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October 2005

October 23, 2005

『攻殻機動隊』の「S.A.C」と「2nd GIG」を考える その1

 雑誌「ユリイカ」10月号の特集は『攻殻機動隊』であった。『攻殻機動隊』というこの注目すべきアニメについて、いつかまとめて書いてみたいと思っている。

 去年の夏コミで押井MLの同人誌に『機動警察パトレイバー2』について書いたが(その時の原稿はこちらを参照)、今年の夏コミではなにも書いたものを出さなかった。ボチボチ『イノセンス』についてなんか書こうかなと思い、「人間機械論」や球体関節人形などについて何冊か本を読み始めてみたものの、どーもノリが宜しくない。というか、はっきりいって押井監督のこれまでの作品から見て、『イノセンス』はなんかこーいまひとつの感がある。『イノセンス』の前作の1995年の劇場アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』ですら、今の時代状況から考えると、なんか合わない感じがしないでもない。

 『GHOST IN THE SHELL』は、ネット時代の「実存」や「主体」を扱っているが、今から思うとあれは60年代から80年代の現代思想の進展を背景にしていたと思う。よって、9.11から始まった21世紀の社会と思想の展開には、当然のことながら対応していない。そりゃあ、まー、情報通信技術としては、今でも十分通用する先駆的作品であるが、国家論や社会論から見た場合、今の状況に合わなくなっている。だからこそ、『GHOST IN THE SHELL』の続編にあたる『イノセンス』は、現代を反映したさらにサイバーな(サイバーなって何?)テツガク的作品になるのではないかと期待していたのであるが、実際の作品は、そうした期待を見事に壊してくれて、これはこれでまあいいんじゃないスかという、ある「境地」に到達した優れた作品であった。そもそも、タイトルの「イノセンス」って何だったのだろうか。あれをつけたのは、ジブリの鈴木Pだったという。ここで、『イノセンス』における鈴木Pの存在は結局何であったのかと考えてみたいがやめる。いずれにせよ、9.11以後、「パト2」が描いたバーチャルな戦争ですら時代遅れのものになりつつある現代の戦争について、どう考えるんですか押井監督と言いたいところであったが、監督は東京を離れて犬と余生を静かに暮らしたいというので、もはや何も言うまい。

 ところが、プロダクションIGには押井守の弟子が育っていたのだ。『GHOST IN THE SHELL』や『機動警察パトレイバー2』で押井さんが捉えようとしていたものを、若い後継者が受け継いでいたのである。プロダクションIGの『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』こそ、2000年の『パトレイバー』であり『GHOST IN THE SHELL』であったのだ。よっしゃあ、「S.A.C」およびその第2シリーズ「2nd GIG」について考えてみよう。というわけで、今後、断片的にではあるが、この題材をもとに現代社会を考えていきたい。

 余談になるが、宮崎駿は宮崎駿でオワル。スタジオジブリには、宮崎さんを受け継ぐ後継者が育っていないように見える。いい若手が育っていない。宮崎さんと鈴木Pが前面に出過ぎ。宮崎駿の後のジブリは、果たしてどうなるのであろうか。

 さて、「S.A.C」について、やはりまず考えるべきことは、戦争についてであろう。今の状況は、誰もが言うように、戦争状態が常態化してしまった世の中になりつつある。「ユリイカ」10月号の中で、東浩紀は「S.A.C」を作った神山健治との対談の中でこう語っている。

「かつては、常態(=法律が守られている状態)と非常事態(=法律が守られない状態)があって、非常事態には越権行為で戦車が民家に突っ込んだりしてもいいという話になっていた。ところがいまは、テロが起きる可能性ということを言い出すと、すべてが非常事態化する。いままでは違憲だとされた脱法行為も、緊急避難という概念が全面化することによって、あらゆる場面で恣意的に実現されるようになる。その恣意的な実現に対して、旧左翼的な人たちは、それは違憲であり、脱法行為だと批判するわけだけど、相手は「おかしいことはわかっています、でも非常事態ですから」というロジックで来ており、有効な抵抗とならない。これは要するに、近代主義的な法治国家の発想が、9.11以後機能しなくなっているという話でもあるわけです。」(東浩紀)

