杉浦日向子は江戸に帰ったのだと思う
漫画家の杉浦日向子さんが亡くなってしまった。杉浦さんの作品は、大学生の頃から読んできた。僕が最初に読んだ杉浦さんの本は、何であったのかもう覚えていないけど、杉浦日向子と田中優子の2人の本がもしなかったら、自分は江戸時代に関心など持たなかったと思う。杉浦さんは、江戸時代という時代に生きていた人々の息遣いや生活感を書くことができる希有な漫画家であった。93年に漫画の創作をやめて、江戸風俗の著述に専念されていた。NHKの「コメディーお江戸でござる」での解説者としても活躍されていて、杉浦さんの解説を見るたびに、この人はまー江戸時代のことを、まるで見てきたようによく知っているなあと思った。実際、杉浦さんには『江戸アルキ帖』という毎週日曜日は江戸時代にタイムトラベルして、江戸のあちこちを散策するという架空旅行記(?)がある。
杉浦さんの『百物語』は、上田秋成の『雨月物語』や小泉八雲の『怪談』と並んで文芸史に残る名作だと思う。江戸時代が遠い昔の異質の文明になってしまった現代の日本で、この作品を書くことができるのは杉浦さんだけだったと思う。江戸の頃の人々の死生観、あの世感を、これほど見事に書いた作品は他にはない。また、江戸時代が終わり、明治という新しい時代が始まる動乱と変化の時代の中で、若者の生きていた姿を描いた『合葬』や『東のエデン』なども、これも杉浦さんだけしか書けない作品だと思う。『ニッポニア・ニッポン』の術師鏡斎も好きな登場人物だった。どの作品も、他の誰も持っていない独特の雰囲気があった。江戸時代が、過去のある時代区分なのではなく、僕たちのすぐ近くにあって、手を伸ばせばとどくような気さえする、そんな感じにさせてくれる作品ばかりだった。
あまりにも早すぎる訃報だった。できることならば、年老いた杉浦さんが書く江戸時代が読みたかった。しかし、もうそれもかなわぬ話になってしまった。もしかしたらこの人は、江戸時代から現代の日本に、ひょっことやってきて、数々の作品を書き、そしてまた江戸時代にひょっこと帰っていったのかもしれない。
杉浦日向子さん、ありがとうございました。これからは、いつでも江戸の街をぶらつくことができますね。そちらも、さぞや蒸し暑い季節になったと思います。風鈴の短冊が舞い、辺りが暗くなると、さっと夕立が来て。そして、しばらくすると、遠くでカナカナとセミが鳴き始め、通りが明るくなる。少しは、涼しくなりましたでしょうか。お好きだったという永代橋から眺める江戸の夕暮れは、どのように見えるでしょうか。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
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