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August 2006

August 27, 2006

武装中立

 7月13日のエントリー記事「北朝鮮のミサイル騒動について」のコメントで、私は以下の二つのことを書いた。

 ひとつめは、イージス艦やパトリオットの配置をしたとしても、100%の防御でない。実質的に日本の都市に、防衛網を潜ってきたミサイルの着弾はありうる(ただし、北朝鮮のミサイルの命中精度がここまでくるのはまだ当分先の話である)。その時のために、核シェルターや医療施設の整備などが必要なのであるが、そうした話がまったく出てこない。日本政府は、本気で国民を守ろうという意志はないということである。イージスやパトリオットを在日米軍基地や自衛隊基地に配置すれば、それですべてOKのような話になっている。

 ようするに、先月の北朝鮮のミサイル騒動で、日本は将来、北朝鮮からミサイル攻撃を受けるかもしれないという認識はないということなのである。ただ単に、防衛庁の予算拡大と軍事産業の利権確保のためのミサイル騒動だったのだ。北朝鮮が行ったことは、軍事的にはさほど意味のあることではなかった。その認識は正しいと思う。しかし、そうでありながらも、あたかもミサイル危機があるかのような状況が作られ、それに沿って物事が進められているのではないかと思う。そして、仮に今回の北朝鮮のミサイル騒動が茶番であったとしても、ミサイル防衛という課題は依然として残っている。

 ふたつめは、今の日本の過剰な対米依存の姿は、中国やロシアにこれも過剰な自国防衛意識を高めさせることになるということである。昨年の7月に、人民解放軍の朱成虎少将は、欧米のメディアの記者会見で、もしアメリカが中国と台湾との軍事紛争に介入して、ミサイルを中国領土内の標的に向けて発射すれば、中国は核兵器で反撃すると答える一幕があった。これは、あなたたちが通常兵器で攻撃してきたら、我々は核で対抗すると言っているのである。核ミサイルの標的は、アメリカ西海岸およびアメリカの「同盟国」である日本であることは十分予測できる。このうえ、日本が憲法9条を改正することは、アメリカと軍事一体化した日本が中国封じ込めの軍事行動を起こすのではないかという疑心暗鬼を中国軍の内部にもたらすであろう。むろん、朱成虎少将の先制核攻撃論は暴論である。しかし、軍隊というのは、えてして暴論が通るところである。アジアの覇権国家に向かって突き進む中国の内部で、軍部が力を持つことは、かつて同じくアジアの覇権国家になろうとした日本の近代史が示す通りである。

 国連に今なお残る敵国条項では、日本が国連憲章に違反した行為をとった場合は、連合国は国連の決議を待たずに日本に軍事的制裁を科しても良いということになっている。中国は、第二次世界大戦の連合国の一国である。なにをもって「日本が国連憲章に違反した」と判断するのかは、中国側の解釈なのである。これはすなわち、台湾海峡で有事が起きた際、米軍+自衛隊が介入した場合、中国からの核ミサイル攻撃を日本本土は受ける可能性があるということである。

 こうしたことは、今の日本の対米依存があるが故に起こりうることなのである。よって、日米安保は発展的に解消して、今の日米関係を根本的に変えるべきだと私は考える。戦前とはまったく変わった平和国家なのであるということを、日本は国際社会に絶えずアピールする必要がある。そうでなくては、どこかの国に敵国条項を利用されてしまうからだ。日本と同じ「敵国」であったドイツは、それを理解しているため、今のドイツはナチス・ドイツとは違うことをさかんに世界に向かってアピールしているのだ。ところが、日本では戦前の日本は正しかったという風潮が最近多くなってきた。しかも内閣総理大臣が8月15日に靖国神社を参拝するのである。世界の世論は、日本をどう思うかは言うまでもないであろう。それはすなわち、敵国条項を根拠にされやすい状況になっているということなのである。

 少し前に、中山治著『誇りを持って戦争から逃げろ!』(ちくま新書)という本を読んだ。これは非常に示唆に富む本であった。ミサイル防衛で核シェルターの話がないことや、国連の敵国条項が中国に利用される可能性があるということをこの本から知った。アメリカ依存ではなく、憲法9条を変えることなく、日本は武装中立国になるべきであるということをこの本から学んだ。この本は、読んでいてなるほどと思うことが多く、みなさんにも読むことをお勧めしたい。以下、この本を踏まえつつ、さらに考えてみたい。

 まず、日米安保を考える上で、よくある思考パターンは、仮に日米安保をなくしたとして、日本単独で日本の防衛ができるのでろうか。例えば、中国が日本に侵攻してきた場合、日本の自衛隊だけで勝つことができるであろうか。できるわけはない。日本に在日米軍が駐屯しているからこそ、それが抑止力になって、日本の安全保障を維持している。アメリカ軍と手を切ることなどできない、よって、日米同盟は今の状態を続けるしかない、というものである。

