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April 15, 2007

学校はアレもコレもやりません

教育について、またもやrobitaさんへの返信です。返信というよりも、なんだかモノローグ(独り言)になっているのですが・・・・・。

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robitaさん、

robitaさんの言われていることは、つまりはどういうことなのか。自分の考えを交えながら、つらつら考えてみます。

ちょっと、以下、話の都合上、「わかっている人」と「わかっていない人」という言葉を使って話しを進めます。「わかっている人」って、具体的に何がわかっているのか。お前は自分はわかっている人だと思っているのか、などなど、いろいろな声があると思いますが、とりあえず、話の都合として、こうした区分けを使います。それ以上、それ以下のいかなるものでもありません。

例えば、日本国の国民の数が100人だとします。この100人の中で、戦後60年以上もたつと、いろいろダラシナイ人々が数多く増えてきて、どーも、これは宜しくない、世の中が不安だ、となってきたわけです。

「わかる人」はわかるんです。こんな世の中は宜しくない、シャンとせねばならない、と。

ところが、100人全員が「わかる人」であるわけではありません。自分からシャンとしようという意識すらない「わからない人々」がいます。この「わからない人々」をどうするのか。

そこで、robitaさんが言われているのは、この「わからない人々」はわからない人々なんだから、国家がシャンとさせるしかないじゃあないですか、と言われているのだと思います

そこで、まあ、比較的左の人々や自由主義の人々は、この「わからない人々」はどうするのですか、というと、ほおっておきましょう(笑)と言っているわけです。わからない人々なんだしぃ。牛に首に縄をつけてひっぱるようにはできません。細かく言うと、自由主義だしぃ、人権があるしぃ、ということになります。

これに、右の人はイラだちます。あんたらがそうやって、自由だ、人権だというから、この「わからない人々」は、ますます悪さをするじゃあないの。増える一方じゃあないの、と言うわけです。ここはやっぱり、国家が、「わからない人々」をシャンとさせるしかない。そうしたことをやってこそ、国家の国家たるゆえんである、と。

で、つまりどういうことなのか。これは、社会とはどういうものであるのか、という考え方が違うのだろうな、と思います。

比較的左の人々や自由主義の人々は、社会とは、100人が100人、全部同じでなくてもいい。大体、まー、30人、いや40人くらいシャンとしていればいいんじゃあないか、と思っているわけです。残りの70人とか60人はグータラしていてもええやんと思うわけです。大体、日頃グータラしていても、やるべきことはやっているというのが、世の人々というものです。

このへんの人数の割合には、いろいろあると思います。ちなみに、江戸時代のお侍さんの数は、日本国全部の一割程度であったようです。よく日本はサムライの国だったと言われますけど、武士階級は圧倒的な少数でした。江戸時代のお侍さんとは、行政職の人であり、自分で何かを生産するわけでもなく、形而上学で生きていたわけですので、そうした人々が大多数になったら、世の中は成り立たないわけですね。商人や職人やお百姓さんは、そんな堅苦しい人生なんか、まっぴらごめんだと思っていたでしょう。でも、武士でなくてよかったと思う人々も、サムライというシャンとした人たちが世の中にいて、ご政道をみてくれているという意識があったと思います。

いろいろな人がいるのが、社会なんですよ、というわけです。いろいろな人々がいて、全体としては、それで成り立っている、それが社会なんだというわけです。

しかしながら、右の人はそうは考えません。そうした、「いろんな人がいてもええやん」という考え方そのものが、世の中を悪くしたのだと考えます。社会とは、かくかくしかじかのものである、よって社会の全員、100人が100人、その目的に達するようにすべきなのだと考えます。半分ぐらいはヘラヘラしてもいいんじゃないのとは思いません。では、100人全員は誰がわかるようにするのか。もちろん国家が、です。とにかく国家というのは、そーゆーものなのだと考えるのです。社会というのは、みんなシャンとしなくてはならないと考えるのです。

