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November 2006

November 30, 2006

三尺下がって、師の影踏まず

 以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での11月9日の「エネルギー、着火、発動」についての「相当なボリュームの反論」(笑)の続きである。まあ、反論というよりも、robitaさんのお考えをお借りして、自分の考えを述べているようなものである。そうした機会を与えてくれるrobitaさんには感謝します。

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robitaさん、

 コダワルわけではありませんが(いや、コダワッている)(笑)

 「子供もしっかり教育する」ということは、例えば、今、目の前に悪い子供がいて、その子供を「しっかり教育する」、愛国心や道徳を子供たちにたたき込む、ということではない(「ということではない」ということです)ことにコダワりたい(というか、強調したい)と思います。

ではなんなのかというと、「子供もしっかり教育する」とは、「子供を教育する」制度なり仕組みなり、(大人の)人々なりを変えていくということです(「大人の」がポイントです)。

 その結果として、子供たちも自然に変わっていく、というわけです。このプロセスというか順番を強調したい、と思うわけです。子供が、ではなく、大人であり、重視すべきポイントは、大人なんですということを何度も申したいわけです。

 では、教育を変えるのは、どこが主体になるのか。ここで、robitaさんが言われるように、僕は「国家主導はだめだめ」である(笑)と申しているわけです。なぜ、ダメダメなのか。それは、国家(役所)主導ではロクなものならない、と考えるからです。なぜ、お役所主導だとロクなものならないのか、ということについては、話が長くなるからはしょります。

 あえて一言で言えば、役人には、この社会のことがわからないということです。明治の頃なら、社会のことをよくわかっているのは官僚だったかもしれません。しかし、今の時代は複雑になりましたから、官僚だけではとても把握しきれない、役人にはわからないこと、知らないことばかりである世の中になりました。さらに、役所の組織(官僚組織といいます)では、今の時代の変化のスピードに対応できないということも挙げられます。つまり、能力的にも組織的にもお役所主導ではダメダメになる世の中になった、ということです。国家はどうもアヤシイ、信用できない、から国家主導はダメダメと申しているのではなく、役人では能力的にも組織的にもダメダメなんです、と申しているわけです。

 では、どうするのか。お役所主導はダメダメでどうするのか。お役所主導がダメということは、民間主導でいくということです。文部科学省以下、日本の教育行政や教育の内容を監視・指導する民間組織が必要だと思います。教育を行うのは国家が行う、でいいわけですが、(役所からの天下り一切なしの)民間組織がそれを指導するわけです。

 でまあ、ここで突然、武道の話になるのですが(笑)、先日、極真館という空手の道場の全日本大会を見に行きました。この極真館というのは、極真会という、かつて地上最強の空手と言われた流派で、10年くらい前に創始者が亡くなったことに始まる騒動により分派した一派です。創始者が亡くなり二代目が極真会を継ぎますが、それがイベント興行をしたり、ビール会社とタイアップしたりするので、そんなものは先代の極真会本来の武道空手ではないと極真会から分派したのが極真館です。極真会から分派した流派は数多くありますが、極真館はその中で最も武道らしい空手の内容を持っていると言われています。

 この極真館のもうひとつの特徴は、子供たちへの空手教育を重視していることです。非行少年の更正にも取り組んでいて、公的機関では対処できないようなケースについて、この道場は相談を受けることをしています。

 先日の大会でも、子供たちの型の演武があり、見ていてほほえましかったのです。3歳ぐらいの子もいました。立っているのが、たどたどしいのに演武しているのがかわいかったです。

 で、教育の話に戻りますが、例えば、「三尺下がって、師の影踏まず」という言葉があります。先生の影すら踏んではいけない、先生を敬いなさい、という意味です。僕は、この言葉を中学生だったか高校生の頃だったかに、この極真空手の本を読んで知りました。以来、「三尺下がって、師の影踏まず」という意識をもって、高校、大学と過ごしてきたつもりです。

 なぜ、先生を敬うのか。それは、教える者と、教えを受ける者の間に「礼儀」という関係がなくては、伝わらない知識や技術がこの世にはある、ということだと思います。今の世の中は、教育はサービス産業で、生徒はカネを払うお客さん、そのカネに見合う教育をするのが教育のプロみたいな声がありますけど。ゼニカネの話ではないんです。教える者と、教えを受ける者の関係というのは、そういうものではないんです。礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術があるんです。世の中がビジネスライクになっていくということは、この「礼をともなってこそ、初めて伝わる知識や技術」がどんどん失われていくということです。

