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February 2007

February 07, 2007

『墨攻』

 映画『墨攻』を観てきた。

 以前、映画館の予告で、この映画のことを知り、公開されるのを楽しみに待っていた。この物語は、今からおよそ2400年ぐらい前の中国の戦国時代の物語である。2400年ぐらい前というと、中国大陸の最初の統一国家であった秦よりも前の時代になる。キリスト教歴で言えば、キリスト出現以前、すわなち紀元前の話である。ちなみに、この時代の日本は縄文晩期の時代であり、邪馬台国もまだなかった。
 
 この時代、戦乱の中国に、墨子という思想家が出現し、墨子の没後もその教えを守り実践していく思想集団があった。墨家である。

 実は、この映画の予告を映画館で見た時、そういえば墨子という人がいたな、確か諸子百家のひとつではなかったかな、高校の世界史でやったな、ということを思い出したのである。つまり、高校時代以後から今日に至るまで、墨子のことなど考えたことは、ただの一度もなかった。日頃、このブログでも、中国がどうの、歴史がどうのと言いながら、ワタシの教養など、この程度のものなのであった。そこで、すぐさま酒見賢一の小説『墨攻』を読み、さらに墨子について調べてみると、これはきわめて興味深い思想であることに気がついた。墨子の思想は、今の時代にこそ顧みる必要がある。うーん、よっしゃあ、映画も見るでと、公開を心待ちにしていたのである。この映画の直接の原作であるマンガの方は、まだ読んでいない。

 さて、映画が始まると北京語の中国語であった。広東語ではない。最近よく見ている中国の武侠ドラマも、ほとんど北京語なので、わー北京語かと思ってしまった(何を言っているのかは、字幕がないと全然、わかないんですけど)。最初の方のシーンで、ちらりと見える白髭のおじいさんは、おや『七剣下天山』の傅さんではないですか。燕に攻め込む趙の前線の将軍は、同じく『七剣下天山』での七剣士の宿敵多格多の師父の紐枯魯ではないですか。いやあ、いい脇役が出てますね。で、傅さん役の于承慧は、いつも武術の達人の役で、実際に達人の人なのだけど、今回は少しだけ出て、すぐにやられてしまうのであった。あー残念。この人の剣さばきが見たかったのに。とまあ、知らない人、意味不明のことを書いていますが。

 主役たちも、またいい役者をそろえている。主人公の墨家の革離を演じるのは、香港のアンディ・ラウ。アンディ・ラウだと、原作の革離のイメージとは違うのであるが、ストイックな墨者の雰囲気はでていたと思う。アンディ・ラウとトニー・レオンの『インファナル・アフェア』を見ても思ったけど、この人はいい俳優だよなと思う。趙の将軍の巷淹中を演じる韓国のアン・ソンギもいい俳優だ。韓国の映画俳優では、ベストの役者ではないかと思う。一部で不評の(笑)騎馬武者の逸悦の中国の女優ファン・ビンビンもいいじゃあないですか。逸悦の出てくるシーンは、なんか数千年前の中国という感じがしないのだけど(笑)、美人だから良し。ただ、あのシーンは必要なのかというと、まあどうかとは思うのだけど。
 
 戦闘シーンについて言えば、原作小説にあったように、戦闘そのものよりも、作戦の準備段階でさまざまな仕事を黙々とこなしていく革離のシーンがもっとあってもよかったのにとは思う。作戦家や戦術家の仕事とは、戦闘そのものよりも、その前段階でほぼ作業が終わるものなのである。実際の戦闘になったら、あとは戦闘部隊が決めたことを決めた通りにやってくれればそれでいい。しかしまあ、それは近代の軍隊の話であって、革離は作戦を考えて、かつ、自分で前線部隊の指揮をとらなくてはならないという激烈さなのであった。しかし、その激烈さが、それほど激烈だったのかというと、ファン・ビンビンの逸悦がいるため、なんかこー中途半端なものになっていないかと思う。いや、いんだけどファン・ビンビン。もし、主役キャストがアンディ・ラウとアン・ソンギだけだったのならば、あまりもオモイ・・・・。なお、川井憲次の音楽は『セブンソード』みたくて、かっこいい。

 墨子の思想について、少し考えてみたい。

 墨子の思想は非戦である。およそ、人の世では殺人は容認されない。ところが、国家の命令による殺人は犯罪にはならない。つまり、戦争で人を殺害することは容認されるのである。これはおかしいではないか、と墨子は考えた。殺人が悪であるように、国家が行う殺人である戦争もまた悪である。よって、いかなる侵略行為もこれを否定した。とまあ、ここまでは、よくある平和主義の反戦論である。しかし、ここからが違うのだ。ここからが墨子の墨子たる所以である。墨子は侵略戦争を否定するとともに、侵略されることもまた否定したのである。こちらから攻撃することはないが、防衛のための戦争は断固として行うのである。墨子の思想集団である墨家は、防衛のための様々な戦術を練り、数多くの戦争兵器を開発してきた。墨家は、防衛戦闘の戦争職人の集団であり、中国の春秋戦国時代最大の軍事組織であった。こちらからは攻めないが、攻めるのならばどうぞご自由に、その代わり徹底的に反撃します、ということである。これを墨子は「非攻」と言った。自国の防衛のためには、先制攻撃をすべきであるとのたまう某超大国の某大統領には、絶対に理解できない考え方であろう。

