以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での1月1日の「これでどうでしょう②」についてのコメントである。
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robitaさん、
>>「個人の自由」にさせてほしい、しかし、責任は全部「国」にある、というのは虫が良すぎやしませんか。<<
いえいえ、ワカイモンの働く、働かないかは、それこそ個人の自由です。(まあ、日本国憲法第27条に、「すべて国民は,勤労の権利を有し,義務を負う」とあり、勤労の義務はあることはあるんですが、ここでは一般論でワカイモンの働く働かないについて論じます)
国という枠組みで見た場合(国という枠組みで見た場合、ですよ)、働こうが、働かまいが、個人の自由なんです。そして、世の中の仕組みは、働きたいというワカイモンにとって働きやすい仕組みになっている、という必要があるのです。その上で、働く働かないは個人の自由です。
自由主義の国家というのは、たいへんなんです。例えば、個人の自由で戦争をやっているイラクへ勝手に行って、人質になった場合、本来の話で言うと、国家は軍隊を送ってでも救出しなくてはなりません。国は、国民の生命財産を守る義務があるんです。国が生命財産を守ってくれるから、国民は税金を払っているのです。税金ばっかり重くて、生命財産を守ってくれないのならば、そんな国には住みたくないといって、よそへ行ってしまいます。人民というのは、そういうもんなんです。日本は島国なので、そういうことにはなりませんでしたが、地続きで隣に国がある、その向こうにも国があるというところでは、歴史上そうしたことは何度もありました。
国というのは、そういうもんなんです。そうやって国民を保護しているとしても、国民はなんだかんだとブーブー文句を言って批判します。そういうもんなんです。「小泉さああん」とか言って、何百人もの人々が集まってくるというのは異常でした。
>>法律を遵守することでちゃんと国民の義務は果たしています、その他のことには関知しません、というのでは国は良くならないんじゃないかなあ。<<
当然、良くならないです。「法律を遵守することでちゃんと国民の義務は果たしています、その他のことには関知しません」では国は良くなりません。
主権国家という言葉があります。主権国家とは、国民に主権があるという意味ではなく、国家に主権があるという意味です。主権国家で言う国家とは、人々を軍隊と警察で支配し管理する権力機構です。国家の命令であるのならば殺人も合法になります。国家にはそうした側面があるから、左の人々はとにかく「国家がコレコレを命じる」となるとハッと警戒するわけです。
しかしながら、robitaさんが言われている国家とは、そうした意味のことではなくて、もっと気分的なというか。つまり、国民国家のことだろうなと思うわけです。以前、幕末の長崎に来たオランダ人の海軍将校のカッテンディーケのことを書きましたね。カッテンディーケの故国オランダは、カンタンに言いますと国民国家だったんです。国民国家とは、人間の集団があって、そこからなにもしないで、ポンと自然に生まれてくるものではありません。
ベネディクト・アンダーソンという、コーネル大学のインドネシア研究者がいます。この人はインドネシアの研究から、「国民」というのは社会的あるいは政治的な実体なのではなく、イメージとして心に描かれた何かが集まって凝集したものではないかと考えました。すなわち「想像の政治的共同体」(imagined political communities)なのではないかということです。つまり、国民とは、教育や出版・メディアなどといった啓蒙によって人為的に作られるものなのです。そういうものなのだということで、僕も国民について論じています。
>>「国」というのはつまり悪い「政治家」や「官僚」であり、その「悪者ども」と「我々健全で善良なる庶民」とは敵対するものであり、闘い続けていかなければならないのである!・・・という敵対関係の思い込みからいい加減に脱しなきゃいけないんだと思うんですよ。<<
いえいえ、国に対して、敵対感覚を持ちましょうと僕は言っているわけではありません。
