硫黄島二部作を見る
クリント・イーストウッド監督の映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』について、以下、感想のようなものを述べてみたい。
『父親たちの星条旗』(以下、映画「父親たち」と略す)と『硫黄島からの手紙』(以下、映画「硫黄島」と略す)の二つの映画で、日本では当然の如く映画「硫黄島」の方が話題になっているが、問いかけるものの意味では圧倒的に映画「父親たち」の方が大きかった。この硫黄島二部作は日米双方の視点で描いていると言われているが、双方とも監督をしているのがイーストウッドであって、どちらもイーストウッドの視点である。しかも、イーストウッドの視点は、この二つの映画はおのおの違っている。一言で言ってしまうと、映画「父親たち」が問いかけるものは、国家と国家に翻弄されざる得ない(国民というか)兵士たちの姿であった。
映画「父親たち」の全編に貫いているのは、正直であり公平であるということだと思う。イーストウッドは、徹底的にフェアな人なのだ。国の名のもとで、硫黄島の戦場で地獄のような体験をして、たまたま、すり鉢山に星条旗を(しかも、ふたつめの星条旗を)掲げたということで帰国することができた3人の若者に待っていたものは、ここでも国の名のもとで「英雄」を演じなくてはならないということであった。これがいかに国の欺瞞であり、演じざる得なかった若者にたちに精神的に苦痛を与えるものであったかということをこの映画を見る人々に伝えている。愛国心は大切だみたいなことを言っている政治家たち(その最たる人が現在ホワイトハウスにいる)や、9.11以後のアメリカで大きな政治勢力を持つ共和党支持の保守の人々は、この作品を好きにはなれないであろう。
特に、3人の若者たちの一人がネイティブ・アメリカンの出身であったということが、さらにこの作品の公平さを物語っている。「英雄」として祭り上げながらも、ホンネではインディアンを差別していたという事実をイーストウッドはストレートに伝える。これなども、保守の人々は苦々しく思うであろう。
ただし、である。イーストウッドは、左翼やリベラルのような、だから国は間違っていた、国なんてものは、こんなものなのだと騒ぐことはしない。映画「父親たち」はラストの方で、なぜ父は戦争のことを何も語らずに、その生涯を終えたのかという息子の疑問を追っていく物語であったことがわかるが、ようするに、父親たちというのは、国のやることは欺瞞でばかばかしい限りなのであるが、その思いを声高に語ることなく、自分の胸にだけに置いて、黙って生涯を生きてきたということなのだろう。
ここで『ダーティハリー2』のワンシーンを思い出す。この映画は、法律で裁くことができない悪を、自分たちの力で裁くという考え方をもった警察内部のとあるグループとハリー・キャラハン刑事が戦う話なのだが、この話の中で、ハリーは、このグループのリーダーから自分たちの仲間に入らないかと言われた時、ハリーはその申し出を拒否し、確かこう答えていたと思う「どんなに腐った法でも、法は法だ。法は守らなくてはならない」と。(今のアメリカ政治の文脈で考えると、この警察内部の急進派グループはネオコンだなと思う。イーストウッドはイラク戦争に反対していたのも、そうした理由からなのであろうと思う。まだらっこしいからと言って国際法を無視するのならば、秩序はなくなるのである。)
では、イーストウッドは左翼でリベラルなのだろうか。イーストウッドの政治思想の立場は、共和党である。しかし、共和党であっても、共和党の保守主義の本流とは別のリバータリアンである。リバータリアンとは、徹底的な個人主義であり、国家などというものは必要最小限度あればいいとする。では、保守主義かというと、保守のような共同体や伝統に価値を置く考え方はしない。では、リベラルかというと、リベラルは個人の自由を自由権のような形で政府が保証するというように考えるが、リバータリアンは政府が認めるということすら不要であると考える。いわば、リバータリアンとは、大西部の荒野で自分と自分の家族を守って生きていく、開拓農民のような思想である。
映画「硫黄島」は、そうしたイーストウッドの視点で日本を見たものであった。この作品が伝えるものは、敵である日本人もまた我々と同じ人間なのであるということである。国家がいう「英雄」とは、国民に戦時国債を買わせるための宣伝であったということと同様に、あの戦争の時代、国家がジャップは悪逆非道の猿であると言っていたことは、戦争のためのプロパガンダであったということである。このことはつまり、硫黄島から広島へ視点を移せば、こうしたまっとうな、普通の人間たちの頭上に、我々は原爆を落としたのだということになる。もちろん、イーストウッドはここまでは言っていない。しかし、そういうことになる。そういうことになることを、イーストウッドはわかっていると思う。硫黄島での日本軍のすさまじい戦闘を体験したアメリカ軍が、日本本土上陸の前に、自分たちの犠牲を少なくさせるために広島と長崎に原爆を落としたというよくある原爆投下正当化の理由は自分勝手な理屈にすぎないことを、イーストウッドは(リベラルのように)(笑)百万遍の言葉を費やすのではなく、1本の映画を作ったのだと考えたい。