 この「三尺下がって、師の影踏まず」ということを、僕は武道に関心があったから知ることができたと思います。こうしたことは、今の学校でも教えません。仮に、学校の先生から「三尺下がって、師の影踏まずなんだぞ」と言われても、なんとも思わなかったと思います。学校とは違う世界、学校の先生とは違う人から、それを知ったから、僕はそのことを学んだのだと思います。

 なんでそうなの。学校の先生が、そうしたこと教えて、生徒であるあなたは、学校の先生からそれを学べばいいではないかと思われるかもしれませんが、そうはならないのだからしかたありません。学校の先生が、学校という公権力の場で教えてくるのではダメなんです。受けつけません。

 つまり、学校がどうこうではないんです。愛国心や道徳について言うのならば、学校が愛国心や道徳を教えるのではなく、学校以外のものから、そうしたものを学ぶ、そうした環境を作ることが必要なんだと思います。子供は、学ぶべき正しい知識を自分で発見して学んでいくと思うのです。もちろん、教えなくては学ぶことはありません。しかし、教える場とは学校だけではありません。ようは、そうした正しい知識と出会う(教える)環境を子供に与えることであって、そうした環境があれば、子供は自分で学んでいきます。

 大切なことは、学校の勉強ではないものにも、学ぶべきものは数多くあるのだ、学校だけが学ぶべき場ではない、ということを知ることだと思います。そうした力を身につければ、学校を出た後、大人になっても、生涯にわたって「学び続ける」ということができます。

 まことに失礼ながら、robitaさんの言われていることは、学校の教師が公権力をもって、曲がった針金をまっすぐにするように子供を教育せねばならない、それしかない、と言われているように読めます。まあ、学校としては、それしかない。学校というのは、公権力の行使の場である。他になにをするんですか、ということなのだと思いますが。つまり、学校側の立場としては、それしかない、学校は権力をもって強制的に教えるのである、従わない子供には罰則を与える。でいいと思います。その意味で、robitaさんの言われることは正しいと思います。

 つまり、robitaさんの言われていることは、国家は国家としてどうあるべきかということなのだと思います。それ以上、それ以下のなにものでもないのではないかと思います。現実的な話として、今の日本国にそうしたことができるのかどうかということはありますが、国家には国家としての理念があるべきだと思います。robitaさんは、国家のあるべき理念を述べられているわけです。これはこれで正しいと思います。学校は公権力の行使の場である。文部科学省が定めた指導要領で教える場である。愛国心を教育するって、具体的にどうやっていいかわからないから、とりあえず国旗掲揚や国歌斉唱を強制的に行わさせる。従わない生徒は、内申書を悪くします。国家の側としては、それでいいのだと思います。

 しかしながら、子供の側からすれば、それを受け入れるかというと、そうはなりません。そもそも、親や教師の言うことになんでも素直に従う子供が、果たして本当にいい子供なのかということもあります。ようは程度の問題だと思います。何度も申しますが、国が何を言おうと、教師が何を言おうと、親が何を言おうと、子供は子供で学ぶべきものを自分で選んで学んでいきます。それがある者は武道やスポーツだったり、ある者は音楽だったり、またある者はバイクだったりするわけです。学校というのは、あるひとつの「ものさし」でしかありません。必要なのは、学校以外にも「学ぶべきもの」「学ぶべき場」はあるということをわかっているのか、いないのかということです。

 じゃあ、ゲーセンとかコンビニとかでダラダラしているを「自分で選んだ」者は、それはいいのですかというと、その程度のものを「自分で選んだ」んだからしかたありません。若い時期は二度とない、その時期にそれを選んだというのは、その本人の責任であって、誰のせいでも(学校のせいでも、親のせいでも)ありません。

November 19, 2006

別ブログを立ち上げました

 中国拳法、武術、東洋思想、意識、身体、自然食品、エイジアン・ポップなどについて、別のブログを立ち上げました。「武徳大観」というブログです。それらのテーマについては、そちらに書くことにします。拳法修行日記みたいなものです。

