東アジア諸国間の国際関係とは、中華帝国による冊封体制的な国際関係ではなく、ヨーロッパの近代的国際法と条約に基づく国際関係であった。しかし、これをこの当時の朝鮮に理解せよというのは、およそ不可能なことであろう。結局、1875年に朝鮮の江華島付近で日本と朝鮮は武力衝突になる。武力衝突になるというか、交渉が遅々として進まない事に業を煮やした日本政府による軍事的な威圧行為、つまり「砲艦外交」であった。この22年前の1853年に、江戸湾の浦賀でペリーが徳川日本に対して行ったようなことを、明治日本は李氏朝鮮に対して行ったわけである。このことにより、朝鮮は日本との国交回復をはかり、1875年に日朝修好条規が締結される。

 当然のことながら、この条約は不平等条約、つまり朝鮮側にとって著しく不利な条約であった。朝鮮側が近代国際法や条約について不慣れであっためである。ちなみに、同じく、日本もまたこの当時、欧米諸国から日本側に不利な不平等条約を結ばされていたが、日朝修好条規では、欧米が日本に課した条約よりも、さらに不利な条約を日本は朝鮮に課している。このへん、今日の感覚からすれば、法的に間違ったことをやったわけではないが、アコギというか、悪どいことを日本はやったと非難されてもしかたがないであろう。

 日朝修好条規の後、日本以外にもアメリカ、フランス、ロシアとも条約を結ぶことになり、かくて朝鮮は開国へと進むことになるのであるが、朝鮮の国内の政治は、開化派と保守派勢力との対立が深刻化する。開化派勢力の筆頭は、高宗の王妃の閔妃とその一族である。開化派は、国の近代化に着手した。日本から軍事顧問を招き、日本と同じく近代的な軍隊を作ろうとした。この軍政改革に不満を持ったのが、旧軍の保守派であった。旧軍側の兵士は、開化派の軍隊の兵士と待遇が違うことなどに不満を持ち、ついに暴動へと発展する。この暴動の背後には、閔妃とその一族を筆頭とする開化派から、政治の実権を奪い取ろうとする保守派の陰謀があった。この反乱暴動事件を、壬午事変と呼ぶ。

 閔妃は、反乱兵士の暴動から逃れるため王宮を脱出し、当時朝鮮にいた清国の実力者である袁世凱の力を借りる。清からすれば、朝鮮が日本の力を背景として清の冊封国でなくなったことを元に戻したいという意志があった。閔妃は清に密使を送り、清からの軍隊を派遣を要請する。清はそれを受け軍隊を送る。一方、日本も軍隊を送り、日本と清のどちらが反乱を鎮圧するかの争いになったが、結局、清の軍隊が反乱を鎮圧し、閔妃の一族は政権を取り戻すことになる。以後、閔妃は日本よりも清を頼るようになる。この当時、アジアにおいて、清朝中国は今だ巨大な存在であったのである。

 壬午事変で表面化したことは、朝鮮を日本と清のどちらが支配するのかということであった。ちなみに、朝鮮の人々からすれば、朝鮮はどちらの国のものでもなく、朝鮮は朝鮮の人々の国であるが、そうしたことを顧みることは、そのどちらの国もすることはなかった。そういう時代だったと言わざるを得ない。

 朝鮮には、閔妃のやっていることは、真の意味での朝鮮の独立ではないと考える開化派の人々もいた。その人々の代表的人物が、金玉均である。そして、日本の政治家や思想家の中にも、金玉均を支持する人々が数多くいた。その一人が福沢諭吉である。福沢の理想は、アジアが共に近代化の道を歩み、西欧列強に対抗しうる独立自尊の国になることだった。福沢は、金に朝鮮の独立と近代化の希望をかける。

 1884年、金玉均らは日本の援助のもとで、クーデターを実施し、開化派が新政府樹立を宣言する。この事件を、甲申事変と呼ぶ。このクーデターは成功したかのように見えたが、袁世凱の率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め入り、日本軍は敗退し、金のクーデターは3日で失敗に終わる。この時でも、清朝中国と袁世凱は日本よりも遙かに上手だったと言えよう。開化派の新政権は崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命する。

 『王道の狗』の主人公の一人の加納が金と出会うのは、この時である。この時、日本国内では、朝鮮についての考え方が大きく変わっていた。金は、再び福沢と出会い、さらなる援助を求めようとするが、福沢はこれを拒否する。福沢の内面において、もはや朝鮮に関わることはやめようという気になってきたのである。朝鮮は言うまでもなく、清の袁世凱や西太后がやっていることは、とても近代化とは遙かに遠く、従来の旧態依然たるアジアでしかないという絶望感のようなものが、この時の福沢にはあったのではないかと思う。その挫折と怒りから、福沢はこの甲申事変の後、時事新報の社説に「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書く。後に言う「脱亜論」である。また、欧米との不平等条約の改正を求めていた陸奥宗光は、日本が西洋と平等な国になったことを示すには、朝鮮、中国と戦争を行い、これに勝利すること以外に方法はないのではないかと考える。つまり、ここで、日本の対アジア認識が大きく方法変転するのである。