 これを読んで、なるほどと思った。今の時代は、国家が行うことは、それが違法行為であったとしても、違法行為であるが故に批判してもなんの批判にならない(ただし、これはあくまでも国家が行う行為のみであって、国民が行う行為には法の遵守を要求される)。よって、例えば「共謀罪」について、これを人権の観点から否定しても、これが人権を無視する可能性があることはわかっている、しかし今は非常事態なのであるの一言で押し切られてしまうのであろう。いわば、今の状況は政府そのものが確信犯なのである。これが違法であることを知っていて、なおかつやっているのが今の政府なのだ。すでに崩壊している年金制度や保険制度を、まだ大丈夫であるとし、国民に年金や保険金の支払いを続けさせているのを見てもそうであろう。確信犯に、法を説いても意味はない。むしろ、「今は非常事態なのである」「だからなにをやってもいい」という認識そのものを問わなくてはならない。

 おそらく、もはや国家と国家が行う全面戦争というものは、少なくともこの日本ではもう行われないのではないかと思う。現代の国家がその権力を強固なものにしようとしているのは、実際のところ国家とはなんの実体もないイマージナリーなものであるという真実を人々は感じ始めているからである。国家の求心力が解体し崩壊しつつあるからこそ、国家は国家であることを強調しようとしている。と同時に、これまで、体制従順であろうと反体制であろうと、国家の枠の中に置かれていた国民の心理が、イメージとしての国家の崩壊に直面した今、従来の国家のようなシンボルを求める意識もある。いわゆる、プチ・ナショナリズムとはそうしたものではないか。

 しかしながら、国家が国家であろうとすることが、さらに国家と人々の間を乖離させ、国家というものが今の時代にそぐわないものであることを逆に露呈している。近代以来、国家が行ってきた様々な機能の破綻が今起きている。つまり、国家は国家であることの正当性も優位性もなにもないということなのだ。行政や軍や警察が対応できる問題には限度がある。麻薬事件が明るみになった今の自衛隊に対して、自衛隊を民営化せよという声が出ないのは不思議だ。誰のための、何のための自衛隊なのか。「共謀罪」が守ろうとするものは何であるのか。より深いラディカルな問いかけこそ、今求められるものなのだろうと思う。この問いかけこそ、かつて押井守が持っていたものであり、その後継者の神山健治の「S.A.C」にはそれがある。

October 17, 2005

『レディ・ジョーカー』を見て読む

 少し前のことになるが、映画『レディジョーカー』がいいというので、近所のTSUTAYAで借りて見てみた。小説の映画化作品なので、話の内容がいまひとつよくわからない部分が多かったが、それでもシリアスな緊張感とこの社会への憤りが凝縮した映画であった。一見、社会的弱者が強者を陥れ、社会に混乱をもたらす復讐を行う物語であるかのように見えるが、実際のところ誰もが、この日本社会という(オランダのジャーナリストのK.V.Wolferenがいう)「人間を幸福にしないシステム」の中で、人としての脆さを抱えながら必死で生きているということだけなのだと思う。この犯罪には、被害者も加害者もない。そして犯行が成功した後も、社会の矛盾への憤りは解消されることもないという物語だった。

 出演している役者が、岸辺一徳さんや國村隼、大杉漣、吹越満、長塚京三といい役者がそろっていて、渡哲也も吉川晃司もいい演技しているじゃあないですか。というわけで、コレハ原作を読まなくてはならないと思い、高村薫の原作本を買ってきて読んだ。分厚い上下2巻で、しかもページは上下2段になっていて、かなりの長編小説であるが、電車の中などで読み続け、つい先日読み終わった。映画の方もレンタルで何度も借りるのは面倒になってきて、とうとう渋谷のHMVでDVDを買ってきて真夜中に寝る前に少しづつ何度も繰り返し見るというハマリ度であった。

 原作を読むと映画の話の展開がよくわかるようになった(あたりまえか)。確かに、映画の方は原作のかなりの部分をカットしているが、これは映画化として当然のことだ。しかし、社長誘拐事件を起こさざるえなかった各人の心情を映画は十分に表現していたかというとそうでもなかったと思う。これは映像による心情の表現は映像より小説の方が向いているということであろう。映画の脚本は良く出来ていたと思う。

