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April 2006

April 23, 2006

フランシス・フクヤマの新刊本

 散歩がてらに、紀伊国屋書店新宿南店へ行く。ここんとこ洋書はアマゾンでしか買わないので(だって安いし)、最近、6階の洋書売り場に足を向けることはなかったのだけど、まあ行ってみるかと訪れてみると、フランシス・フクヤマの新刊"America at the Crossroads: Democracy, Power, And the Neoconservative Legacy"を発見。おーそういえば今度出るんだったな、もう出たのかと思い。どーすっかなあ、アマゾンで買った方が安いだろうなあ。でも、いっかなー。すぐ読みたいしなあ。でも高いだろうなあ、500円くらいの値段差ならいいかなーとか思いながら結局購入。

 今、アメリカの言論界では、イラク戦争の泥沼化の責任を問う声が高い。ネオコンとその外交政策への批判が強まっている。先日も、ポール・イートン元陸軍少将がラムズフェルド国防長官の辞任を要求することがあった。軍部だけではなく、「イラク戦争とは、一体なんであったのか」という問いかけが各方面から挙がってきている。外交の専門家では、元父ブッシュ大統領補佐官ブレント・スコウクロフトやクリントン政権の国務長官だったマドレーン・オルブライトも、ブッシュ政権のイラク政策がいかに間違ったことであるかを述べている。

 シカゴ大学の地政学者ジョン・ミアシャイマーは、現在のアメリカの外交政策を批判し、ブッシュ政権はあまりにもイスラエル寄りであることを主張している。ミアシャイマーは、ヘンリー・キッシンジャーやコンド リーザ・ライスと同じリアリズムの観点に立つ人であるが、そのリアリストのミアシャイマーでさえ、今のアメリカの外交政策があまりにもイスラエル寄りなのでそうとう頭にきたのであろう。ちなみに、彼は当初からイラク侵攻には反対していた。フクヤマも、タカ派でネオコンと同じグループと見られてきたが、今ではこの本の中でネオコンの外交政策を批判している。ただし、アメリカの言論界でイスラエル批判をするとかなりヤバイことになるので、フクヤマは内心そう思っていても、イスラエル批判までも書くことはなかったようだ。その点、ミアシャイマーは「よくぞ言った!」ということになるのだが、今後どうなるかが注目される。いずれにせよ、もはやアメリカ外交におけるネオコン時代は終わりに向かいつつある。

 さて、フランシス・フクヤマの本を買って、エスカレーターで4階に降りて、大前研一さんの新刊が出てたよなあとか思いながら、岩波新書の棚の前を通ると、なんと柄谷行人の『世界共和国へ― 資本=ネーション=国家を超えて ―』(岩波新書)を発見。これは、知らなかった。この人のことだから、カントとマルクスだよなあと思う。でもって「世界共和国」となると、なるほどーと内心うなずいちゃうのであるが、なににうなずくのか自分でもよくわからないが、とにかくこれは読まねばならんと、さっそく購入した。

 自宅に帰り、アマゾンでのフクヤマの新刊本の値段を見ると・・・・・げっこんなに値段が違う。うーむ・・・・。

幻想としての「ニート」その2

 ニートの問題は、子育てや学校での教育や若者の精神論ではなく、産業構造や労働市場の問題(つまり、社会政策の問題)であることを改めて教えてくれたのは、「中央公論」4月号での本田由紀さんの発言であったことは前回述べたが、本田さんは共著でニートについての本『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を書いている。この本を読むと、さらに「なるほど」と思うことの連続であった。

 本田さんは、この本の第1部を書いている。統計的に見ると「働く意欲がない」若者たちの数は、この10年間変化はないという。この割合は1%ぐらいであり、いわば昔から100人の若者がいれば、そのうちの一人ぐらいは「今は働きたくない」という人がいただけの話であって、別におかしくもない普通のことであったのだという。しかし、こうした(語の正しい意味の)「ニート」ではなく、近年これと比較にならない程増えているのが若年失業者と「フリーター」である。つまり、働く意欲があり職を探している者や、さまざまな理由で正規雇用者になっていない「フリーター」が増えているのである。従って、社会政策的に重要を置かなくてはならない対象は、「ニート」ではなくて、若年失業者と「フリーター」であるはずであるが、なぜか「ニート」ばかりが論じられる世の中になってしまった。

 さらに、「ニート」、つまり「今働いていない」人を詳しく見てみると、本当に「特になにもしていない」人は、全体の3分の1程度であり、残りの3分の2はなんらかのことをやっているという。本田さんはこう書いている。

