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April 2007

April 30, 2007

島田裕巳『中沢新一批判』を読む

 島田裕巳の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読んだ。読みながら思ったことは、中沢新一を論じる本書の内容が、良くも悪くも島田裕巳その人をよく表しているということだ。

 本書の最初の方で、島田さんと中沢さんは、東京大学文学部宗教学研究室の先輩と後輩であり、指導教授も同じ、中沢さんが大学院博士課程に進み、ネパールにチベット密教を学びに旅立った後も、島田さんはしばらく手紙のやりとりをしていたということが書かれている。それほどの間でありながら、本書の中では中沢新一は宗教学者であるだけではなく、チベット密教の修行者でもあり続けていることがわかったとか、中沢新一は実はコミュニストであったとか、当たり前の至極当然のことを、今になってわかったということが書かれている。

 こんなことは、1984年に出版された『チベットのモーツァルト』以降の中沢さんの一連の著書を読んでいる者であったのならば、あたりまえのことであって、それも今になって中沢新一とは実はこんな人物だったのかと書かれても、つまり、島田さんは中沢新一の本を読んでこなかったのですねということになる。80年代のニューアカブームのまっただなかで学生時代を送った私にとって、中沢新一は新しい学問の姿だと思っていたし、チベット密教のポスト構造主義的解釈は極めて斬新なものであった。そうした動向を、島田先生はまったく意識していなかったということになる。もちろん、島田さん個人が何に関心を持とうと、それは島田さん個人の自由である。しかしながら、宗教学者であるというのならば、あの時代、宗教について新しい視点を持ち込んだ中沢さんの業績は、否定するにせよ肯定するにせよ見るべきではなかったのか。

 そもそも、島田さんと中沢さんでは、宗教に対するスタンスが違う。中沢新一は、宗教学である前に、チベット密教の信者である。信者であると共に、研究者でもあるというスタンスをとっている。これに対して、本書の中でも書かれているように、島田はいかなる宗教の信者ではない、宗教の信仰や修行については関心がない。その意味で、島田さんの関心事は、宗教そのものというより、宗教社会学である。つまり、島田さんの観点から見れば、中沢さんの言動は理解できないのは当然のことなのである。

 若干の暴論であるかもしれないということを意識しつつ書くと、島田さんの言う、中沢さんの著作や言動はオウム真理教に大きな影響を与えた、だからその反省と総括をせよというのが私には理解できない。まず、中沢さんの著作や言動が、オウム真理教に大きな影響を与えたということについては、それは影響を受けた信者はいるであろうが、教団としてのオウム真理教にいかなる影響を与えているのかということになると、簡単に言えることではない。中沢新一の『虹の階梯』が、オウム真理教の教義にどのように関わっていたのかということは、島田さんの本書からではわからない(私個人としては、『虹の階梯』のタネ本がなんであったのかわかって参考になったが)。

 『虹の階梯』があろうと、なかろうと、あの教団はあの教団だったと思う。実際、教団では、チベット語の教典を翻訳して使っていることもあったようだ。『虹の階梯』に書かれている内容と同じようなものは、いくつもあったであろう。グルへの絶対的帰依は、密教ではあたりまえのことであり、『虹の階梯』の主張ではない。ニンマ派についても、オウム信者たちは知っていたであろう。いずれにせよ、オウム神仙の会からオウム真理教に至る教団とチベット密教の教義的な影響や関連については、未だ解明されていない。このへん、あえて言えば、島田先生はオウムについて分厚い本を書いているのに、教義の内容そのものを(安易に、中沢の本が悪い!とするのではなく)解明しようという意志はないんですかと問いたい。ちなみに、これこそ宗教学の作業であり、宗教社会学で扱えるテーマではない。その意味で、島田先生にこれを求めるのは酷だなとは思う。本来、書いて欲しいのは、中沢さんであることは私も同意するのだけれども。