と同時に、これは、今のアメリカがイラクでなにをしてきたのか、そして、今なにをしているのかということにつながる。イスラムをあたかも60年前のジャップのように悪逆非道のテロリストのように仕立て上げ、イラクと戦うことが正しいかのように政府は言ってきたが、みなそれは政府に都合がいいプロパガンダなのだということだ。
以上、アメリカの文脈で見た、アメリカ映画である「父親たち」と「硫黄島」についてである。自分がアメリカ人ならば、このふたつの映画をこう見るというものである。では、日本の文脈で映画「硫黄島」について考えてみたい。日本人である自分は、この映画をどう考えるか。
細かい点で事実と違うということについて。例えば、夜中に国旗の掲揚などしないとか、ライフルなんて言葉は使わないとか、陸軍が「撃てー!」とは言わないとか、いろいろあるようであるが、そうした細かいことは映画なんだから、ということで。映画「硫黄島」を映画館の中で見ながら思ったのは、なんかこー、話がのっぺりとしているというか。見てる側としては、最後は全滅するということはわかっているわけで、その全滅に向かって物語がフラットに進んでいくみたいな話の進み方になっているなと思った。
もちろん、映画として良くなかったわけではない。ただ、ドラマとしての構造があったのかというとなかったと思う。なぜこうなったのかというと、イーストウッドの視点が敵の側もまた人間であったということにあって、玉砕することが決定していた硫黄島に2万人の兵士を置くという当時の日本国家のばかばかしさを伝えるものではなかったからだと思う。しかし、栗林中将が硫黄島から大本営に宛てた訣別電報の中で「散るぞ悲しき」と記したのはまさにそのことであって、いわば、映画「父親たち」の3人の若者のように、栗林中将も国家に翻弄された人であった。そのことが、映画「硫黄島」からはあまり感じれなかった。渡辺謙が演じる映画「硫黄島」の栗林中将は、『ラストサムライ』の勝元のような優秀な指揮官であり、在米体験もある異色の軍人であったということしかわからなかった。むろん、アメリカ人であるイーストウッドのアメリカ映画である映画「硫黄島」に、そこまで求めるのは無理があるのかもしれないが。
僕が上記のことに気がついたのは、映画「硫黄島」を見た後で、梯久美子著『散るぞ悲しき』(新潮社)を読んでからである。渡辺謙も、撮影中にこの本を読んでいたという。
以下、この本に従いつつ、映画「硫黄島」では触れることがなかった3つの点について考えてみたい。
第1点は、硫黄島での戦闘の異常性(というか、太平洋戦争において、島々でのほとんどの戦闘はみな異常であった)をもっと掘り下げてほしかった。
通常、戦闘での軍の作戦とは、勝つことを目的とする。勝つためには、なにをどうすると考えるのが作戦である。勝つためには、どのような兵器がどれくらい必要である、弾薬がどのくらい必要である、食料はどのくらい必要である、と考えていく。しかしながら、太平洋戦争における日本軍の異常さとは、その末期において、もはや勝つことを目的としていなかったということである。なぜ、勝つことを目的としないのか。勝てないからである。勝てないのならば、もう戦争などやるべきではない、すぐに戦争はやめよう、と考えるのが古今東西の常識なのであるが、昭和の日本軍はそうは考えなかった。負ければ、民族が滅亡するとでも思っていたのであろうか。
何度も繰り返すが、補給もなく援護もなく、洋上の上の小さな島に2万人の兵士を置いて、それでなにをどうしろというのであろうか。これはもう軍隊の行う戦争ではなく、では一体なんであるのかというと、よくわからない。栗林中将を硫黄島の総指揮官に任命したのは、当時首相の東條英機である。東條は栗林に「アッツ島のようにやってくれ」と言ったという。アッツ島とは、栗林中将が硫黄島に赴任する前年の昭和18年5月に、日本軍が玉砕して全滅したアリューシャン列島の中のひとつの島である。ようするに、死ねということなのであろう。
結局、死ぬということが決定づけされている場所に2万人もの人々を置くというのは、一体どういうことなのか。合理主義者である栗林が直面したのは、そのことだったと思う。ようするに、華々しく戦って潔く散る。お国のために戦いました、という話になればいいということで、人の命を軽々しく扱う、その精神とは一体なんなのか。アメリカで教育を受けた人間は、そうしたものを一番嫌う。それを自分もまた2万の兵士に命じなければならない、ということの苦悩はものすごいものがあったと思う。栗林中将が家族に書いた手紙は、実にこまかく愛情に満ちたものであったが、それはこの苦悩の中で、少しでも人間であり続けたいとしたことではなかったのだろうか。そうしたことが、映画「硫黄島」で出てくれていたらと思う。