「そのうちの多くはそれぞれ何かの活動に取り組んでいます。特に、進学・留学や資格取得、あるいは芸能・芸術のプロを目指して準備をしている方というのは、将来のキャリアを念頭に置いた上で、活動を進めています。それ以外ににはたとえば、これまでの仕事で疲れて、離職されて、そして次のステップを模索されている方もいるでしょう。こうした人たちは、今現在働いてお金を稼いでいないけれども、しごく健全で前向きな若者たちなのです。このようないわば当たり前の事実が、なぜか見過されがちです。」

 つまり、今働いていなくても、いろいろやっているのだ。それをなんでもかんでも、十把一絡げにネガティブなイメージで一括りにすることに間違いがある。

 本田さんは、さらにこう書く。

「「働こうとしているか、いないか」ということを、あたかも人間に対する絶対的な評価基準であるかのようにみなし、若い人々がそれぞれ個別の諸事情の中で生きていること、そして最近ますます多様なライフコースをたどるようになっていることへの想像力を欠いた議論が横行しているのです。」

 興味深いことに、平成15年度版の国民生活白書では、「フリーター」の問題は、企業が新規学卒者の採用を抑制したために生じたものであり、一番重要な原因は企業側にあると述べていたという。採用が抑制されているので、若者が希望する就職ができず、それが若者の元気をなくしている。そして、その元気をなくした若者を見て、企業はさらに採用意欲をなくすという悪循環のスパイルになっているという見解を示していたという。政府は、この問題に対しての正しい認識を持ち始めていたのである。

 ところが、この2003年あたりから、小杉礼子氏と玄田有史氏を初めとする、いわゆる「識者」の方々から、それまでの「フリーター」ではなく「ニート」という新しい言葉を使って、今の若者の就業意識などを論じるようになり、世間の関心は労働需要側ではなく、若者側に向いていったということを本田さんは書いている。

 なぜここで「ニート」という見方が出てきたのか。それまで、「引きこもり」支援を行ってきた団体が「ニート」支援を謳い始めると、政府から予算がつくということがここで起こるようになってきたという。厚生労働省の「若者自立塾」なるものが、その最たる例であろう。つまり、「ニート」対策と言えばカネになるのである。「若者自立塾支援センター」のサイトを見てみると、「3ヶ月の合宿で、働く自信と意欲を育てる」とあるが、これは一体ナニカと思う。こうしたことに、政府の予算、つまり税金が投入されているのだ。「ひきこもり」に対しては意味のあることかもしれないが、納得できる仕事さえあれば、働きたいと思っている若者に「働く自信と意欲を育てる」もないものだと思うのであるが。

 常々感じることであるが、どうもこの社会は、スーツを着て会社務めをして給料をもらう生活、あるいは自分で起業をして経営者になるとかいったこと「のみ」が「正しい」生き方であるかのような意識があるように思えてならない。そして、それは昔からそうだったのかというと、そうではなくて、自分の感覚では80年代はそうではなかったように思うし、それ以前の70年代や60年代もそうではなかったように思う。今の世の中は、人の生き方への見方が狭くなったように思う。

 こんな世の中でも、バイトで生活費を得ながら、演劇やアートをやっている若者たちがいる。彼らも統計上は「フリーター」に換算されるのであろう。そうした若者たちに、もっと注目が集まることはないのだろうかと思う。「演劇やアートなんて、儲かるもんじゃないだろ。そんなもん注目されなくて当然だ」という声もあるかもしれない。しかし、そうした文化的な活動で、採算がとれて利益も出るような制度なり仕組みなりを作っていこうという動きは過去にあった。80年代では、企業の社会的責任や文化支援について論じられていたものだった。ああしたことが、全部バブル景気の崩壊と共に消え去ってしまったとは思いたくない。

 若者には多様性がある。しかしながら、この社会は、若者の多様性を生かすことができず、ただひたすら多様性を排除し、あるひとつの方向に押し込むことしかしない。それが結果的に、この社会をますます閉塞したものにしていると思う。だからこそ、若者の就業問題(若者のだけではなく、そもそも労働問題)は、教育だけではなく、政府および企業といった全社会的視野で考えるべきことなのだと思う。

April 16, 2006

Europe does not need 小泉

 ここで何度も書いていることであるが、NewsWeekはなぜか日本のことになると、わけのわからない記事を書くことが多い。

 そんな記事のひとつが、NewsWeek April3号の"Europe Needs Its Own Koizumi"(ヨーロッパは小泉を必要とする)と題された記事だ。この記事では、今、ヨーロッパは日本の小泉総理(のような政治リーダーを)求めているのだと書いてある。もはや、このタイトルを見ただけで、なにを言っているんや、こいつは、という気分になってくるが、ここはひとつ天下のNewsWeekが書いているので、どれどれと読んでみると、

"The first lesson is that timing is everything. Japan got reform right by cleaning up its debt-burdened and politically connected banks first. A more independent and vibrant financial sector forced corporations to streamline, and to press reforms on workers, including an end to promises of lifetime employment. Yet there was no popular revolt, because the emerging recovery was bringing Japan back, making reform respectable. In Europe, where leaders first pushed labor and welfare reform, the result has been no improvement in growth, and massive street protests against declining benefits and job security."

