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November 22, 2005

なぜ、このようなことになったのか

 静岡県の16歳の女子高生が、母親にタリウムという毒薬を飲ませて殺害しようとした事件について考えている。考えてみるが、これは自分にはわからんかもしれないと思う。この事件は、どう理解すればいいのか。そもそも、理解という行為そのものが、この出来事についてありえるのだろうか。「親を殺してはいけない」とか、「社会が悪い」とか、いくらでも言えるが、なにを言っても、なにがどうわかるわけでもない。

 娘に毒殺されかかったこの母親は、この先、この娘をどう思えばいいのであろうか。この母親は、娘が毒殺しようとする程の悪い母親であったのか。それとも、ごく普通の母親と娘の関係であったのか。一時的な怒りなどの感情による衝動的な行為であったのならば、まだわかる。しかし、この事件はそういったたぐいのものでもないようだ。母親に対して強い憎しみがあったというわけでもないようだ。では、一体なんであったのだろう。この子にとって、母親とはどのようなものだったのだろうか。今後の報道で、これらのことが明らかになるのであろうか。

 この子は、タリウムの投与により苦しむ母親の様子を、自分のブログで書き綴っていたという。実際、そのブログの文章を読んでみると、かなり文学的な文章が書ける子であることがわかる。この子が書いた、次の文章を読んで、しばらく考えてしまった。

「そんな事は在りえないけれども、もし、一度だけ生まれ変われるとしたら、僕は植物になりたい。大きな喜びは無いけれど、代わりに深い悲しみも無い。」

 この子は、自分のことを「僕」と書いている。それはいい。よくあることだ。しかし、この「深い悲しみ」とは何であったのだろう。植物になりたいとはどういうことなのだろうか。つまり、動物であることの「深い悲しみ」があるということなのであろうか。では、動物であるということとは、どういう意味であろうか。なんとなくわかるような、しかし、わからないような気持ちになる。

 この子は、実験でかなりの動物を殺害しているようだ。この子にとって、それらの「実験」は必要なことだったのかも知れない。しかし、そのことについての命の意味を考えることはなかったのだろうか。この子は、化学の知識が高校生の域を超えていたという。では、化学の知識があるのならば、人も人以外の生物も、この宇宙において「同じ」であることを知っていたはずだ。その「同じ」存在でありながら、人は、他の生き物とは異なり、サイエンスという方法論を持ち、知識の探求を行うということについて、この子はどう考えていたのだろうか。人間が嫌いであるのならば、それでもいい。そうした時期を持つことも、心の成長には必要であろう。しかしながら、そうであるのならば、化学の知識を通して、この子は、なぜ生命や自然に目を向けることをしなかったのだろう。

 例えば、身近に理解ある大人や教師がいれば、この子は大学の理学部に進学し、将来は化学者の道を歩むことも可能であったのかどうか。

 なぜ、このようなことになったのか。この女子高生にも、明確にはわからないのではないだろうか。

 まるで、洞窟をのぞき込むと、そこに、どこまでも続いているような深い暗闇だけが見えるようである。その暗闇の前で、僕はたたずむしかない。しかし、その闇がそこにあるということは忘れないでいたい。

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Comments

母と娘の確執は最近増えているそうです。耐えに耐え、ある日突然、枕元に包丁を持ってたたずみ、衝動的に殺したくなるほどのギクシャクがあったのかもしれません(まだ解明されてませんが…)。有名人でも荻野アンナ、上野千鶴子、東ちづる、海原純子、伊藤比呂美…らが各々の確執を告白しています。映画「ピアニスト」や「アカシアの道」などの作品も母娘の葛藤が主題です。最近は「姑の圧力に黙って耐える嫁」なんて激減しています。そもそも、祖母・母・娘・孫…と続く女系家族で、学校も”女の園”卒の場合が多く、旦那&その親族は(傍から見ても失礼なほど)蔑ろ。ショッピングだ旅行だ…と異状なほどの”仲良し”親子が激増中です。それも裏返せば「親の気に入るルートだけを親の視界の中で歩いていろ」というがんじがらめの共依存関係に過ぎないそうです。この”母娘カプセル”に閉じ込められた娘達は、カプセル外に出て新たな人間関係を構築する力が弱く、見ず知らずの環境に飛び込む行動力も免疫力も乏しい。目も当てられない幼稚な大人の激増している時代。仲良し母娘に見えても「本当はわたしはこのように生きたいのだ」との思いを押し殺したままの娘達。それに鈍感な母親達。今後もどのような形であれ、ゆがんだ母娘関係が生み出す悲劇は爆発的に増えていくと思います。個人の思いを赤裸々に綴ったブログなどを見ても、いい年した女性の異様な幼さが目立ちます。哀しいですね。日本は今後、どこへいくのでしょうか…

Posted by: y | November 23, 2005 at 11:17 AM

この事件での母娘関係はどういうものであったのか、現時点ではわからないのでなんとも言えませんが、一般的に今の母娘関係はカプセル的状態になっていることは僕もよく聞きます。母親は娘にとって良かれと思ってやっていることが、娘にとっては結果的に独立した人格と意思の成長を妨げることになってしまう。

母親がなぜ娘を(無意識にせよ)カプセル的な状態においているのかということについては、夫との関係も考えなくてはならないのかもしれません。父親の存在があれば、この歪みが是正されるのかもしれません。しかし、父親の存在感というものは、もはや消滅していますよね。母親にとって、夫の存在はなきに等しいために、いつまでも娘との関係を持ち続けようとするのかもしれません。そして、人格的な成長がない娘たちが、やがて母親になって子供を育てるわけですが、ここでも様々な事件が起きています。

このタリウム女子高生事件は、娘にとって母親とはなにか、母親にとって娘とは何か、あるいはそもそも子にとって親とは何か、親にとって子とはなにかという、根源的な問題を提起していると思います。どうもマスコミは、この事件についての論評を避けているように思います。あまりにも異常な出来事だったので、なかったことにしたいのでしょう。考えなくてはならないことなのに。

Posted by: 真魚 | November 24, 2005 at 02:10 AM

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