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September 30, 2007

再び「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を考える

 7月24日の「ひっぱたきたいのは、「丸山真男」ではなく」への、のれそれさんのコメントで、のれそれさんの言われる「「丸山〜」の本質は労働者VS労働者です。」というのは、まったくその通りであって、前回の私の文章には、このことをどう考えるかということについての言及はなかった。むしろ、赤木さんが言われている今の労働市場なり社会構造のなりの本質的欠陥は紛れもなくあることを述べたに過ぎない。

 そこで、再度、赤木さんの「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を読み、さらにその続編の「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」を読んでみた。

(以下、文中、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を「丸山〜」と、「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」を「続丸山〜」と表記する。)

 「丸山〜」を読んで誰もが感じることは、なぜ非正規雇用者と正規雇用者が対立しなくてはならないのかということであろう。経済の成長が止まり、ゼロサム成長になれば、あとは必然的にゼロサムの中でのパイの奪い合いになる。「丸山〜」は、正規雇用者と非正規雇用者がパイの奪い合いになることを論じている。ここで、「論じているだけにすぎない」と書こうと思ったが、このことをま正面から直接に論じたのは、私は寡聞にして「丸山〜」以外に知らない。「すぎない」と言えば「すぎない」のであるが、非正規雇用者の誰もが内心漠然と感じていたであろうことを述べた意義はある。

 その反面、「丸山〜」はかなり多く誤解、誤読されていると思う。この論考への反論の多くが、正規雇用者もまた数々の不平等や問題を抱えており、非正規雇用者が正規雇用者に利益の平等分配を求めるのは、お門違いも甚だしい。利益の平等分配を求めるべき相手は、正規雇用者ではなく資本主義なのであるという意味の反論であるように思える。

 実際、これらの反論は赤木「丸山〜」への反論として正しい。労働者VS労働者の構図ではなく、労働者VS資本主義の構図でなれば、労働問題は解決しないのである。しかしながら、これは私個人の勝手な思いこみであるが、赤木はこのことをよくわかっているのではないかと思う。本来は、労働者VS資本主義の構図であるべきものを、赤木はあえて労働者VS労働者の構図を持ち出してきているのではないか。

 なぜなならば、この本来の構図である「労働者VS資本主義」を、そもそも今の左派はとっていないではないかという怒りのようなものが赤木にはあるように感じられるからだ。「丸山〜」の文章にあるのは、非正規雇用者の怒りと怨嗟である。それを社会的弱者の不平不満であると批判するのはたやすい。しかし、今、我々の誰もが赤木になりうる可能性を持っている。自分で望んでそうなるわけでも、自分に過ちがあってそうなるわけでもない。社会が人を社会的弱者にするのである。そうした現状に対して、今の左派はまったく無力である。

 赤木は「続丸山〜」の中でこう書いている。

「こうして考えてみると、安定労働層とそれに結びつく左派が、貧困労働層を極めて軽視しているという現状が改めて見えてくる。」

 つまり、本来は「労働者VS資本主義」の構図であるべきはずなのに、新左翼が崩壊した以後、いつまにか左派は労働者の中の安定階層しか相手にせず、貧困労働者層を相手にしなくなったではないかと赤木は書いているのである。それなのに、ここで非正規雇用者からその疑問が提起された時、左派が言うことは、正規労働者だってたいへんなんだとか、労働者VS労働者ではない、というお決まりの古典的左翼の論法でしかないことに赤木はいらだっているのである。「労働者VS資本主義」であることをやめたのは、左派の方ではなかったのか、と。

 さらに、赤木は「続丸山〜」の中でこう書く。

「団塊ジュニア世代が「就職時に不況であった」という理由だけで、本来得られるべき安定した生活を得られない。そして「自己責任論」のもとに、再チャレンジなどというギャンブルに身を投じるよう強いられる。その一方で富裕層はもちろん、安定労働層を含む既得権益層は、バブルを崩壊させた責任も取らずに、これまでの安定した生活が今後も保証されることを「当然である」と考え、反省の色を見せない。なぜバブルの恩恵を受けた人間が焼け太り、我々のように何の責任もないはずの人間が、不利益だけを受容しなければならないのか。左派の理論はそうした疑問に答えてくれない。」

