« 石黒耀『死都日本』を読む | Main | 「9.11」をどう考えるか »

December 24, 2006

消えゆく昭和22年

 以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での12月21日の「愛国心、これでどうでしょう」についてのコメントである。

------------------------------

robitaさん、

 まことに失礼ながら、記事「愛国心、これでどうでしょう」から愛国心を教えることの大切さはわかりません。もちろん、一般論として、愛国心を教えことは大切であるということはわかります。しかしながら、民衆にとって良くない政権を革命によって倒すことができる権利のことを愛国心というのでしょうか。であるのならば、今回の教育基本法の改正は、そうした改正ではありません。新しい教育基本法から「政権が信用ならないとなったら、力ずくででもそれを倒して国民のための国家を再構築する、という覚悟」を感じることができません。新しい教育基本法を読んでみると、公共とか伝統とか文化とかいったことよりも、むしろ、国家が全国の都道府県の教育を統括・管理するという国家主導による教育行政を濃厚を感じます。

 そもそも、いかなる国家も民衆に「不満があったら革命をしていいです」という権利を与えている国はありません。反政府活動はテロや反乱とされ、軍隊がこれを鎮圧します。何度も申しますが、国家というのは権力と武力を持っているのです。従って、革命というのは「国が与えてくれた権利を人民が行使すること」ではなく、「国の警察や軍隊と戦う」ということです。共産主義が言う武力革命、武力闘争というのはこういうことです。

 民衆の権利とは、なにが与えてくれるものであるのか。このへん複雑な話はすっ飛ばしますが、17世紀にイギリスのジョン・ロックという人が、人民の自由と平等の権利というのは、国家とか王様が人民に与えるものではなく、生まれながらの固有な権利であると考えました。天あるいは神が人間に与えたものなのである、ということです。このへんアジア人である私たちが、この考え方を聞くと、神様がそんなことをするのですかと奇異に感じますが、西欧政治思想ではそう考えるというわけです。

 もうひとつ、これと対立する保守主義思想の流れに、自由や平等を神からもらった固有の権利と考えるのは、ちょっと無理があるだろうと考えるエドマンド・バークの思想があるんですが、これは都合よくすっ飛ばします。とりあえず基本的に、ヨーロッパの社会思想では、ロック以後、そのように考えます。この考えをさらに発展させたのがフランスのジャン・ジャック・ルソーです。ルソーは、自由と平等の権利を(生まれながらにして、神から与えられて)持ってる人々が集まって社会を形成している。その秩序維持のために国家があるのだと考えます。だから、国家の構成員であっても、個人の自由と平等は保証されなくてはならない。そうした社会契約が人々と国家の間にはあるのだと考えました。ルソーの考え方を、ちょっと過激に表現すると、人は自由のためには国家さえも否定できるのだということです。この考え方から、フランス革命は生まれました(正確に言うと、と言い切っていいのかどうかわからんけど、とりあえず)。

 日本人は、明治になってロックやルソーの思想を知りますが、明治政府の法思想は、人民の権利意識が高いフランスではなく、国家体制維持の意識が強いドイツの法律を主に導入しました。上記にも書きましたが、人間の自由と平等という権利は、生まれながらの固有の権利なのだという考え方(これを「自然法」と呼びます)が、明治国家には受け入れることができなかったからです。よって、大日本帝国では主権在民という考え方はまったくありませんでした。

 一方、ロックの思想は、当時、新大陸アメリカにも広がります。新大陸には、ヨーロッパで思想や宗教のことで迫害を受けた人々や、国王や領主にひどい目にあわされた人々などが移民してきました。ですから、王様とか領主とかいったものは、自分たちの自由を脅かす、本質的に悪い連中なんだと考えます。国家というものは、絶えず監視をして注意をしていないと、どんな悪さをするかわかったもんじゃないと感じている人たちが作った社会です。やがて、ここで革命が起こります。そして、アメリカ合衆国が誕生します。

 ずっと時代が下って、20世紀にアメリカは太平洋戦争に勝利し、日本を占領します。そして、ルーズベルト大統領のニューディール政策のもとで働いていたリベラル派の知識人たちが、日本に、かつて自分たちの国がヨーロッパから学んだ民衆の権利についての考え方を日本に導入します。ここで日本人は、その昔、明治の頃、一部の人々だけが知っていたロックとルソーの考えに再び出会うわけです。徳川幕府を倒し、欧米のような自由で平等の国を作ろうと考えていた先駆者たちが導入しようとしていたロックやルソーの思想が、やがて明治国家の中で潰され消えてしまった、その思想がここでもう一度よみがえるのです。国家とは、基本的に個人の自由と基本的人権を守るために存在しているのだということです。

 戦争に負けて、国土は荒廃し、一面の焼け野原、浮浪者や戦災孤児が数多くいて、餓死者も多かった、それが終戦直後の日本です。今の日本からは想像できない状態でした。しかしながら、平成の今の時代からあの時代を振り返ると、なんかこー「明さ」があったように思うのです。実際には、たいへんな時代だったんでしょうけど。

