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June 2005

June 28, 2005

漆原友紀『蟲師』を読む

 例によって、何気なくふらりと入った神田神保町のマンガ専門店の高岡書店で、漆原友紀の『蟲師』第6巻を発見。これは買わねばと思って、買う。第1巻を読んだ時から、漆原友紀の『蟲師』はいいと思ってきた。

 「蟲(むし)」とはなにか。『蟲師』第1巻には、こう書いてある。

「およそ遠しとされしもの 下等で奇怪 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達 それら異形の一群を ヒトは古くから畏れを含み いつしか総じて『蟲(むし)』と呼んだ」

 動物でも植物でもない。原生生物や粘菌類とも違う。いのちの源が形になったような、生命と非生命の間、現世と常世の境にあるような朧げな「いきもの」たちのことを、この物語では「蟲」と呼んでいる。大多数の人々は、蟲を見ることはなく、蟲に関わることもなく暮らしている。蟲もまた人に関わることなく、別の世界にいる。しかしながら、時折、蟲に関わってしまう人もいて、そのために起こる病気を治す蟲師という職能の人がいる。『蟲師』は、蟲師であるギンコが旅の中で出会う様々な出来事の物語である。

 ここでいうこの治すということは、近代医学のように病原体を撲滅させて治すのではない。「蟲」と「人」の間で起きた出来事の因果関係を解きほぐし、「蟲」と「人」をあるべき姿に戻すということである。蟲師は、「蟲」と「人」の間をつなぐ境界人なのであると言えるだろう。この世界観は、日本に古くからある「カミ」と「人」、「霊」と「人」、「自然」と「人」の世界観に通じるものがある。時代背景は、江戸時代が終わって明治の頃のようなのであるが、具体的に特定されているわけではない。風景描写に、ほっとするような懐かしい雰囲気がある。

 柳田國男の『遠野物語』の序に、「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」という有名が一文がある。『蟲師』も『遠野物語』のような民話伝承の物語の系譜を継ぐ作品であると思うが、この短編物語集にあるのは、戦慄というよりも「蟲」に対する怖さの向こうにある、いのちの奥行きの深さと静謐であろう。生きとし生けるものの連鎖の中に、人もまたいる。

 蟲は淡くて、脆くて、儚い。人の命や想いも、またそうしたものである。ギンコは、一見ニヒルに構えているようで、実は心細やかに蟲の病に患った人の病と心を治していく。ギンコには、蟲も人も共に生けるものとしての悲しみを感じる心と優しさがあるのだと思う。それはギンコもまた幼少の時に、蟲と出会い、蟲と関わったことで片目を失った人であったからなのかもしれない。片目を失うことで、ギンコは人が見えないものを見ることができるようになる。そのことは、蟲でもなく人でもない者になることであったのかもしれない。しかし、ギンコはそれをどう思うこともなく、淡々と旅を続けていく。彼は、蟲の世界から人の世界への語り部でもあるのだ。

 第6巻も読み終わった後、心に余韻が残るようないい作品ばかりであった。「野末の宴」という話の最後で、「蟲とは?」という問いに対して、ギンコは「まあ・・・世を構成しているものの一部さね。それ以上でも。それ以下でもない。」と答える。

 「人は、なぜ生きているのだろう」という問いは、「いきもの」に対する不遜な問いなのかもしれない。

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June 20, 2005

a hundred years ago その5

 三笠の上甲板右舷から、湾上の猿島が見える。その手前に見える埠頭に、海自の艦が停泊していた。三笠公園にくる道の途中で見た、レーダーがある軍艦らしき船とはこの艦であった(後で調べてみると、どうやらあの船は、海自の護衛艦「はつゆき」であったようだ)。しばらく、三笠の甲板から海自の船をぼぉーと眺める。眺めていると、なにやら、一般の人も乗艦しているではないか。一般公開をしているようだ。シマッタぁ、と内心ここで思った。海自の艦が一般公開をしていたなんて知らんかった。それを知っていたのならば、あっちへ行くべきであった。なにが哀しゅーて100年前の軍艦の方に乗っていなければならんのか。

 と思ったのであるが、ここはやはり日本海海戦100周年ということで、この三笠にやってきたのであるだから、そーゆーミーハーなことを思ってはイカンなと思いなおした。それにしても、こうして三笠の艦上から、今の海自の護衛艦を見ていると、不思議な感覚になってきた。こっちとあっちの間には、100年の年月の隔たりがある。まるで自分が100年前の日露戦争の時代の人間で、それが現代の海上自衛隊の艦を見ているような気持ちになってきたのである。かわぐちかいじのマンガ『ジバング』の、太平洋戦争の時代にタイプスリップした海自のイージス艦「みらい」と日本海軍の艦が初めて遭遇するシーンでの、「みらい」を初めて見た日本海軍の側の水兵や将校の心情がわかるような気分になった。同じ日本の軍艦らしいが、なにかどこか違うと思ったであろう。

