映画『亡国のイージス』
公開初日の30日の夜、新宿で映画『亡国のイージス』を見た。夜の10時50分から始まるオールナイト上映で見た。この日は朝から仕事をしていて、ようやく深夜の回に間に合ったわけである。オールナイト上映で2回見た。3回目を見れば始発の電車で帰れるなと思ったが、さすがにそこまでの体力はなく深夜のタクシーで自宅へ帰った。
まずは映画としてどうであったか。良かったと思う。ただし、僕は原作を読んでいるので、原作を知らないで見た人はわかりやすい内容であったかどうかはわからない。原作を読んで、一応ストーリィはわかっていて、かつ、小説と映画は違うものだという観点から見れば「まあ良かった」と思う。先任伍長の仙石恒史を真田広之が演じるということを知った時、イメージがあまりにも違いすぎると思った。しかし、実際に見てみると、若い海士たちの面倒を見る中年の先任伍長の役をよく演じていたと思う。原作では仙石恒史は、大地康雄みたいな人だと思っていたが、大地康雄だとあのアクションはできないであろう。真田広之は、どう演じようと真田広之なのでカッコよく見えるのだが、うまくこの中年オヤジの役を演じていたと思う。
それと、岸辺一徳さんが出ていたのは知らなかった。劇場で開演前にパンフレットをめくっていたら、なんと一徳さんが出ているではないか。以前見た『火火』といい、最近DVDで見た『ヴィタール』でも一徳さんが出ていて、いい演技をしていた。この映画にも出ていたんですね。あと、風間三尉の役の人は、なんかどっかで見たような人だけど、思い出せないなあ、誰だったかなあと思っていたら、これもあとでパンフを見たら『救命病棟24時』の第2シーズンに出ていた、あのお医者さんであったではないか。うーむ、これに出ていたとは。これで「戦国」に出た進藤先生を持ってきて(あれは元陸自か)、それでさらに宮迫博之も出るとおもしろいだろうなあと思ったが、そうした映画ではないのであった。吉田栄作は、ひさしぶりに見たなあ。
結局、この映画は原作の中にある様々なことの中から、ただ一つ「専守防衛とは、そもそも成り立ちうるのか」ということを伝えようとしたのだと思う。防大生宮津隆史の書いた論文「亡国の楯」は、原作と同様、映画でも重要な問題提起になっている。値段が1000円もするパンフレットには、映画制作時の台本が載っていた。少し長くなるが、映画の中で朗読された論文「亡国の楯」を引用したい。
「しかし、あえて言おう。国としてのありようを失い、語るべき未来の形も見えないこの国を守る盾になんの意味があるのか。現状のままでは、それは、守るに値する国家を失った、まさに、亡国の楯(イージス)でしかない。」
「真の国力とは、国家資産や経済力、軍事力などではなく、その国が培ってきた普遍的な価値観、歴史、文化であるにもかかわらず、我々日本人は「日本とは何か」「日本人として何を誇るのか」という自らの問いかけすら忘れ、唯一のイデオロギーであった『恥』という概念も捨て去り、世界に向け主張できる価値観など、とうに無くしてしまった。そして、それが国としての存在に関わる根源的な問題であることに、気づこうとすらしない。」
「今、この国は、すでに国家としてのありようを完全に失っている。日本はもはや『亡国』と化してしまったのだろうか。」
さらに、イージス艦「いそかぜ」の副艦長である宮津二佐は、物語の中でこう語っている。
「海上警備行動の範疇では、こちらが攻撃しない限り、貴艦は機銃弾一発撃つことが出来ない。」
「撃たれる前に撃つ。それが闘いの鉄則です。それが出来ない自衛隊に国を守る資格はなく。それを認められない日本に、国家を名乗る資格はない。」
現代戦では、先に攻撃した方が勝利する。専守防衛で、果たして防衛ができるのだろうか。この問題があるから、イラクでは非戦闘地域であると言われている場所に自衛隊を派兵している。しかし敵というのは向こうからやってくるものであって、つまり日本国政府は、最初に敵と遭遇した部隊は壊滅させられることを前提としているといえるだろう。
こうした現状に対して、防衛庁情報局内事本部長の渥美大輔はこう語る。
「戦争なんてのはいつだって対岸の火事にしかすぎない。戦後、60年、日本は太平洋と東シナ海の狭間に、ただ浮かんでただけだ。なあ、平和だったらそれで国って呼べるのか。」
映画とはいえ、こうしたセリフを明確に言うことができるようになったという時代性を感じる。大体、考えてみれば、宮津二佐やその息子の宮津隆史防大生、あるいは防衛庁情報局の渥美が言っていることはしごく当然のまっとうなことであろう。