 これはまさに、戦後日本の専守防衛のあるべき姿ではないか。なぜ、この思想が今までさほど知られることなく、歴史の闇に埋もれていたのか。自衛隊の防衛大学と幹部学校は、今すぐでも墨子の思想を扱うべきだと思ったりするほど、まさに2400年前の専守防衛の思想なのである。墨者は、諸国の王の招聘に応じ、現地である城郭に立て籠もり軍事専門家としての仕事を行う。報酬は受けない。営利栄達は求めない。そこでの防衛戦闘を専門とした軍事コンサルタントとして仕事が終われば、墨家教団に戻り、次の仕事を待つという、きわめてプロフェッショナルな職能集団だった。『墨攻』の主人公革離は、墨家の有能な戦争職人である。

 中国において最も影響力が強い思想とは、言うまでもなく儒教である。しかし、この時代、墨家は、儒家と思想界を二分するほど、広い影響力を持っていた。墨家の思想は、儒教とは真っ向から対立していた。墨家の思想のバックボーンにあるのは、ようするに普遍的な「人間」という概念ではないかと思う。儒家では、人の世には秩序があり、出身や身分によって「人」は異なると説く。これに対して、墨子は「人」には上下などなく、みな平等だと説いた。人はみな共に敬い合い、愛し合うべきなのであると考えたのである。これを墨子は「兼愛」と言った。
 
 墨子の時代から、遙かな年月の後の世に住む我々にとって、人は平等であるということなど常識みたいなことであろう。しかしながら、2400年前の、しかもアジアでこうした考え方が出現していたということは、かなり驚愕すべきことなのである。同時代で、人は平等であるという思想を述べていたのは、『墨攻』の時代より200年くらい前になるが、インド北部でゴータマ・シッダッタが唱えた後に仏教と呼ばれる思想ぐらいであった。さらに時代が数百年下って、中近東においてユダヤ教のエッセネ派のヨハネの弟子のイエスが、後にキリスト教と呼ばれる宗教を説き、人類愛を述べる。さらに時代は遙かに下り、18世紀ヨーロッパに啓蒙思想が出現し、ようやく近代の社会意識が生まれることになる。しかし、それに先駆けること2000年以上も前の中国に、キリスト教や西洋近代のような平等思想があったのである。
 
 墨子の思想は、中国どころか世界の思想の中でも、極めて特異で異質なものであった。その異質な故にか、墨家は中国史の中で突然に消え去る。戦国時代が終焉し、始皇帝が中国を統一し、秦を建国する頃、異能の戦争思想集団であった墨家は、忽然とその姿を消すのである。なぜ消えたのかということについては、今でもよくわかっていない。しかも、墨子の思想はまるでなかったかのように、その後の中国思想史の中で忘れ去られるのである。中国の知識人が、墨子の思想を高く評価するようになったのは、秦の時代から遙かな後年の清朝の時代であった。

 21世紀の今日の英米の国際関係論の分野で、墨子の思想に似たような考え方がないかと思ってみたが、どうもなさそうである。反戦でありながら、強靱な軍事力を持つというのは、ないように思われる。マハトマ・ガンジーは非暴力・非服従を述べたが、相手は暴力で服従を迫ってくる以上、こちらが非暴力では服従せざるえない。ジョン・レノンの「ラブ・アンド・ピース」では、侵略してくる敵とは戦えない。平和をいくらイマジンしても、戦争のない世界にはならない。

 戦後日本の専守防衛というのは、思想というにはあまりにもオソマツすぎる。墨家は専守防衛であるが、そのための軍事力の維持と研究開発を怠ることはなかった。一方で「兼愛」を説きながら、その一方で敵を殺戮するという矛盾を抱えながら、それでも墨者は理想を主張する。戦後日本は、できることならば軍隊なんか持ちたくないけど、国際状況上持たざるえないので、軍隊みたいなものを作りました、敵が攻めてきたら日米安保条約で米軍に守ってもらいますという吉田茂の苦肉の策でしかなかった。

 この映画は、安易なハッピーエンドで終わらない。リアルな結末だった。革離は、墨家である。戦争職人であると共に、思想伝道者である。墨家の説く非戦論は、理にかなった理想である。しかしながら、この世は理想が通ることなど希である。どんなに優れた理念であっても、理念だけでは現実を変えることはできない。革離と戦った巷淹中もまた同じく理念に生きる人だった。しかし、最後に勝ったのは誰か。この映画のラストは、ある意味で理想主義の悲劇を意味している。この現実をかみしめながら、それでもなお、自分の理念に生きていく。思想者とは、そうした人なのである。

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