 あそこに見える、あれは一体なんなのか。ここで僕が思った「あれ」とは、海自の護衛艦であるだけではなく、多少大げさに言えば、明治38年の観点から見た海上自衛隊であり、さらに言えば、平成の現在の日本国の国防そのものなのであった。憲法によって、その行動が大きく規制されていて、それでも国を守れという矛盾した枠を科せられた自衛隊というものをどう考えればよいのだろうか。このへん、かなりざっくりとした見解なのであるが、今の海自はアメリカ海軍の「いち部隊」になっているとしかいいようがないと思うのであるが、どうであろうか。

 もちろん、こちら側(三笠側)には、ロシアの南下というさしせまった脅威があり、それに対抗することに民族の存亡がかかっていることであった。しかしながら、あちら側(海自側)(が発足した当時は)米ソ冷戦という状況であったが、日本人の誰もがそのことを実感として感じていたわけではない。いわば、アメリカの占領政策のひとつとしての日本の防衛であり、その体制は、戦後60年たった今日でも依然として続いている。こちら側は、アジアの発展途上の貧乏国だった日本が独立自尊をかけて、自分たちが作った国を守るために考えに考え抜いた軍隊であるが、あちら側は、どうもわかりにくい。そもそも、自衛隊は、現情勢下において日本国の防衛とはいかなるものであるべきかという思考から生まれた組織ではない。むしろ、政治的理由によって作られたものである。しかしながら、もし軍事力の最終目的が「戦争状態になることのないようにすること」であるのならば、戦後60年間は、それはそれで(かなり歪な姿で、であるが)その目的は達してきたことになる。しかし、その反面、失ったものも大きかった。作家福井晴敏が小説『亡国のイージス』で書いたように、現状では「亡国の盾」でしかない海自に一体なんの存在意義があるのだろうか。しかしながら、海自を「亡国の盾」にしているのは、今のこの国なのである。

 上甲板から、前部艦橋へと昇る。前回来たときは艦橋まで昇ることはなかったので、今回が初めてである。階段の勾配は急であり、いかにも「グンタイのフネ」という感じでゴツゴツしていた。とても昇りやすいとはいえない。それでいて、かなり高さもある。落ちたらケガをするなと思い。慎重に足をかけて昇る。これを駆け上れと言われたら、10年前の自分であれば難なくできたであろうが。今やれと言われたら、できなくはないが、かなり覚悟を要するであろう。しかも、息は切れるだろうなと思う。自分はもう軍艦に乗って戦争ができるような歳ではなくなったなとか思いながら階段を上る。

 この艦橋で、東郷長官とその幕僚たちが指揮をとった。実際のところ、幕僚が一カ所に固まっていると、そこを砲撃された場合、指揮スタッフが全滅してしまうので、海戦時には、ここに立っていたのは東郷長官と参謀長の加藤友三郎少将と参謀の秋山真之中佐の3人であった。残りの幕僚は、この艦橋の下にある装甲で囲まれた司令塔にいた。

 ひととき、艦橋で風に吹かれながら、ぼおーと突っ立ている。あの日、ここでの光景は、さぞや劇的なシーンであったであろうが、100年後の今は、まったりとした青空の下で、とりあえず目前に見えるのは、アメリカ海軍横須賀基地と、その向こうになにやら団地らしきものが見えだけであった。

 日露戦争は、勝った後が良くなかった。戦後、同じ民族とは思えない程、日本人は変わってしまった。日本人は、日本が世界一の国だと思い込むようになった。もちろん、自分の国が世界一だと思うのは悪いことではない。しかしながら、常識的な国際比較の視点を日本人、特に政治家と軍人は持つことがなかった。世界に冠たる大日本帝国というイメージが一人歩きをし始めていた。

 江川達也のマンガ『日露戦争物語』であったか、幕末とは嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀にやってきてから、明治に改元される慶應3年(1867年)までのことを言うのではなく、明治38年の日露戦争の終結をもって終わると書いてあって、なるほどそうかと思ったことがある。日露戦争の勝利は、ただ単にロシアとの戦争に勝利したというだけではなく、ペリーが浦賀にやってきた時以来日本人が抱いてきた、欧米の植民地になるかもしれないという恐怖心と緊張感と、そして西洋文明から見れば未開のアジアの国であるという強烈な劣等感から解放されたということを意味していたのであろう。しかし解放されたのならば、健全な国際感覚を持てばいいのにと思うが、そうしたものはついに大日本帝国が終わるまで持つことはなかった。それは、強烈な劣等感の裏返しとしての常軌を逸した優越感でしかありえなかった。