 むしろ、あの時代のオウム真理教をめぐるメディアの中で、中沢新一は圧倒的なオウムシンパの第一人者(?)であったということは、これは確かにそうだったと言える。そして、中沢さんと比較すれば、それほどでもない島田さんのオウム擁護の言動であったが、島田さんはメディアから謂われなきバッシングを受け、中沢さんはそうでもなかった。これこそ考察すべきことである。これは、中沢新一のせいでも、オウム真理教のせいでもない。その意味で、島田先生はメディア社会学の分厚い本を書くべきではないかと思う。島田さんが問うべき相手はメディアであって中沢さんではない。

 中沢さんがテロを擁護しているということについて、島田さんは何を言っているのかよくわからない。テロを肯定しているというのは、どのような文脈でそうしているのかであり、発言の言葉だけを捕らえて、殺人そのものを肯定していると解釈するのはおかしい。本質的に宗教とは反社会的なものを持つ、ということは間違っていない。それを言うことでテロを容認しているというのは、おかしな話だ。ましてや、一連の事件はオウム真理教教団そのものの責任であって、中沢さんは関係はないことは、上祐史浩が自身のサイトで書いていることを読んでも明らかである。島田さんは、中沢新一をオウム真理教の「隠れた教祖」「隠れたグル」とさえ書いている。しかし、当のオウム側はそうではなかったと見るのが妥当であろう。オウム真理教の事件で、中沢さんに責任があるかような主張は、それこそあの頃、島田さんが受けたバッシングそのものであり、同じことをやっているようなものである。

 中沢新一の言う「霊的革命」や「霊的ボルシェビキ」を、これはレーニンのボルシェビキ革命と同じだとするのも、ロシア史を見れば必ずしもイコールではないことがわかる。中沢さんの思想は、テロを正当化する思想であるというのならば、それはそれで「正しい」とも言える。そもそも、中沢さん自身、「人これを邪教と呼ぶ」という密教の修行者だと語っているのである。かりに、そうであったとして、だからなんなんですかと問いたい。地下鉄サリン事件の幇助として罰しようというのであろうか。地下鉄サリン事件での犠牲者がかりに1万人、2万人であった場合、どのような意味を持ってくるのか考えるということは、宗教学者として至極当然のことだと思うが、そうした発言をテロ容認と解釈するのは、悪意のある解釈と言わざる得ない。

 それでは、例えば、自衛官が福井晴敏の『亡国のイージス』を読んで、北朝鮮の工作員と内通してイージス艦を占拠するようなことが起きたら、福井晴敏は反乱幇助ということになるんですね。『パトレイバー2』を見て、陸自の部隊がテロを起こしたら、押井守はテロ幇助になるんですねと言いたい。また、同様にコミュニストであるからなんなのですかと思う。島田さんのマルクス主義理解については、もはや話にならない。この人は、コミュニスト・イコール・テロリストとしてしか見ることができない人のようだ。弁証法や唯物論で宗教を語る中沢さんの宗教論を、島田さんは宗教学者として考えたことはないのであろうか(ないんだろうなあ)。

 「リセット願望」を、「高みから見るエリート思想」だとし、中沢家は祖父は東京帝大卒であり、三人の叔父のうち二人が東京帝大卒、中沢さんも東大卒というエリートであるとし、さらにオウム真理教も実行犯は大学卒や院卒が多い、日本共産党も幹部の大半は東大卒であったと述べ、そうしたエリートであるが故に、高みから傍観者的に世界を見ているから、サリンによる大量殺人も他人事のように考えるのだとする記述にいたっては、「はあっ?」というものであり、島田さん自身も、自分も東京大学出身者だから宗教の研究をしていても、大所高所からついものを見て考えてしまう云々かんぬんの文章を読んで、なんなのかこの人はと思った。

 以前、島田さんの分厚い『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を読んだことがある。なぜ宗教はテロリズムを生んだのか、これを読んでもさっぱりわからなかった。結局のところ、宗教が内在する反社会的内容を理解しようとせず、大学卒だからとか院卒だからとか、東大卒だからとか言っている人のオウム論など、底の浅いものになるのは当然であろう。