 意訳してみると、ようするにタイミングが重要なのだと書いてある。日本は、まず最初に国の負債の解消と銀行に政治的に介入し、独立した財政部門が企業を合理化させ、終身雇用制度の廃止を含む労働改革を行わせたのだという。国民の大規模な抵抗はない、なぜならば、景気の回復が過去の日本を取り戻してくれたので、国民は改革を高く評価しているという。これに対して、ヨーロッパでは、まず労働問題と福祉問題に手をつけてしまった。その結果、景気は良くならず、そして利益と職業の保証を失うことに対して、大規模な民衆の抵抗運動が起きてしまったと書いてある。

 続いて、こう書いている。

"The second lesson: it's the politics, stupid. Prime Minister Junichiro Koizumi has transformed his ruling Liberal Democratic Party from a coalition of powerful factions defending conservative rural interests into a modern party bent on reform. Europe, meanwhile, remains caught in a political trap, as powerful interest groups defend an inefficient system: farmers fight for massive agricultural subsidies; older workers for generous pensions."

 つまり、経済ではなく、政治が重要なのだという。小泉純一郎は、自民党を、保守的な地方の利益を主張する強い派閥の連合の政党から合理的な政党へと自民党を変革させた。その一方で、ヨーロッパでは、巨額の農業補助金を求める農民や潤沢な年金を求める高齢者たちといった非効率なシステムを弁護する利益団体たちの政治的な罠に捕らわれたままであるという。

 よって、日本のコイズミは、なんと優れた政治家なのであろうか。ヨーロッパは彼のような指導者を求めているのだと言うわけである。

 はあ?景気が回復した?自民党が合理的な政党になった?

 この記事を書いたAngel Ubideという人は、日本のことをまったく知らないとしか言いようがない。今の政府は格差社会のことなどまったくお構いなし、むしろ「格差があるのはあたりまえ」と言っている。それで何をやってきたのかというと、銀行に税金である公的資金をつぎ込み、ひたすら金利を安くしてしてきた。これで銀行の業績が良くなって当然なのである。銀行は、本来、国民のものであった公的資金と、顧客に支払うべき預金の金利を、全部、自分たちの懐に入れたわけである。これで銀行の業績が良くならない方が不思議であろう。

 今、言われている景気回復とは、いわば限られたパイの配分が変わっただけである。中小企業が切り捨てられ、大企業の業績が良くなっただけである。全体の富そのものが増えたわけではない。その大企業の業績の良さは、中国関連特需である。では中国関連特需で景気がいいのならば、日本全国で景気が良くならないのはなぜか、なぜ「景気がいい」は大企業や大都市圏だけになるのか。まず、今の日本人でカネがあるのが年寄りであって、この世代はカネはあるが消費はあまりしない。モノを買う必要がない。この世代が、これからますます増えていく。そして、モノを買う必要がある30代、40代の世代にはカネがない。次に考えられることは、IT化が進み、これまでのような規模の数の人を必要としなくなった。さらに年金や保険金制度への不安から、全体的に消費者の消費マインドは冷えているということが挙げられるであろう。

 上記のNewsweekの記事に戻れば、小泉政府は、今の政策では必然的に発生する社会格差の問題を放置して、二極分離をさらに進めている。そして、「勝ち組」のみを大きくクローズアップすることで、景気が回復してきたというイメージを国民に与えることに成功している。だから、フランスのような大規模な暴動が起きていないだけの話しなのだ。言ってみれば、小泉総理は、ドビルパンのように若者の就業問題に正面から取り組もうとする意志はまったくなく、社会の基盤である労働と福祉について、まとも向き合おうとしてこなったのである。こうした人物を、ヨーロッパは必要としているのだろうか。ドビルパンの方が、ずっと正しいように思うのであるが。

 この記事が載っている「Frontaal Naakt」というオンラインマガジンがあった。この記事の作者は、ヨーロッパの政治的状況を述べたいが故に、日本の小泉総理の話をもってきただけというのはわかるのだけど(これってエスプリなのか?)、とりあえずコメントを書いておきました。英語で書いていいのかわからんかったけど。