 太平洋戦争では、日本海軍は日本海海戦のパターンである艦隊決戦方式でアメリカ軍と戦おうとしていた。しかしながら、時代は大艦隊が砲撃で雌雄を決するのではなく、航空機と潜水艦による攻撃の時代になっていた。それでも、バカのひとつ覚えのように艦隊決戦方式にこだわり、大和のような巨大戦艦を建造した。なぜそうなってしまったのかというと、日本海海戦での劇的勝利があったからである。

 日本海海戦での劇的な勝利とは、様々な要因の組み合わせによるものであって、決して東郷平八郎の決断が正しかったからだとか、作戦参謀の秋山が天才だったからというわけではない。事実、日本海海戦において、東郷はロシア艦船の動きについて誤認する。この誤認によって、三笠はロシア艦を危うく見失うところであった。もしバルチック艦隊を完全に殲滅することができず、一隻でも逃せば、この戦いは結果的に日本の敗北に終わるのである。この東郷の過ちは、第二艦隊の司令長官上村彦之丞中将と参謀佐藤鉄太郎中佐の的確な判断によって救われることになる。つまり、東郷といえども完全無欠ではなかった。しかしながら、日露戦争後、東郷は軍神となる。

 戦争とは、その戦争の前にどれだけのことを行ったかで、その勝敗の大半は決まる。日本海海戦は、戦いに至る何年も前から、ロシアに勝つために何をなすべきかを考え、実行し、あらゆる状況を想定し、必要な物資を準備し、十分すぎる程の訓練を行っていた。それでも現場では誤ちを犯した。しかし、過ちを修正することができる組織システムも持っていた。

 戦後、軍は国民にそうしたことを知らせようとはしなかった。国民もまた知ろうとはしなかった。日本軍は世界一だという、根拠のない信仰のようなものが生まれた。東郷を軍神とした日本海軍は、国際社会と軍事技術の変化に対応することなく、巨艦巨砲主義に走り、艦隊決戦主義にこだわった。やがて後の太平洋戦争で、ミッドウェーで大規模な損害を受け、レイテで壊滅的打撃を受けるが、それでも、まだ戦争を続行していった。昭和の日本海軍は、もはや明治の日本海軍とは別のものになっていた。そして、昭和20年(1945年)、大日本帝国海軍はその歴史を終える。

 艦橋でしばらくたたずみ、ぼんやりとしていたが、そろそろ降りようと思った。見るべきものは見たとして、三笠から出る。今度、ここに来るのはいつのことになるだろうか。

 三笠公園の出入り口の隣の売店に入る。以前、ここへ来たときは、三笠のレリーフが入ったスプーンを買ったのだが、今はもうそうしたものはなくなっているようだ。ご存じ「よこすか海軍カレー」があった。なんと「海軍さんの珈琲」というものもあって、こっこれは、と思ってしまった。陸軍ならばなんであろうか、「陸軍さんの焼酎」であろうか。うーむ、なんかハイカラっぽくないな。


(「三笠を見に行く編」終了)

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June 15, 2005

過去の体験談が「退屈」なのはあたりまえである

 青山学院高等部の入学試験の英語の科目で、ひめゆり学徒の体験談を退屈で飽きてしまった感想を持ったという内容の英文が試験問題として出題されたという。

 ネットでこの試験問題が読めるので、僕も読んでみた。実際に読んでみると、この文章の内容は、報道されているものとイメージがだいぶ違う。確かに"it was boring for me and I got tired of her story."と書いてある。しかしながら、この英文の意図は、ひめゆり学徒の体験がつまらないということを主張したいのではなく、コトバによって語られる戦争体験を、戦争を体験したことがない世代は、いかに理解をすればよいのかということを問いかけている内容であった。特に興味深いのは、この文章の中で、ひめゆり学徒の話を聴く前に、防空壕の中に入ったことが書いてあり、そこではガイドがあまり多く語らず、自分たちは真っ暗な洞窟の中にいたという体験を通して、戦争中の防空壕の中に避難して生き延びてきた人々のことを感じる出来事があって、次にひめゆり学徒の話を聴いて、「退屈だった」という感想を持ったということである。体験というのは、コトバではない。しかしながら、戦争体験はコトバを通して理解するしかない。では、体験をいかに理解すれば良いのかということをこの文章は述べている。とりたてて、悪い内容ではないなと思った。

 しかしながら、そうは思いながらも、それでもどこかに抵抗感があった。なにかおかしいと思った。そこで、これが物議を呼んでいる入試英文ではなく、例えば、この文章が仮に目の前にポンとあったとして、これを読んで、近現代史に多少の関心がある者としての自分はどう考えるだろうかと考えてみた。

