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April 23, 2006

幻想としての「ニート」その2

 ニートの問題は、子育てや学校での教育や若者の精神論ではなく、産業構造や労働市場の問題(つまり、社会政策の問題)であることを改めて教えてくれたのは、「中央公論」4月号での本田由紀さんの発言であったことは前回述べたが、本田さんは共著でニートについての本『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を書いている。この本を読むと、さらに「なるほど」と思うことの連続であった。

 本田さんは、この本の第1部を書いている。統計的に見ると「働く意欲がない」若者たちの数は、この10年間変化はないという。この割合は1%ぐらいであり、いわば昔から100人の若者がいれば、そのうちの一人ぐらいは「今は働きたくない」という人がいただけの話であって、別におかしくもない普通のことであったのだという。しかし、こうした(語の正しい意味の)「ニート」ではなく、近年これと比較にならない程増えているのが若年失業者と「フリーター」である。つまり、働く意欲があり職を探している者や、さまざまな理由で正規雇用者になっていない「フリーター」が増えているのである。従って、社会政策的に重要を置かなくてはならない対象は、「ニート」ではなくて、若年失業者と「フリーター」であるはずであるが、なぜか「ニート」ばかりが論じられる世の中になってしまった。

 さらに、「ニート」、つまり「今働いていない」人を詳しく見てみると、本当に「特になにもしていない」人は、全体の3分の1程度であり、残りの3分の2はなんらかのことをやっているという。本田さんはこう書いている。

「そのうちの多くはそれぞれ何かの活動に取り組んでいます。特に、進学・留学や資格取得、あるいは芸能・芸術のプロを目指して準備をしている方というのは、将来のキャリアを念頭に置いた上で、活動を進めています。それ以外ににはたとえば、これまでの仕事で疲れて、離職されて、そして次のステップを模索されている方もいるでしょう。こうした人たちは、今現在働いてお金を稼いでいないけれども、しごく健全で前向きな若者たちなのです。このようないわば当たり前の事実が、なぜか見過されがちです。」

 つまり、今働いていなくても、いろいろやっているのだ。それをなんでもかんでも、十把一絡げにネガティブなイメージで一括りにすることに間違いがある。

 本田さんは、さらにこう書く。

「「働こうとしているか、いないか」ということを、あたかも人間に対する絶対的な評価基準であるかのようにみなし、若い人々がそれぞれ個別の諸事情の中で生きていること、そして最近ますます多様なライフコースをたどるようになっていることへの想像力を欠いた議論が横行しているのです。」

 興味深いことに、平成15年度版の国民生活白書では、「フリーター」の問題は、企業が新規学卒者の採用を抑制したために生じたものであり、一番重要な原因は企業側にあると述べていたという。採用が抑制されているので、若者が希望する就職ができず、それが若者の元気をなくしている。そして、その元気をなくした若者を見て、企業はさらに採用意欲をなくすという悪循環のスパイルになっているという見解を示していたという。政府は、この問題に対しての正しい認識を持ち始めていたのである。

 ところが、この2003年あたりから、小杉礼子氏と玄田有史氏を初めとする、いわゆる「識者」の方々から、それまでの「フリーター」ではなく「ニート」という新しい言葉を使って、今の若者の就業意識などを論じるようになり、世間の関心は労働需要側ではなく、若者側に向いていったということを本田さんは書いている。

 なぜここで「ニート」という見方が出てきたのか。それまで、「引きこもり」支援を行ってきた団体が「ニート」支援を謳い始めると、政府から予算がつくということがここで起こるようになってきたという。厚生労働省の「若者自立塾」なるものが、その最たる例であろう。つまり、「ニート」対策と言えばカネになるのである。「若者自立塾支援センター」のサイトを見てみると、「3ヶ月の合宿で、働く自信と意欲を育てる」とあるが、これは一体ナニカと思う。こうしたことに、政府の予算、つまり税金が投入されているのだ。「ひきこもり」に対しては意味のあることかもしれないが、納得できる仕事さえあれば、働きたいと思っている若者に「働く自信と意欲を育てる」もないものだと思うのであるが。

 常々感じることであるが、どうもこの社会は、スーツを着て会社務めをして給料をもらう生活、あるいは自分で起業をして経営者になるとかいったこと「のみ」が「正しい」生き方であるかのような意識があるように思えてならない。そして、それは昔からそうだったのかというと、そうではなくて、自分の感覚では80年代はそうではなかったように思うし、それ以前の70年代や60年代もそうではなかったように思う。今の世の中は、人の生き方への見方が狭くなったように思う。

 こんな世の中でも、バイトで生活費を得ながら、演劇やアートをやっている若者たちがいる。彼らも統計上は「フリーター」に換算されるのであろう。そうした若者たちに、もっと注目が集まることはないのだろうかと思う。「演劇やアートなんて、儲かるもんじゃないだろ。そんなもん注目されなくて当然だ」という声もあるかもしれない。しかし、そうした文化的な活動で、採算がとれて利益も出るような制度なり仕組みなりを作っていこうという動きは過去にあった。80年代では、企業の社会的責任や文化支援について論じられていたものだった。ああしたことが、全部バブル景気の崩壊と共に消え去ってしまったとは思いたくない。

 若者には多様性がある。しかしながら、この社会は、若者の多様性を生かすことができず、ただひたすら多様性を排除し、あるひとつの方向に押し込むことしかしない。それが結果的に、この社会をますます閉塞したものにしていると思う。だからこそ、若者の就業問題(若者のだけではなく、そもそも労働問題)は、教育だけではなく、政府および企業といった全社会的視野で考えるべきことなのだと思う。

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Comments

本田由「紀」助教授ですね。「起」ではありません。誤変換はまあご愛嬌ですが、最低限人名表記だけは正確に、を心がけたいものです。

Posted by: ふがふが | April 23, 2006 at 02:40 PM

ふがふがさん、

ご指摘ありがとうございました。
修正致しました。

Posted by: 真魚 | April 23, 2006 at 03:08 PM

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