April 29, 2007

続シンゾー・アベのダブルトーク

 いわゆる「従軍慰安婦問題」について、アメリカでひたすら謝りまくる安倍総理であったが、国内では、日本軍は狭義での強制性はない、証拠となる文書はない、と言っていたが、アメリカに行くとひたすら謝りまくり。それもアジア諸国に対してというよりも、どう見てもアメリカ政府および国際世論に向かって、日本はあのことを反省しています、謝罪していますの一点張りである。

 このへん、あまり強気の態度だと、日米関係に支障が出ると対米従属至上主義の外務省あたりから要望があったのかどうかはわからないが。いずれにせよ、例によって例の如くと言うか、毎度お決まりのパターンというか、なにゆえ毎回毎回こうなるのかというか。日本のこうしたパターンそのものが、国際社会の中で、日本を信用することができない最大の理由なのだ。

 よくわからんのであるが、この人はこうやって謝りまくるのならば、なぜ、強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実であると言っていたのであろうか。つまり、この問題の本質は、強制性を裏付ける証拠があるか、ないかではないのであるが、それはそれとして、強制性を裏付ける証拠があった事実はないと考えているのならば、それはそれで事実なのであろうから、その意見を世界に向かって述べればいいでではないかと思う。そうすれば、それが問題の本質ではないという反応が返ってくるであろうし、では、一体何がこの問題の本質なのか。アジア諸国や国際社会が、この問題について求めているものはなんであるのかが明確になっていく。議論というのは、そこから始まっていくものなのだ。

 ところが、それは一向になされない。なされないまま、日本国内では「中国・韓国にもう謝罪の必要はない」という言論が大手を振り、それでいて日本の総理大臣はアメリカに来るとひたすら謝りまくる。それを中国・韓国はどのような目で見るか明らかであろう。

 ようするに、日本国の内閣総理大臣たる安倍晋三は、この問題についてどう考えているのか、それがさっぱりわからないのである。きっと、そうしたものはないんだろうなと思う。

 そして、そうしたものがなくったって、国際的にそれなりの高い位置にいる日本国の指導者ができるということが、国内的にも国外的にも(特にアメリカが)鬱憤がたまってきたというのが、今の状況なのであろう。

April 16, 2007

その手には乗らない中国

 中国の首相の温家宝が来日して、日本政府の過去の歴史への反省とおわびの表明を積極的に評価していると述べたことについて。

 このことを、現在、アメリカで出ている慰安婦問題と重ね合わせてみると、アメリカは日中関係をこじれさせようとしているのに対して、中国は、その手には乗らないと言っているように見える。

 なぜ、アメリカは日中関係をこじれさせたいのかというと、何度も書いてきたように、日本を再軍備させて、在日米軍を削減させたいとしているからである。そのためには、日本にとって北朝鮮と中国は脅威でなくてはならない。経済はともかくとして、政治的には日中関係はこじれたままであって欲しいのである。ただし、ややこしいことに、アメリカとしては北朝鮮には関与せず、中国と日本でなんとかして欲しいとしているので、日本が中国や北朝鮮とあまり敵対関係的な関係になってしまっても宜しくないのである。

 現在、アメリカは対日関係を大きく変えようとしている。アメリカとしては、日本がこれまでのように対米依存のままでは困るのである。おそらく、アメリカは台湾独立問題からも手を引くであろう。アメリカは、アジアでのこれまでのような影響力を小さくしようとしている。ただし、これはアメリカの世界覇権力が低下しているからではない。アメリカは、20世紀での世界戦略のままでは、これからの時代はもう通用しないことがよくわかっているのだ。だからこそ、新しい時代の世界観へ転換しようとしている。この自己革新のパワーこそ、アメリカのパワーであると言ってもよい。

