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February 2006

February 26, 2006

ヒルズにちょっと

 六本木ヒルズでの『Howling in the Night2006~押井守、《戦争》を語る』に行ってきた。内容は活字にしてはいけないという監督のお達しなので、ひみつ。

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2006年2月26日の東京は雨であった。

電気用品安全法

 電気用品安全法というものが、4月1日より施行されるようだ。これは、中古の家電品の販売を禁止するというもので、PSEマークがついていれば販売してヨシということになるという。ようするにお上の許可がなくては売ってイカンということである。

 じゃあ、お上の許可をとればいいじゃんということになるが、なにしろ「お上の許可」なのである。ポンポンとラクにとれるものではなく、かなりのコストがかかる。そのコストは、中古品販売業者がかぶることになり、そんなんじゃあ商売やっていけませんよということになる。事実上不可能なのである。すなわち、リサイクルショップを撲滅させようとしている法律としか思えないしろものなのだ。

 ようするに、新製品を買えというメーカーの都合に立った法律なのである。お上に許可をとらなくてはならないということは、お上の側からすれば、天下りができる許認可団体ができるということであり、手数料収入が入るということである。一方、許可を取らなくてはならない側からすれば、手間とコストがかかり迷惑以外のなにものでもない。

 さらによくわからないのが、電子楽器もこの対象になるということだ。楽器というものは、当然のことながら新製品ならばいいというものではない。年代ものの楽器だからこそ価値があるものが多い。それらが販売できなくなるということは、近い将来、古い電子楽器は姿を消していくことになる。

 官報で前々から告知していたでしょというかもしれないが、なんか、とーとつに何月何日から、これこれの法律を施行する、違反者は罰金を取るという、このお上のやり方はよく覚えておこう。以前、在日米軍の再編成の日米協議についてのエントリーでも書いたけど、国民の生活に関わることであるのにも関わらず、国民の目の見えないところで、ちゃくちゃくと物事を進めていって、本決まりになった時点で権力をもって強制的に行うということをこの国の政府はしばしばする。これを忘れてはならない。

February 20, 2006

NHKスペシャル「気候大異変」を見た

 NHKスペシャルの「気候大異変」を見た。現状の地球温暖化が進めば、今世紀末に地球社会はどうなるのかというシュミレーション番組である。

 「現状の温暖化が進めば」と書いたが、これはもはや避けられないことであろう。「進めば」ではなく、今世紀末には地球はこうなるということが、予測的には「決まり」なんだと思う。京都議定書すら認めない、某超大国の共和党政権があることだし、二酸化炭素の排出量の削減を発展途上国が承認するわけがない。ましてや、中国がこれから本格的に工業社会に突入するのだ。この巨大な国が、これからじゃんじゃん資源を浪費しますぜ、ガンガン二酸化炭素を排出したるでぇという時代になるのである。これはもう今世紀末には地球はこうなるというのは、ほぼ決定していると言えるであろう。

 現在、中国では環境汚染が急速に進んでいる。最近でも、Songhua Riverで深刻な化学汚染が発生し、その河を水源としているハルビンで断水になった300万人の市民が不安になる出来事があった。1970年代に公害問題を経験した日本は、多くの点で中国に指導できる技術を持っている。本来、日本は、工業化を推進する中国に対して、「持続可能性」(sustainability)のある産業社会を提言し、その実現に向けて協力していくことができるはずだ。しかしながら、今の日中間には、そうした未来へのビジョンある関係はなく、靖国神社がどうしたこうしたという低レベルの関係しかないのである。

 この番組を見て、アラスカのシシュマレフ島が、浸食により土地がなくなりつつあるということを知った。シシュマレフ島といえば、亡くなった写真家星野道夫さんが、20歳の時ホームステイで暮らした村である。星野さんは、このシシュマレフ島の村の風景写真を、神田神保町の本屋で見て、アラスカへ旅立つことを夢見ていたという。この村の村長に手紙を出したことが、すべての始まりだった。彼は、シシュマレフ島で生活した後、アラスカ大学の野生動物管理学部に入学し、野生動物の写真家の人生を歩み始める。星野さんの旅は、ここから始まったのだ。そのシシュマレフ島が、姿をなくそうとしている。近い将来、シシュマレフ島の村人たちは島を出て、他の場所に移住するという。