 最近流行の保守的な考え方では、社会的弱者とは、その人本人の自己努力と自己責任が云々という話になるが、そう言い切れるものではないということが、この小説を読むとよくわかる。保守主義の思想の根本には、簡単に言えば、人は個として自由であり、その自由意思に基づく判断をする。従って、その判断による結果はその個人が受け止めるべきである。だから世の中が悪いとか、社会が悪いとかガタガタ言うのではないという考え方がある。しかしながら、この日本社会のどこに「個としての自由」があるのかと思う。1984年に起きたグリコ・森永事件をモチーフにしたというこの物語は、日之出麦酒という麦酒メーカーの社長誘拐事件を中心にして、差別問題、警察内部、マスコミ内部、総会屋と政治家、在日朝鮮、株式市場などの闇の部分、裏の部分を克明に描いている。自分の知っている世界は、ほんの小さな一部の世界であることを知る。

 警察組織の中で個であることを忘れまいとする合田刑事よりも、日之出麦酒の社長城山恭介が組織人と個人の間で葛藤する姿が良く出ていたと思う。この事件が、昭和23年の日之出麦酒神奈川工場での解雇に始まっているのならば、そんな昔の出来事の責任を取る義務はないの一言で済ますことができるかもしれない。しかし、日之出麦酒の社長であるということと、自分の姪がこの犯行事件の遠因になっていることを知り、企業人ではなく、人としてこの家族の出来事にどう対応したのか、この時のことがこの企業脅迫事件を招いたのではなかったと考える。企業人でありながら、誠実さと内省さとを持った城山を長塚京三が演じていたのはいいキャステングだったと思う。長塚京三は、この映画と同じ監督の『ザ・中学教師』でもいい役者だった。城山恭介の内省さが、このどこまでも重く暗い物語の中での救いだった。

 50年前、日之出麦酒を解雇された物井清二の無念さとその背後にある貧困と差別の問題は、かつての時代ならば社会主義者が世に主張していたであろう。だが、今の平成日本では、社会主義イデオロギーはもはや社会的勢力とはなりえない。しかしながら、いわゆる社会の矛盾というものは、今日に至るまでなんら解決していない。ならば、今の時代は誰がそれを世に主張するのであろうか。もちろん、社会の矛盾は解決することはない。しかし、この社会には矛盾があるということすら、もう誰も言わなくなったではないか。言うことすらムダだというのであろうか。矛盾を矛盾だと感じ、その矛盾の中で生きているという自覚と怒りと哀しみを持つということすら、今の時代は必要ないというのであろうか。

 しかし、小説『レディジョーカー』がかなり売れたことを考えると、そうでもないということがわかる。映画を見て、小説を読み終わった今、重い気持ちの中でそう考える。

October 06, 2005

ようするに憲法なんてどうでもいいのであろう

 靖国参拝が合憲か違憲かという論議は別として、少なくとも大阪高裁判決という我が国の司法機関が「違憲である」と決定したことに対して、総理大臣たる者が「私の靖国参拝が憲法違反だとは思っていない。」と開き直るのを見て、この国の政府は、つまりは憲法というものをあまり重く捉えていないということがよくわかる。

 以前も書いたことであるが、この国の政治家は憲法はどうでもいいものだと思っている。自衛隊について考えていくと、そのことがよくわかる。だから、憲法改正してなにをどうこうという話を聴いても、そもそも憲法を遵守しようというつもりも意識もないのに、この人たちは何を言っているのだろうかと思う。もはや覚えている人は少ないであろう非核三原則にしても、一連の金融問題処理にしても、イラク派兵にしても、この国は何でもかんでも超法規的処置なのである。

October 04, 2005

iPod60GBは大きかった

 昨日書いたiPodの続き。軽くてスリムで薄型の最近iPodが欲しい、でも大容量じゃなきゃいやだということで、60GBのiPodに買い換えたわけであるが、なんとなくこれも前の40GBのiPodと同様の「石けん箱」みたいな感じなんじゃないかということに気がついた。つまり、大きさとしては、なんか全然変わらんわけですね。少しばかり薄いような気がするけど。

 しかしですよ。液晶はカラーだし、ホイールを動かすとバックライトは光るし。多少は分厚くても、やはり最新のiPodなのだ、と思うことにしよう。

 ところがだ。ここに注目すべき情報を発見した。アップルの未確定情報を事前にすばやく公開することで有名な情報サイトのAppleInsiderがなんと、今月、東芝のハードディスクドライブを使った40GBと80GBのiPodが出るかもしれないという情報を出していた。しかも、ビデオ再生機能もついているという。

 もしこれが真実であるのならば、前回、PowerBookがそうであったように、ワタシのiPodもまた買ってすぐに旧機種になってしまうのであった。さて、いかなることになるであろうかつーか、この情報に気がつかずiPodを買い換えたワタシは一体・・・・・・。

