島田裕巳『中沢新一批判』を読む
島田裕巳の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読んだ。読みながら思ったことは、中沢新一を論じる本書の内容が、良くも悪くも島田裕巳その人をよく表しているということだ。
本書の最初の方で、島田さんと中沢さんは、東京大学文学部宗教学研究室の先輩と後輩であり、指導教授も同じ、中沢さんが大学院博士課程に進み、ネパールにチベット密教を学びに旅立った後も、島田さんはしばらく手紙のやりとりをしていたということが書かれている。それほどの間でありながら、本書の中では中沢新一は宗教学者であるだけではなく、チベット密教の修行者でもあり続けていることがわかったとか、中沢新一は実はコミュニストであったとか、当たり前の至極当然のことを、今になってわかったということが書かれている。
こんなことは、1984年に出版された『チベットのモーツァルト』以降の中沢さんの一連の著書を読んでいる者であったのならば、あたりまえのことであって、それも今になって中沢新一とは実はこんな人物だったのかと書かれても、つまり、島田さんは中沢新一の本を読んでこなかったのですねということになる。80年代のニューアカブームのまっただなかで学生時代を送った私にとって、中沢新一は新しい学問の姿だと思っていたし、チベット密教のポスト構造主義的解釈は極めて斬新なものであった。そうした動向を、島田先生はまったく意識していなかったということになる。もちろん、島田さん個人が何に関心を持とうと、それは島田さん個人の自由である。しかしながら、宗教学者であるというのならば、あの時代、宗教について新しい視点を持ち込んだ中沢さんの業績は、否定するにせよ肯定するにせよ見るべきではなかったのか。
そもそも、島田さんと中沢さんでは、宗教に対するスタンスが違う。中沢新一は、宗教学である前に、チベット密教の信者である。信者であると共に、研究者でもあるというスタンスをとっている。これに対して、本書の中でも書かれているように、島田はいかなる宗教の信者ではない、宗教の信仰や修行については関心がない。その意味で、島田さんの関心事は、宗教そのものというより、宗教社会学である。つまり、島田さんの観点から見れば、中沢さんの言動は理解できないのは当然のことなのである。
若干の暴論であるかもしれないということを意識しつつ書くと、島田さんの言う、中沢さんの著作や言動はオウム真理教に大きな影響を与えた、だからその反省と総括をせよというのが私には理解できない。まず、中沢さんの著作や言動が、オウム真理教に大きな影響を与えたということについては、それは影響を受けた信者はいるであろうが、教団としてのオウム真理教にいかなる影響を与えているのかということになると、簡単に言えることではない。中沢新一の『虹の階梯』が、オウム真理教の教義にどのように関わっていたのかということは、島田さんの本書からではわからない(私個人としては、『虹の階梯』のタネ本がなんであったのかわかって参考になったが)。
『虹の階梯』があろうと、なかろうと、あの教団はあの教団だったと思う。実際、教団では、チベット語の教典を翻訳して使っていることもあったようだ。『虹の階梯』に書かれている内容と同じようなものは、いくつもあったであろう。グルへの絶対的帰依は、密教ではあたりまえのことであり、『虹の階梯』の主張ではない。ニンマ派についても、オウム信者たちは知っていたであろう。いずれにせよ、オウム神仙の会からオウム真理教に至る教団とチベット密教の教義的な影響や関連については、未だ解明されていない。このへん、あえて言えば、島田先生はオウムについて分厚い本を書いているのに、教義の内容そのものを(安易に、中沢の本が悪い!とするのではなく)解明しようという意志はないんですかと問いたい。ちなみに、これこそ宗教学の作業であり、宗教社会学で扱えるテーマではない。その意味で、島田先生にこれを求めるのは酷だなとは思う。本来、書いて欲しいのは、中沢さんであることは私も同意するのだけれども。