 人間によって変わりゆく地球の姿を、星野道夫の魂はどう感じているだろう。

February 19, 2006

Aging Society

 少子化の話題が多いが、少し前のNewsWeek Jan30で"The End of Retirement"というCover Storyで、これからの時代は定年退職した後も働く社会になることが書かれていた。

 少子化とは日本だけのことではなく、大体、どこの先進国でも見られる現象で(ただし、日本が最も進行している)。そこで、

"One unavoidable solution:putting older people back to work, whether they like it or not."

になる。少子化で国の産業が危ない、だから子供を増やさなくてはならない、というのではなく、少子化なのだから、定年退職のみなさん、どんどん働いてくださいというわけである。

 おーそうだよなと思った。なんか今の日本では、ワカイモンにいかに負担をかけようか、高齢化社会なんだからワカイモンの負担が大きくなるのは当たり前、シカタガナイではないかという話がまかり通っているが、年寄り世代が働けばいいのであった。しかも、そうしたことは、どの先進国でも試み初めているようだ。このNewsWeekの記事でも、日本企業の三菱やキャノンは、もうすでに退職の再雇用制度を始めていると書いてある。

 2007年問題というものがある。団塊の世代で一番数が多いのが、昭和22年(1947年)生まれになるという。その人々が60歳で定年を迎えるのが2007年になる。このため、日本の労働人口がごっそりなくなるという問題である。

 しかしこんなもの問題でもなんでもなく、団塊の世代が働き続ければいいじゃんということなのであった(当面は、であるが)。もう、学校卒業して、会社に就職して、定年まで働いて、定年後は年金で暮らすというライフスタイルは、どの先進国でも変わらざる得なくなってる。そして、他の国と同様に、日本でもいくつかの企業は、そうした方向に制度やマネジメントを変え始めている。アメリカでも、定年後も仕事を続けたいという人は数多いという。

 これは当然といえば当然のことなのだが、なぜかこうした記事は日本語版には出ない。そして、なぜかこの国では、少子化は宜しくないとか、高齢者にはもっと福祉が必要だ、そのカネは、消費税を上げてまかなおうみたいな話ばっかりなる。

 もちろん、少子化は宜しくなく、高齢者への福祉も必要であろう。それは、どの先進国も抱えている共通の課題である。しかしながら、それでもまあ、どの国でも明るい未来の展望を開いていこうとしている。ところが、この国では「だから」国民に負担をかけざる得ない、「シカタガナイ」というお先真っ暗の話になっていく。これは、一体なぜかと思う。むしろそうしたことよりも、定年後も仕事を続けたいという希望は日本でも多い。定年退職後の再雇用を、たんなる「再雇用」扱いにせず、もっと充実したものにする方のことが必要なのではないか。

February 18, 2006

『鬼平犯科帳スペシャル』を見ました

 今日はひさしぶりに早く自宅へ帰れた。というわけで、今日はフジテレビで8時から『鬼平犯科帳スペシャル』を見ることができた。以前、これをやることを知って、これは見なくてはと思っていたのだが、今日やるということをすっかり忘れていたのであった。

 しかし、である。見たのだけど、やはりみなさん歳をとりすぎているのではないか。今回、ひさしぶりに鬼平のレギュラーキャストのみなさんを見たのだけど、ええっこんなに歳とっちゃたの、ということばかりだった。久栄もおまさも、顔のアップは辛い。

 かといって、違うキャストでやるのはむずかしいかもしれないが。もともと、『鬼平犯科帳』は、中村吉右衛門の父の松本白鸚のハマリ役だったそうであるけど、僕は見たことがないからよくわからない。丹波哲郎が鬼平を演じたこともあったようだ。