 この思考パターンそのものを疑わなくてはならない。この思考パターンは、以下の2つの前提があると思う。アメリカ軍は今後も日本に基地を置き続けるということ、次に日本単独では日本の防衛はできないという2点である。

 最初の前提1ついて考えてみよう。例えば、アメリカの議会で、アメリカ軍は今後も日本に基地を置き続けるのかと尋ねれば、かなりの論争になるであろう。いわゆる、米軍再編である。少なくとも、アメリカは今後も継続して、日本にアメリカ軍を駐屯させなくてはならないという固定した思考パターンを持っていない。今のアメリカ軍は、地球上のどこへでも短時間で移動し、戦闘準備を行おうことを可能にするよう組織の変革中である。外国に恒久的な「基地」を置くという考え方は、時代遅れになってきている。アメリカの本音としては、在日米軍は段階的に縮小させたいということなのである。

 ところが、これに困るのが日本側であった。日本は、自国の安全保障をアメリカ軍に依存しているため、国内のアメリカ軍の規模が小さいものになっては困るのである。今回の在日米軍再編でも、キャンプ座間に陸軍第一軍団司令部が移転してくるが、沖縄の海兵隊司令部がグアムへ移転するのに、なぜわざわざ陸軍の司令部を日本に持ってくるのか。これは、今回の再編によりあまりにも日本国内の在日米軍の規模が縮小してしまうので、日本政府がせめて陸軍の司令部を持ってきて欲しいとアメリカに要望したといううわさがある。とにかく、米軍あっての日本の防衛であり、米軍なき日本防衛などありえないという冒頭に挙げた思考パターンに凝り固まっているため、自国の防衛について自由な思考ができないのだ。

 実質的な話として、海外基地をまったくなくす、例えば沖縄からすべての米軍基地を撤去するということは、現状ではまだできないであろう。朝鮮半島と台湾を考えると、日本に基地を置くことには今だ価値がある。しかし、方向性としては基地撤去の方向であるということは意識すべきである。今後、在日米軍はさらに縮小していくということを日本は考える必要がある。これはすなわち、アメリカは日米安保があるから在日米軍の規模は縮小できないとは決して考えないということである。アメリカは、あくまでも自国の安全を目的として在日米軍を日本に置いているのであって、日本の防衛を主たる目的としているわけではない(しかも、移転費用は日本に負担させる)。ところが、日本側は日米安保を後生大事と決め込み、在日米軍の存在をもって日本の防衛を考えている。

 ここに、ある最悪のシナリオがある。『SHOWDOWN』という国防総省の二人の元高官が書いた近未来小説では、北京オリンピックを終えた中国では、拡大していく貧富の差により国内各地で民衆の暴動が起こる。そこで、中国政府は人民の不満を抑えようと、抗日ナショナリズムを高揚させる手段をとる。日本の首相が靖国神社を参拝することは、中国への戦争行為だとみなすと宣言し、日本に全面謝罪と尖閣諸島放棄を要求するのである。日本政府はアメリカに安保に基づく支援を要請するが、日中間の問題であるとして、アメリカ政府は日本からの支援要求を断る。 もちろん、これは小説だ。しかし小説とはいえ、非常に現実味のある話である。

 さらに、中山治氏は『誇りを持って戦争から逃げろ!』の中でこのように書いている。米中間で緊張状態が高まり、中国は先制攻撃としてアメリカと軍事一体化した日本に核ミサイルを撃ち込む。中国は世界からの批判を浴びるが、敵国条項と日本の先制攻撃力を無力化する必要があったことを主張する。世界は、日本が戦前の誤りを反省していないことを知っているので、やがて国際世論は日本への核攻撃は「日本の自己責任」だとして中国に同意するようになる。そして、日本への核攻撃の後、米中間では和平交渉が行われるのである。つまり、馬鹿を見るのは日本だけというストーリィーである。

 これも現実味のあるシュミレーションだと思う。米中という二つの巨大な大国の間では、日本などちっぱけな国に過ぎないのである。アメリカは、常に日本の味方であるわけではない。ちなみに、そう考えることは同盟国であるアメリカを信頼していないのかという意見に対しては、国際社会の常識を知らない人の意見だと言わざるを得ない。日本が同盟国アメリカに対してそう思っていることは、別にアメリカとしても当然のことと思うであろう。

 では、どうしたらいいのか。次に前提2について考えてみたい。前提2とは、「日本単独では日本の防衛はできない」という前提である。在日米軍がいなくなって、なぜ日本人は困るのか。「日本単独では日本の防衛はできない」と思っているからである。

