『Good Night, and Good Luck』
ジョージ・クルーニー監督・脚本・出演の映画『Good Night, and Good Luck』を六本木ヒルズで観てきた。この映画は、今のところヒルズの映画館でしか上映していないが、今月の13日から全国で公開されるようだ。1950年代のアメリカのCBS放送の伝説的なジャーナリストであるエドワード・マローの映画を、ジョージ・クルーニーの監督でやるということは知ってたので、13日になるのも待ちきれずヒルズに行って観てきた。
時代は、1950年代のマッカーシズム時代。マッカーシズムとは、1950年にウィスコンシン州の上院議員Joseph Raymond McCarthyが国務省内に共産党員が入りこみスパイ網をつくっていると発言した。ここからいわゆる「赤狩り」が始まる。具体的な証拠も確証もなく共産主義者であると糾弾されたのは、国務省職員だけではなく、中央情報局や陸軍内部、大学の中国研究家や外交官らにもおよび、さらに映画関係者にもその対象が広がっていった一連のマス・ヒステリー現象であり、この20世紀の魔女狩り現象をマッカーシズムという。この背景には、米ソ冷戦の進行と朝鮮戦争の勃発がある。共産主義への恐怖が大衆に蔓延していた時代だった。
このマッカーシズムに対して、マスコミは何の反対の声も挙げることはなかった。マッカーシー上院議員を批判することで、共産主義者であるというラベルを貼られることを恐れたのである。これに対して真っ向から意義を唱えたのが、CBSの報道番組「See It Now」のジョージ・クルーニーが演じるプロデューサー、フレッド・フレンドリとデヴィッド・ストラザーンが演じるキャストのエドワード・マローの二人である。ジョージ・クルーニーは監督を務め、脚本も共同で書いている。この映画に対する思い入れは尋常ではないことがわかる。今やハリウッドのリベラル俳優の筆頭ともいうべき感のあるクルーニーは、今のブッシュ政権下のアメリカの状況を、50年代のマッカーシズムの時代に重ねているのであろう。
物語はストレートかつシンプルで、ドラマとしての盛り上がりとかサスペンスさとかいったものは一切ない。同じCSBの番組ジャーナリストが大企業の違法行為と対立する実話を元にした映画として、マイケル・マン監督の『インサイダー』があるが、こちらの方はドラマとして起伏があり、内面の感情表現もあったが、クルーニーの映画ではそうしたものがない。マローやマッカーシーの人間的な内面の説明といったものもなく、『シリアナ』でもそうであったが、ドキュメンタリーのように淡々と物語は進んでいく。ちなみに、公式サイトで見ることができる予告を見ると、なんかすごくドラマチックな物語のように見えるのであるが、実際はそれほどでもありませんと言っておこう(笑)。あの予告の編集はうまい。
おもしろかったのが、とにかくこの映画の中で登場人物の多くがタバコを吸う。マロー自身、タバコを片手にテレビ(ラジオではない)に出演するのである。タバコの煙をくゆらせながら、コメントを語り、最後に"Good Night, and Good Luck"と言ってキメる。この時代は、これほどタバコを吸う時代だったのかと思う。マローの語り方も、今のテレビでは考えられないような「きちっとした」語り方である。
ジャーナリストのマローが政治権力と戦い、利益と経営の安全を求めるCBSの会長と対立する姿は、これまでアメリカ映画で何度も繰り返されてきたお決まりのパターンと言えば確かにそうだが、結局、ジャーナリズムは権力や経営とは目的を異にするものなのだろう。クイズ番組の方が制作費が3分の1ですむ上に広告収入が多い、フレッドとマローの番組は胃が痛くなるとペイリー会長は二人に語る。この印象的なシーンの前にも、「経営は報道の編集に介入しない約束だろ」と言うマローに向かって、「なるほど、経営は編集に介入しない。だがな、エド、編集が何百人という従業員の身を危うくされることは許さん。わかったな」とペイリー会長が言うシーンがあって、このCBS会長の言葉には、確かにうなずけるものはある。この時代、テレビは創世期の一部の人々だけのメディアではなく、一般大衆に広く普及し始めた時代へと移り変わっていた。大衆は、テレビに娯楽を求めた。良質な報道を求める視聴者もいたであろうが、数が違う。もはや、テレビにマローのような良識的なジャーナリストは求められない時代になりつつあった。そうしたテレビの現状を、マローは批判する。