補足:
a Japanese anti-globalistと呼ばれたワタシ・・・・・・。

April 15, 2006

幻想としての「ニート」その1

 「中央公論」4月号の「若者を蝕む格差社会」を読む。この中の三浦展と本田由紀の対談で、本田さんが若者のいわゆる「ニート」とは、心理的な理由や家庭環境によるわけではなく、労働市場での採用抑制により必然的に発生したものだと語っていたことが非常に興味深かった。これ、そうだよなと思う。

 今の世の中は、とにかくフリーターやニートを対して「働かない、お前たちが悪い」かのような見方が定着している。「自己責任論」とは、当然のことながら、その人本人の能力のみしか見ない。そして、正社員になれないのは、お前の努力が足りないからだ、社会は甘くないと言う。

 しかしながら、このような見方では、日本の若年労働市場の構造的問題が見えない。つまり、今の「自己責任論」とは、個人の努力ではどうすることもできないものを、あたかも個人の努力でどうとでもできるものであるかのように論じることで、その背後にある社会的な問題を隠蔽し、本質的な解決からひたすら遠ざけているのである。

 具体的な話し、日本では離学時に非正規雇用者になると、その後、正規雇用者になるのは非常に困難である。カンタンに言えば、学校を卒業して正社員として就職しないと、その後、正社員として就職するのは非常に難しい。そして、もうひとつの問題として、正規雇用者と非正規雇用者の間には賃金や待遇の面で大きな差がある。

 この二つの問題がある限り、ある割合の若者たちは、必然的にフリーターやニートにならざる得ない。このことを直視せず、なんかワカイモンの自己責任とか、社会人としての自覚がないとか、親の育て方がどうとか、教育がどうとかいう話になっている。今の社会のそうしたあり方が、社会的敗者であるかのような「ニート」イメージを生み出している。

April 14, 2006

ちょっと じまん

 ネットラジオ「くりらじ」でメールが読まれました(あのラジオ局のファンなんですう)。

 とまあ、えらそうに書いていますけど、僕もイーストウッドが南京大虐殺の映画を撮るという情報を疑っていませんでしたしぃ。(笑)

 話は変わって、Iris Changの"The Rape of Nanking"がPenguinブックスになっていたのを見たとき、高校生ぐらいの時から思っていた「Penguinブックス」のイメージはガラガラと砕けました。Penguinブックスって、岩波文庫か中公文庫みたいなものだと思っていたのだけど、この本を入れるようでは、こりゃダメだなと思った。なんで入れたかねえ。

過去のエントリー参照:「南京事件がハリウッド映画に」

負担って何?

 沖縄駐留のアメリカ軍海兵隊のグアム移転費について、なぜかよくわからないが、日本国がカネを払わなければならないという。

 しかしさらにわからないのは、アサヒコムの記事によると

「同協議に携わっている政府関係者は13日、「米側がある程度の負担をするのに、日本が少額ではだめだろう」と語った。」

ということや、

「(防衛庁事務次官の)守屋氏は「グアムで造られるものはどんなもので、どれを負担するのが日本として適切なのかということだ。」」

ということだ。

 「米側がある程度の負担をするのに、日本が少額ではだめだろう」とは一体なんであろうか。日本のために、海兵隊のみなさまがグアムへわざわざ行って頂くのだ、アメリカに感謝せよと言うのであろうか。

 「グアムで造られるものはどんなもので」あれ、日本国がカネを支払わなくてはならないものなど何もないと思うのであるが。これを、日本国が負担しなければならないのは、なぜなのだろうか。

 しかもこうしたことが、日本政府の側から語られるということに、なんかこー、戦後日本へのアメリカの占領統治政策は、いかに深いものであったかということがよくわかる。

April 09, 2006

『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと』を見ました

 モーリー・アンダーソンのi-morleyで紹介されていたTPTの演劇『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと』を見に行ってきた。場所は、森下の隅田川左岸劇場ベニサン・ピットという小劇場である。この劇場は、いいーですわ。元々、染物工場のボイラー室だったそうであるが、いかにも現代演劇というか、実験演劇の場という雰囲気の劇場なのである。この作品の原作・演出はドイツの現代芸術の演出家ルネ・ポレシュで、「ソイレント・グリーン」は1973年のアメリカの近未来SF映画のことだ。

 まず、劇場の空間の作り方がおもしろかった。現代演劇では、劇場に一歩入った瞬間から演出した空間に入る。で、劇場に入って、まず目についたアレが、最初はなんでこんなもんここにあるのかなあ、スポンサーの宣伝なのかなあと思っていたのが、劇が始まると、実はアレはなんとアレだったということがわかって、なんて斬新なというか、モダンアートだなというか、これは旨い作り方だと思った(なに言っているのか、意味不明)。