 しかし、日本独自で自国を守ることは十分できると私は考える。むしろ、日本独自でどのように自国を守っていくかと模索していくことがまずベースにあるべきなのだ。日米安保は、その一つの案にすぎない。アメリカ軍に依存した日本の防衛以外の方法などないと思いこんでいるだけなのである。今のアメリカ依存路線は、米ソの冷戦に巻き込まれることを防ぐために、占領時代の当時の吉田茂総理らが決めた事にであって永久普遍のものではない。この半世紀以上、日本はその案に従ってきた。だが、今後はその案に従い続けることが、どうやらできなくなってきたということなのである。そうであるのならば、他の案を考えるしかないであろう。

 日本の防衛とはなにか、なにを守ることによって、日本の防衛とするのか。地理的な意味で考えれば、それは日本国領土、領海、領空の防衛である。朝鮮半島や台湾海峡は、日本国防衛の範囲ではない。ましてや、インド洋やペルシャ湾やイラクはまったく関係ない。日本は、外国で本格的な軍事行動を展開できる規模の軍隊を持っていない。持とうとしても、その膨大なコストを支える力はない。日本によるシーレーン防衛なども、そもそも不可能である。つまり、日本は大規模な戦争ができる国ではないということなのだ。であるのならば、戦争をしかけられない国になるしかない。戦わずして勝つ国にならなければならない。日本にミサイルが落とされたら、国際世論がその国を非難するようにしなくてはならない。また、日本の主導のもとで経済封鎖や金融封鎖ができる国にならなくてはならない。軍事力ではなく、外交と情報と経済で国を守るのである。

 もちろん、軍備は必要である。軍隊は必要ないという左翼の主張は、あまりにも空論である。日本が軍隊を持たなければ、相手は日本を攻撃してこないということはない。日本の領内を守る軍事力は必要だ。その軍事力は、中近東はおろか朝鮮半島にも台湾海峡にも派兵しない規模なので、日本の経済力でそれを支えることができるはずだ。

 すなわち、日本は武装して中立を宣言した武装中立国家になるのである。これからの中国の発展を考えると、今後、日本はその地政学的な位置上、米中のバランス・オブ・パワーの中で、中国側につくのか、アメリカ側につくのか双方の国から選択を迫られるであろう。その時、どちらにつくことなく中立の道を選択するのである。中立を宣言した国にミサイルを撃ち込むのは、国際社会からそうとうな非難を浴び、経済制裁を受けることを覚悟しなくてはならない。

 アメリカ側にいてもいなくても、やがていやでも中国の覇権に日本は直面せざる得なくなる。その時、日本の防衛はどうなるのか。アメリカは、今後もさらに在日米軍の規模を縮小し再編し続けていくであろう。もはや在日米軍を頼った日本の安全保障はできなくなった。それでいて、現状の日米関係を続けている限り、憲法9条は改正され、自衛隊はアメリカ軍の組織のひとつとして、朝鮮半島や台湾海峡や中近東へと派兵を余儀なくされるであろう。

 だからこそ、憲法9条は変えてはならない。アメリカに依存することなく、独立自尊の武装中立国になること。それは、アメリカとも、中国とも関係を保つ唯一の道なのだと思う。

August 23, 2006

ワンモア つくづく

 ブッシュ大統領は、21日の記者会見にて、記者の質問に対して、サダム・フセインは大量破壊兵器は持っていなかったことや、イラクは911の同時多発テロとは無関係だったと語った。

 それにしても、この人の演説は、二言目には民主主義とかa global warがどうしたこうしたと言うのだが、その内容は観念的というか中身がないというか、結局、なにを言っているのかよくわからない。表面的にふんふんと聴いていると、それなりに調子のいいことを言っているので、なんかわかったような感じになるが、よく考えてみると中身は空っぽだということに気がつく。

 最初のスピーチでの"A failed Iraq would make America less secure. A failed Iraq in the heart of the Middle East will provide safe haven for terrorists and extremists(ようするに「イラクの民主化の失敗は、アメリカの安全を脅かすものである。だから、イラクから撤退しない」)"というのは、全然理解できん。仮に、1000歩譲ってそうだとしても、なぜ、これしかやらないのだろうか。テロを防ぐには、他にもやりようがあると思うのであるが。

 しかしながら、こうしたブッシュ大統領の「民主党の連中とは違って、俺たち共和党はイラクでの仕事が終わらない限り撤退はしないぜ!!」という意味のセリフを聴くと、オーイェース、それこそ男だせ!!と感じる人々もいることは事実である。そして、これこそが断固とした態度なのだ、民主党みたいにフニャフニャしていないのがいい!!と感じる人々もいることも事実である。

 「イラクはWTCの攻撃に関係していたのですか」という記者の問いに、ブッシュ大統領は「Nothing」と大声で答える。確かに、実際のところ、関係あると考えていたのはネオコン一派であって、ジョージ・ウォーカー・ブッシュではない。しかし、そうであるというのならば、この人は自分ではなにも考えない人なんですね。