 いわば赤木の「丸山〜」は非正規労働者からの問題提起であり、今の左派の現状への糾弾なのである、と私は考えたい。

 非正規雇用者によって、今の産業社会の数多くの部分が成り立っている。「丸山〜」の意味は、今の日本の産業社会の構造的な欠陥を直接的に主張していることである。この欠陥を改善することによって、正規雇用者も含めた産業社会の新しい展望が見えてくるのであるが、誰もそれを見ようとしていない。「丸山〜」の主張のひとつは、非正規雇用者が置かれている状況は、個人の問題だけではなく、今の日本の産業社会の構造的な欠陥なのであるということが、一般的な社会認識になって欲しいということである。

 資本主義社会における「発展」とは、不均衡発展である。格差は、資本主義そのものに、そもそも内在しているものなのである。自由主義経済は、ほおっておけばいやでも社会的矛盾なり不均衡なりを生みださる得ない。そうしたものだからこそ、本来、こうした資本主義の不均衡に対しては政府が介入してきた。政府の役割のひとつは、こうした資本主義の諸問題に介入することなのである。ところが、今の論調は、政府の介入は「悪」である、小さい政府が良い、非正規雇用者は本人の自己責任という声が大きく、政府の側も財政問題があるので、結局、非雇用者の状況改善と雇用促進に政府が介入することが進展していない。我々は、新自由主義(neoliberalism)に対抗する思想的視点を未だ作り得ていない。

 とまあ、上記の文章をお茶の水の、電源ケーブルを差し込むことができて、BBモバイルポイントがある某喫茶店の中でノートパソコンを開いて書いていたら、なんと店の中に、当のご本人の赤木さんと出版社の人と院生らしい若者10人ぐらいがどやどやと入ってきたのである。みなさん、ワタシのテーブルの隣に座って赤木さんの「丸山〜」をめぐる会話が始まった。思えば、大学院生もまた非正規雇用者と共通した雇用環境にあるなと思いながら、彼らの会話を隣で聞いていた。

 院生のひとりに、個人の問題以上に、社会の問題であることを「丸山〜」を読んで考えたという意味の発言があって、おーわかってきたんじゃんと思った。そうであるのならば、「丸山〜」を出発点として、これまでになかった新しい労働スタイルが可能になった時の産業社会と公共政策の具体的な姿を構想することってできないのかと思った。

 今、目の前にあるコレコレという社会問題を解決するにはどうしたらいいかを考えるよりも、目の前にあるコレコレという社会問題を解決することで、どのような社会が実現できるのか。非正規雇用者だけではなく、正規雇用者の労働スタイルもどのように変わるのか。その方向性やビジョンの構想こそ、社会科学系の院生の作業ではないかと思った。まあ、そこまで話が進んでくれれば、おお、いまどきの院生ってすごいじゃん、ちゃんと考えているじゃんと思ったのであるが。そうした発言がなかったのが残念であった。まあ、自分もあの頃は同じようなものだったので、言えたもんではないのではあるが。

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Comments

私は現在20代であるところの「若いもん」ですが、私の世代の一般的な考えでは「結局、自己責任論」になってしまうのかなぁと。
バブル以降のカルチャーって
①大手企業ですら危ういならいっそ、起業してなりあがってやるぜ→「脱サラ」「田舎暮らし」「マネーの虎」「IT起業ブーム」「芸人・ミュージシャンを目指す人々」
②株で一発あててやるぜ→「株投資」「ホリエモンブーム」
③普通の家庭を持つことが幸せではないよ→「キャリアウーマン」「専業主夫」「週末婚」「不倫ブーム」
つまるところ株投資なんてギャンブルですし、フリーターやりながら芸人を目指すヤツが30過ぎたらどんな惨状になるか「わかりきったこと」ですよね。ついでに結婚適齢期を過ぎた男女がどうなるかも