October 03, 2005

iPodで読書

 ようやく休みの取れた日曜日、秋葉原へ行ってiPod60GBを買ってきた。ろくじゅーぎがバイトである。ここ数日間、買おうかな、どうしようかと考えていたのであるが、えーい買ってしまえと買ってしまった。

 これまで、旧機種のiPod40GBを使い続けてきた。このiPodは2台目で、最初はiPodが販売された当時すぐに買って、たしか数ギガしかなかったと思う。数年後、今の40ギガのものを買った。ところが、最近どーもバッテリーの持ちが悪くなってきたような気がする。大体、約3時間ぐらいは使っていると、もう「バッテリーがないから早く電源をつなげよ」という意味のメッセージが表示されるのである。約3時間持つのならば、通常の通勤の行き帰りの電車の中で聴くのは十分にまかなえるが、出張となるとそれなりの長時間を電車の中で過ごすことになる。こうなると、行きの電車の中では聴けても、帰りの電車の中ではバッテリー切れになることが多い。「電源につなげよ」と言ったって、電車の中でどうせよというのだとオロオロしていると、そのうちiPodはすとんと電源を落として、それっきりになってしまうのである。

 アップルのiPodは、SONYのウォークマンを遙かに凌駕する最強の音楽デバイスであるが、唯一の弱点はバッテリーの使用時間が短いということであった。こうした出先でiPodのバッテリーが切れてしまうと、ワタシなどは、ううっ音楽が欲しいという音楽禁断症状になる。電車の中で座っているのならば寝てしまうという手もあるが、立っている場合は、なにをするわけでもなく、ただぼんやりと立っているという状態になる。本を読むという手もあるが、iPodがあるから電車の中で読む本を持っていない。しょーがないので、つり革広告でも漫然と眺めるしかないのであった。これはイカン、なんとかせねばならないと思っても、iPodのバッテリーだけ売っていることはなく、うーむ、これは新しいヤツを買ったるかと思い続けてきた。

 その昔、iPodがこの世に出現した当時は、世のワカイモンは電車の中ではみんなMDやCDで音楽を聴いていた。Podなんか使っているのは一部のマックユーザーぐらいであったが、今ではiPodを持っている者はいたる所で見ることができる。しかも、みなさん、最新のiPodなのでスリムで薄いタイプなのである。僕のiPodはどってりとしていて、まるで石けん箱のようだ。この「石けん箱」の機種が出た当時は、このサイズで40GBなんて驚いたものだったのだけど、最近発売されたnanoにいたっては4GBで6.9mmという薄さだ。nanoを持っている人はまだ見かけたことはないが、最近のiPodはどれも薄い。電車の中で、薄くて軽いiPodを持っている、これまたスリムな体型のワカイモンやOLのお姉さん方を見ていると、「石けん箱」のiPodを持って、もはやオジサンの体型になってしまった我が身を省み、なんかこーカナシクなるものがあるのであった。

 それに、日本でもiTunes Music Storeが本格的に展開し初めて、かなり結構気楽にダウンロードをするようになった。これまで、近所のTSUTAYAでレンタルCDを借りるか、HMVやタワーレコードへ行って買っていたものが、例えば寝る前にちょっとMusic Storeにアクセスして、何曲か視聴して、おっこれはいいなとポチッと購入ボタンを押してしまうのだ。こんなことをやっているので、次第にiPodのディスクスペースがなくなっていく。40GBでは足りなくなってきた。もっと大きな容量が欲しい。

 と、上記のようなことを漠然と思っていたのであるが、そのうち、コレハやはり60GBぐらいの大容量のiPodにしなくてはならないと思うことがあった。iPodを音楽を聴いたり写真を見たりするデバイスだけではなく、映像を見たり文章を読んだりすることができるツールとして捉えることができるということを、オールド・マックユーザーの世界では有名なマックの伝道師でライターの大谷和利さんがネットで書いていたのを読んだ。言われてみればなるほど、iPodは新しいブラウジングスタイルをもった電子本のプラットフォームだったのだ。

 近年、電子本へ注目が高い。元々、パソコンで「本のように」テキストを読もうということから始まった電子本は、当初あまり普及することはなかったが、携帯電話でテキストやアニメを見ることができるようになった今日、新しい読書のスタイルとしての可能性を期待されるようになってきた。しかしながら、僕個人としてはケータイで「本」を読むのもなんだかなあと思ってきた。