むしろ、あの時代のオウム真理教をめぐるメディアの中で、中沢新一は圧倒的なオウムシンパの第一人者(?)であったということは、これは確かにそうだったと言える。そして、中沢さんと比較すれば、それほどでもない島田さんのオウム擁護の言動であったが、島田さんはメディアから謂われなきバッシングを受け、中沢さんはそうでもなかった。これこそ考察すべきことである。これは、中沢新一のせいでも、オウム真理教のせいでもない。その意味で、島田先生はメディア社会学の分厚い本を書くべきではないかと思う。島田さんが問うべき相手はメディアであって中沢さんではない。
中沢さんがテロを擁護しているということについて、島田さんは何を言っているのかよくわからない。テロを肯定しているというのは、どのような文脈でそうしているのかであり、発言の言葉だけを捕らえて、殺人そのものを肯定していると解釈するのはおかしい。本質的に宗教とは反社会的なものを持つ、ということは間違っていない。それを言うことでテロを容認しているというのは、おかしな話だ。ましてや、一連の事件はオウム真理教教団そのものの責任であって、中沢さんは関係はないことは、上祐史浩が自身のサイトで書いていることを読んでも明らかである。島田さんは、中沢新一をオウム真理教の「隠れた教祖」「隠れたグル」とさえ書いている。しかし、当のオウム側はそうではなかったと見るのが妥当であろう。オウム真理教の事件で、中沢さんに責任があるかような主張は、それこそあの頃、島田さんが受けたバッシングそのものであり、同じことをやっているようなものである。
中沢新一の言う「霊的革命」や「霊的ボルシェビキ」を、これはレーニンのボルシェビキ革命と同じだとするのも、ロシア史を見れば必ずしもイコールではないことがわかる。中沢さんの思想は、テロを正当化する思想であるというのならば、それはそれで「正しい」とも言える。そもそも、中沢さん自身、「人これを邪教と呼ぶ」という密教の修行者だと語っているのである。かりに、そうであったとして、だからなんなんですかと問いたい。地下鉄サリン事件の幇助として罰しようというのであろうか。地下鉄サリン事件での犠牲者がかりに1万人、2万人であった場合、どのような意味を持ってくるのか考えるということは、宗教学者として至極当然のことだと思うが、そうした発言をテロ容認と解釈するのは、悪意のある解釈と言わざる得ない。
それでは、例えば、自衛官が福井晴敏の『亡国のイージス』を読んで、北朝鮮の工作員と内通してイージス艦を占拠するようなことが起きたら、福井晴敏は反乱幇助ということになるんですね。『パトレイバー2』を見て、陸自の部隊がテロを起こしたら、押井守はテロ幇助になるんですねと言いたい。また、同様にコミュニストであるからなんなのですかと思う。島田さんのマルクス主義理解については、もはや話にならない。この人は、コミュニスト・イコール・テロリストとしてしか見ることができない人のようだ。弁証法や唯物論で宗教を語る中沢さんの宗教論を、島田さんは宗教学者として考えたことはないのであろうか(ないんだろうなあ)。
「リセット願望」を、「高みから見るエリート思想」だとし、中沢家は祖父は東京帝大卒であり、三人の叔父のうち二人が東京帝大卒、中沢さんも東大卒というエリートであるとし、さらにオウム真理教も実行犯は大学卒や院卒が多い、日本共産党も幹部の大半は東大卒であったと述べ、そうしたエリートであるが故に、高みから傍観者的に世界を見ているから、サリンによる大量殺人も他人事のように考えるのだとする記述にいたっては、「はあっ?」というものであり、島田さん自身も、自分も東京大学出身者だから宗教の研究をしていても、大所高所からついものを見て考えてしまう云々かんぬんの文章を読んで、なんなのかこの人はと思った。
以前、島田さんの分厚い『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を読んだことがある。なぜ宗教はテロリズムを生んだのか、これを読んでもさっぱりわからなかった。結局のところ、宗教が内在する反社会的内容を理解しようとせず、大学卒だからとか院卒だからとか、東大卒だからとか言っている人のオウム論など、底の浅いものになるのは当然であろう。
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