November 18, 2006

国家について

以下は、robitaさんのブログ「幸か不幸か専業主婦」での11月9日の「エネルギー、着火、発動」についての「相当なボリュームの反論」(笑)である。まあ、国家というと、こうした様々なことも考える必要もあるということで。反論というよりも、補足のようなものです。

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robitaさん、

 まず、国家について考えます。

 「世界にひとつだけの花」という歌があります。全ての人たちはが世界にひとつだけの花なのである。それぞれがオンリーワンなのである だから競い合ってナンバーワンを目指すなんて馬鹿なことは辞めましょうという歌です。まこと確かにその通りなのですが、僕はこれを聞いた時、これでは日本は中国や韓国に負けるなと思いました。

 競い合ってナンバーワンになるべきである、今は貧乏で食べるものも着るものもろくにないけど、やがて我々はアジアのナンバーワンになれる、と確信して今日も仕事や勉強に頑張ってる若者がたくさんいる国と、飽食でモノが豊かで、それぞれがオンリーワンなんだから、頑張って競い合うことなんてやめようよと思っている若者がたくさんいる国とでは、どだい勝負になりません。

 このまえアメリカへ行ったとき、ニューヨークで大学をうろうろしましたが、日本人学生のみなさんはまず勉強している感じではありません。インド系や日本人ではないアジア系の学生さんたちは、熱心に勉強をしていました。そもそも、顔つき、目の輝きが違います。日本のワカイモンは、なんかこー、プラプラするためにNYにいますという感じです。

 では、このように、ニッポンにワカイモンはダメなのか。しゃんとさせなくてはならないのか、というと、ネパールとかインドとかで、しっかりとボランティアをやっているワカイモンもいます。でまあ、こういうことになると、アメリカとかヨーロッパとか日本から来たワカイモンが多いわけです。少なくとも僕の経験では、韓国人とか中国人でインドやネパールを旅しているという若者を見たことがありませんでした(もちろん、いるでしょうけど)。ある種、こーゆーところへわざわざ来る者たちは、モノが溢れた豊かな社会に対して疑問を感じる者たちなのでしょうから、そもそも国自身がまだそれほど豊かな社会ではない国の若者は、わざわざインドやネパールを旅したいとは思わないのでしょう。

 国とか民族とか集団とかには、「季節」のようなものがあると思います。前に書きましたけど、明治の日本は重税でした。富国強兵ですから、軍艦とか大砲とかを作らなければなりません。そのお金は誰が払うのか。もちろん国民です。とにかく明治時代は国家が重い時代でした。国民の暮らしの上に国家が重くのしかかっている時代でした。しかし、国民の側はそれを「重圧」と感じていたかどうか。明治は日清戦争があって日露戦争があって、国民は徴兵で戦争へかりだされるという世の中でしたけど国民はそれを不幸と感じていたがどうかというと、そうでもなかったと思います。国を動かす政治家や軍人や官僚もまた「自分は国家を動かしているのだ」という責任感と使命感があったと思います。

 この当時、日本は、欧米列強に囲まれたアジアの小さな弱小貧乏国でした。国全体が小さな町工場みたいなものだったのです。自分の人生と国家の運命は同一だったわけです。この時代の官庁なり軍隊なりで、しかるべき役職に従事していた人々にとって、1日頑張れば、その分、国家は進み、1日怠ければ、その分、国家は停滞するという状況でした。こりゃあもう、死ぬ思いでがんばっていくしかありません。緊張感もあったと思います。さらにこの時代、官庁や軍隊の給料は低かったです。しかし、彼らには使命感がありました。ある意味、幸福な時代だったのかもしれません。

 こうした時代、あるいは「季節」は終わったんだと思います。日本民族は、この時代のようにをもう一度やれといわれても、できるものではないと思います。それはいい悪いとか、正しい間違っているではなく、そうしたものなのだと思います。明治の頃の、国家の幸福イコール国民の幸福であるかような感覚も、日露戦争が終わって大正時代になるとかなり薄れてきます。