 それにしても、こうして現代演劇を実際に見に行くのは、大学生の時以来なのであった。最後に見たのは、なんの作品であったかもはや覚えていない。もう長いこと、劇場で演劇を見ることもなかった。それで、今年になって、なるべく演劇を見に行こうと思っていていた。そんな時、i-morleyでこの劇団のことを紹介していて、ルネ・ポレシュのインタビューとかもあって、これは見に行こうと思ったのだ。

 台詞がもーささやいていたり、絶叫していたり、とにかくスゴイのだ。話しは、貨幣や価値の話から始まる。ほほう、マルクスの貨幣論だなと思って、最初見ていたのだけど、途中から、そうしたコムズカシさもなく、長回しの台詞の量に圧倒されて、これはなんか、とにかく、めったやたらとスゴイ演劇であった。

 ドイツの現代演劇というのは、こうしたものなのであろうかと思ったら、ポレシュは、ドイツでは特殊な演劇人として知られているという。ドイツでこうした演劇作品が作られるということに、日本もドイツも置かれている社会状況に同じものがあることを思う。

 この世界は、ある「前提」なり、「決まり事」なりの上に成り立っている。その「前提」や「決まり事」の存在を、僕たちは知ることなしに暮らしている。でも、ある時、その「前提」や「決まり事」が、なぜこうしたものなのであるのかと疑問を感じるようになると、この世界の見方や感じ方が変わる。この世界が、閉ざされた資本主義のユートピアであることに気がつく。すべての価値が金銭化される、この社会の異常さに気がつくだろう。

 あとで台本つきのパンフを読んだら、マルクスではなくフーコーの哲学の演劇化ということが書いてあった。うーん、フーコーというよりも、僕はモロ、マルクスを感じたのですけど。思えば、M・フーコーはマルクス思想の継承者であった。

 でまあ、80年代あたりまでなら、こうした演劇は前衛演劇と呼ばれたであろうが、21世紀の今となっては、こりゃあもうフツーだよなという感覚であろう。前衛っぽいのだけど、難解なものではなく、ポップでコミカルなテツガク演劇であった。

小沢さんの『日本改造計画』を注文する

 9時のNHKの日曜討論で小沢党首のインタビューを見る。続いて、テレ朝のサンデープロジェクトで小沢党首を見る。なるほど、この人は原理原則をきちっと言う人であった。

 小沢さんの『日本改造計画』を読んでみようと思い、アマゾンで検索するともう絶版のようであった。それではと、古本屋のオンライン検索で検索すると、いくつかヒットした。その中のひとつを選択して注文する。大阪の古本屋さんであった。

昨年のNewYorkTimesの記事を読んで

 自民党が選挙に圧勝した昨年の9月、NewYorkTimesは"Why Japan Seems Content to Be Run by One Party"(なぜ日本は一党に統治されることに満足なのか)という記事を紙面に載せている。ちなみに、この記事を今、NYTのWebで読もうとしても、過去の記事は有料になっていてタダでは読めないのであった。そこで、どっかにないかなとググッてみたら、なんと台湾の安全保障を研究していると思われるサイトにあった

 通常、他の民主主義国家では、政権はいくつかの政党が交互に交代して運営しているものである。ところが、日本はそうではない。NYTは、こう書いている。

"Japan's democracy is East Asia's oldest, but its ruling party has held power almost as long as the Communist parties in China and North Korea. "

 つまり、「自民党の長期政権保持は、中国や北朝鮮の共産党独裁と同じではないか」と書いている。
 そして、

"Younger democracies in South Korea and Taiwan have already experienced changes in ruling parties, and the underpinnings of democracies, from vibrant civil societies to strong, independent news media, appear to be flourishing there more than they are here."

 つまり、「日本より民主主義の歴史が短い韓国や台湾では政権交代は経験しているし、活発な市民社会や独立したマスコミに支えられた民主主義が日本より進んでいる」と書いている。

 さらに、この記事を読んでみると、ようするに「戦後半世紀間のアメリカの支援と強力な官僚制と中央から地方へのバラマキ行政と自民党による権力の掌握は、何十年も揺るがなくなった。このため有権者は、自民党以外の政党を政権党として選ぶことは、日米間の関係を悪くさせ、社会主義が力を得ることになってしまうのではないかと恐れるようになった。自民党が長期に政権を独占したことが、日本での民主主義の発展を妨げている」という意味のことを書いている。そして、「メディアが自民党の長期政権のため、自民党への投票に不利になる小泉総理のアジアに対する考え方やイラク派兵についての報道をあまりしない」と書いている。

 興味深いのは、

"Just as these pillars of Japanese democracy tend to be tenuous, experts doubt the soundness of the main Democratic Party opposition. The party, made up of former Liberal Democrats, Socialists and other groups, famously lacks unity and could disintegrate if it loses badly."