 いずれせよ、次の代の鬼平を作らなくてはならないだろうが、では、誰が中村吉右衛門を演じられるのかとなると、これはうーん、誰だろ。つーか、時代劇を演じられる役者が少なくなってきているということで、時代劇そのものが、今後どうなるのだろうか。

February 17, 2006

なぜNewsWeeKの日本観はいつもこうなのか

 NewsWeekの国際版では先週のFeb13のCover Storyは、"Culture Shock, Is Japan Becoming Less Japanese?"というタイトルで、非日本化する今の日本についてであった。「非日本化」とは「日本ではなくなる」ということである。では、なにが「日本」だったのかというと、お決まりの如くフジヤマ、ゲイシャの日本である。Less Japaneseって、それはアンタたちの幻想の"Japan"でしょうと言いたい。以前も書いたが、天下のNewsWeekが、この程度の日本認識しかないのである。

 さらにだ、よくわからんのは今週号のNewsWeek日本語版でも、堂々とこのcover storyを日本語訳して載せているということだ。大体、NewsWeek日本語版がムカッ腹が立つのは、常々、NewsWeekを読んでいて、本当にこれは日本語版に載せるべきだと思う記事は載せないで、こうしたどうでもいい記事をわざわざ日本語訳して載せることが多々ある。NewsWeek日本語版の編集方針とは、一体なんのか。このへん、聞きたいものである。ようするに、NewsWeek日本語版は、翻訳雑誌なのだなということなのであろう

February 16, 2006

Googleの「めろんぱん」

 今週のTIME Feb 20のcover storyはGoogle。どこぞの国ではIT企業は虚業だとか言われているが、Googleこそ、いまや世界を変えるテクノロジー企業だ。

 特集の紙面の中で、コーヒーブレイクをしている二人のエンジニアの背後に"idea board"というアイディアを書きまくっている壁一面のでかいボードが見える。当然のことながら、一面、英語であるのだが、そこに地球の絵があって、その下に日本語で「食べるもんじゃないぞ」という書き込みがある。で、そこから矢印の線がひっぱってあって、その先に「めろんぱん」という日本語の書き込みが。うーむ、「めろんぱん」・・・・・・・・。

 もっか、『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』(日経BP社)を読書中。Googleなんて、ただの検索と広告の会社だろと思ったら大間違い。

February 13, 2006

光接続にした

 自宅のネットを、光回線にした。住んでいるマンションで、NTTのフレッツBが使えるようになったということで、それじゃ、ま、ひとつ光にすっかというわけで、光にした。ちなみに、ワタシはさすがに300ボーの時代は知らないけど、その昔、パソコン通信を始めた頃は1200ボーだったのである。1200ボーなんて書いても、今の大多数のインターネットからネットを始めた方々は、なんのことかわからないだろうけど。

 あの当時、将来は光接続になると言われていた。そんなのは、未来の話だなと思っていた。その「未来」になったというわけだ。しかし、肝心の自分の中身の方は、あの頃からどれだけ進歩したのかというと、なんかあの頃のままであるような、ただたんに外観が歳をとっただけのような。

 とりあえず回線が速くなった(なったのか、これで・・・)から、Google Earthは快適に動きますねということで、おもわず20ドルを払ってGoogle Earth PlusにUpgradeしてしまった。

February 12, 2006

韓国ドラマ『遠い路』

 近所のTSUTAYAに、韓国ドラマのコーナーがある。そこの棚をつらつらと眺めていたら、なんと『遠い路』があるではないか。僕は、韓国ドラマはまったく知らない。見たことがない。しかし『遠い路』だけは、以前NHKで見たことがあって、これは良い作品だと思っていた。これはぜひとも借りなくては、あの感動をもう一度と思ったけど、運悪くこの時は貸し出し中であった。そこで、それが返却されるのを待って、ようやく見ることができた。いい作品だった。

 この作品は、去年のお正月にNHKで放送された作品で、今年のお正月でも再放送していた。今年の再放送のことは後で知って、ビデオに撮っておけばよかったと思ったものだった。DVDでも出ていることは知っているのだけど、他の作品と二枚組で一緒になっていて、値段が高いんだよこれは。