 ちなみに、かたや、わが日本国は、従来のままの対米依存であり続けたいとしている。戦後半世紀、対米依存以外のことはやってこなかったので、ここでいきなり一人立ちせよと言われてもできないのである。さらに言えば、同じアジアのアメリカ依存国家だった韓国は、このへんあっさりしていて、在韓米軍が韓国から撤退するとなると、軍事の切れ目は縁の切れ目(うん?)とばかりに、アメリカから距離を置き、マイウェイを歩み始めている。

 中国は、アメリカのこの思惑がよくわかっているので、この手に乗らないのである。本質的に、中国政府は慰安婦問題などどうでもいいと思っているであろう。もちろん、オモテだって「どうでもいい」とは言えないが、大国というのは、歴史のことを、とやかく言わないものなのである。どこの国も、同じようなことを抱えているということがわかっているのだ。よく、中国は、政策として国内の民衆の政府への不満を反日感情に向けさせるようにしているという意見があるが、そんなことは江沢民の頃の話であって、今の胡錦涛の中国は、そんなことをしても国際社会からバカにされることがわかっているのである。

 逆から言えば、中国はこの種のことを言わなくなった、本気で日中関係を改善しようとしているということに、今の中国は超大国化の道を歩んでいることがよくわかる。その一方で、慰安婦問題にこだわり続ける韓国政府はどうなのかというと、中国とは違うなということがわかるのである。これはこれで、韓国はそうであることは理解できることではあるが。

April 15, 2007

学校はアレもコレもやりません

教育について、またもやrobitaさんへの返信です。返信というよりも、なんだかモノローグ(独り言)になっているのですが・・・・・。

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robitaさん、

robitaさんの言われていることは、つまりはどういうことなのか。自分の考えを交えながら、つらつら考えてみます。

ちょっと、以下、話の都合上、「わかっている人」と「わかっていない人」という言葉を使って話しを進めます。「わかっている人」って、具体的に何がわかっているのか。お前は自分はわかっている人だと思っているのか、などなど、いろいろな声があると思いますが、とりあえず、話の都合として、こうした区分けを使います。それ以上、それ以下のいかなるものでもありません。

例えば、日本国の国民の数が100人だとします。この100人の中で、戦後60年以上もたつと、いろいろダラシナイ人々が数多く増えてきて、どーも、これは宜しくない、世の中が不安だ、となってきたわけです。

「わかる人」はわかるんです。こんな世の中は宜しくない、シャンとせねばならない、と。

ところが、100人全員が「わかる人」であるわけではありません。自分からシャンとしようという意識すらない「わからない人々」がいます。この「わからない人々」をどうするのか。

そこで、robitaさんが言われているのは、この「わからない人々」はわからない人々なんだから、国家がシャンとさせるしかないじゃあないですか、と言われているのだと思います

そこで、まあ、比較的左の人々や自由主義の人々は、この「わからない人々」はどうするのですか、というと、ほおっておきましょう(笑)と言っているわけです。わからない人々なんだしぃ。牛に首に縄をつけてひっぱるようにはできません。細かく言うと、自由主義だしぃ、人権があるしぃ、ということになります。

これに、右の人はイラだちます。あんたらがそうやって、自由だ、人権だというから、この「わからない人々」は、ますます悪さをするじゃあないの。増える一方じゃあないの、と言うわけです。ここはやっぱり、国家が、「わからない人々」をシャンとさせるしかない。そうしたことをやってこそ、国家の国家たるゆえんである、と。

で、つまりどういうことなのか。これは、社会とはどういうものであるのか、という考え方が違うのだろうな、と思います。

比較的左の人々や自由主義の人々は、社会とは、100人が100人、全部同じでなくてもいい。大体、まー、30人、いや40人くらいシャンとしていればいいんじゃあないか、と思っているわけです。残りの70人とか60人はグータラしていてもええやんと思うわけです。大体、日頃グータラしていても、やるべきことはやっているというのが、世の人々というものです。