 「日本の民主主義の基盤は薄いため、専門家たちは、民主党の健全さを疑っている。民主党は自民党の一部と社会党、その他のグループが集まってできたもので、統一さに欠けていて、崩壊しやすい」と書いてある。今回のメール事件では、まさにこのことが露呈したと言えるであろう。

 しかしながら、この自民党が長期にわたって政権政党であったことが、日本の民主主義の発達を妨げてきたというこの記事の見方には、僕は同意しない。戦後の半世紀の自民党政権を見てみると、政党の交代はなかったが、古くは吉田茂と鳩山一郎のように、派閥間での権力交代があった。つまり、自民党というのは一枚岩ではないのである。派閥によって意見の対立があり、いわば自民党内部に異なる「政党」が複数存在していたようなものなのであった。そして、その派閥間の調整により、バランスが取れた政権運営を可能にしてきたのである。

 もちろん、自民党の長期安定政権の背景には、GHQ及び占領時代以後はアメリカ国務省やCIAの支援と、朝鮮戦争からベトナム戦争により特需景気と高度成長政策の成功があったが、基本的には自民党は派閥を単位とした複数派閥政党であったということが、長期間にわたり政権政党であった理由のひとつであったと思う。有権者である国民は、そのことを知っているから安心して自民党に投票してきたのではないだろうか。

 この自民党の複数派閥スタイルがなくなったのが、小泉政権からであった。複数派閥スタイルではなくなったのに、ではなぜ昨年あれほどの大勝を自民党はしたのであろうか。それは自民党に従っていれば、うまくやってくれるだろうという従来からの意識が有権者の大多数にあったのと、NYTの記事にもあるように、マスコミが自民党路線になっていたからであろう。ただし、マスコミは、確固たる信念があって自民党路線になっているわけではなく、ホリエモンブームを見てもわかるように、その時、その時で変わるものなのだと言えよう。

 日本における政治闘争とは、結局、政党単位ではなく、やはり派閥なのであろう。つまり、「民主党」ではなく「小沢一郎」なのである。かつて自民党にいた小沢派閥が、今たまたま民主党にいるだけのことであった。それがいよいよ表面に出てきたということで、自民党は意識しているのだ。結局、この国では、戦後、政党政治そのものが発展することがなかったという意味では、NYTのこの記事の指摘は正しい。

April 08, 2006

これだけやって欲しい

 このままでは増税になる。財政は破綻する。医療費の負担もさらに上がる。年金は事実上ないものに等しくなる、そして人々の生活の格差はますます進行するだろう。ひとことで言えば、暮らしにくい世の中になるということだ。そうしたことを、我々有権者は求めているのかというと、当然、求めているわけはない。はっきりいって、そんな世の中はイヤだ、なのである。

 よって、そうした世の中にしません。増税はしません。財政は破綻させません。みなさんの年金は守ります、そして未来に希望を持つことができる社会にしますということ、これだけやればいい。その他、靖国問題とか安保とか色々あるが、そうした国民の暮らしに、とりあえず関わってこないものは、ひとまず横へ置いておいて、とにかく暮らしやすい世の中にして欲しい。なにひとつ改革していない自民党のまやかしは、もう通用しなくなるようにしたい。何度も書くが、民主党にやって欲しいことは、これだけである。そして、これだけできれば、民主党は国民の支持を得ることができる。何度も書くが、これだけだ。これだけやって欲しい。

 我々有権者は、我々の生活がこれからどうなるのか、これしか関心はない。民主党が、これからなにをどうするのか、どのように考えているのか、我々有権者に向かってなにを語るのかということしか関心はない。だから、マスコミのみなさん、民主党の新代表に対する政界の反応とか、小沢と管の党内の駆け引きとか、そういうことはどうでもいいんですけど。いや、政界闘争劇を見たい人はいいでしょうけど、それよりも消費税アップとか、どうなるんでしょうか。

April 07, 2006

マックでWindows!!