 平成の日本人は、明治の日本人にもなれないし、昭和の高度成長時代の「3丁目の夕日」の頃の日本人にも、もうなれないのだと思います。国家と国民が一体になって、みんな頑張ろうとした「季節」は終わったんだと思います。国家が国民の指導的・教育的位置にたって、国民に人としての倫理を説く。国民は国家を信じることで、自分たちの未来は明るいものだと感じることができる。そうした時代ではありません。なんでなくなったんだ。もう一度よみがえれと言っても、これから冬になるのに、夏のギラギラした太陽よもう一度と言うようなものです。40、50の中年のオジサンが、10代の頃の体型を取り戻したいと言うようなものです。

 その一方で、その昔、清朝末期の時、世界中から「東亜病夫」(アジアの病人)と呼ばれた中国が、今輝き始めています。robitaさんが言われる国家の「熱」は、今は中国や韓国やインドやマレーシアやタイやシンガポールなどにあります。日本にはありません。大雑把に言うと、戦後日本は1990年代をピークとして、後は衰退する一方になっています。

 次に、権力について考えてみましょう。

 robitaさんは、

>>私は今までも何回も、「国家」と「国民」は敵対するものではない、と書いてきた。<<

と書かれていますが、しかし世の中には「権力」というものが存在します。存在するなといっても、存在するのだから仕方ありません。国家が持つ権力が国家権力です。国家というのは権力を持っているのです。国家は権力によって国民を従わせているのです。その権力とは、目に見える姿でいえば武力であり、具体的には警察と軍隊(今の日本では自衛隊)になります。「国家」と「国民」は敵対するものではないのならば、なぜ国家は警察や軍隊を持っているのでしょうか。それは、おうおうにして国家の意思は国民の意思に反するからです。

 国家は税金の要求や(今の時代はありませんけど)徴兵ができます。国家は法律を作ることができます。NHKにお金払いたくないといっても、国家は「NHKにお金を払わない人は罰する」という法律をすぐに作ります。こーゆー国民が迷惑をする法律はすぐに作って、例えば違法行為をした政治家は10年間刑務所に入れるみたいな法律はまったくできないのなぜか。それが国家権力です。国家は私的財産も没収できます。沖縄県民がいくら在日米軍は出ていって欲しいと言っても、米軍基地は沖縄にありつづけます。それが国家権力です。文句あるやつは、警察が逮捕します。警察ではかなわない相手には軍隊(自衛隊)が出ます。自衛隊に勝っちゃったら革命ができちゃうんですが、とりあえず今のところ自衛隊にかなう相手は国内にはいません。

 本質的に国家、あるいは支配体制とは、管理する側に都合がよく、管理される側には宜しくない、という仕組みになっています。これは古今東西、いかなる時代も同じです。ただし、管理される側には宜しくないだけだと、民衆の不満が高まり、やがては反乱や暴動や革命が起こります。この「民衆の不満」にどう対応するのかで、その社会の内容が変わります。不満には徹底的に武力で押さえるのか。それともパンとサーカスを与えて統治するのかなどです。歴史を見ると、徹底的に武力で押さえるのはいつか破綻がきます。それよりも大衆にはパンとサーカスを与える、つまり、職業があって、モノが豊かで、娯楽があれば大衆は満足するというのは、それを維持する力が支配体制側にあるうちは、これがよさそうです。しかし、そうした状態もまた永遠に続くわけではありません。やはり管理する側と、される側には格差が生じます。

 この人類史上の普遍の問題をなんとかしようと考えたのがカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスです。しかしながら、実際にできた国はレーニンはともかくスターリンが作った社会は、マルクスとエンゲルスが考えたものとはかけ離れていました。その意味で、明治の日本のような、あるいは戦後の高度成長期のような、国民が国家との一体感を素朴に感じることができたのは、人類史上、極めて稀だったと思います。そうそうあるものではありません。

 どうもお上(国家)は胡散臭い。完全には信用できない。なんか裏で悪いことをやっているのではないか。国家には権力があるから庶民はそう感じてしまうのですけど、この感覚は健全な庶民感覚だと思います。だからこそ、「遠山の金さん」や「水戸黄門」や「必殺シリーズ」に人気があるわけです。

 では、どうしたらいいのか。

 以上、平成の時代では、国家と国民が一体感を持つことはむずかしいこと、国家は権力をもっていて、それはおうおうにして国民の意思に反すること、お上に若干の不信感を感じることは庶民としての正常な感覚であるということを申してきました。では、この平成日本で、どうするのか。