このへんの人数の割合には、いろいろあると思います。ちなみに、江戸時代のお侍さんの数は、日本国全部の一割程度であったようです。よく日本はサムライの国だったと言われますけど、武士階級は圧倒的な少数でした。江戸時代のお侍さんとは、行政職の人であり、自分で何かを生産するわけでもなく、形而上学で生きていたわけですので、そうした人々が大多数になったら、世の中は成り立たないわけですね。商人や職人やお百姓さんは、そんな堅苦しい人生なんか、まっぴらごめんだと思っていたでしょう。でも、武士でなくてよかったと思う人々も、サムライというシャンとした人たちが世の中にいて、ご政道をみてくれているという意識があったと思います。

いろいろな人がいるのが、社会なんですよ、というわけです。いろいろな人々がいて、全体としては、それで成り立っている、それが社会なんだというわけです。

しかしながら、右の人はそうは考えません。そうした、「いろんな人がいてもええやん」という考え方そのものが、世の中を悪くしたのだと考えます。社会とは、かくかくしかじかのものである、よって社会の全員、100人が100人、その目的に達するようにすべきなのだと考えます。半分ぐらいはヘラヘラしてもいいんじゃないのとは思いません。では、100人全員は誰がわかるようにするのか。もちろん国家が、です。とにかく国家というのは、そーゆーものなのだと考えるのです。社会というのは、みんなシャンとしなくてはならないと考えるのです。

ちなみに、上記の右の人々の考えは、これはこれで正論です。みんながみんなシャンとできれば、これほど良いことはありません。そして、右の人々は、それを目指しましょうと言ってるわけです。これはこれで間違っていないんです。ですから、今の世の中では、比較的右の人々、つまり保守の意見が(新聞で言えば、朝日ではなく産経とかが、雑誌で言えば、アエラではなく正論とかが)「正しい」ように見えるわけです。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、比較的左の人々や自由主義の人々はそうは考えません。だって、そないなことゆーたかて、全部が全部、しゃんとするなんて、できるわけあらへんやろ。できもんは、できんわ。できんもんを、目標にしたって無駄やろ、と思うわけです(なぜか、関西弁)。

しかしながら(と、しかし、が続きます)、右の人々は、そのダラケた連中の中から、親を殺害する子供や、子供を虐待する親が出てきているじゃあないの、もうガマンできない、となるわけです。

このように、「わからない人々」をどうするのか、ということについて、おのおのの立場で、おのおのの考え方があります。

で、ですね。じゃあ、これは社会観、国家観の違いであり、永遠に一致することがないテーマなのかといいますと、まあ、これはこういうことなのだと思います。

まず、世の中のは、「わかっている人」と「わかっていない人」がいる、と。で、「わかっている人」は、これはもうどんどん「わかって」下さい、と。ほおっておいても「わかる人」ですから、各人、個人主義でどんどん進めて下さい、と。「わかる人」は、今の教育やマスコミはダメであることがよくわかっていますから、ネットで話し合い、ネットでつながっていきます。そうした人々が、僅かづつでも増えていくことで、世の中は変わっていきます。

で、「わかっていない人」はどうするのか。これは、わかる人になれとは言わない。ただし(ここがポイントです)せめて、これだけは、わからなくてはならないというものはある、というわけです。必要最少限度の「これだけ」があるということです。従って、必要最少限度の「これだけ」については、国家が国家権力をバックにして「わからない人々」に徹底的にわからせますよ、と。それが、国家の責任である。robitaさんが言われていることは、こういうことなんじゃあないかなと思います。