 つくづく、つくづく、ワンモアつくづく、アル・ゴアが大統領であったのならば、世界は、少なくとも今のようではなかったと断言したい。

August 19, 2006

映画『もんしぇん』を見ました

 ネット配信で『もんしぇん』をという映画が公開されるという。どんな映画なのかと調べてみると、なんかファンタジーのような不思議な物語のようだ。主演の玉井夕海さんは、『千と千尋の神隠し』のリンの声の人だという。あー、あのリン姉さんの声の人か!『千と千尋の神隠し』のキャラの中で、一番印象に残ったのが体育会系のノリの先輩ねーさんだったリンなのである。コレハ見なくてはと(笑)と思った。

 でまあ、ネットで見るのもなんだし、なんと19日の今日は上映初日なのであった。上映している映画館は、上野の国立博物館の敷地内にある映画館であるという。ぢゃっまあ、ちょっと行ってみようかしらと上野へ向かった。

 上野駅から炎天下の上野公園を歩いて国立博物館へ行く。さて、この中に映画館があったかなと思いながら入り口に近づくと、「もんしぇん」の立て看板があって、映画館の方向へ矢印が書いてある。それに従って、博物館沿いにさらに歩く。なるほど、確かに、博物館の敷地の中に映画館があった。一角座というこの映画館は、うーむ、なにゆえここに映画館が、という気がするのであるが、その疑問はこっちに置いておいて。

 結構、混んでいるのである。先日も書いたけど、これはイイなと思う映画は、なぜか単館上映が多い。映画を見るという行為は、映画そのものを見ることだけではなく、その劇場へ行く間も、その劇場にいる間も、その劇場から帰る間も、すべてを含めて「映画を見る」ということだと思うので、こうした「この映画館へどうやって行けばいいのか」から始まる映画館もいいなと思う。でも、単館上映で制作費のコスト回収とかどうなるのかなあとか。シネコンでこれはやらないよなあとか、そーゆー心配は、プロデューサーがすればいいんだよなあとか、そうしたことをぼおおっと考えながら、次の上映時間まで少し時間があるので、真夏の空の下、一角座の入り口の前でぼんやりと立っていた。

 公開初日ということで、映画の上映前に、山本草介監督と主演女優の玉井夕海さんとイメージ設計の海津研さんの舞台挨拶があった。

 物語は、主人公ハルが山道を走るバスに乗っているシーンから始まる。ハルのおなかを見ると、この女性は妊娠していることがわかる。思い詰めた表情でパスの窓の外を眺めていることから、祝福された妊娠ではないようだ。嘔吐を感じたハルは、バスを降りて、雨が降り出したバス停でうずくまって吐く。身体を引きずるように立ち上がり、ようやくベンチに座って、そして目にしたあるものから、ハルの不思議な物語が始まる。

 映画を見ながら思ったことを、以下、断片的に述べてみたい。映画を見ていない人はわからないだろうと思うけど。ぜひ、この映画を見て下さい(としか言えないしぃ)。

 おもしろいのは、この不思議世界ではバアサンの方がしっかりしていて、ジイサンたちを叱咤するのである。オトコってこうだねえと見ながら思ってしまう。

 ストーリィはかなり違うが、同じく海が一人の女性の内面を癒していく物語に是枝裕和監督の『幻の光』という映画がある。これも、生と死がつながった不思議な映画であったが、『もんしぇん』の方がファンタジー性が強く、宮崎アニメの影響を感じる。

 この映画では「舟」が重要なイメージのひとつになっているが、映画を見ながら、これは「うつぼ舟伝説」のバリエーションなのかなとも考えた。「うつぼ舟伝説」とは、簡単に言うと、海の彼方から舟がやってきて、その舟には「魂」や「異人」や「貴種」が乗っていたりする話だ。また、こちら側から、海に向かって、死者を乗せた舟を流す話もある。海の彼方に常世の国があり、そこでは人は年をとらない。人は死後そこへ旅立つという伝承も多い。補陀楽浄土ともいう。この映画は、「うつぼ舟」や「補陀楽浄土」の民話や伝承を思い起こさせるものがある。海にまつわる話もまた、みなつながっているのだろう。

 この映画の中で歌われる「うみは広いな、大きな」という歌で、「月は昇るし、陽は沈む」は、生と死のモチーフだと思う。海は生も死も包括するのである。そのことと、ハルが自分が身ごもったことを知った時、自分の中にも「海」があることを感じたと語る言葉がつながる。そして、それがちいに起こる次の展開につながっているように思う。ちいが海ですくい上げる棺舟は、ちいに亡くした我が子への執着があったため、いつまでも漂っていたのだろう。それが解けた時、棺舟は漂流をやめ、ちいの時間は元に戻るのである。生も死も、もっと大きなもののつながりの一面にすぎないのだ。