ただし、僕は防大生宮津の言うことには疑問がある。確かに、彼が書いていることは正しい。自衛官として、自分が守るべき祖国が、守るに値する国であるのかを問うということ間違っていない。しかしながら、その祖国が守るに値するかどうかを判断するのは、少なくとも軍人ではない。守るに値する国ではないから守りませんというのは、軍人のとるべき態度ではない。しかし、自分が守ろうとする国家が誇りを持てるものであって欲しいと願うのは、若い(いかにもボーダイセイの)自衛官として当然のことであろう。現実の国家とは、そんなものではないのであるが。
また、宮津二佐や渥美の言うことから「だから、憲法を改正して、自衛行動のためにはなにをやってもいい国になるべきである」と判断するのも早急だと思う。
実は、1回目を見た時には気がつかなかったのであるが、2回目を見た時、「撃たれる前に撃つ。それが闘いの鉄則です。」という宮津二佐の言葉に、真っ向から反論しているセリフがあることに気がついた。先任伍長の仙石海曹長の次のセリフだ。銃を仙石に渡そうとした杉浦三佐を行が撃ってしまうシーンで、
仙石「なぜ撃った」
行「撃たれる前に撃つ。それが鉄則だ。」
仙石「砲雷長は撃つ気なんかなかった。」
行「あんたは実戦を理解していない。」
仙石「お前は人間を理解していない。」
行「・・・・」
仙石「撃つ前に迷ったりするのが人間だろ、一瞬でも何か考えるものだろう!」
つまり、この映画は、ふたつの異なる視点を提示している。撃つべき時に撃たなければ、こちらがやられるのは事実である。重要なのは、いつが「撃つべき時」なのかということである。これを、限られた時間と限られた情報の中で判断しなければならない。絶対に正しい判断などない。しかし、それでも判断をしなくてはならない。
戦場では、相手は「人間」ではなく「敵」であり、こちらも「人間」ではなく、国家からの命令を受けた「兵士」であると考える。しかし、そう「考える」のは人間なのである。仙石の行動は自衛官ではなく、自衛官として生きている人としての行動であった。これは、専守防衛が人として正しいということではない。また、どこぞの国のような自国の利益のためには、先制攻撃をしてもかまわないということでもない。なにが正しい、正しくないも含めて、我々は限られた時間と限られた情報の中で、撃つか撃たないのかの判断をしていかなくてはならないということなのだ。自衛隊が専守防衛しか選択できないのならば、憲法を改正すべきであろう。しかし、憲法を改正すれば、それでオワリというわけではない。日本国そのものが「現場」であり、僕たちが当事者なのである。判断をする主体は日本国であるが、その国民としての責任は負うことになる。その責任が負えないのならば、自衛隊をこれまでのように「亡国の楯(イージス)」としてあり続け、憲法を変えずに専守防衛のままでいるほうがいい。
映画『亡国のイージス』は、その覚悟があるのか、ないのかを日本人に問いかけているのである。
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たしかに破綻していてつっこみどころも満載ですが、阪本監督らしい、男っぽくてかつ人情味もある(というか、浪花節的なところもある?)アクション映画かと思います。
防衛庁に協力してもらってこんな出鱈目なB級アクション映画をつくっちゃっていいのかなーとは思いましたが。
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「亡国のイージス」面白そうですね。
本を読みたいのですが相当長いんですよね。
杉浦日向子も読みたいし、ブログは書かなきゃならないし、ご飯は作らなきゃならないし、パンクしそうです。
>現実の国家とは、そんなものではないのであるが。<
ここのところ同感です。
>映画『亡国のイージス』は、その覚悟があるのか、ないのかを日本人に問いかけているのである<
はぁ・・・、身にしみます。
Posted by: robita | August 01, 2005 09:49 AM
原作はチョー(って、もう死語かも)お勧めです。石破茂前防衛庁長官は、ぼろぼろになるまで読んだそうです。ラストは映画と原作では違います。原作の方は、さらによりリアルというか現実をまざまざと考えさせられます。
防大生宮津隆史の言っていることはよくわかるんです。わかるんですが、宮津隆史より長く生きていると、国家は清廉潔白ではないし、かつ、そうでなくてはならない必要もないということがわかってきました。ただ、そう言ってしまうと身も蓋もなくなっちゃうので、8割ぐらいは現実を知っていて、2割ぐらいは理想を信じていたいという心情ですね。
Posted by: 真魚 | August 02, 2005 12:36 AM