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August 15, 2005

もうひとつの靖国神社

 靖国神社と言えば、僕たちは「英霊」を祀る場所であると思う。そこは国家神道の場であり、国家と宗教が一体化したイデオロギーの場所であるというイメージがある。そして、毎年8月15日が近づくと閣僚の公式参拝が論じられ、中国や韓国からの糾弾の声がわき上がる。8月15日当日の靖国神社は、どこから集まってきたのかと思うほど数多くの右翼のお兄さんの方々と、それを取り巻くように監視するこれまた数多くの機動隊のお兄さん方でごった返す。まこと、靖国神社をめぐる物事は、ややこしく騒がしい。

 しかしこれだけは確かなことだろう、保守派の方々も、サヨクの方々も、そして僕たちみんな、靖国神社を国家と天皇のために戦死した戦死者をカミとして顕彰する神社であると考えている。それは、靖国神社が創建以来、明治、大正、昭和と変わらないものであったと考えている。そこから、靖国神社をめぐる様々な物事が始まっていると言ってもいい。

 でも、本当にそうであったのだろうか。これまで僕も、靖国神社は国家神道のイデオロギーの場だと思っていた。しかしながら、坪内祐三『靖国』(新潮文庫)を読むことにより、それが間違いであることを知った。本書では、このように書いてある。

「明治から大正、そして昭和にかけて、「天皇」という、きわめて多面的な意味を持つ「機能」が、ある種の人々によって利用されて行くにつれ、靖国神社も、その初期から少なくとも明治末年ぐらいまで持っていた、様々な可能性、空間としての可能性が狭まれて行ったのである。そして、それは、現在にまで至っている。今、靖国神社を問題にする人は、賛否両陣営共に、イデオロギー的なことしか問題にしない。」

 つまり、イデオロギー的観点以外の靖国神社があった(し、今でもあるはずだ)ということだ。例えば、明治の頃、靖国神社では、しばしば来日してきた外国のサーカス団の興行があったなどということは、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論』(幻冬舎)にも書いていなかったし、高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)にも書いていなかった。サーカスなどというお遊びが靖国神社で行われていたことなど、保守にしてもサヨクにしても「あってはならないこと」なのであろう。しかし実際のところ、靖国神社は軍国主義のイデオロギーから落ちこぼれた少年たちにとっての楽しい遊び場だったのである。

 明治2年、東京招魂社(後に靖国神社と改名)は九段に創建された。この地を選んだのは、倒幕戦での官軍の指揮官であった大村益次郎である。戊辰戦争での戦死者を祀る施設として作られた東京招魂社は、もともと上野が候補地であったという。しかし、上野は官軍と彰義隊が戦った場所であり、いわば「賊軍」の魂がさまよう場であった。こんな邪霊を祀るわけにはいけないということで、上野は候補地からはずされる。そして、火除地であり、旗本や寄合衆等の騎射場であった場所に創建することとした。この場所なら、因縁や地霊があるわけでもなく、つまり、これから人工的に霊的な施設を作るには最適の場所であった。古代から連綿と続く天皇制の聖地のようなイメージのある靖国神社は、江戸の武士たちの訓練場だったのである。

 大村がこの地を選んだもうひとつの理由は、もともと山の手と下町に分かれていた江戸を、九段坂上を中心にして、その双方の地域を統合した「東京」という新しい都市に生まれ変わらせるためであった。本書の中でも書かれているが、神保町から靖国通りを九段方向へ歩いていくと、九段とは高台にあることがよくわかる。目の前の九段の(坂の上の)その向こうは(見えるわけではないが)山の手であり、さらにその向こうに皇居がある。振り返れば、(坂の下の)神保町の向こうは(見えるわけではないが)神田があり、浅草がある。つまり、下町が広がっているのである。

 明治5年、灯明台ができる。もととも神社の燈台は、今日の灯台の役割を果たし、洋上の船にとって目印になっていた。それまで江戸(東京)湾の漁師たちの目印は、神田明神の燈台であった。以後、東京招魂社の灯明台が、房総沖から日本橋の魚河岸へ向かう漁師たちの目印になったという。この灯明台は今でも残っているが、和洋折衷のハイカラなデザインであった。この頃から、それまで訪れる人は山口(長州)や鹿児島(薩摩)の人ぐらいだった閑散としていた神社が、いちやく有名な場所になったという。なんと、信じがたいことに、ここで競馬や運動会が開かれたこともあったのだ。サーカスがよく行われていたことは先に述べた。明治26年、東京に最初に登場した大銅像である大村益次郎の像ができると、靖国神社は東京名所にひとつになった。奉納相撲もよく行われていたという。日露戦争の後などは、九段下に日本軍の活躍をパノラマで展示する巨大な見せ物施設ができ、たいへん好評だったという。つまり、靖国神社はにぎやかな見せ物空間でもあり、民衆の遊興の場であったのだ。今日の靖国神社のイメージからは、とうてい想像できない光景が実際の靖国神社にはあった。

 初期の遊就館の設計は、お雇い外国人であったイタリア人美術家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティである。この建築は、後の大正12年の関東大震災で大破し撤去されてしまったが、鹿鳴館以上の欧風文化の建築であったという。これは何度も強調したいことであるが、今の靖国神社は、やたら古風な純日本的な神社の装いをしているが、そもそも靖国神社は、このように欧化の雰囲気が満載したモダニズムの場所でもあった。神道という宗教とモダニズムが奇妙にマッチしているのが明治時代であった。本来、カミがいる聖なる場である神社の内部は、物産会と博覧会と博物館と美術館と見せ物小屋で連日賑わう、自由でモダンでハイカラでアナーキーでアジールな空間であったのだ。神官ですら、初期の東京招魂社には置かれていなかった。神官が置かれたのは、西南戦争以後の明治12年からである。それまでは、儀式は陸海軍の将官がやっていた。