 そうすると、この物語のもう一人の主人公である作一は、入り江で自分が若い時に住んでいた家を見つけたということなのだろう。あの日記は、自分の日記だったのだ。ちいの妊娠もまた幸福な妊娠ではなかった。ちいは一人で産むと作一の前から姿を消した。作一は、その後、「はる」と名付けた、その生まれた子が亡くなったことを知る。彼は、このことがずっと気がかりで生きてきたのだろう。そして、年老いた今、あの頃のちいに出会うのである。しかし、今となって、ちいになにをしてやれるのだろうか。その苦しみは、ハルに宿った新しい命への祈りにつながるのだろう。

 もちろん、上記のことは、僕個人の勝手な解釈である。

 最後のシーンで、ハルは持っていたあるものを見て、はっと気がつき、後ろを振り返る。その時、僕も、あっそうだったのかと思った。自分の中に宿った小さな命を、どうしようかと悩んでいた一人の若い女性に、天草の神々が命のつながりを教えてくれたのかもしれない。ちいの我が子への想いが、ハルとその新しい命に伝わっていくのである。そうやって、人は生命を継いでいく。命を宿りし者、命を育てし者は、「ひとり」ではない。みんな、つながっているのだ。

 映画が終わった後、玉井夕海さんの音楽パフォーマンス集団「Psalm」(さーむ)によるミニライブがあった。玉井さんは、この映画の音楽も担当していて、ヴァイオリンの人は映画のちいの役の人だったのだ。あとで、パンフを読むと松尾嘉子さんというヴァイオリニストの人だった。この人と、 25絃箏を弾くかりんさんの3人でのライブ。Psalmとは、ラテン語で讃歌、賛美歌を意味する言葉だという。玉井さんのヴォイスパフォーマンスに、カミが宿るシャーマンのようなものを感じた。

 出入り口を出るところで、パンフとサントラ音楽CDを買う。自宅に戻って、さっそくiMacのiTunesにエンコードする。「脈動変光星」を聴きながら、東京の夏の夜の下で、遠い天草の海を想う。

 テーマ曲「脈動変光星」は、音楽サイトのmF247から無料でダウンロードできます。この映画がどのような物語であるのかは、この曲を聴いてもらえばわかると思います。静謐で、そして深い物語でした。

Monsyen

Itukaku

August 17, 2006

今年の8月15日

 このところ毎年8月15日は休みをとって正午の靖国神社に行ってみるということをしてきたのであるが、今年はそうしたことをすることもなく会社で仕事をしていた。しかしまあ、「8月15日」だからな、という何の意味も根拠もないが、ここはひとつ「はちがつじゅーごにち」というわけで、定時で本日の仕事を終わりとし、会社を出て九段へと向かった。地下鉄半蔵門線の九段下は、自分の通勤ルートの途中なので、靖国神社に寄っていても、それほど時間を食う話でもないのである。以前、このブログで、8月15日は天皇の玉音放送があったという日だけのことで、戦艦ミズリー号での降伏調印式があったのは9月2日なのだから、9月2日が日本の敗北が決定した日であると書いていながら、いやあ、そこはやっぱり、ついつい、この日は靖国神社に意識が向いてしまうのであった。

 地下鉄の九段下の駅を出ると、あたり一面は夕闇に包まれてた。普通この日は、この通りには右翼のおじさんやお兄さん方と警視庁機動隊のみなさんがいたるところにいるのであるが、この時間では、右翼のお兄さん方らしき人々がちらほらいるだけで、機動隊の姿はない。自分と同じく靖国神社へと向かう数多くのフツーの一般市民の人々が歩いているだけである。思えば、こんな時間に靖国神社へ行くことはこれまでなかった。

 大村益次郎の像を通り過ぎて神門に近づくと、警備のおじさんが大声で7時で門を閉めると言っている。げっ、7時って、もうあと5分ぐらいしかないじゃん。急ぎ足で神門をくぐり、拝殿へと行く。拝殿の前に立ち、とりあえず財布から10円、を出そうかと思ったが、それでは財政難の靖国神社に対してなんだなと思って、100円硬貨(あまりカワランけど)を取り出し賽銭エリアに投げ込んだ。何を祈ることなく、そそくさと手を合わせ参拝を済ませた。少し、拝殿の前から周囲を眺める。そして神門へと戻った。

 とにかく、たくさんの数の老若男女のみなさん(善男善女のみなさんが、というコトバが浮かんだが、はっ仏教ではなかったなと思ってやめた)が参拝をしに集まっている。この風景を見ながら、僕はなるほどと思った。何がなるほどなのか。毎年の8月15日の正午前後であると、ここで見る人々は大別すると、右翼団体関係の人々と警視庁機動隊関係の人々と、遺族の家族らしき方々と、戦争体験者のみなさん、その他に学生さんらしき若者やマスコミ関係とか日本陸軍のコスプレ(たいてい帝国陸軍なのである。なぜに海軍はいないのか)(ちなみに、年代的には明治の初期の頃の軍服とか昭和の軍服とかあって、見ていて楽しい。陸自の格好はないのは、なぜか)をした人々とかがいる。あるいは、ワタシのようなタダの物好きでここに来ていますという者もいるであろう。