 最近、僕のPowerbookはiPod専用マシンになっている。買った音楽CDとか、オンラインで購入した音楽ファイルとか、とにかくかたっぱしからPowerbookのハードディスクに落とし(そして、iPodに転送し)ているので、ハードディスクがほとんど音楽ファイルでフルになってしまっている。

 で、このところ、新しい音楽ファイルを追加しようとすると、「内蔵ディスクが満杯に近いですよ」メッセージがぴんぱんに出てくる。でまあ、そういう時は、もう聴かなくなった古い音楽ファイルをちまちまと消しているのだけど、元の音楽CDの方はブックオフに売り飛ばしてしまったりしているものもあって、そーゆーことに気がつかず、ついうっかり削除した音楽ファイルは永遠に戻ることはないのであった・・・・・・・。どうしてもまた聴きたくなったら、ブックオフで音楽CDを買い戻して、またPowerbookに落として(当然、ここでまた他の音楽ファイルをちまちまと削除する)、そしてiPodで聴いているのであった。なんとオオバカな、ワタシ。

 これは、なんとなせねばならん。なんとかせねばならなんというのは、もう一台、大容量のマックを買おうかなということなのであるが、しかしまあ、カネはかかるよなと思っていた。

 ところがなんと。マックでWindowsXPがブートできるようになったと言うではないか。Powerbookのディスクが音楽ファイルで一杯になったことと、Windowsが正式に使えるようになったことと、どんな関係があるんですかと言われそうだけど。なにを言っているんです。これはすごいことなんです(きっぱり!)。なにがどうすごいのかよくわかないけど、とにかくすごい。

 たとえば、だ。マックを買いたいのだけど、でもなあ、Windowsでなくてはダメというアプリがあるしなあ、だからWindowsPCを買うしかないなあ、という選択が今後一切存在しなくなるということなのである。なんら迷うことなく堂々と(いえ別に、今までコソコソとマックを買っていたわけじゃあないですけど)マックが買えるのである。これはいい。すごくいい。そうまでして、MacOSXを使いたいのですかというと、そうなんですと力強くうなずくのがマックユーザーつーもんであろう。マックは音も静かだし。音楽の質もいいし。映像はまあWindowsPCでもいいのがあるけど(てゆーかディスプレイの話だよな)。

 できることならば、ブートしないで、キー操作でWindowsにもMacOSXにも切り替えられて、そして、ファイルの共有は当然できる、となってくれれば、これはもう言うことなし。

 いずれにせよ、WindowsOSが正式サポートになったということで、これはもう一台マックを買ってしまうかも。

April 02, 2006

やはり民主党は民営化すべきだ

 民主党の前原代表辞任で、もはや民主党は終わってしまったかのようになっている。本来、昨年の9月の自民党大勝の時に、民主党はすでに終わっていたのであるが、あの時、僕は民主党は一度解散して、民間企業の組織改革のプロを雇って徹底的な自己革新をするしかない、これは民主党の「民営化」なのだということを書いた。結局、この数ヶ月間を見ても、民主党はそうしたことをすることはなく、何をやっているのかよくわからないメール問題というもので自己崩壊してしまった。今後、よほど従来の民主党とは変わったというイメージと実績を世間に示さなくては、有権者から多数の票を取ることはもはや不可能であろう。

 なにが悪かったのか。以前、民主党はもっと有権者の方を向いてくれと書いたが、結局のところ、誰のための政党なのか。有権者のための政党なのであるということが、最後までわかっていなかった。民主党の「株主」であり「顧客」であるのは有権者なのである。今回のメール問題にしても、誰もライブドアと武部議員の次男の関係を暴いてくれとは思っていなかったと思う。そんなことは、きっこの日記と日刊ゲンダイと週刊ポストにやってもらえばいいのであって、国会議員たるものは、もっと根本的なことをやってもらわなくては困る。ライブドアと自民党にカネの関係があるなどということは、もはや誰でもわかっていることであって、だからなんなのか。もっと有権者の生活に関わることをやって欲しい。

 有権者が今一番何を気がかりとしているのか。まず挙げられるのが、増税であろう。であるのならば、もう他のごちゃごちゃしたことは一切やらなくていいから、2年なら2年、3年なら3年と時間を決めて、民主党本部のメインの活動のすべては、自民党の増税をやめさせることに集中する。で、国会の審議とかマスコミとかは、議員と有権者のつながりとしては、今やまったく意味をなさなくなっているので、民主党で自前でメディア局を立ち上げる。そして、番組に自民党の議員を呼んで、増税することでなにがどうなるのか、増税しない方法は本当にないのか等々、バシバシ議論をして、その内容をネットにじゃんじゃん流す。雑誌や本も出版する。必要ならば、外国のエコノミストや経済学者ともコンタクトして、日本の自民党はこう言っているけど、あなたはどう思いますかとどんどんインタビューする。それらをネットで流す。さらに、学者や官僚とではなく、広く世間の人々とつながっていく。