 ところが、である。iPodで「本」を読むというのは、なんかアリなんじゃあないかと思うようになってきた。このへん、アンタはマックに対する思いれが激しく、アップルの製品ならなんでもかんでも革命性を感じるからそう思うのであろうと言うのならば、確かにそうですとしか言いようがない。しかし、そうであったとしても、iPodのあのシンプルな操作性はすごいではないかと思う。PDAにせよ携帯電話にせよ、とにかくめったやたらと機能がついて、なにをどうすれば、なにがどうなるのかさっぱりわからないではないかと思う。製品の進歩とは、機能やデザインの向上だけになっていて、機能が増えるたびに操作性はますます複雑になっていっている。これに対して、iPodは音楽を聴く機能に、デジタル写真を見ることができる機能が追加された。しかしながら、操作性は初期の頃と変わっていない。

 株式会社ボイジャーという、本を紙の上ではなくパソコン上で読むという電子出版に早くから取り組んできた会社がある。ここで、最近新しい試みとしてazur(アジール)というソフトをリリースした。「青空文庫」というサイトでは、版権がなくなった夏目漱石、森鴎外、芥川竜之介などの作品をテキストにして、自由にフリーでダウンロードできる。このテキストデータを一度パソコンにダウンロードして、次にazurを使ってデータを変換し、iPodやSONYのPSPやシャープのザウルスに送り、それらの機器でテキストを読むことができるようになる。DoCoMoやauのメモリスロット付き携帯電話でもこれは可能だ。

 ただのテキストの表示ならば、azurなんかなくたってできるじゃあないかと思うかもしれないが、「ただのテキストの表示」はフォントが美しくない。ヒラギノ、秀英明朝体などの美しいフォントで表示されたテキストが、それらの携帯デバイスで表示されるのである。つまり、テキストではなく、「テキストが美しく表示されたページ」そのものを画像データにしているのだ。本とは、ただのテキストデータの羅列ではない。ページのレイアウトやフォントがあって、人が読みやすいものになっている。「ただのテキストの表示」では「本」にはならないのである。このことはつまり、azurは電子出版のためのツールと言えるだろう。ボイジャー・ジャパンは、azur以外にも電子出版のための新しいツールを開発・販売しており、そうした製品を通して僕たちもまた電子出版の時代の黎明を感じることができる。志のある出版社である。昔は、マック用のソフトを作っている会社には、こうした志のある会社が多かった。今では、ボイジャー・ジャパンなど数社しかなくなってしまったように思う。

 さっそく、僕もPowerBookにazurをダウンロードして、買ってきた新しいiPodに青空文庫から寺田寅彦の「科学と文学」と夏目漱石の「現代日本の開花」のテキストデータを入れてみた。読んでみると、フォントはきれいで読みやすい。ページが小さな文庫本を読んでいるような感じがある。寺田先生も漱石先生も自分が書いたものが遠い遙かな未来の世にこうして読まれようとは思いもよらなかったであろう。

 このように、iPodにはさまざまなメディアの可能性があると思う。大谷和利さんが書いているように、映像とテキストが融合したメディアのプラットフォームとしての可能性もある。大谷さんも書いていたが、ミュージシャンがiTunes Music Storeで音楽を販売して、Pod Photo Booksでライナーノーツを提供するというのはいいアイディアだと思う。実は、iPodにはもうひとつPodcastingを使った新しいメディアの可能性もある。このへん、「初めにカネ儲けありき」のビジネスではなく、「初めにコンセプトありき」の志あるビジネスとしての展開も可能なのではないかと思う。資本主義とは、ユーザの需要(ニーズ)に対応した、いわゆる「売れる商品」を提供することによって利潤を得る経済システムであるだけではなく、ユーザにあるべき未来の方向性と可能性のようなものを情報や製品として提示する経済システムでもあるはずだ。アップル・コンピューターはそうした企業であり、アップルの出す製品のコンセプトに共感し、アップルの製品を使って、さらに遠くの未来を模索するボイジャー・ジャパンという会社もまたそうした企業のひとつだ。

 iPodを手にとって、そこにazurで変換された100年前の人々の文章を読む。その文章の合間に、これからの100年に成していかなければならないことをかいま見る。どうやら、僕たちはなにものかの継承の流れの中にいるようだ。

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