国民国家とは何か。国民国家とは、人々がみな自分の国に対して責任をもって、一体感を感じているということです。と同時に、国民は国民という名のもとでみな平等であり、人権が守られるということであり、そして自由である、ということです。自由な市民社会の人々は、自分の国が果たして愛するに値する国家なのかと疑問に思うものです。この「今の国が果たして愛するに値する国家なのか」という問いは、つまり、愛するに値する国家であって欲しいという思いがあるからです。だからこそ、愛するに値する国家にしようということです。そして、国家が愛するに値しないことをやっているのならば、それを糾そうということです。なぜ、国民たる者がその国家を糾すことができるのか。それは、この国は自分たちの国だと思っているからです。それが民主主義というものであり、公という社会意識なのです。これが国民国家というものです。
教育の目的とは、この公の意識を教えることだと思うのです。robitaさんは、これを愛国心であると言われているから、左の人は首を傾げてしまうのです。それは愛国心のことじゃあないんですかというと、愛国心とは、ちょっと違うと思います。robitaさんがというか、後に書きますが、世間一般に昭和30年代の頃から、愛国心なんだみたいな意見が出てきたのですが、これは公という社会意識だと思います。公は、国家を含むというか、公の中に国家もあると思います。世の中には、公というものがある。自由には秩序があり、権利には義務がある。個人的にはアレやりたい、コレやりたいということがあるんですけど、公の場ではグッと耐える、やせ我慢する。ストイックになる。それが公というものです。
しかしながら、「グッと耐える、やせ我慢する。ストイックになる」になってもらっては困るのが消費社会なんです。資本主義は、個人の快楽原則の上に乗っかっていますから。「グッと耐える、やせ我慢する。ストイックになる」ではなく、商品やサービスとお金を交換して、心地よい、気持ちいいに流されてくれなくては困るんです。つまり、昭和22年の教育基本法がどうこうということではないんです。戦後の自由と個性の尊重の教育が、同じく戦後の高度資本主義の発展というか、どんどんモノを生産して、どんどん消費しましょうという時代の風潮と重なってしまったことにより、社会から倫理とモラルが消滅してしまったのだと思います。
読む必要は全然ないんですけど、小熊英二という人が書いた本で『<民主>と<愛国>』(新曜社)という本があります。電話帳ぐらいの分厚い本です。この本は戦後の日本のナショナリズムと社会について、終戦直後から1970年代までの戦後知識人がどのように論じてきたのかをまとめた本です。国家とか愛国心とか民主主義とかいったものは、60年前から延々と議論されてきたんですね。
この本を読むとわかるのですが、終戦直後では自由と人権の尊重を高く掲げていながら、その一方で公の意識がありました。個の確立と公の意識は一体でした。丸山真男や大塚久雄が、今の日本を見たら驚くでしょう。それが昭和33年頃から(なんと昭和33年から、すでに)公よりも私尊重というか、私優先の世の中に変わっていきます。この頃から、愛国心やモラルの教育が必要だみたいな話が出てきます。
この時、日高六郎という社会学者が、高度成長の経済主義とそれにともなう生活様式の変化が「私」優先を生み出したと論じています。つまり、終戦直後の世の中では、軍国主義の滅私奉公はもうやめようと思った。それがやがて、高度成長の経済発展の中で利己主義に変わってしまったのです。そして、昭和33年から、さらに40年以上の年月がたったのが今の日本です。今の日本では、戦後教育は悪いみたいな話になっていますけど、昭和33年に日高六郎が論じていたことがすっぽり抜けています。
日高六郎が論じたように昭和30年代から始まる経済主義と、70年代から80年代にかけてのホンネ主義みたいなものが公の社会意識を解体したのだと思います。それは同じく、昭和30年代から愛国心は必要なんだという声が大きくなってきたことと連動しています。戦後教育がそれを押しとどめるものにならなかったのは、自由・平等・人権という理念が間違っていたのではなく、公のもとに自由と平等と人権があることを教えてこなかった。というか、戦後日本に怒涛の如く押し寄せてきたカネさえ儲かればいい、消費は美徳だみたいな資本主義の中で消えてしまったのだと思います。資本主義に対抗する思想としての共産主義は、アンチ資本主義みたいなものにしかなり得ませんでした。資本主義を倒して、じゃあどうするのということで、市民社会の理解を失ったことも原因の一つです。
つまり、公の社会意識の復権と、消費社会に対抗する(「対抗する」っていうのは、なんかこー意味が違うんですけど、いい言葉が浮かばないからとりあえず)思想というか、やせ我慢のかっこよさみたいなものを作っていく必要があるのでしょう。
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