つまり、僕が思うのは、公教育の目的とは、必要最小限度のことを教えることなのである、ということです。アレも、コレもと公教育に多くを期待するのはやめよ、そんなことは、それこそ、わかっている人々は、おのおの、国家なんかにかまわずやってくれ、ということなのだと思います。公教育として教えるべきこととは、そもそもなんであるのか。ここのところが、現状は受験教育に押し流され、さらに、家族の崩壊による家庭のしつけのレベルから、産業界の要請とやらも加えられて、アレも教える必要がある、コレも教える必要があるという、アレもコレもの話になっています。そうではなくては、むしろ、アレはやらない、コレはやらない。なぜならば、アレは家庭で親が教えるべきです。コレは企業が職場でコストをかけて教えるべきです、ということです。

ここで、「家庭で親が教えるべき」と言っても、今の世の中の親は、そんなことしないじゃないの。だから、教育でやるしかないじゃないの、という話になるから、教育にアレもやらなくてはならない、となるのです。家庭がやるべきものは、家庭がやるべきなのです。それを公教育に要求するから、学校の現場は混乱と期待過剰で押しつぶされるのです。

コレコレしか学校はやりません。できません。それ以外は、家庭なり、企業なり、社会なりでやってください。学校に、アレもコレもと期待しない、ということです。アレもする、コレもする、ではなく、アレはしない、コレはしないということです。

April 09, 2007

シンゾー・アベのダブルトーク

 ワシントンポスト紙は、3月24日の紙面にて"Shinzo Abe's Double Talk"と題する社説を掲載した。Double Talkとは、この場合はやはり「二枚舌」という意味になるだろう。日本国の総理は二枚舌なのだと、ワシントンポストは言っているのである。なにが、二枚舌だと言っているのか。

He's passionate about Japanese victims of North Korea -- and blind to Japan's own war crimes.

「彼(シンゾー・アベ)は、北朝鮮による日本人拉致被害者に対しては熱心に取り組みむが、日本自身が犯した戦争犯罪には目をつぶっている。」

Mr. Abe has a right to complain about Pyongyang's stonewalling. What's odd -- and offensive -- is his parallel campaign to roll back Japan's acceptance of responsibility for the abduction, rape and sexual enslavement of tens of thousands of women during World War II. Responding to a pending resolution in the U.S. Congress calling for an official apology, Mr. Abe has twice this month issued statements claiming there is no documentation proving that the Japanese military participated in abducting the women. A written statement endorsed by his cabinet last week weakened a 1993 government declaration that acknowledged Japan's brutal treatment of the so-called comfort women.

「ミスターアベは、(6カ国協議での)北朝鮮の議事妨害行為に対して不満を言う権利はある。しかし、何が奇妙で不快かと言えば、第2次世界大戦中に数万人の女性を拉致し、レイプし、性的奴隷としたことへの日本の責任を軽くしようとする彼の並列したやり方である。日本政府からの公式謝罪を求めるアメリカ議会の決議案に応じて、ミスターアベは今月、二回、日本軍が女性を誘拐に関与したことを立証する公式文書は全くないと主張する声明を発表した。先週、彼の内閣によって支持された文書は、いわゆる従軍慰安婦についての日本の残忍な扱い認めた1993年の政府宣言を弱めた。」

 ようするに、公式書類がないから軍の関与はなかったというのはおかしいだろう、とワシントンポスト紙は言っているのである。

 この問題は、二重、三重にねじれていて、ややこしい。

 ここで強調しておきたいことは、現在の北朝鮮の問題と、過去半世紀以上も前の、しかも、この地球上にはもはや存在すらしていない過去の国が犯したという犯罪行為とを同列に扱うことはできないということだ。その意味で、北朝鮮の言っていることが正しいとは、世界の人々は誰も思ってはいないであろう。思ってはいないが、日本国政府の言う、「従軍慰安婦」なるものへの強制連行は行っておりません。なぜならば、そうした記録はありませんから、以上、オワリ。という発言で、アアソウナノカと納得する国も世界のどこにもないであろう。ましてや、日本と朝鮮という、遡れば二千年ぐらい前から続いているイザコザの関係がある背景の中で、こうした発言をするこの国の指導者の感覚とはいかなるものであるのかと思う。