しかし、この映画を見ていて、マローのテレビ批判とテレビにおけるジャーナリズムのあり方について、それがそのまま今の時代にも通じるだろうかという疑問を感じた。マローの時代は、報道する側と、それを受ける側が明確に分かれていた。少数のマスコミ人が、膨大な数の非マスコミ人に対して情報を提供するという時代だった。社会の大多数たる非マスコミ人は、マスコミから情報を入手する以外に手段はなかった。この構図が、ネットの登場により根本的に変わっている。
今の時代は、ネットを使えば、ある程度の情報については、マスコミ業界人や専門家であろうとなかろうと、誰もが情報を入手することができるし、自分の意見や考えを広く発信することができる時代になった。しかし、そうなると情報の量と流通が膨大な世の中になり、その膨大な情報の中で何をどう考えるべきなのかということがわかりにくくなってしまった。
マローの時代は、マッカーシズムならマッカーシー上院議員という批判すべき相手があった。赤狩りという、よく考えてみれば誰でもおかしいと感じることができる明確な対象があった。マローは視聴者に向かって自分の良心と信念に基づく意見を語りかけた。それで心ある視聴者は、何が正しく、何が間違っているのかということを気がつくことができた。
今の時代は違う。アメリカで言えば、悪いのはブッシュとチェイニーであると言うことは確かに正しいが、それでじゃあなんなのかというと、映画『シリアナ』でも描いていたように、ブッシュもチェイニーも、ある大きなシステムの一画であって、ブッシュとチェイニーがいなくなれば、それで解決するというものではない。結局、マイケル・ムーアの限界はそこにあったと思う。しかし、それではその「大きなシステム」とは何かという話になると、かなり複雑で大きなシステムであるが故に、見る人見る人によってそれぞれ異なっていて、ロックフェラーの陰謀であるとか、フリーメーソンの陰謀であるとかいった陰謀論に終始してしまっている。日本の状況について言えば、さらに批判すべき対象はなんであるのかわからない状況になっている。自民党が悪いと言うだけで、それですべてが解決するわけではない。現代のジャーナリズムは、個別の対象を扱いながらも、政治や経済をマクロでグローバルに見て分析する視点や技術が必要な時代になったのだと思う。それは、マローの時代にはなかったものだ。
また、テレビ局の企業としての収益を上げるためは、どうしても娯楽が中心のものになってしまうというのは、マス(大衆)を相手にしたビジネスである以上、必然的なことであろう。しかし、今の新聞にせよ、テレビにせよ、もはやマスを相手の商売ではなくなりつつあるのではないかと思う。テレビをあまり見ない人の数は少なくない。テレビ自体が、多種多様化している。携帯電話でワンセグを見る時代に、もはや古典的なテレビのイメージは通用しなくなってきている。さらに言えば、テレビは録画してディスクに落として、CMをカットして見ることが当たり前の今日、テレビ番組と広告の関係についても大きく変わろうとしている。
テレビは、数多くのメディアの中のひとつにすぎなくなった今、ビジネスモデルの再構築を余儀なくされている。セグメント化したマーケットに適した良質のサービスを、低コストで提供することがビジネスの主体になりつつある今、企業としてもテレビは大きく変わらなければならない時期にきていると思う。ネットが普及した現在、テレビは従来のマスを対象にしたショービジネス的なものでは成り立たなくなってきているのではないか。その意味で、エド・マローのような、古典的な、あまりにも古典的なスタイルのジャーナリストを顧みる必要があるのだと思う。
映像がモノクロであることや、しっとりとしたジャズ音楽を使っていたことなど、50年代の時代の雰囲気をうまく出していたと思う。このへんはクルーニーはうまいと思った。エド・マローというジャーナリストが、当時の支配的だったマッカーシー上院議員による赤狩りに真っ向から異義を唱え、その後マッカーシーは没落の一途をたどることになる。しかし、マローもまた報道の内容や質よりも営利を優先せざる得ないテレビ界から去ることを余儀なくされるという、いかにもという感じがしまくりの内容の映画を、いい雰囲気の漂う映画にしていた。
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