 しかし、福沢と同じくアジア主義の考えを持っていた勝海舟は、甲申事変の後になっても、福沢のようには考えなかった。『王道の狗』の中で、勝は西郷隆盛が生きていれば、こうしたことはなかっただろうと語る。勝は、どうなろうと、朝鮮の支配をめぐって日本と中国が争うことになるのは正しいことではないと考えていた。秩父事件によって弾圧され、北海道の獄に繋がれ、道路建設に使役され、アイヌへの差別を体験した加納は、日本に亡命していた金と出会い、さらに勝と出会うことで、人生の目的を知る。その目的とは、覇道ではなく王道に生きるということである。王道、覇道というのは、孟子の思想である。覇道とは、武力や権謀によって人民や他国を服従させることである。これに対して、王道とは、徳によって仁政を行うことであり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服する。王道を尊び、覇道を軽蔑せよというのが儒学の教えである。

 日本の支援をもはや得られないことを知った金は、失意のもと李鴻章と会うために上海へ行くが、これは李鴻章と閔妃の罠であった。このことは、陸奥、すなわち日本国外務省も知っていた。金は、上海で閔妃の刺客に殺害される。遺骸は分断され、朝鮮の漢陽近郊でさらしものにされる。

 日本国内では、金の殺害を援助した李鴻章と袁世凱、そして朝鮮の閔妃への反感が高まり、清そして朝鮮と戦争をすべしという気分が盛り上がる。これこそ、清との戦争をもくろむ陸奥と、陸軍の参謀本部次長の川上操六のねらいであった。朝鮮の全羅道で東学党の乱が勃発し、この乱はまたたくまに大きな乱へとなる。これに危機感を感じた閔妃は、東学党の乱を鎮圧するため、またもや清に軍の派兵を要請し、清はこれに応えて軍隊を朝鮮へ送る。明治政府は、清との戦争を避けるため、朝鮮に軍隊を送ることを望まなかった。しかし、参謀本部次長川上操六は、先の甲申事変で清朝軍に日本軍が敗北したことを繰り返すことないよう、大規模の軍隊を朝鮮に送る。

 東学党の乱は停戦で終わり、朝鮮政府は清と日本に軍隊の撤兵を要請したが、どちらもこれを拒否する。日本は清に独立国である朝鮮への内政干渉を抗議し、朝鮮には国内の改革を要求するが、清も朝鮮もこれを認めず、対立は激化した。清にとっては朝鮮を従属国にし続けることが望みなのだ。一方、日本の(というか、外務省の陸奥宗光と陸軍の川上操六の)望んでいたものは、清との戦争であり、清と戦争して、これに勝利することによって、日本の国際的地位を向上させ、清国から利権を獲得しようということなのである。とにかく、なにがなんでも戦争へと持ち込みたいということなのだ。ここに日清戦争が始まる。明治天皇は、こうした強引な開戦に激怒し、「これは朕の戦争に非ず」と述べた。

 日清戦争に勝利した日本が求めたものは、遼東半島の割譲である。李鴻章は、この要求をのまざる得なかった。しかし、このあまりにも広大な土地を日本が植民地にすることを恐れたロシアは、フランスとドイツを誘い、遼東半島領有に強く抗議した。これを、三国干渉と呼ぶ。当然のことながら、ロシアもフランスもドイツも、中国人民の国土は、中国人民のものであり、日本の侵略は間違っているという考えで、三国干渉したわけではない。西欧列強からすれば、清朝中国の衰退は明らかであり、中国を分割させておのおの領有することを考えていたが、日本は自分勝手にいち早く広大な領土を獲得しようとしていると見えたのであろう。

 『王道の狗』の中で、東学党の乱(甲午農民戦争)の首謀者であり、後の刑死となる全琫準(チョン・ボンジュン)は、加納にこう語る。「国の利益や民族の都合を越えた正しい道があることを、おまえは信じているか?」と。加納はこう答える「もちろん」と。だからこそ、加納は王道の道を歩き、革命軍を支援する武器商人であり、テロリストである人生を選択したのであろう。これに対して、陸奥宗光はそうは考えない。明治日本そのものが、そうは考えなかった。

 1924年11月、孫文は神戸で講演を行った。その講演の中で、孫文は日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むのか」と述べている。その翌年、孫文は他界した。

 その後の日本はどちらの道を歩んだか、後世の我々は知っている。

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