もちろんやむ負えず不安定雇用に甘んじている人もいますが、赤木さん世代が20代の時期にいろいろ蓄積してこなかった愚もあると思うし、マスコミの吹聴する「自由な生き方論」に踊らされた愚もある(というのが一般的な「若いもん=ポスト・ポストバブル世代」の考え方では)
赤木さんの言う「右傾化」の最前線であるところの某巨大掲示板が「丸山~」に対して冷ややかなのはある意味当然の結果でしょう。
ただ、ポスト・ポストバブル世代は「したたか」ではあるけども「自分が負け組になるはずがない」と思いこんでいる節があって、それも問題かなぁと。誰もが負け組になる可能性があるし、明日障害で働けなくなる可能性だってある。

小林よしのりは「負け組の救済」を「公の精神」に求め、左派は「正規・非正規の共闘」に求めました。
ただ、どちらもうまくいきそうにないから「自分の生活だけでもまもらなくてはね」と「若いもん」は思ってしまうわけですよ。


Posted by: のれそれ | October 01, 2007 at 03:57 AM

のれそれさん、

「自己責任」というと、まあ、「自己責任」になるのだけど、赤木さんとか、『「ニート」って言うな! 』(光文社新書)の本田由紀さんなどが言っているような、コレコレはそりゃあ個人の自己責任だけど、コレコレは自己責任ではなく社会構造の問題だよねというのはあると思います。もちろん、そうした社会構造の問題があったって、そうした問題にひっかかることなく人生を歩いているワカイモンもいることも事実であるわけで。じゃあ、そうしたワカイモンにはなぜならなかったのかと言うのならば、そりゃあ確かに自己責任ですね、ということになります。(人として正しく生きようとしたらニートにならざる得なかったという声もありますが、それは違うだろうと思います。新卒採用で入社試験に受かったヤツ、入社して辞めずに資格とったりしてジュンチョーにキャリアを積んでいるヤツが、人として正しくない、というわけでもないだろうと思います。)

で、そうであろうと、どうであろうと、そこに社会構造の問題があるのは事実であって、それが問題なんだと言っているのは、問題があるから問題あるよと言っているだけのことなんです。個としてオノレはどう生きるかというのは、別の話になるんじゃないかと思います。

出版社の人が、赤木さんの「丸山~」を評価したのは、赤木さんの文章にある個人的な怒りや恨みのような情念なんだと思います。読み物としてインパクトがあるのが、赤木さんの「丸山~」なんです。赤木さんの今の限界はここだと思います。この人は自分の社会的立場からしか論じていないです。しかし、オジサンたちも含めた世に向かって自己の主義主張を述べるには、自分の今の立場である非正規雇用者の視点だけではなく、正規雇用者も含めた広く産業社会全体にとって、これはどういうことのなのかを考察すべきであると私は思います。社会のことを考えるのならば、そもそも社会や労働ってなんなんだろうという根源的なところから思考を出発して欲しいと思うのです。

今の世の中が、「正規」「非正規」という区分けだから、まず「非正規」雇用者の利害を考えるというのは良いですが、本来、雇用とはこうしたものであって、そこには「正規」とか「非正規」とかいった区分けすらなく、つまり、今の「正規」雇用者の恩恵はなくなります。そもそも雇用ついてあるべき姿にしますという論考の流れならば、これはわかります。しかしながら、赤木さんは「正規」VS「非正規」という構図にした。これは出版社には受けますが、物事のわかるオジサンたちからすれば、キミが怒っているということは十分わかる、よーくわかるよ、でオワリです。ただもちろん、オジサンたちからそうだったということで、個人としてどうなのかというのは別です。ここで初めて自己責任が出てきます。これからの赤木さんがどのように思考を進めていくのかということです。