 この作品を最初に見た時の印象は、自然の風景の美しさだった。この作品を見て、韓国の雪景色の美しさに驚いてしまったのである。そうだよな、韓国でも雪は降るよなと思ったのだ。そりゃあ当然、韓国でも雪は降るだろ、バカかオマエと言われると思うが、正直に白状してそう感じてしまった。このブログでは、世界がどうとか、国際社会はどうとか、ボーダーレスなんだとか書いているが、本当にオオバカなことに、隣国韓国と雪というのが、自分の頭の中ではこれっぽちも結びつかなかったのである。ワタシの外国への想像力など、こんな程度のもんである(だから、実体験のない外国理解なんぞ、底の浅いもんですね、kakuさん)。

 例えば、雪が降っているとする。その雪を見て、京都や大阪にも雪は降るということと同じように、ソウルにも雪が降ることを思い、その降る雪の下で毎日を暮らしている人々のことを思う。ようするに、国際性とは、国際社会や異文化の知識をどれだけもっているかではなく、こうした人としてのあたりまえの感覚を持っているかどうかなのであろう。

 物語は、郵便局に勤めるパク・チニが演じるソンジュは、恋人ギヒョンと一緒に正月休みに故郷の実家に帰り、男手ひとつで育ててくれた父親に婚約者を紹介しようとしていることから始まる。ところが、突然、ソンジュはギヒョンから別れを告げられる。ソンジュは、失恋の悲しみにくれるが、それでも帰省を楽しみにしている父親のために、嘘でもいいから自分と一緒に父親に会って欲しいとギヒョンに話す。帰省の日、失意のままで、でもわずかな期待を持ってソウルの駅前で待つソンジュ。結局、いつまでも待ってもギヒョンはこなかった。悲しくて帰る列車に乗ることもなく、ソンジュは呆然と駅前にたたずむ。するとそこに、以前、郵便局に大量の小包を持ってきたイ・ビョホン演じるウシクと会う。雑貨品配達の仕事(?)をしているウシクは、年末の駅で白タクをやって稼ごうとしていたのだった。ただ泣くだけのソンジュをほおっておくこともできず、ウシクは車にソンジュを乗せて、故郷の実家におくっていくことにした。

 この車でソンジュの実家に向かうシーンでの、自然の風景がすごく美しい。途中、お昼ということで、休憩所で食事をするシーンで、ソンジュはギヒョンと一緒に食べようと思って、前の晩に作った海苔巻きを出す。海苔巻きって、韓国にもあったのか。ていうか、海苔巻きって、朝鮮半島からきた文化なのかもしれない。あるいは、ただ単に日本の食文化が朝鮮半島に渡ったのかもしれない。日本を嫌う韓国がそんなことするわけないだろと言う声もあるかもしれないが、文化というものは相互に交流し合っているものであり、我が国のオリジナルだと思っていたものが、実は意外と外国から来たものだったということはよくあることだ。この2人が海苔巻きを食べるシーンで、窓の外に広がる雪景色の風景がまたいい。

 ソンジュは、ウシクに一緒に父親のところへ行って、別れた婚約者のギヒョンであることを演じて欲しいと頼む。こうして、ウシクはソンジュの婚約者を演じることになる。このソンジュの父親も、娘思いのいい父親で、ここではっと思ったのが、ウシクのソンジュの父親に挨拶する作法が、チベットの五体倒地みたいな作法で、このへん、くわしい人はわかるのだろうけど、とにかく目上の人に対する挨拶の作法というものがしっかりとまだあるということだ。韓国では、礼儀作法の文化がまだ生きているのである。父親は息子ができたことを喜ぶ。ウシクは、子供の時に親から孤児院に預けられて、そこで育った。しかし、いつしかソンジュの父親を自分の本当の父親のように思うようになる。ソンジュの父親もウシクを自分の息子のように思うようになる。