 ところが、である。この日の夕刻の靖国神社では仕事帰りと思われるサラリーマンとかOLとか、若者とか、とにかく一般の市民のみなさん、年齢層は若い世代が多いように見える。少なくとも、昭和20年以後の世代が大多数である。女性も多い。この時間になると、参拝者の層がこうなるとは知らなかった。自分は今まで8月15日に靖国神社に来る人々は上記の正午前後に来る人々の参拝者層のパターンだと思っていた。

 しかし、そうではないのである。フツーの市民のみなさんがフツーに参拝をしに来ているのだ。正午に集まっている人々の方が、ある意味で「とくべつ」な人々だったのである。A級戦犯の合祀がどうとか、国家神道イデオロギーがどうとか、中国・韓国からの批判があるとかどうでもよくて、みなさん、ごく普通に自然な感覚で8月15日に靖国神社に来るのである。この感覚は、例えば年末年始に神社にお参りするように、8月15日は戦争で亡くなった人々の冥福を祈る、というような感じとでも言おうか。そして、これは自然な感情であって、いかなる政治、宗教、イデオロギー色があるものではない。

 さて、では帰ろうと、もと来た道を戻り、九段下へ向かって歩く。暑い。ムシムシする。陽は沈んだとはいえ、九段は東京のまっただ中である。さぞや、ヒートアイランド現象が激しいであろう。涼しいわけはない。ダブダブのズボンに、ノーネクタイでダブダブのワイシャツを着て、バックを肩からさげて歩いているという、なんとなく昭和20年代の頃のサラリーマンみたいな格好で、頭の中では「暑い。ビール飲みたい。アイス食べたい」の繰り返しであった。

 参道は、参拝を終えた人々と、これから拝殿の方へ向かおうとする人々で溢れている。7時で門が閉まることを知らないのか(僕も知らんかったけど)とにかく人が集まってくる。そうした人々の光景を見ながら、僕は考える。

 A級戦犯の合祀について言えば、あの日から61年たった平成の日本人にとって、誰が祀ってあって、誰が祀っていないということはどうでもいいことなのだろうと思う。この神社はソモソモ明治政府の神社であって、とか、西郷隆盛や新撰組や彰義隊や白虎隊などは祀っていない、とか、東京裁判で裁かれた東條英機が、荒木貞夫が、武藤章が、土肥原賢二が、とか、そうしたことはどうでもよくて、ただ先の戦争で死んでいった人たちを悼むという自然な感情の発露なのだと思う。国が愛国心をどうこう言うからではなく、一般人のごく自然な感覚として、戦争で死んでいった人たちを悼むということである。

 もちろん、だからといって、日本が戦争する国家になるわけではない。あるいはまた、中国、韓国の人々の感情を踏みつけたいと思っているわけではない。右翼の言うことにはついていけないし、同様に左翼の言うことにもついていけない。と同時に、国が戦争で亡くなった人々を追悼するのは当然のごく当たり前の自然のことだと考える。そうした意識が一般の市民に生まれ始めている。僕はこれまで、やがて月日がたって、遺族の方々や戦争体験者がいなくなると、靖国神社は護国神社のようにさほど訪れる人もない、ただの歴史的な史跡になるだろうと思っていた。しかし、どうもそうではないのではないか。これから先も、戦争体験者がいなくなっても、8月15日には人々は靖国神社を参拝するのではないだろうか。そして、やはり人々が集まるのは靖国神社なのである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑ではない。

 今、フツーの日本人の感覚に、これまでになかった「国家」意識が生まれてきているように思う。それは、戦前の国体とは違うものだ。しかし、政治やイデオロギーやマスコミや国際世論が、それを偏向させ、話を大きくしているのではないか。靖国神社を、肯定するにせよ、否定するにせよ、なんか無理に政治やイデオロギーにつなげようとしていないだろうか。何度も繰り返すが、あの戦争で亡くなった人々を静かに追悼したいだけなのである。昭和天皇の富田メモがどうだったかとか、一般市民にとってみれば、どうでもいいのである。

 太平洋戦争は、実体験や記憶から、メディアによるイメージになりつつある。誰もあの戦争を体験していない。誰もが、あの戦争があったということしかしか知らない時代になりつつある。ある者は、映画や小説で知った戦争であり、ある者は口承で知った戦争であろう。中国や韓国からの批判があることで、逆に戦後日本人は忘却しつつあった大東亜戦争のことを知ったのだ。これは、平成日本人の国家の「発見」であった。我々日本人にとって、そしてアジアの人々にとって、過去、この神社がどのようなものであり、なんであったのか、それはそれとして考察し続けなくてはならない。しかし、平成日本の一般市民が靖国神社に対して感じる意識は、そうしたものとはまた別のものなのだと思う。それが具体的にどのようなものであるのかは、まだよくわからないのであるが。