 日本軍によるいわゆる「従軍慰安婦」なるものについて、そもそも、軍の強制があったのか、ないのか、という問いかけそのものが意味がない。なぜならば、軍の強制があったからどうこう、なかったからどうこうということではないからである。

 軍による強制があろうが、なかろうが、公娼制度はあった。民間業者が兵隊さん相手の慰安所を設けて、商売をしていた。さらに、この当時の日本は、中国・朝鮮を劣等国として扱い、蔑視していた。それらのことは、あの時代では当たり前の当然のことであった。だからこそ、根が深い。これを軍による強制があったから虐待行為はあった、なかったから虐待行為はなかったというのは問題のすり替えであろう。

 しかしながら、軍が率先して「慰安婦」を性的奴隷にしたり、人身売買に関わったというのであるのならば、それは間違いだ。この「軍が率先して」というのは、より具体的に言うと、陸軍省や参謀本部からの通達命令として、ということである。いわば、日本国の国家意志として、そうしたことを行ったのかというと、それはない。むしろ軍は、女衒業者のそうした行為を取り締まってきたのである。もちろん、軍人にも、いろいろな人がいた。このへんをあえて言えば、軍による強制連行はあったのか、なかったのか、と言えば、なかった。これをもって、今の日本国政府に謝罪を要求するのならば、それはお門違いであって、理不尽な要求と言わざる得ない。

 ただし、軍による強制連行はなくても、結果的に強制連行になることはあったであろう。官憲が個人的に関与していたこともあったであろう。大日本帝国軍による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買はない。しかし、当時の日本には、(外地であるアジア諸国での女性たちだけではなく、そもそも内地の同じ日本女性に対して、でも)悪質な女衒や公娼業者はいたし、そうした業者による人身売買が行われていた。何度も書くが、だからこそ、この問題の根は深い。ようするに、アジア近隣諸国の女性たちに対してどうこうという以前に、今日の感覚から見れば、当時の日本は、今の北朝鮮のように、人権意識がゼロに近い国だったのである。

 しかし、今の日本はそうした国ではない。ではなぜ、軍による強制連行はありませんという主張が、ワシントンポスト紙から、シンゾー・アベは二枚舌だと書かれるのであろうか。問題なのは、外国から見た時、「戦後の日本は、戦前の非を認めようとしない」と「見える」ということである。シンゾー・アベの、日本政府は「従軍慰安婦」への強制連行の事実はない、なぜならば、そのような公式な証拠はないからである、という論法は、現在の北朝鮮が言う日本人拉致はない、なぜならば、そのような公式な証拠はないからであるという論法と(論法という意味においては)同じになるとワシントンポスト紙は言ってるのであろう。

 朝鮮側から見れば、悪質女衒業者であろうと、悪徳官憲であろうと、イルボン(日本)は、イルボンである。いや、イルボンサラム(日本人)にもいろいろあって、全部イルボンでひとくくりにするなと言っても、外国から見れば、イルボンでひとくくりにしてしまうものだ。そして、今の日本政府が「公式資料はない」とか、「謝罪や保証はすでに済んでいる」とか言うと、「どーもイルボンには、過去の反省がまったくないのではないか」と思われてしまうのである。しかし、イルボン側としては、国家の政策としてやったわけではないと言っているだけで、日本が犯罪的な行為を行ったことは、ただの一度もないと思っているわけではない。

 つまり、お互いの真意が伝わっていない。そもそも、今の日本と朝鮮の間に、民族的な信頼関係がないのだ。大日本帝国の植民地支配が終わって、まだ半世紀程度しかたっていないので、信頼関係ができるはずもないと言えば、確かにそうなのであるが。信頼がない関係に、真意が伝わることはない。

 戦争には、民族の感情が伴う。戦争の記憶を通してしか、今の日本と朝鮮には接点はないというのならば、日本と朝鮮は、永遠に理解しあうことなどできないであろう。

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