再び「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を考える
7月24日の「ひっぱたきたいのは、「丸山真男」ではなく」への、のれそれさんのコメントで、のれそれさんの言われる「「丸山〜」の本質は労働者VS労働者です。」というのは、まったくその通りであって、前回の私の文章には、このことをどう考えるかということについての言及はなかった。むしろ、赤木さんが言われている今の労働市場なり社会構造のなりの本質的欠陥は紛れもなくあることを述べたに過ぎない。
そこで、再度、赤木さんの「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を読み、さらにその続編の「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」を読んでみた。
(以下、文中、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を「丸山〜」と、「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」を「続丸山〜」と表記する。)
「丸山〜」を読んで誰もが感じることは、なぜ非正規雇用者と正規雇用者が対立しなくてはならないのかということであろう。経済の成長が止まり、ゼロサム成長になれば、あとは必然的にゼロサムの中でのパイの奪い合いになる。「丸山〜」は、正規雇用者と非正規雇用者がパイの奪い合いになることを論じている。ここで、「論じているだけにすぎない」と書こうと思ったが、このことをま正面から直接に論じたのは、私は寡聞にして「丸山〜」以外に知らない。「すぎない」と言えば「すぎない」のであるが、非正規雇用者の誰もが内心漠然と感じていたであろうことを述べた意義はある。
その反面、「丸山〜」はかなり多く誤解、誤読されていると思う。この論考への反論の多くが、正規雇用者もまた数々の不平等や問題を抱えており、非正規雇用者が正規雇用者に利益の平等分配を求めるのは、お門違いも甚だしい。利益の平等分配を求めるべき相手は、正規雇用者ではなく資本主義なのであるという意味の反論であるように思える。
実際、これらの反論は赤木「丸山〜」への反論として正しい。労働者VS労働者の構図ではなく、労働者VS資本主義の構図でなれば、労働問題は解決しないのである。しかしながら、これは私個人の勝手な思いこみであるが、赤木はこのことをよくわかっているのではないかと思う。本来は、労働者VS資本主義の構図であるべきものを、赤木はあえて労働者VS労働者の構図を持ち出してきているのではないか。
なぜなならば、この本来の構図である「労働者VS資本主義」を、そもそも今の左派はとっていないではないかという怒りのようなものが赤木にはあるように感じられるからだ。「丸山〜」の文章にあるのは、非正規雇用者の怒りと怨嗟である。それを社会的弱者の不平不満であると批判するのはたやすい。しかし、今、我々の誰もが赤木になりうる可能性を持っている。自分で望んでそうなるわけでも、自分に過ちがあってそうなるわけでもない。社会が人を社会的弱者にするのである。そうした現状に対して、今の左派はまったく無力である。
赤木は「続丸山〜」の中でこう書いている。
「こうして考えてみると、安定労働層とそれに結びつく左派が、貧困労働層を極めて軽視しているという現状が改めて見えてくる。」
つまり、本来は「労働者VS資本主義」の構図であるべきはずなのに、新左翼が崩壊した以後、いつまにか左派は労働者の中の安定階層しか相手にせず、貧困労働者層を相手にしなくなったではないかと赤木は書いているのである。それなのに、ここで非正規雇用者からその疑問が提起された時、左派が言うことは、正規労働者だってたいへんなんだとか、労働者VS労働者ではない、というお決まりの古典的左翼の論法でしかないことに赤木はいらだっているのである。「労働者VS資本主義」であることをやめたのは、左派の方ではなかったのか、と。
さらに、赤木は「続丸山〜」の中でこう書く。
「団塊ジュニア世代が「就職時に不況であった」という理由だけで、本来得られるべき安定した生活を得られない。そして「自己責任論」のもとに、再チャレンジなどというギャンブルに身を投じるよう強いられる。その一方で富裕層はもちろん、安定労働層を含む既得権益層は、バブルを崩壊させた責任も取らずに、これまでの安定した生活が今後も保証されることを「当然である」と考え、反省の色を見せない。なぜバブルの恩恵を受けた人間が焼け太り、我々のように何の責任もないはずの人間が、不利益だけを受容しなければならないのか。左派の理論はそうした疑問に答えてくれない。」
いわば赤木の「丸山〜」は非正規労働者からの問題提起であり、今の左派の現状への糾弾なのである、と私は考えたい。
非正規雇用者によって、今の産業社会の数多くの部分が成り立っている。「丸山〜」の意味は、今の日本の産業社会の構造的な欠陥を直接的に主張していることである。この欠陥を改善することによって、正規雇用者も含めた産業社会の新しい展望が見えてくるのであるが、誰もそれを見ようとしていない。「丸山〜」の主張のひとつは、非正規雇用者が置かれている状況は、個人の問題だけではなく、今の日本の産業社会の構造的な欠陥なのであるということが、一般的な社会認識になって欲しいということである。
資本主義社会における「発展」とは、不均衡発展である。格差は、資本主義そのものに、そもそも内在しているものなのである。自由主義経済は、ほおっておけばいやでも社会的矛盾なり不均衡なりを生みださる得ない。そうしたものだからこそ、本来、こうした資本主義の不均衡に対しては政府が介入してきた。政府の役割のひとつは、こうした資本主義の諸問題に介入することなのである。ところが、今の論調は、政府の介入は「悪」である、小さい政府が良い、非正規雇用者は本人の自己責任という声が大きく、政府の側も財政問題があるので、結局、非雇用者の状況改善と雇用促進に政府が介入することが進展していない。我々は、新自由主義(neoliberalism)に対抗する思想的視点を未だ作り得ていない。
とまあ、上記の文章をお茶の水の、電源ケーブルを差し込むことができて、BBモバイルポイントがある某喫茶店の中でノートパソコンを開いて書いていたら、なんと店の中に、当のご本人の赤木さんと出版社の人と院生らしい若者10人ぐらいがどやどやと入ってきたのである。みなさん、ワタシのテーブルの隣に座って赤木さんの「丸山〜」をめぐる会話が始まった。思えば、大学院生もまた非正規雇用者と共通した雇用環境にあるなと思いながら、彼らの会話を隣で聞いていた。
院生のひとりに、個人の問題以上に、社会の問題であることを「丸山〜」を読んで考えたという意味の発言があって、おーわかってきたんじゃんと思った。そうであるのならば、「丸山〜」を出発点として、これまでになかった新しい労働スタイルが可能になった時の産業社会と公共政策の具体的な姿を構想することってできないのかと思った。
今、目の前にあるコレコレという社会問題を解決するにはどうしたらいいかを考えるよりも、目の前にあるコレコレという社会問題を解決することで、どのような社会が実現できるのか。非正規雇用者だけではなく、正規雇用者の労働スタイルもどのように変わるのか。その方向性やビジョンの構想こそ、社会科学系の院生の作業ではないかと思った。まあ、そこまで話が進んでくれれば、おお、いまどきの院生ってすごいじゃん、ちゃんと考えているじゃんと思ったのであるが。そうした発言がなかったのが残念であった。まあ、自分もあの頃は同じようなものだったので、言えたもんではないのではあるが。
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