 ここで、靖国神社への公式参拝について考えたい。本書では、以下のように論じている。

 そもそも、戦後の靖国神社への総理の公式参拝は、昭和26年の吉田総理から始まり、佐藤栄作、田中角栄も参拝している。ただし、彼らは8月15日に参拝したわけではない。なぜならば、8月15日というのは靖国神社にとっては特別な日ではないからだ。8月は年中行事がある月ではない。夏の行事は、7月のみたままつりぐらいである。靖国神社の御霊を慰霊する祭りは、春と秋の大祭と月に三回行われる月次(つきなみ)祭しかない。だからこそ、吉田総理も佐藤総理も田中総理も、春と秋の大祭の方に公式参拝していた。

 そうした慣習であったのに対して、あえて8月15日に参拝をしたのは、昭和50年の三木総理である。しかし、さすがに8月15日に参拝するのは、憲法にひっかかると思ったのか、「私人」としての参拝だとしていた。以後、総理の「私人」としての8月15日参拝が続く。では「公人」として8月15日に公式参拝をしたのは誰かというと、昭和60年の中曽根総理である。「公人」として参拝する、しかし憲法違反にならないように、中曽根総理は神社側に「手水は使わない」「祓いは受けない」「二礼二拍手はしない」と伝えた。しかも、拝殿の中での移動にも、両側にボディガードを連れていた。この無礼さには、靖国神社側は怒る。そして、この時期から中国と韓国からの靖国神社参拝への糾弾が始まるのである。

 上記のことは、先日ここで書いた戦後のメディアが8月15日を「終戦の日」と定めたこととも関連する。つまり、戦後日本では「靖国神社」と「8月15日」がひとつになることにより、大東亜戦争を「慰霊」や「鎮魂」のスタンスでしか捉えないようになり、靖国神社は大東亜戦争での戦死者しか扱っていないかのようなイメージが確立してしまった。

 そもそも、靖国神社は東京招魂社以来、幕末の戊辰戦争の戦死者から祀られている場であって、大東亜戦争での戦死者だけの場ではない。しかし、8月15日に参拝するとなると、必然的に大東亜戦争での戦死者への慰霊になってしまう。だが、本来の春秋の大祭への参拝に戻れば、大東亜戦争での戦死者だけではなく、幕末・明治維新、西南戦争などでの戦死者への慰霊という意味にもなる。こうなると、中国と韓国からの非難は成り立たなくなるであろう。

 本書『靖国』を読み、いかに自分は過去の時代を知らなかったかということを知った。靖国神社は、政治的イデオロギーの対象だけではなく、もっと広く柔軟に見る視点があったのである。昭和36年、力道山が奉納プロレスをやっていたということすら知らなかった(そりゃ知らんよな)。見せ物空間的雰囲気は、今の靖国神社にも少し残っているように思う。

 これからの靖国神社は、東京招魂社の頃に戻るというのはどうであろうか。今の僕たちが持っている靖国神社のイメージは、ある時代以後の作られた政治的イデオロギーのイメージであって、少なくとも明治の頃の靖国神社はこうではなかった。靖国神社は、もっと自由で豊かでハイカラな場所だったのだ(平成の今の時代で、ハイカラってナニ?という気もしないでもないけど)。そうした自由な頃の靖国神社に戻ることはできないのだろうか。イデオロギーでがんじがらめに凝り固まった靖国神社を、もっと広くて柔軟で大きな枠組みで考えることができないだろうか。60年目の8月15日、僕はもうひとつの靖国神社についてそう考える。

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Comments

真魚さん、こんにちは。

今年の8/15の参拝者数は20万人ですって?!し、信じられん・・・真魚さん、今年も“参拝ナシの見学”決行されたのですか?例年と違った雰囲気、ありましたか。報道では若い人が多い、とのことでしたが。

私は例年通り、墓参りと称した墓掃除・・・さほど暑くなかったのが救いです。

参拝なしの見学とは、しっ失礼な(笑)今年は15日は休まず仕事をしていたので、その前日の14日に行きました。ちゃんとお参りしましたよお、二礼二拍手はしなかったけど(それじゃダメじゃん)。14日でも、若い人は多かったです。

あ、だってー、真魚さん「行くけどぼうっと見てるだけ」って言ってたじゃないですかア・・・でも二礼二拍手って難しいですよね、なんかやるたびに照れてしまうのは私だけでしょうか。

>14日でも、若い人は多かったです。

そうですか。単に戦後60年だったから・・・だけではなさそうなのに、あまりメディアもこの現象について掘り下げようとしませんね。

マスコミは、戦争の記憶の風化といいますけど、僕の感じでは、むしろ若い世代たちが戦後日本の消された記憶を取り戻そうとしているように感じます。老人世代たちは戦争の悲惨さを語り継がなくてはならないと言いますけど、そうしたことよりもなぜ戦争になったのか、アジアは日本をどう扱ってきたのかなどといったことを若い人たちは知りたがっているように思えます。戦争体験者は、戦争は悲惨だからもう二度としてはいけないといいます。それは体験者であるから当然なことです。体験で語る戦争は常に悲惨なものです。しかしながら、それが当時に体験者の限界でもあります。戦争非体験者には、その体験はありません(あたりまえか)。だからこそ、非体験者は、戦争は悲惨であるということ以外に、戦争は悲惨だからしてはいけないということだけではなく、その悲惨な戦争がなぜ起きたのか、そして、いまなおなぜ世界には戦争が絶えないのか、平和を望んでいれば平和な世界になるのかといったことを考えようとしていると思います。

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