旅から学ぶ
千葉敦子というジャーナリストがいた。大学を卒業後、東京新聞の経済記者になり、アメリカの大学に留学、のちに東京新聞を退職し、フリーのジャーナリストになる。ニューヨークに居を移し、主に英語で記事を書き、英語圏のメディアの仕事をしていた人だった。1987年、癌により亡くなる。
今の時代、ニューヨークで生活をしている日本人は数多い。在ニューヨークの日本人がニューヨークについて書いたいわゆる「ニューヨークもの」本は世の中にたくさんある。その中で唯一、千葉敦子さんの本は、他の凡百のニューヨーク記とは違う、良質のジャーナリストの視点と、自分の人生を自分で歩いていこうとする精神が満ち溢れた本だと思う。僕は10年ぐらい前に、千葉敦子さんの本を読み、以来何度も読み直してきた。
ニューヨークの旅から帰り、今、千葉敦子さんの本をもう一度読み返している。その中に、貯金をするより自分への投資をしなさいという一節がある。今の世の中では「お金で買えないものなんてない」とか「金儲けをして、なにが悪いんですか」とかいう発言が、それなりの説得力のある発言として世の人々に流布されているが、千葉さんははっきりと「お金で買えるものは、ほんの少ししかない」と書いている。
少し長くなるが引用したい。
「あなたは、沢山お金を持ちたいとお思いですか。
沢山お金があったら、何をなさりたいですか。
私は、快適な暮らし、冒険と趣味を楽しむことのできるゆとり、自分の好きなことをして生活な成り立つような職業、自分の実力を伸ばし自己の成長を続けることのできる生涯教育、愛し愛される人間関係、地域社会の改善や世界の進歩に役立つことができる自分の役割・・・といったものが「豊かな暮らし」の要素だと思っていますので、お金で買える部分は意外に少ないのではないかと考えています。
この世で本当に価値のあるものは、愛、友情、セックス、美、新鮮な空気、快適で刺激のある環境、健康、精神的な安寧、自尊心、精神的成長、内面の充実、冒険心というものであり、お金で買えるものは、ほんの少ししかないように思います。」(千葉敦子『ニューヨークの24時間』文春文庫)
だから、お金を貯めるよりも、音楽会とか、観劇とか、読書とか、学校へ行くことなどに、少々無理をしても投資したいと書いている。お金は貨幣価値が変わってしまえばなんに役にも立たなくなるが、教育とか教養とか健康とか自分への自信とかは、誰も奪うことができない自分の財産であり、時代がどう変わろうとも価値を保ち続けると書いている。結局、「お金で買えないものなんてない」とか「金儲けをして、なにが悪いんですか」とかいった発言に対して、なにも言えなくなってしまうのは、本当の豊かさとはなにかという、その具体的イメージを明確に持っていないからなのではないかと思う。それがあれば、お金だけがこの世の中ではないとはっきりと言えるはずだ。
その自分への投資の最大のもののひとつは、旅だと思う。
外国への旅というものは、結構お金がかかるものなのである。仕事でもない、ただの個人旅行にそんなにお金を使っていいものなのか。そんなお金があるのならば、老後のために貯金しようとか、株や証券にしたり外貨預金をした方が将来実になるんじゃないかという様々な思いがあるわけであるが、それでもなぜ自分は旅に出るのか。もう若者のバックパッカーという歳でもないのに。
千葉さんの『ニューヨークの24時間』の中で、旅から学ぶという一節がある。千葉さんは、20代から毎年3週間の休暇をとって海外を旅行してきたという。20代半ばで、アメリカの大学院に留学し、その帰りに西欧、東欧、中東を4ヶ月にわたって旅行して、旅に優る教科書はないことを知ったからだという。旅先での3週間は、東京での3年分の経験に匹敵するものだったと書いている。そして、感受性も体力も好奇心も豊富に持ち合わせていた20代にこの習慣を始めたことは、大変ラッキーだったという。そして、こう書いている。
「日常生活から自分を解き放って、見知らぬ土地に身を置き、自分の内部に眠っていた欲求や、感受性や、あるいは自分自身でも知らなかった能力----サバイバルの能力とか、未知の人を交渉する能力とか、困難に陥ったときに冷静な判断を下せる能力とか----を見出すのは、なんと新鮮な喜びでしょう。
あるいはまた、体制の違う社会を訪ねて、そこに住む人々の価値観を知ったり、ライフスタイルの異なる人々と接して、自分とは異なる生き方のあることを知ったりするのは、かけがいのない体験になります。
また、日本やアメリカに住んで、当然のこととして日々受け取っている便益ー街で手を上げれば捕まえることのできるタクシ----とか、飲んでも安全な水道の水とか、空腹を感じればすぐに買うことのできる食品とか----が存在しない社会を訪ねてみれば、私たちの暮らしがいかに恵まれているものであるかを悟らされます。
思いがけない人との出会いや再会、小説で読んで親しく感じていた舞台を実際に目にする歓喜、あらゆる想像力を越える自然の美しさなど、旅ならではのものでしょう。」(千葉敦子『ニューヨークの24時間』文春文庫)
千葉さんは、シングルの女性だった。この人が大学を出て、東京新聞に就職した頃に僕は生まれている。その頃の日本で、こうした生き方をすることは、たいへんだったろうと思う。今の時代でこそ、女性が職業を持ち、結婚をしない、子供を持たないということは、おかしくもなんともない時代になったが、千葉さんの頃はそうではなかったろう。しかしながら、この人は自分のライフスタイルを持ち、世界を旅し、外国に住み、日本語と英語で文章を書き、そして病魔と闘ったのである。良く生きた人だったと思う。「負け犬の遠吠え」などというものは、この人の精神のどこにもなかったであろう。
その千葉さんは、旅をなによりも楽しみ、愛していた。「まさに、旅こそは人生といってもいいのかもしれませんね。成長したいと思ったら、知らない世界へ旅することを避けるわけにはまいりません。隅から隅まで知り尽くした環境に居座っていたのでは、成長はむりですからね。」と書いている。
自分も、今回の旅で多くを得た。幾たびに、これまで知らなかった風景や人や物と出会う。新しい体験がある。自分が千葉さんから学んだ最大のことは、旅から学ぶということだった。ここ数年、自分はそのことを忘れていた。今度の旅で、そのことを思い出した。いくつになろうとも、人は旅に出なくては成長しないものであるようだ。
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