 つまり、今の日本、今の日本人の暮らしでなにが問題なのかということを洗い出し、それらをネットで広く世の中に公にすること。そして、それらひとつひとつの何がどのような理由でこうした問題になっているのを、これも明らかにして世間に公にすること。そうした問題に対して、我々はこう解決します。みなさん、どう思われますかと広くネットで問いかけるわけである。西澤某という怪しげな人物の情報に頼るのではなく、世間のみなさんの意見を聞いていく、コミュニケーションしていくのである。不確定な情報で自民党議員のウラを暴くのではなく、堂々と真っ正面から政策で自民党を追い込むことは可能であるはずだ

 今回のメール問題で、若手はダメみたいな意識になっているが、本当の意味で、民主党は党内の若手パワーを使い切っていない。執行部に、若手を使いこなせる人材がいない。民主党には、外国の大学の留学経験者や大学院卒などの人材が多い。しかしながら、これら高学歴の人々を現場で鍛え、リーダシップをとっていく指導者が今の民主党に見られない。せいぜい、古いタイプの政治リーダー的な人しかいないのである。党内にいないのならば、外部から招いてはどうか。それと、メディアや広告やITがわかるスタッフをもっと導入するべきである。電通と大手マスコミは自民党とつながっているが、そうしたところではなくてもいい人材はいる。

 これだけのことをやるだけで、自民党は国民の支持を失しない、民主党は大きく前進できる。なぜならば、小泉自民党は、改革と言っているだけで、なんの改革も行っていないからだ。国の財政はますます傾き、小泉総理の次の総理から重税国家に日本はなろうとしている。格差社会は、ますます悪化している。その実体の姿を明るみに出して、片っ端から問題解決に取り組んでいく。それを民主党の党員だけでやろうとするのではなく、民主党に投票した一般の有権者みんながそれらの問題に取り組むことができる仕組みを作ること。国民が、政治に参加しているのだという参加意識を持つことができるようにすること。これが、今の民主党のやるべきことである。


 過去のエントリー参照:「今必要なのは民主党の民営化だ」(05/09/18) 「なぜネットにシンクタンクを作らないのか」(05/12/23)

横山光輝『三国志』を読んでいます

 今週は、ココログの調子が良くなかったので、ブログを更新することをしませんでしたというのはいいわけで。「深夜のNews」を読んでいただいているみなさまは、きっと真魚さんは仕事が忙しいのであろうとか、Friedmanの『The World is Flat』を読んでいるのであろうとか思っていただいていたかもしれないが。そんなことはまったくなくて。(笑)

 ネットのオンライン書店で手塚治虫の『ブッダ』と石ノ森章太郎の『サイボーグ007』と横山光輝の『三国志』の全巻をダウンロード購入して、ベットで寝転がって、ノートPCでひたすら読んでいたのであった。まだとても読み終わっていないけど。

 『ブッダ』は、コミックスで全巻持っていて読んだことがあった。現在、実家のおしいれの中のどこかにあると思う。なんとなく、また読みたくなったので、エイッとマウスで全巻まとめ買いを押してしまったのである。で、再度、読んだわけであるが、そうかこんな話だったのかと、ようやくこの歳になってわかったぜということばかりであった。ダイバダッタのこととか、アジャセ王子のこととか、そうしたサブキャラの存在が重要だったんだなということを改めて感じた。

 『サイボーグ007』は完全版で、シリーズ全作が納められているという。全28巻。科学の悪用や軍事産業とか、はっきり言えばアメリカに対する批判的な視点が根底にあって、今読んでも質が高い。

 横山光輝の『三国志』は、今まで断片的に読んだことはあったが、全部、最初から最後まで読むことは一度もなかった。なにしろ、全60巻なのである。これをデジタルデータで、パソコンのディスクの中に置くことができるのは、いい世の中になったなあと思う。大体ですね。私の自宅の自室に、コミックス60冊を置けるスペースなどどこにもない。だから、こうしたネットでのマンガの購入っていいですわ。どんどん、デジタル化して欲しいス。本当は、自分のパソコンのディスクに落とすのではなく、どこかのサーバにあって、そこで読めればいいわけで。ネットでマンガの貸本屋って、できないもんかなと思う。

 もっか、日中間は政治的に険悪の関係にあるわけであるが、こういう時代だからこそ、中国の古典を読もうということで、横山光輝の『三国志』になるというものなんであるけど。横山光輝の『三国志』はいいじゃあないですか。しかしまあ、なにしろ、これだけの長編なので、ポツポツ読んでいこうかと思う。

 世間では、上海総領事館員自殺で安倍晋三官房長官が、中国からの脅迫があったと述べたり、韓国が日本の教科書をまた「侵略を美化している」とか言ってきたり、民主党がああなって大騒ぎになったり、わけのわからない殺人事件が起きたりしているけど、そうした中でまったりと『三国志』を読んで、「さすが、孔明はすごい!」とかつぶやいているワタシであった。

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