 国家が「シャンとせい」と言わなくて、誰が言うんですかというのは、よくわかるんのですが。もう国家にそうしたことも求めてもダメなんだと思います。いや、真魚さん、わかっていないですね。「国家に求める」のではなくて、我々自身が国家なのである、我々がシャンとすることが、結果として国家がシャンとすることなのである、というのはよくわかるのだけど。その場合、我々がシャンとするのは、別に国家をシャンとさせようと思って、我々がシャンとするわけではなくて、シャンとしたいからシャンとする、というか、シャンとする人はシャンとすればいいし、シャンとしない人もまーいいのではないか。みんながみんな、シャンとしなくてもいいのではないかと思う。あー、ソレ、ソレが自由主義の悪いところだ、そうした考えが、日本人を堕落させるのですと言われるかもしれないけど。

 「我々がシャンとする」と「国家がシャンとする」の間には、次元の違いがあるのです。イコールではありません。最初は国をシャンとさせよう、そのためには我々がシャンとしよう!!と思って、我々がシャンとして、国家もシャンとなって、それでめでたし、めでたしになるのかというと、実はそうではなくて。さらにその先もあって、「国家がシャンとなる」となるということが、やがて「その国家に属している者はシャンとしなくてはならない」(プラス国家権力による強制力つき)というように変わっていくのではないか。この「変わっていく」という部分が重要で、いーや、真魚さん、考えすぎ、そんなことになりません、どーも、頭デッカチの人は・・・・と言われるかもしれませんけど。このロジックの変容というのは、世の中の至るところにあります。

 そうです。「その国家に属している者はシャンとしなくてはならない」なんです。そうした強制力がなくて、どうして、例えばNYでプラプラしている日本人のワカイモンをシャンとさせられますか、ということなのかもしれませんが。冒頭にも書いたように、プラプラしているワカイモンもいれば、それなりにやっているワカイモンもいます。ワカイモンといっても、いろいろいます。また、誰がシャンとしていて、誰がシャンとしていないのかを、どこがどのように判断するのかということになります。

 トータルとして、日本国全体としてどうなのかというと、何度も言うように、「熱」の時代、個人と国家が一体の季節は終わったんです。それをもう一度というのは、国家的危機にでも直面しない限り不可能だと思います。外国から侵略軍が来るとか、大地震で日本列島が分断されるとかなれば別ですが。もう衰退していく一方です。これはしかたありません。国家としてなにかしよう、盛り上がろうというのは、サッカーとかオリンピックとかしかありません。それはイヤだというのならば、中国へ行くしかないです。あそこは、これから上海万博はあるし、北京オリンピックもあります。これから国家として盛り上がろうという国と、国家としてもう盛り上がっちゃった国の違いです。

 ですから、国家がこうだから自分はこう、ではなく、かつ、自分はこうだから、国家(すなわち、強制的にみんな)もこうであるべき、ではなく、国家はこうなんだけど、自分はこうする、ではないかと思います。それぞれがオンリーワンなのである。ナンバーワンを目指すなんてばかばかしいことはやらないのならば、「自分はシャンとする」であっていい。自分は「シャンとする」ということを深めていきます、ということであってもいい。そして、「シャンとした」者どうしが連携していく、ネットワークキングしていくということです。自分はこうシャンとしているのだけど、こういうシャンもあるかな、とか、いや、こうしたシャンもあるで、みたいな、シャンにもいろいろあると思います。

 国家とか会社とか役所とか家庭とかいったものとは別のつながりがあるはずです。そして、「日本人」というのは、日本国内だけではなく、外国にもたくさんいます。国籍が日本でなくても、日本人は数多くいます。さらに、なにも日本人だけのつながりでなくてもいいわけです。国家への熱意が消滅してしまった今、そうした「別のつながり」が、世の中を変えていくのではないかと思います。

 ただし、世の中を変えると言っても、国家が行う上からの改革ではありませんから、一晩でえいやっと変わるものではありません。じわじわと少しつづ変わっていくものです。そんなまだらっこしいことやってられない、お上が権力をもって強制的に変えてしまうのだと言っても、そう簡単に変わるものではありません。なにか問題があったら、国家がやればいい、国家が強権をもってスパッとやればいい、というのは今の時代では通用しません。