 ソンジュの父親、父親の面倒を見てくれている近所のおばあさん、海の見える場所にあるソンジュの母親の墓など、これら様々なものの中にソンジュはいる。そして、ソンジュの父親にも父と母がいて故郷がある、それは現在、北朝鮮の側にあるようだ。おそらく、ソンジュの父親は朝鮮戦争の戦火の中で若い頃を過ごしたのだろう。故郷と別れ、両親と別れ、韓国に住み、結婚し、妻が亡くなってしまった後は、自分の手でソンジュを育ててきたのだろう。その娘も、こうして嫁ぐことになって、これで思い残すことなく、もうすぐお前のところへ行くと妻の墓に語る。ソンジュの父親は、自分が病に冒されていることを知っているのだ。このシーンも、胸にこみ上げてくるものがある。

 そうした中、ギヒョンから近くまで来たので会いたいという電話がかかる。本物のギヒョンが来て、ウシクはもう自分は必要ないと思い、ソンジュと別れる。去る前に一度ソンジュの父親と会い、腕相撲をする。倒れてしまった父親を背負って帰る。そして、ウシクは去っていく。ソンジュはギヒョンと会うが、なんとこの男はスキー場に行く途中だから寄ってみたみたいなことを言っていて、完全にもう2人の間にはなにもないことをソンジュは知る。家に戻ったソンジュは、そこで倒れて苦しんでいる父親を発見する。すぐに、ウシクの携帯電話に電話をする。かけつけたウシクは、父親を病院へ連れて行く。かなり、病気はマズイ状況になっているらしい。しかし、病院は嫌いだと家に帰る父親。

 ウシクは、ソンジュに「お父さんを2人で分けないか」と語る。君と結婚するって意味ではなくて、お父さんに色々としてあげたいと語る。ソンジュは、そんなウシクに好意以上のものを感じ始める。そして、ウシクは父親にソウルへの家族旅行をもちかける。喜ぶソンジュの父親は、妻の墓に向かって、お前も一緒に家族みんなで旅行に行こうと語る。ここ泣けます。

 この物語は、ウシクとソンジュの恋愛モノではなく(実際、そうしたシーンはない)、素朴で深い家族愛のある。そうした、大きな家族愛が二人を包み込むようにある。これは、しかし、こうしたドラマは今の日本では作られることはないだろうなと思う。では、なぜ今の日本ではそうなのか。ひとつ言えることは、今の日本では、家族は家族であろうとしなければ、あっけなく崩れて消えてしまうものだということだろう。かつての社会では、社会全体に家族を家族たらしめる価値観や伝統があったが、現代ではそうした外的な要因は存在しない。だからこそ、家族とはいかなるものかを自分で自問しなくてはならないのであろう。ある意味で、自由ではあるが、しかしまあ面倒なことで。それに自分で自問したとしても、家族とは相手との関係であって、相手にそうした意識がなければ、家族というものは成り立たない。なにも考えなくても、素朴な家族愛が誰にでもあった時代ではなくなってしまった。

 もうひとつの視点として、ソンジュにとって、ウシクは言ってみれば偶然に出会った人であり、婚約者ギヒョンの代わりであった。形式的に見れば、これはだましであり、ごまかしであり、ウソである。実は、これを最初に見た時、ソンジュの個人としてどう思っているのかということがわからなくて、えーい、個としてどうなのか考えろよ、個として。どう考えても、他の女とつきあっているギヒョンが悪いのであって、ソンジュが悪るかったわけではないだから。そりゃあまあ、男女の間にはいろいろあるけど。あんな男と別れてヨシ。ウソはイカン、ウソは。お父さんに真実を明らかにして対処スベキ、とまっとうな論理的正論を感じていたのであるが。

 しかし、個人としてどうかではなく、家族としてどうかなのであった。それが騙しであろうと、ウソであろと、そんなことはどうでもよくて。ソンジュの父親は、ウシクを実の息子のように感じ、ウシクもまたソンジュの父親を実の父親のように感じ、ソンジュを大切に思う。これが、ずっと孤独だったウシクに初めてできた家族だった。その事実があれば、それでいい。