2点目は、栗林は家族へ手紙を書いていたこととは別に、戦闘の状況を電報で大本営に送っている。彼の戦況報告は極めて客観的であり、正確なものであったという。その最後の電報で、通常は大本営作戦部に送る戦訓電報であるが、蓮沼侍従武官長宛てに送ったものがある。侍従武官とは、陸海軍の軍人で天皇のそばで仕える職務である。蓮沼は栗林の陸大時代の兵学教官であったという。この電報の中で、栗林は痛烈に大本営を批判している。アメリカ軍の上陸に対して、従来の作戦の方針は水際陣地を構築し、海岸で敵を迎え撃つものであったが、栗林はこれを後退配備で敵を迎える戦法に切り替えた。ところが大本営は、後方陣地を作るのは良しとしても、水際陣地も作れと命じてきたのである。このために、中途半端な防備態勢になってしまった。そもそも作戦とは、コレコレはコレであると決まったら、そのコレにあらゆる兵力を100%そそぎこむべきものなのである。敵に制空権、制海権をとられている以上、敵の上陸を阻止することは不可能であるが故に、後方に陣地を構築し、そこで敵を迎え撃つとした。それを、どちらつかずの曖昧な方針にしてしまったため主陣地が不徹底なものになってしまった。この件に限らず、太平洋戦争全体にわたって、大本営の作戦はあいまいな内容のものが多かった。
もうひとつ栗林が批判したのは、日本軍にはもはや使用できる飛行機がないにもかかわらず、大本営は飛行場の拡張工事を命じていたということである。当初は、硫黄島守備の目的は飛行場の整備拡張であった。しかし、もはや島を少しでも長く死守することが目的となった以上、飛行場の拡張に人員を割くのは理解に苦しむというわけである。この二つの批判点は、いずれも海軍が従来の方針に固執したためであった。栗林は陸軍中将であり、硫黄島では、栗林の指揮下に海軍は属していたが、海軍には海軍のやり方があり、栗林の方針が徹底できなかった。この陸軍と海軍の確執は陣地構築から始まり、アメリカ軍上陸後の戦闘に至るまで続くものであった。映画「硫黄島」では、この陸海軍の不和が少し出ていたが、すぐに中村獅童が演じる陸軍中佐に話しがいってしまい、組織的な問題があったことが説明できていなかったと思う。ちなみに、この陸海軍の間の確執は、日本軍の組織的欠陥であり、帝国陸海軍が終わるまでなくなることはなかった。さらに言えば、アメリカ軍は、戦争になると組織を改善し、この点を実にうまく解決していた。栗林は、陸軍と海軍の縄張り主義をなくし、指揮系統を一元化することが必要であることを、この最後の電報で記している。それを可能にできるのは、天皇しかいない。だからこそ、陸大時代の恩師であり、今は天皇のそばにいる蓮沼侍従武官長に伝えたかったのであろう。
そして、この最後の電報の締めくくりを、巨大な国力の差がありながら、戦術も対策もなにもせず、その場限りのことを繰り返すだけだと戦争指導者を批判している。これこそ、硫黄島で死んでいく2万人の兵士の声なき声であろう。
この電報については、映画で触れられていない。映画「硫黄島」では、日本人の敗者の美学が前面に出され、ドラマとしての栗林の精神的内面への掘り下げが甘い。何度も繰り返すが、アメリカの映画に、そこまで求めるのは無理があるのであろう。ただ、渡辺謙が演じる栗林が「天皇陛下万歳」と言う時のうつむいた顔の表情に、渡辺謙はあるいはそのことを込めていたのかなと思うのは思いすぎであろうか。
3点目として、東京への爆撃が始まったことである。大本営から死ぬことが決定づけられている戦闘で、それでもなお栗林が見出した戦う意義とは、1日でもこの島を死守すれば、それだけ本土への攻撃が遅れるということであった。彼は、やがて東京に空襲があることを予期していた。アメリカ軍の上陸後、すぐにすり鉢山が占拠され、栗林たちは当初の計画通り、塹壕に身を隠し、壮絶なゲリラ戦を展開する。安易に死を選ぶことなく、最後まで戦う意味とは、愛する家族が住む本土への攻撃を1日でも遅らせることが、自分と2万人の兵士たちの死の意味であると考えていた。しかしながら、3月9日、グアム、サイパン、テニアンから飛び立ったB29の編隊は翌10日、東京を無差別爆撃する。東京大空襲である。このことを栗林は、無線機で知る。恐れていた本土への攻撃が始まってしまった。この時、彼は何を思ったであろうか。
映画「硫黄島」で、以上の触れられていない3点を軸にしてくれたのなら、栗林中将の内面の葛藤を表すことができて、のっぺりとしたストーリー展開にならなかったと思う。渡辺謙ならそれを見事に演じたであろう。今回でも、十分見事に演じている。
最後の出撃の前に、栗林はこう訓示する。
「いま日本は戦いに敗れたりと言えども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功を讃え、諸君の霊に対し、涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。」
通常、戦場での日本軍の総指揮官の最後は、陣の後方での切腹である。しかしながら、栗林中将は兵士のように自ら突撃をし、戦場でその生涯を終える。その遺骨は、今だ発見されていない。
祖国はその後、硫黄島を振り返ることはなかった。
60年の年月が過ぎ、硫黄島で死んでいった者たちの手紙を拾い上げたのはアメリカ人の映画監督であった。
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