ひっぱたきたいのは、「丸山真男」ではなく
robitaさんの「人生の転換戦争」というエントリーへのコメントを書いていったら長くなってしまったので、またもやこちらに置くことにします。
僕はバブル時代に大学生だった年代ですが、あの頃、高等遊民なるコトバがありました。もともとは、漱石が作ったコトバで、明治の末から大正の時代に、帝国大学を卒業しても、定職につかず、読書や観劇をして過ごすという若者を意味します。平成バブル期の高等遊民も、まあ同じような意味ですね。本や雑誌を読んで、音楽を聴いて、映画を見て、美術館に行って、それで毎日が満足していた人々であったわけです。少なくとも、今のワーキングプア的な意味はありませんでした。
80年代の若者たちが、文化的に何を作ったのかということについては、ちょっとここでは触れないことにしまして、今のニートやフリーターがなにをもたらしつつあるかということについては、はっきりと言えます。それは、出口のない閉塞感のようなものです。例えば、30過ぎて、親の家に親と一緒に住んでいて、深夜労働で月収10万であると。それを今後も続けていかなくてはならない。それを選んだわけでも望んだわけでもないのに、それは自己責任だとか、自分の運命は自分で開いていかなくてはならないみたいなことしか言えない今の世の中の論調があります。こういう論調は、80年代にはなかったですね。
つまり、「ワーキングプアの人が負け組で、そうでない人は勝ち組である。で、今の問題は、このワーキングプアな人々をどうするかということなんだけど、自己責任だからしょうがないよね、他人のせい、社会のせいにしないでね」で話しをオワリにする人が今の世の中は多いわけなんですけど、これ全然、話はオワリにならないですよね。オワリにして、じゃあ、こうした人々はどうしろと言うの、自殺しなさいと言うの、ということになるわけです。弱者は淘汰せよ、というのが今の風潮なんです。
もう一点は、「ワーキングプアの人が負け組で、そうでない人は勝ち組である」という認識ですね。果たしてそうなんですかと思います。いわゆる勝ち組に属する人々も、本当に今の社会に満足しているんですか、希望があるんですかというと、どうもそうとは思えないわけです。そうであるというのならば、なんで今の日本ってこんなに活力がないんですかと思います。
ですから、robitaさんが言われる
「フリーター特有の希望の持てない苦しみゆえの破滅願望」は、「若者特有の破滅願望」とは違うとは思うのですが、それでは、ちゃんと「正社員として働いている若者」が希望に満ち溢れているかといえば、今の世の中どうやらそうでもなさそうだ、というのが私の感想です。」
というのはまったく正しい認識だと思います。
雑誌『論座』での赤木智弘「「丸山真男」をひっぱたきたい」を、たんなるワカイモンの戦争願望、世界をリセットしたい願望でしか理解することができない人は、ようするに今の世の中を覆う、ある種の閉塞感のようなものを感じない人ですね。ワーキングプアで右傾化した若者が戦争を欲しているというわけではありません。この赤木智弘さんという人が言っているのは、比喩としての戦争です。実際、本気で戦争をやろうと言っているわけではないですね。今のこの状況を破壊したい、変えたい、ということです。行き場のない閉塞感が他者(他者としての「自分」、あるいは「親」や「子」や「女性」や「社会」や「外国」など)への暴力や破壊衝動へと向かうことを意味しています。
僕がワカイモンだった80年代は、ここまで追い込められることはなかった。少なくとも、あの頃の僕はフリーペーパーに「ナウシカ論」とか「ネパールへ行きます」とかのんきに書いてわけで、「「丸山真男」をひっぱたきたい」のような文章を書く者は、あの時代のワカイモンにはいなかったと思います。経済構造が根本的に変わったんですね。それほど、今の時代はひっ迫しています。そして今の時代ほど「働く」ということがどういうことなのかを問われる時代はないと思います。「働く」あるいは「働かない」ということの意味と意義を考えるべき時にきたのだと思います。
勝ち組も負け組もありません。今の日本全部が、根本的に問題を抱えているのです。この社会は、自由であるようで、結果的にある型の生き方を人に強制します。それはまあ、しかたがないのかもしれません。もうワカイモンではなくなった僕には、それはよくわかります。しかしなにが問題なのかというと、今の世の中は、その強制に従わない者を自己責任であるとして排除するということです。そこに寛容や許容や他者への想像力がまったくありません。寛容や許容や他者への想像力がないところに自由はありません。
経済が低成長になったから、そんなゆとりはなくなったのだというわけではありません。マスコミで報道されているように、景気好調は戦後最長に達しているんです。問題なのは、今の時代の経済成長は非正規雇用の低賃金労働や格差社会の上に成り立っているということが問題なのです。元々、日本の戦後の経済成長とは、こうしたものではありませんでした。「みんな豊かになろう」というのが、戦後の経済成長であったわけです。ところが、いつのまにか「みんな豊かになろう」成長ができなくなってしまったわけです。この「みんな豊かになろう」成長ができなくなった時、「みんな豊かになる」という目標を安易に投げ捨てて、「みんな豊かになる」ことはできなくなっちゃったんだから、しょうがないねというわけで、「一部だけが豊かになる」成長に変わってしまったんです。自己責任とか、個人の努力だとか、甘えだとか言って、結果的に産業社会の論理だけが優先される世の中になっていったのです。人は、どんどん自由を失っていっているのです。
ちなみに、こういうことを書くと、個人の努力で結果が出るのは当然でしょう、努力しないのは甘えでしかないみたいな意見が出てくると思います。個人の努力でどうとでもなる人々は、努力をしなかったんだから、それは自己責任であることは当然のことです。しかしながら、今のワカイモンが置かれている状況は、ワカイモンのみんながみんな個人の努力でどうとでもなるという状況ではありません。そうしたワカイモンの存在を、個人の努力云々と言う人々はなぜか見ようとしません。個人の努力云々のレベル以前の、社会の構造的な問題があることが理解できない人なのでしょう。
「若者が切望する血沸き肉躍る体験を用意してあげる」ことが必要なのではありません。働きたいというワカイモンに、まっとうな仕事と待遇を選択できるようにするということ、まっとうな給与を支払うということが必要なだけなのです。贅沢な暮らしがしたいわけではありません。フツーの会社に働く、フツーのお父さんの給料(お母さんは共働きはしません)で、例えば子供二人が大学まで行けますという給与と物価の世の中であって欲しいだけなんです。コレだけなんです。コレだけのことができる政治であって欲しいだけなんです。これがなぜできないのか。「「丸山真男」をひっぱたきたい」は、ようするに、ココから考える必要があることを述べているのだと思います。作者がひっぱたきたいのは、「丸山真男」ではなく、今のこの国の歪んだ現状なのです。
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