 ソウルへと向かう車の中で、今まで哀しい顔をしていたソンジュに笑顔が戻り幸福そう。この2人はきっとうまくいくという予感に溢れたラストで終わる。これはロードストーリィーの物語でもあったんだな。もうすっかり娘夫婦と父親の旅行みたいなって、早く孫が見たいと言うお父さんに笑うがこぼれる二人。家族という、大きくて深い愛。見終わった後、この物語の中にいつまでもいたいような、ああでも、これはドラマであって、ここで終わるんだなあと感じた。そして、自分の親のことを思った。

 今月は、母親の誕生日がある月だったことを思い出した。日頃、親孝行をまったくしない親不孝な自分である。母になにか買おうと思った。

February 11, 2006

『ウェブ進化論』備忘録その1

 アメリカのシリコンバレーを拠点としてコンサルタントとして活躍する梅田望夫さんの待望の本『ウェブ進化論』(ちくま新書)を今読んでいます。これはもう非常に考えるべきことがたくさんあって、ちょっと今まとまりきれないのですが、この本は今のネットや経済や社会を考える上での必読書である。さる2月7日に、筑摩書房主催により梅田さんと何人かのブロガーで「ウェブ進化論」発売記念イベントがあった。そのイベントの内容がテキストPodcstingで読んだり、聴いたりすることができる。

 そのイベントのログを読みながら、つらつら考えたことをメモってみた。以下は、その断片的な思考のメモである。

人がいて、人々が集団としてそこにある場合、どうしても個別の「人」ではなく「集団」としての思考なり判断なり行動なりが「生まれてくる」。そして、その思考なり判断なり行動なりは、なにを基準にして行なわれるのかというと、経験と情報であろう。経験はともかくとして、その情報はどこから得るのか。「マス(大衆)」は今日では存在し得ないと思う。では、なぜ「マス」は存在しているのか。それは「マス」にさせられてしまったのである。本来、個々にセグメント化されているのに、情報の提供側が個々のセグメントに対して情報を提供するというシステムがないため、今だに「マス」扱いされているのだ。「マス」相手の情報しか提供されないのだから「マス」になるしかない。--->この状況はどうすれば変わるのか。

テレビ、新聞よりは小さいマーケットになる週刊誌やネットが、個別相手の情報を提供していくことによって、マスコミの支配力は弱まるのではないか。

マスコミはなぜ「マス」しか相手にできないのか、「個別」を相手にするとコストの回収ができない、利益にならないからである。マスコミのビジネスモデルは「マス」を相手に商売をするようになっている。

ネットを体験している人と、そうでない人のものすごい断絶。---->掛け渡しが必要---->マスコミにはそれはできない----->ではどこが?

メディア業界人、広告業界人、IT業界人、教育関係者でどれだけの人がこの変化を理解しているか。

本屋へ行くと、こうやって読む本を探したり買ったりしているよりも、ブログ書きとかをする方がいいんじゃないかと思うことがある。インプットはやっていくときりがない。アウトプットの方が意味がある。アウトプットは、自分の人生の時間と労力という限りがある。

大きな本屋へ行くと、これらの本を全部読むのは、自分の人生の時間を全部かけても不可能だろうなと思う。知識の量は、人の生きている時間、脳の理解量を超えている。インプットはきりがない。それよりも、どの知識を学ぶべきか、編集が必要。

グーグルにまだできないのもの、アップルがやろうとしたナレッジナビゲーターみたいなものか。

Web2.0って、つまり「みんな、つながっている」っていうことか。

大学教育を根本的に変えなくてはダメ。

教育を変えなくてはならないことは誰もわかるが、ではどう変えるかで、昔の教育は良かった式なのはダメ。確かに教養は旧制教育の人は高かった。目標は教養があってITもわかる人であるが、大学4年間でそんな教育は無理。卒業後も学ぶことによって可能になる。つまり、大学教育を変えるということよりも、生涯の中で「教育」をどう行なっていくかを考える必要がある。