Posted by: 真魚 | October 06, 2007 at 12:53 PM

ふむふむ
僕は赤木さんが平和の定義をわざと少しずらしている気がしました。
既得権を守るのが平和なのは裕福層や正規労働者だけであって
最外層の、生物の細胞で例えるなら細胞膜にあたる人たちにとっては
理解と敬意、つまり彼のいう人としての尊厳を得られることこそが、
平和なのだと思うのです。
冬のある日、あなたが夜遅くまでサービス残業をして
帰りにコンビニに発泡酒を買いに行くから
お昼休み頃に眠って日没後に起きる夜勤労働者がいるのです。
自分が疲れていても、店員さんの目を見て、
こんな遅い時間まで働いてくれてありがとうと言えますか?
お前の仕事を提供してやってるんだなんて思ってませんか?
フランスでは移民政策によって増えたアフリカ系のイスラム教徒が暴動を起こしています。
根底には旧植民地民への差別意識と旧宗主国民への被差別意識があります。
ロシアの極右運動家がロシア周辺の旧ソ連諸国からの出稼ぎ労働者を撲殺しまくっています。
根底には急速な経済発展に伴う物価の高騰と所得格差があります。
今僕たちが生活しているこの日本でも、
ヨーロッパやアメリカで暴力を引き起こしている差別意識や排他主義が
マナーやら一般常識として擦り込まれていると感じます。
例えばお客様は神様だと言ったダイエーの某さんは、
確かに優秀な経営者ではあったのだろうけど
労働者が消費者だということまで想像できなかったために
労働者が労働者を下僕のように扱う社会の意識を
間接的にでも支持してしまったように思います。
理解しようともせず、敬意を持とうともせず、
ぬけぬけといじめられる方にも非があると言い切り
戦争というただの二つの漢字に感情的になる常識人の感性は
絶望的に視力が欠けていると感じます。
ルールを守れなければ、たとえ実害がなくても簡単に非難を浴びせ、
誰の利益も守っていない誰かを傷つけているルールでさえも
疑問も持たないで守っていればいいと思い、
ルール自体に疑問をぶつけることでさえ非難されるのが現状ではないでしょうか。
僕たちが子供の頃から学校で学んできたルール絶対主義。
それといつも家でテレビが喧伝する個人主義。
この矛盾こそが事態をより複雑にしていて
盲目的な不理解と閉塞感を作り出している
朝靄のように思えてなりません。

Posted by: めがね | March 30, 2010 at 06:32 AM

めがねさん、

人間の集団間において、差別、被差別をなくすことはできないと思います。もちろん、これは「良いこと」ではありません。良いことではありませんが、とりあえず良い悪いという価値判断はなしにして、客観的に人の集団というものを見てみると、これはこれとして「ある」というか「あってしまう」ものなのだと思います。差別というものがあって、聖なるものもあるという文化の両義性があります。

重要なことは、社会内部の集団間あるいは民族間に差別・被差別があったとしても、例えば、その昔の明治の頃や昭和の高度成長時代のように、社会全体としては「まとまっている」というか「ひとつの方向に向かっている」ということが可能であるということだと思います。ここちょっと補足しますと、だから、日本社会は、「まとまっている」ようになれというか「ひとつの方向に向かっている」ようになって欲しいと私は思っているわけではありません。

労使対立の状態であっても、というか、労使対立路線であってこそ、経営者側と労働者側の、その対立的であり、かつ相互補完的な関係をもって、資本主義が成長していった時代がありました。古典的な、いわゆる左翼というか社会主義の勢力が消滅していったことと、この経営者側と労働者側の、対立的であり、かつ相互補完的な関係がなくなっていったこととは関連しています。このことは、つまり、資本主義自体が変わっていったのだと私は思います。今の資本主義は、自分で自己を変える能力をもったシステムなのです。今の時代は、労使という枠で捉えられない、労も使も、「同じ」枠組みで捉えなくてはならない。現代資本主義では、「資本主義システム」と、そのシステムに組み込まれている「(労も使も含めた)人間」という観点で見る必要があると私は思います。

ある集団というか社会が、その内部に、あるルールを持つ、そして、その社会の構成者の大多数は、そのルールの存在と運用に疑問すらもたない、というのは、これはこれでおかしくないと思います。社会というのは「そういうもの」なのです。重要なのは、今の時代はそれで終わりなる話しにならない、ということです。今の時代は、その社会に内部のルールでは扱うことができない「物事」が、外部から介入して、その内部を変えていきます。これが資本主義です。今の僕たちに必要なことは、古典的な見方や考え方では捉えることができない、この現代の資本主義を捉えることができる新しいものの見方、考え方、思想のようなものではないかと思います。

Posted by: 真魚 | March 31, 2010 at 11:53 PM

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