 とまあ、上記のようなことを漠然と考えながら、テクテクと九段下から神保町まで歩いてしまった。
 家に帰る途中で、近所の生協でスイカを買った。夏はスイカすね。

August 13, 2006

映画『太陽』を観ました

 自分にとっての昭和天皇のイメージが根本的に変わったのは、アメリカの歴史学者ハーバート・ビックスの『昭和天皇』を読んでからである。僕はこの本をアマゾンで注文して入手していたのであるが、なにしろ分厚い本なので、そのまま読まずにいたら、やがて日本語訳本が出たのでこちらの方を読んだ。読みながらも、その内容に偏りが感じられる箇所がいくつかあった。偏って解釈することはできないだろうと思うことがしばしばあった。ワタシがそう思うくらいなのだから、この内容たるや、そうとうバイアスがある見方をしていると思っていいだろう。

 しかしながら、その一方で、昭和天皇が生まれた時から、昭和の終わりに至るまで、その全体的な構図の中で考察していることについて。そして、これまでの日本の歴史書では触れることがなかった資料の存在などについて学ぶことが多い本であった。戦争中は軍部の行動に疑念を感じながらも、大元帥として軍の作戦企画に関わりながら大東亜戦争の遂行と勝利を願い、戦後は自己の保身を願っていたというビックスの意見は、「結果としてそう見える」というだけのことであると考える。この本は、天皇を象徴としての「神」ではなく、人間としての昭和天皇の存在を教えてくれたものであった。

 ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を観る前に考えたことは、このハーバート・ビックスの『昭和天皇』と、もうひとつ、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『ラストエンペラー』であった。満州国の皇帝であり、中国最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀の生涯をあつかったこの映画では、溥儀は皇帝の家系に生まれ、大日本帝国の傀儡ではあるが満州国の皇帝として君臨し、最後は庶民の暮らしの中で住む老人であった。昭和天皇もまた、天皇の家系に生まれ、皇太子、摂政そして天皇となり、敗戦後も最後まで天皇であり続けた。溥儀は、中国共産党によって皇帝の座から引きずり下ろされた。昭和天皇は、法廷に立つことをGHQによって免れた。昭和21年にいわゆる「人間宣言」がなされたが、戦後日本人にとっても、「人間宣言」があろうがなかろうが、昭和天皇は天皇であった。

 映画『太陽』は歴史ドキュメンタリーでもなければ、いわゆる歴史映画でもない。昭和天皇の私的な視点からの文芸作品である。大東亜戦争戦争の終結からマッカーサーとの会談までの閉鎖された数日間だけを扱っている。歴史娯楽大作であるベルトリッチの『ラストエンペラー』とはまったく別のものであった。この映画にはハーバート・ビックスのような、ひたすら昭和天皇の戦争責任を立証しようとする姿勢はない。この映画では、ヒトラーのように自殺することなく、マッカーサーと会見し、「どのような決定にも従う」と言ったことに昭和天皇の責任の取り方を表現している。これ以外に、どのような責任の取り方があったのであろうか。

 イッセー尾形が演じる昭和天皇は、口もぐも含めて、1970年代以後の昭和の天皇のテレビ映像からきているのだろうと思う。終戦直後のニュース映像で観る40歳代後半の昭和天皇とは違う感じがする。しかし、今の平成日本人の大多数の記憶にある昭和天皇は、40歳代の天皇ではなく、70歳代の昭和天皇なのだろう。その意味で違和感はない。

 映画の中で、書斎で科学者と会話するシーンがあって(このシーンの椅子の譲り合いのアドリブ・コント?がおもしろい。侍従長を演じる佐野史郎が堪えらきれずに笑っているのがわかる)(このシーンをリテイクせず、そのまま使っちゃう監督がいいですね)、この時の天皇の話し方を聴いて、ああそういえば昭和天皇はこうした話し方をされる人であったと思い出した。自分の記憶の中でも、昭和天皇ってどういう人だったのかということを忘れていたことに気がつく。歴史の知識としての昭和天皇については、それなりに知っているのだが、テレビで見た人としての昭和天皇については、ほどんど覚えていないのである。

 GHQから箱詰めのハーシーズ・チョコレートが送られてくるシーンでは、昭和天皇というよりもイッセー尾形のコントであった。こうした笑えるシーンがあるのは、外国の映画監督の文芸映画作品であるからであろう。日本人の映画監督であれば、こうしたシーンはできないだろうなと思う。ちなみに、天皇は書斎の机の上にリンカーンとダーウィンとナポレオンの胸像を飾っていたが、敗戦後、ナポレオンの胸像だけを隠すシーンがあって、これは鬼塚英昭の『天皇ロザリオ』にも書いてあった。どうやら事実らしい。この映画は、全体としてフィクションの文芸作品なのであるが、みょーなところは史実に忠実なのである。