ようするに編集の問題なのか、コンテンツの問題なのか。永遠に解けない謎。しかし、ネットで誰もがクリエイターになれるのならば、少なくともいいコンテンツをクリエイトすればそれでいいわけではない。

昔、アドビがページミルを始めてリリースした時、マックワールドSFでのアドビのセッションで、老婆が熱心に質問をしていた。ごく普通のおばあさんなのだけど、このおばあちゃんはマックでウェブをやるのかと感動した。

誰もがクリエイターって、アップルの思想ではないか。

シリコンバレーは、その昔、サンノゼに行って道に迷って困りまくったことがある。


 以上、ほんのメモです。『ウェブ進化論』そのものについての感想や、Web2.0については、近日中に書きまとめたい。とにかく、ちょっと今、新しいネットの考え方をもとに、自分の知的生産の方法のもろもろを作り直しています。まるで、なんかこー大学生の頃に戻ったみたいな感じってゆーか。

February 05, 2006

『その場しのぎの男たち』

 先日、舞台版の『笑の大学』のDVDがあることを知り、渋谷や新宿のHMVや秋葉原で探したのだけどなかった。こりゃ店頭では手に入らんな、ネットで注文するしかないなと思いながら、なんとなくお店の棚を見ていたら、同じ三谷幸喜脚本で『その場しのぎの男たち』というのがあった。手にとって見てみると、なんと佐藤B作さんではないか、伊東四朗さんも出ているではないか。物語は、明治24年に起きた大津事件を題材にとっているという。これは観てみなくていかんと思い、早速買い求めて、自宅へまっしぐらに帰った。

 これはおもしろかった。舞台での佐藤B作さんを観たのは、前にNHKでやっていた井上ひさし脚本の『國語元年』という演劇で、これはおもしろい作品だった。その昔、僕たち日本人は各地の方言で会話をしていた。明治維新によって東京に新政府ができたが、この新政府は薩長土肥の諸藩の寄り合い所帯のようなもので混乱していた。この混乱の原因のひとつは、話言葉が違うということであった。そこで明治政府が行ったことは、全国的に統一した共通の話言葉を制定することであった。『國語元年』は、この全国統一話言葉の制定作業を命じられた文部省の役人の一家の喜劇なのだけど、これはおもしろかった。佐藤B作さんは、その文部省の役人を熱演していた。

 『その場しのぎの男たち』は、その佐藤B作さん主演ということであり、三谷幸喜の脚本ということで観てみたわけであるが、これもおもしろかった。

 大津事件とは、明治24年に起きたロシア皇太子暗殺未遂事件である。ロシアの皇帝アレキサンダー3世の長男であり皇太子のニコライは日本を訪問した。この一行が滋賀県の大津を訪れたとき、沿道で警備中だった津田三蔵巡査が突然サーベルで切りつけて負傷させるという事件が起きた。これには、日本中が騒然となった。なにしろ、次の皇帝を切ったのである。しかも重傷であった。ロシアと戦争にでもなろうものなら、この国は滅びることは明らかであった。このへん、歴史小説としては、シバリョーの坂の上でも、この出来事について触れているが、くわしく知りたいのならば吉村昭の『ニコライ遭難』がお勧め。

 こうした状況の中で、ホテルの一室を舞台とし、三谷脚本でおなじみのシチュエーション・コメディ(おなじみなのか、というといろいろ意見もある)が展開される。政界喜劇である。『その場しのぎの男たち』というタイトルがいい。松方正義総理大臣は、内相の西郷従道、外相の青木周蔵、通信大臣の後藤蔵二郎たちとともに、なんとかこの国難を脱しようと、数々とその場しのぎの対策打ち出すが、打つ手、打つ手がみんな外れていく。そこに佐藤B作の演じる陸奥宗光と伊藤四郎の演じる伊藤博文の駆け引きがあって、とにかくおもしろい。

 演劇は実際に舞台で観るのが一番いいのだけど、そんな時間がないので、こうしてDVDで観ているのだけど、それにしても演劇もののDVDって値段が高いよな。あー演劇を見に行きたい。

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