なぜ、このようなことになったのか その2
前回の文末で、「洞窟の中にはただ深い暗闇があった、僕はその暗闇の前でたたずむしかない」うーむと腕を組みカッコよく文士を気どっていたら、BigBangさんから「なに気どっているんだよ」と背中を押されてしまった。うわっとと、と洞窟の中に前のめりに突き飛ばされてしまったワタシであった。思うに、不可解な闇を覗き込み、深遠なる暗闇がここにある、以上オワリ、なんて安易なことを書いていないで、しっかり考察せよとのBigBangさんからのお叱りなのであろう。
タリウムによる母親殺害未遂事件について、さらに考えたい。
しかし、さらに考えると言っても、この事件についての報道がさっぱり途絶えてしまった。今現在、広島市で起きた小1女児殺害事件の報道に関心が集まっている。毎日のように、こうした事件が起きているのだ。衝撃的な事件が起こり、なぜこんなことになったのだと考える。しかしなんかよーわからんな、と思っていると、次の新しい衝撃的事件が起こる。これの繰り返しである。こうして、僕たちは、なにかがどんどん麻痺していくのだろう。
とりあえず、ネットから入手できる断片的な情報をもとに考えたい。どうやら、酢酸タリウムは医学的な検査では検出できないそうだ。つまり、この事件が発覚したのは、兄の証言があったからでもあろうが、警察がタリウムを使ったということがわかったのは、押収品とプログの記述によるものであったのではないかという声がある。通常の血液検査は、有機化学に基づいて行われるという。酢酸タリウムは無機化学に分類され、有機化学を前提とした通常の血液検査では引っ掛からないそうだ。つまり、押収品とブログからタリウムらしいということがわかり、その検査を行ったところ確かにそうであったということではなかったのかという推測がある。こうなると、事前に部屋の中の薬品類を隠し、プログでの記述などしていなければ、この事件の犯罪が立証されることもなかった。しかし、そうした感覚はまったくなかったようであるということは、そもそもこの子には犯罪を行っているという意識すらなかったのであろう。
この事件のわかりにくさとは、一体なんなのだろう。
例えば、タリウムという聞き慣れない毒薬を扱うことができる程の化学知識を用いて殺人を犯そうとしたということであろうか。しかしながら、科学技術の悪用は、現代文明がよくやっていることである。いまさら、化学知識が悪用されたということで驚くことはないであろう。
あるいは、子供が母親を殺害しようとしたことであろうか。しかし、親が子を殺すことはある。最近も2000年7月に、奈良県で准看護婦であった母親が、高校1年の長女を毒殺しようとした事件があった。これは、長女に多額の保険金をかけており、その保険金欲しさの犯行であったとされている。であるのならば、その逆の子が親を毒殺しようとすることもあってもおかしくはないはずだ。
つまり、「家族だから」では、解決できないことがあるということなのであろう。ちょっとややこしい文章になるが、親は「親なんだから」親であると子に対して接するが、子供の側からすると、この「親なんだから」私はオマエの親であるとする思考そのものが納得できないのではないかと思う。子供からすれば、親だから親なのだという顔をして自分の前に立つことはやめて欲しいと思うのではないか。そうではなく、親なのだから、親たるなにかを自分に示して欲しい。自分の理想とする親のイメージがあり、かくある親であって欲しいと思うのではないか。その反面、親に依存する部分もあり、その時は無自覚的に「親は親なのなのだから、そうしてくれるのは当然だ」という甘えもあるのが、この時期の子供ではないかと思う。
しかし、親の側からすれば、神ならぬ普通の凡人である。親たるなにかを示せと言っても困るだけだ。自分はお前の親である。これ以外の、いかなる理由もないであろう。
親が子を選ぶことができないように、子も親を選ぶことはできない。大人としては、子供がどう思うとも、親であるのだから、親として子供に接するしかない。しかしながら、子供の側は、これを納得できるか、できないかは、子供によって様々であろう。この世の中には様々な社会関係があり、親子関係もまた社会関係の中のひとつであるということを、子供の側も理解できていなくてはならない。しかし、社会性とは身につけるものであって、最初から持っているものではない。10代の後半あたりから、人は個人的な自我を持つようになるが、この個人的な自我にとって、当面の目の前にある家族ほど、じゃまなものはないであろう。
こうした事件が起こるたびに、家族の重要さを指摘する意見が多い。「家族の絆が大切だ」とか「親の教育が重要だ」とよく言われている。しかしながら、家族が心の問題のすべてを解決するわけではない。どんなことをしても理解しえない夫婦、子供の家庭内暴力や非行に困惑する親、その逆に親の暴力や横暴に苦しむ子が数多くいる。「家族である」ということだけで、すべてが解決するわけではない。家族の中にいるが故に、ますます心が疎外していくということもある。こうなると、家族は精神の牢獄になるであろう。これは、周囲の家族の誰が悪いわけではない。ただ本人の個としての内面世界と社会的現実が極端に乖離していることによるものなのである。
そして、個としての内面世界と社会的現実が乖離していることは、程度の差こそあれ、今の時代、誰にでもある。この子の場合は、たまたまその乖離の度合いが、ものすごく大きかっただけなのだと思う。その乖離の果てに、この子が持った内的世界は、依然として僕にとっては闇である。僕にできることは、この子の置かれた状況や内面を想像するだけだ。
必要なことは、それが不可解な闇であるか、理解し得る闇であるかではなく、かりに不可解な闇であったとしても、その不可解な闇を、不可解な闇のままで包括するイマジネーションではないかと思う。君の気持ちはわかるよ、だから、一緒にいよう。ではなく、君の気持ちはわからない、でも一緒にいよう、ということが、今の子供たちに対して求められる態度なのではないか。共感とは、自己と相手の類似点をもって共感することもあるが、それ以上に、自己と相手との相違点をもって、なおかつ共感する方が、はるかに深い共感なのではないだろうか。今の社会に欠落しているのは、この異質なものへの共感する力である。
Recent Comments