 あの「明さ」ってなんだったんだろうかと思うと、それはあの時代の人々には、戦争はもう終わったんだ、もうあの重苦しい軍部とか国家とかの重圧に苦しまなくていいんだという、台風一過の青空のような、開放感があったんだと思います。もう、あの時代に戻らなくてもいい。国のいいなりにならなくてもいいという、せいせいした気持ちが、この時代の人々にはあったんだと思います。終戦直後の日本に「明さ」のようなものがあったことについて、アメリカの歴史学者でジョン・ダワーという人が書いた『敗北を抱きしめて』(岩波書店)という本に詳しく書かれています。

 僕は、昭和22年の教育基本法には、そうした明るい気分のようなものを感じます。もう愛国心とやらを強制されなくていい、愛国心のないものは非国民という扱いを受けることもない。昭和22年の教育基本法には、日本はあんな時代には二度と戻りません、という表明というか証のようなものが感じられます。実際、そういうものだったわけです。以前も書きましたが、昭和22年の教育基本法の内容は立派なものです。平成の今読んでも、十分通用します。この法律の、どこがどう間違っているのか。僕にはさっぱりわかりません。

 しかしながら、政府は教育基本法を変えました。それも、あっさりと、というか、早急にというか、なんでこんなに簡単に変えるのかわかりませんけど、とにかく強引に変えました。これがつまり、なんといったらいいんでしょう。あの時代の「明さ」や希望みたいなものが、消えてなくなってしまったような感覚を与えるのです。あの時代がどんどん遠くなるというか。あの時代、国は、もう戦前のような国には絶対に戻りませんと国民に誓ったと思うのです。その誓いが、日本国憲法であり、教育基本法であったと思うのです。そうした深い意味があったと思うのです。それが平成の今、教育基本法が変わり、憲法も変えようとしている。結局じゃあ、あの時代はなんだったのかと思います。

 なにを言っているのですか、あなたたちはすぐ「戦前に戻る」とか言うけれど、そんなことあるわけないじゃないですか、と思われると思います。僕も今の日本が戦前のような国になるとは思っていません。むしろ、教育基本法が変わったということで、愛国心も含めてなにも変わることはないと思います。ただ、政府が教育基本法をあっさりと変えた、それも最近の日本人は愛国心が希薄なので、教育によってそれを教えこむためという理由で変えたということ、そのことに、上に述べたように、あの時代の「明さ」のようなもの、国が国民に向かって、戦前のようには二度となりませんと誓った、あれは一体なんであったんだろうという思いがあるのです。国が「愛国」を言うことが、いかにむなしいことであるのか、あの頃の人々は実感でよくわかっていたわけです。そして平成の今、教育基本法や憲法を変えることで、戦前に戻ることを危惧するよりも、むしろ、あの戦争の意味を忘却しようとしていることを危惧します(忘却どころが、戦後60年間、日本人はそもそも、本格的にあの戦争の意味を問うことをしてこなかった、とも言えますけど。)

 結局、昭和22年の教育基本法はGHQという占領軍がいた日本であったからこその出来事であったのだろうか。戦後、日本は独立し、GHQはなくなり、60年という年月がたって世代も変わった平成日本では、愛国心の一言で、教育の法律が簡単に変わってしまうようになったということを考えると、なんなんだろうかと思います。「国家の言いなりになる日本人」を作る、作らないということではありません。ようするに、国家というのは、その時々の都合でどうとでも変わるのだなというか、国家というものは、なにかをするとなると、とにかくまず国民を法律や教育で管理する、統制する、これしかないんだなという、まことにその通りというか、しごく当然の真実を目の前にして、ますます意気後退するというか、やる気がなくなるというか。

 国が愛国心を言うのは当然のことである、国が教えなくて、誰が教えるのか、とrobitaさんが言われることはまったくその通りです。それは正しいことです。しかし、そのやり方が、昭和22年の原点にもう一度戻ろうということではなく、教育基本法を変えるというのはなんだかなあというか。結局、こうなってしまうのか。というか、国民が今の国家に求めているのは、教育基本法がどうこうとか、そうしたことじゃあないように思うのです。

|

« 石黒耀『死都日本』を読む | Main | 「9.11」をどう考えるか »

「経済・政治・国際」カテゴリの記事

Comments

真魚さん、

<<民衆にとって良くない政権を革命によって倒すことができる権利

そんな権利って??日本には選挙と言うものがあると思うのですが…

<<新しい教育基本法から「政権が信用ならないとなったら、力ずくででもそれを倒して国民のための国家を再構築する、という覚悟」を感じることができません。

教育の中に”革命”とか”力ずく”でも…

すばらしい環境を真魚さんは日本国内の学校に作って欲しいようですね。

ちなみに、国民が銃を持つ権利には賛成すると思っても良いのでしょうか?アメリカのSecond Amendmentは”力ずく”でもの為にあると主張する方が沢山いますよ。

MikeRossTky

Posted by: マイク | December 25, 2006 at 01:15 PM

マイクさん、読み違いですよ。
robitaさんに対して
>民衆にとって良くない政権を革命によって倒すことができる権利のことを愛国心というのでしょうか。であるのならば、今回の教育基本法の改正は、そうした改正ではありません。<
として
>そもそも、いかなる国家も民衆に「不満があったら革命をしていいです」という権利を与えている国はありません。<

反語表現です。

Posted by: ルイージ | December 25, 2006 at 02:59 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36163/13188282

Listed below are links to weblogs that reference 消えゆく昭和22年:

« 石黒耀『死都日本』を読む | Main | 「9.11」をどう考えるか »