ちなみに、上記の右の人々の考えは、これはこれで正論です。みんながみんなシャンとできれば、これほど良いことはありません。そして、右の人々は、それを目指しましょうと言ってるわけです。これはこれで間違っていないんです。ですから、今の世の中では、比較的右の人々、つまり保守の意見が(新聞で言えば、朝日ではなく産経とかが、雑誌で言えば、アエラではなく正論とかが)「正しい」ように見えるわけです。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、比較的左の人々や自由主義の人々はそうは考えません。だって、そないなことゆーたかて、全部が全部、しゃんとするなんて、できるわけあらへんやろ。できもんは、できんわ。できんもんを、目標にしたって無駄やろ、と思うわけです(なぜか、関西弁)。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、右の人々は、そのダラケた連中の中から、親を殺害する子供や、子供を虐待する親が出てきているじゃあないの、もうガマンできない、となるわけです。

このように、「わからない人々」をどうするのか、ということについて、おのおのの立場で、おのおのの考え方があります。

で、ですね。じゃあ、これは社会観、国家観の違いであり、永遠に一致することがないテーマなのかといいますと、まあ、これはこういうことなのだと思います。

まず、世の中のは、「わかっている人」と「わかっていない人」がいる、と。で、「わかっている人」は、これはもうどんどん「わかって」下さい、と。ほおっておいても「わかる人」ですから、各人、個人主義でどんどん進めて下さい、と。「わかる人」は、今の教育やマスコミはダメであることがよくわかっていますから、ネットで話し合い、ネットでつながっていきます。そうした人々が、僅かづつでも増えていくことで、世の中は変わっていきます。

で、「わかっていない人」はどうするのか。これは、わかる人になれとは言わない。ただし(ここがポイントです)せめて、これだけは、わからなくてはならないというものはある、というわけです。必要最少限度の「これだけ」があるということです。従って、必要最少限度の「これだけ」については、国家が国家権力をバックにして「わからない人々」に徹底的にわからせますよ、と。それが、国家の責任である。robitaさんが言われていることは、こういうことなんじゃあないかなと思います。

つまり、僕が思うのは、公教育の目的とは、必要最小限度のことを教えることなのである、ということです。アレも、コレもと公教育に多くを期待するのはやめよ、そんなことは、それこそ、わかっている人々は、おのおの、国家なんかにかまわずやってくれ、ということなのだと思います。公教育として教えるべきこととは、そもそもなんであるのか。ここのところが、現状は受験教育に押し流され、さらに、家族の崩壊による家庭のしつけのレベルから、産業界の要請とやらも加えられて、アレも教える必要がある、コレも教える必要があるという、アレもコレもの話になっています。そうではなくては、むしろ、アレはやらない、コレはやらない。なぜならば、アレは家庭で親が教えるべきです。コレは企業が職場でコストをかけて教えるべきです、ということです。

ここで、「家庭で親が教えるべき」と言っても、今の世の中の親は、そんなことしないじゃないの。だから、教育でやるしかないじゃないの、という話になるから、教育にアレもやらなくてはならない、となるのです。家庭がやるべきものは、家庭がやるべきなのです。それを公教育に要求するから、学校の現場は混乱と期待過剰で押しつぶされるのです。

コレコレしか学校はやりません。できません。それ以外は、家庭なり、企業なり、社会なりでやってください。学校に、アレもコレもと期待しない、ということです。アレもする、コレもする、ではなく、アレはしない、コレはしないということです。

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Comments

いつもありがとうございます。
私のほうに書きました。
結局、意見はそんなに違わないような気もするのですが。というか、私が「理解した」のでしょうかね。
>ネットで話し合い、ネットでつながっていきます。そうした人々が、僅かづつでも増えていくことで、世の中は変わっていきます。<

私もネットの発達はは神さま仏さまのお導きによるものではないかと思っているのです。

Posted by: robita | April 16, 2007 at 12:42 PM

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