 天皇がGHQのカメラマンからチャーリーと呼ばれ、天皇自身も帽子をとってチャップリンのようなポーズをとるシーンがある。このシーンで劇場の中では笑う声が聞こえたが、僕には笑えなかった。ああ、この人(この人と言っては不敬だな)は勝者であるアメリカが「チャーリー」と呼ぶのならば、チャップリンのマネをしようとされるのだな、そう決意したんだなと思った。その決意たるや、いかに重いものであっただろうか。

 60年前の戦争での敗北は、日本人にとって徹底的な敗北であった。原子爆弾を2回も落とされ、国土は荒廃し、総力戦的にも敗北し、科学技術にも敗北し、精神的にも敗北であった。占領下の日本では、すべての物事が日本人で決めることができず、GHQの指令に従うより他になかった。天皇ですら、裁判の場で処刑されるかもしれなかったのである。特に、外国の世論は、天皇を裁判の場に送ることを要望していた。この時期の天皇がなにを考え、なにを語ったのかということについては、今なお解明されていない。昭和天皇の日記は公開されていない。

 この映画のオフィシャルブックを読むと、ソクーロフ監督はこの映画の制作にあたって、数多くの日本の歴史学者にコンタクトをとったようなのであるが、協力を断る人が多かったようだ。この映画のパンフレットにもオフィシャルブックにも、歴史学者の文章が載っていない。歴史学の観点からすれば、資料が公開されていない以上なにも言うことができないということなのであろうか。しかし、そうであるのならば、そうした困難な資料の状況の中で研究を進めるアメリカの歴史学者はどうなのであろうか。

 もうひとつ感じたのは、今のロシアでの文芸やアートの力強さである。こうした映画が、日本で今できないのはなぜなのか。資料がないからワカリマセンというのは、学者ならばそれでいいのかもしれない。しかし、一人の人間としての昭和天皇の個としての内面を「イマジネーションする」文芸やアートや思想の力が、今の日本はあまりにも貧困化し枯渇している。

 それにしても銀座シネパトスで見たわけであるが、アノ音は地下壕のシーンでの効果音だと最初から最後まで思っていたのだけど、あれはなんと本当のあれだったわけですね・・・・・。

Taiyo_1


Cinema_1

めちゃ混んでいました。

August 12, 2006

銀座でちょっと

 というわけで、もっかワタシは銀座の歌舞伎座の隣の某サテン(電源コンセントあり、BBモバイルポイントありのあの喫茶店ですね)にいます。

 なぜ、ここにいるのでせうか。銀座にはめったに来ることがないワタシであるが、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を観に来たわけである。ところが、映画館へ行ってみると、ものすごく混んでいるのである。いやあ、みなさん、この映画には関心があるわけですね。でまあ、それじゃあというわけで、15時30分の回の入場券を買って整理券をもらってきたわけである。

 なんかしらんけど、ワタシがこれはイイなと思う映画は、どうも単館上映が多いです。こんなに観に来る人がいるのだから、この映画は、もっと数多くの映画館でやればいいのにと思う。例えば、新宿コマ劇場前の数百人入る巨大映画館で上映するとか。いや、やはり、この映画はあまりおおっぴらに上映してはマズイのであろうか。この映画を上映する配給会社はエライ。
 
 入場券を買った時に、隣でパンフが売っていたので買ってきた。それを今、パラパラとめくっているのだけど。イッセー尾形の演じる昭和天皇の写真を見ていると、みょーに緊張してくるな。うーむ、それにしても、うーむ、この映画は、コーラー片手にポップコーンをかじりながら見る(そんなことするつもりはないし、かつまた、上映しているのがそうした映画館ではないけど)のは、あまりにも恐れ多いことだと感じでしまふ、ワタシも日本人なのであった。はっ、こんな短パンでポロシャツのラフな格好でいいのでせうか。まさか映画の始まる前に「脱帽」という文字がスクリーンに現れたりしないだろうな(戦前のニュース映画では、そうだった)。

August 06, 2006

『An Inconvenient Truth 不都合な真実』日本での公開決定

 10月21日から始まる第19回東京国際映画祭にて、アル・ゴアのドキュメンタリー映画『An Inconvenient Truth』が日本初の上映になるようだ。一般公開は、10月28日六本木ヒルズその他でロードショー公開されます。日本語版の公式サイトはこちら(いきなり日本語の字幕付きのトレイラーが始まります)。「温暖化の原因は我々人間にあります」とゴアは語っています。

 ついに、というか、とうとう、というか、遅ればせながら日本でも公開です。

 それにしても10月ってまだ先だな・・・・・・・。まー4回見たから、いいんだけど。つーか、その頃はアメリカでDVDが出ているんじゃないかと思うのだけど。本の方は翻訳が出るのであろうか。ビジュアル的にもいい本なので出て欲しい。

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