 真魚さん、なるほど日本は、もうそうした季節ではないのかもしれません。しかし、祖国を愛し、先祖を敬い、礼節を尊ぶなどといったことは、いつの時代も変わらない人としての道ではないですか。それを誰が子供に教えるのか。国ではないのですか、という問いに対しては、国ではありません。国も含めた大人みんなが、です。国が、というのは、実質的には学校教育が、ということになります。しかし、どんなに崇高な教育理念を掲げたとしても、実際の教育現場の現状はどうなっているか、よくわかっているではないですか。学校教育を改善しなくてはならないのは当然ですが、学校教育だけに過剰な要求を出しても、現場はそれに応えられません。教員に聖人君子を求めることはできません。

 真魚さんは、またそんなことを言って。評論では、主婦は納得しないのだと思われるかもしれまん(笑)。子供には、教えるべきことを、国家の強制をもってバシッと教えればそれでよし、と言われるかもしれません。しかし、そうしたやり方でいい子供もいれば、そうでない子供もいます。人間的な面の教育というのは、その者の心が「ああそうなんだ」と内面から思わなくては学んだことにはなりません。従って、教育に必要なのは多様性です。これを指導要領や教育委員会からのお達しだけで対処しようというのは無理があります。人が内面から変わっていくというのは、正しい方法と長い時間を必要とするものなのです。

 ダイエットと同じです。ただ体重が減ればいい、体脂肪が少なくなればいいというのではなく、太っているという体質そのものを変えていかなくては、いつまでもリバウントの可能性を持って生活していくことになります。身体の内面から変わるということは、生活習慣そのものを変えるということです(と自分に言い聞かせる)。

 さらに言えば、「子供が」「子供が」ではなく、「大人が」ではないでしょうか。大人自身がどうであるかということであって、それが結果的に子供への範を示すことになります。そもそも、この問題の本質とはなにか。それは子供の教育がどうこう、日本の国家の品格がどうこう、だからコレコレ、だからシャンとしよう、ではないはずです。子供の教育や国家の品格というのは結果です。必要なのは我々自身はどうあるべきなのかということだと思います。

 これもダイエットと同じです。痩せようという目的を持つのではなく、人の身体はこの大自然の中でいかにあるべきなのか、ここからおのずと何を食べるべきで、何を食べるべきではないのか、人はどのような生活であるべきなのか、という問いへの答えが導き出されます。それを淡々と実行すればいいのです。そして、気がついたら、あら、体重が減ったわ、ということになります。しかし、その時は体質そのものが変わっていますから、例えばケーキを見ても食べたいとは思わなくなるわけです(そうでありたい、と自分に言い聞かせる)。

 これは最近ちょっと凝っている漢方の思考なのですけど。社会を変えるというのも同じだと思います。

 うーむ、「相当なボリューム」になってしまった・・・・・。

November 01, 2006

はじめの一歩

 とーとつですが、武術の修行をしたいと思った。それも中国拳法である。

 日頃の運動不足がたたり、歳も歳ということで、非常に体調がよろしくない状態になってしまった。このままではイカン、なんとかしなくてはならない。というわけで、拳法の道場に通い始めました。

 これまでフィットネスクラブに入会しては、入会当時は足繁く通っていても、やがて行くのが面倒になって、ただひたすら会費を毎月払っているだけの状態になり、やがては退会するパターンをなんどか繰り返してきた。結局は、生活習慣病は変わらずのままであった。

 これは、なぜこうなるのか。先日、ひさしぶりに読み返した中国拳法を学ぶ少年の物語であるマンガ『拳児』に「西洋のスポーツでは、心と気を鍛えることができない」という言葉があり、そうか、これかと思った。心と気を鍛えなきゃあいかんのであった。東洋医学で「からだ」を考えなくてはならない。

 というわけで、さすがにこの歳でケンカに強くなろうとは思わないので、内面から鍛えたいということで内家拳の太極拳を始めることにした。僕は小学生から中学にかけて、空手や剣道をやっていて、高校生になったら極真会に入門して、将来は空手家になろうと思っていた時期があるのであるが、そうした人生を歩むことなく今日に至っている。いずれにせよ、あの頃以来の初心から始める武術修行になる。中国拳法を一から学ぼうと思う。中国について学ぼうと思う。

 40の手習いだな。

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