「太郎と語る会」に行ってきました
20日の土曜日は、漫画家みなもと太郎さんとファンの集会の「太郎と語る会」に行ってきた。
先週、オンライン書店のeBookJapanを見ていたら、みなもと太郎の「風雲児たち」という漫画があった。みなもと太郎は知っていたけど、こんな作品があったとは知らなかった。歴史小説や歴史マンガについて、一通りフォローしていると自認していたワタシであるが、「風雲児たち」って何だろうと思った。そこで、第一巻を「立ち読み」(最初の数ページ分だけ無料でダウンロードできる)で読んでみた。すると幕末の歴史ものの話なのに、なんと関ヶ原の戦いから始まっている。ここで、すごいと思った。
幕末を理解するためには、まず関ヶ原の合戦後での徳川家康の戦後処理がどのようなものであったのかを知らなくて理解はできない。歴史は、そもそも時間的、空間的につながっているために、これは当然と言えば当然のことなのであるが、この「当然のこと」を「当然のこと」のようにやる歴史ものというのは数少ない。幕末維新ものであるのならば、やはり幕末(といっても、文政8年1825年の異国船打払令のあたりから)から始まるもんであって、話が進むに従って、必要ならば関ヶ原の合戦の頃の話を加える、というのが世間一般の幕末維新ものであろう。それを関ヶ原からやっていたら、いつ終わるのかわからなくなってしまう(事実、「風雲児たち」もいつ終わるのかわからないという)。それを、やろうというのだから、この物語は、これはタダモンではないなと感じた。そこで、1巻から5巻まで(今現在は10巻までダウンロード販売している)購入して読んでいったわけである。読むにつれて、ますます、これはやはりタダの歴史マンガではないと思った。
よって、これは5巻までではなく、全巻読まなくてはと、さっそく新宿の紀伊国屋書店で「風雲児たち」の6巻以後から全20巻までと、「風雲児たち 幕末編」をこれは今出ている9巻まで、えいっや、と大人買いをして(あー、全部抱えてレジに持って行くのはたいへんだった)、今読んでいるところだ。
でまあ、ネットで公式ファンサイトを見てみたら、20日に池袋の豊島区民センターでみなもと太郎さんを交えたファンのみなさんの集まりがあって、誰でも参加していいよみたいな感じだったので、こんなおもしろい歴史マンガを書く作者はどのような人なのだろうかと思い行ってみた。
行ってみると、創作者の創作意欲を支えるのは、いいファンがいることだなということを感じた。こうした集まりなので、みなさんそりゃあディープでコアな若者(笑)が多いわけであるが、「最近の研究では、和船にも竜骨は使われていましたよね」という(わかる人にはわかる)(シバリョーの「菜の花の沖」を読んだ人はわかる)という発言が出てきたのには驚いた。そうか、最近の研究ではそうなっているのかと思い、ディープでコアな若者にはかなわんなと感じた。
みなもと太郎さんは、もう古い世代の漫画家になるわけであるが、それでも若いファンが多いというのは、ある意味おどろくべきことなのかもしれない。なにしろ、「風雲児たち」は連載開始が昭和47年だというのだから、アンタ今まで知らなかったのかと思われるかもしれないが、ワタシはこの歳になるまで知らなかったのだ。反省しなくては。こんな以前から、みなもと太郎さんは、こんなじっくりとした良い歴史作品を書いていたのである。集会では、ビンゴゲームで、ネームの入った生原稿とかもらったぜい。
まず、おもしろい。歴史大河ギャクマンガなので、おもしろい。まだ今のところ15巻の渡辺崋山、高野長英、勝麟太郎たちの若き日の話のところまでしか読んでいないが、この時代から少し前の江戸時代中期の老中田沼意次と、その政敵であった松平定信の対立も興味深い。松平定信つーのは、ようするに保守なわけですね。なんか、新しい世の中になったら、どうしていいのかわからないので、家康や吉宗の時代にやっていたことをやればいいんだと考えるのである。で、当たり前のことであるけど、新しい時代にはそれは合わないので失敗するのである。
さらに時代が進み、江戸も後期になると、それまでの世の中にはいなかった新しいタイプの人々がむらがり出てくるように出現してくる。百姓の子なのに学問が好きでやっているとか、下級武士のせがれなのに、やたら外国のことの関心を持っているとか、つまりは生活する上で、別に必要なことでもないのに、それでも個人的関心があってやっているという人々である。
この人々は、仕官やカネや出世や妻子との幸福な暮らしよりも、個人として関心がある、関わっているということを優先する。この国では、こうしたタイプの人々は奇人・変人の類に扱われる。その彼らとは、平賀源内とか伊能忠敬とか最上徳内、前野良沢、杉田玄白、間宮林蔵、工藤平助、林子平、高山彦九郎、渡辺崋山、高野長英などである。江戸300年における経済の成熟と、日本を取り巻く国際社会の変化が、こうした人々を生み出したと言ってもいいだろう。幕末の志士とは、いわば彼らの延長線上にいる、同じタイプの人々なのであった。
そうした人々の人間模様を活き活きと描いている。この作品は、歴史学での最近の研究成果も取り入れている歴史書であると同時に、ギャクマンガでもあるという見事な作品である。第8回手塚治虫文化賞特別賞受賞作品
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Comments
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>この人々は・・・・個人として関心があること・・・を優先する。この国では、こうしたタイプの人々は奇人・変人の類に扱われる。・・・・江戸300年における経済の成熟と、日本を取り巻く国際社会の変化が、こうした人々を生み出したと言ってもいいだろう。幕末の志士とは、いわば彼らの延長線上にいる、同じタイプの人々なのであった。<
全てとは言いませんが、現代のニート、フリーターとよく似ているとも言えます。こうした場合に見当違いの雇用政策や職業訓練は無意味です。円を稼ぎに来るアジア人が得するだけです。
以前、問題はtailor-madeで解決するしかないとコメントしたのはそのためです。もっとも、全てのニート、フリーターに「幕末の志士」を重ね合わせるのは無理があります。何%でしょうね?
Posted by: 舎 亜歴 | May 23, 2006 04:26 AM
舎さん、
文化・文政あたりの奇人・変人たちと、平成のニート、フリーターは根本的に異なるものですから、同じものと考えることはできません。しいて言えば、若者たちの青春の姿とでもいいましょうか。
最大の違いは、江戸末期の蘭学者たちは、幕府の御法度をやっていたということです。実際に数多くの蘭学者が死刑や蟄居などになりました。平成の今は、なにに関心を持とうと犯罪にならなければ、国から咎められることはありません。自由さで言えば、今の時代は自由な時代になっています。しかし、そうであるのならば、ニートやフリーターから新しい文化が生まれないものかと思っているのですが、いっこうにそうした様子が見えません。
Posted by: 真魚 | May 28, 2006 02:38 AM