 すると、どうもよくわからんなということに気がついた。なにがわからんのか。この文章から、「ではどうすればいいのか」ということが、少しもわからないのである。上記のような問題提起はそれはそれでいい、では作者は何を結論としているのか、それがわからないのだ。その意味では、僕はこの文章を読んで、"it was boring for me and I got tired of his story."であった。元ひめゆり学徒の人が語った内容が「退屈だった」と感じたのは、それはそれでいい。しかし、それではどうせよというのか。子供たちが理解しやすく話すべきであったと言うのだろうか。

 もちろん、人の興味と関心は多種多様であり、なにをもって「おもしろい」と感じ、なにをもって「退屈だ」と感じることは自由である。ましてや、元ひめゆり学徒の話は60年前の出来事の話である。「退屈だ」と感じるのは、当然のことであろう。戦争の体験談、それも勝った戦いではなく、一方的にこちらが殺戮されるままであった戦争の体験談が、そもそも「おもしろい」わけがない。

 さらに言えば、戦争体験者は、自己の体験を「おもしろく」話そうと思って話しているわけではない。他人様に話しを聴いてもらう以上、人が聴いてわかりやすいように話すべきだという意見もあるかもしれないが、それも程度の問題であろう。戦争体験者は、表現者ではない。弁士でも、落語家でも、ラジオのパーソナリティーでもなければ、会議やセミナーでプレゼンをやっているわけでもないのである。例えば、この元学徒の人がうちなーぐち(沖縄の言葉)で話をしたというのならば、内地の人は理解することはできないであろう。しかし、そうしたことでもない。

 つまり、「おもしろい」「おもしろくない」の価値基準の区分で言えば、過去の出来事の体験者の話など「おもしろくない」「退屈だ」ということになるのは当然ではないかと思う。むしろ、過去の話が、おもしろおかしい話や感動的な話であった場合、なんかウソがあるか、美化していると疑うべきであろう。だから、NHKの『プロジェクトX』などは、かなりマユツバもんである。あれは、フィクションだと思っていい。

 しかしながら、過去の歴史に眼を向けるということは、むしろそうした一見「つまらなく」て、「凡庸」で、「おもしろくなく」て、「退屈」である物事の中に、意味があるもの、価値があるものを見出すということなのだ。それを可能にするのが、知識と想像力であろう。実際のところ、僕はこの試験問題を読んで、この沖縄旅行で歴史の教師は一体何をやっていたのかと思った。元ひめゆり学徒の話を「退屈だ」と子供たちが感じるのは当然のことであり、子供たちがそう感じて、それでオワリなのではなく、歴史に対して考える力を子供たちが身につけるようにするのが、歴史の教師の努めではないのだろうか。(もちろん、教育の現場では、なかなか理想論ではできないことはわかるが)

 この試験問題に対して、元ひめゆり学徒側が「亡くなった同窓生たちに大変失礼だと思う」と述べているというが、そういう問題でもないと思う。そうした問題になってしまうのならば、それでもいい。しかし、それで終わってしまうのならば、次の世代への戦争体験の記憶の風化は避けることはできないであろう。結局、この英文の作者と沖縄の元ひめゆり学徒側の間に、本来あるべきはずの、戦争体験はいかに伝承されうるのかという観点がすっぽりと抜けている。それは、歴史の教育に関わる者が応えるべきものなのである。

 試験問題そのものとしては、この英文の後の選択肢問題は、試験の問題として適切なのだろうかと思うところがいくつかあった。こうした試験問題というのは、作る側のたいへんさは良くわかっているつもりであるし、試験問題での解答の仕方には、一般的な常識よりも、ある種のコツのようなものがあるということは、自分でもよく知っているつもりであるが、そうであっても、これら問題は、なにか政治的意図があるのかと思わざるを得ないような選択肢だと思う。

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June 13, 2005

a hundred years ago その4

 もう一度、上甲板に上がり、艦尾から艦首へと甲板を歩く。晴朗というわけではなかったが、不愉快な湿度もなく、カラッとした横須賀の青い空が頭上に広がっていた。

 甲板では、海上自衛隊の人がなにやら三笠のおみやげ品や(日本海軍の、ではなく、海上自衛隊の)記念品を売っていた。海自って、こうやって宣伝ができるからいい。陸自で一般の人の客寄せができるビックイベントは、富士の総合火力演習ぐらいであろう。仮に、市ヶ谷かどこかの陸自の駐屯地で日露戦争の陸戦で使用した28インチ砲を展示したとしても、誰も見にこないだろうなあと思う。

 甲板を歩きながら、明治の日本のことを考えた。

 三笠は、日本が製造した船ではない。日本がイギリスに発注し購入した軍艦である。三笠は、明治33年(1900年)にイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社にて建造された、当時の世界最新鋭の戦艦であった。この時代、日本は弱小貧乏国であったが、軍隊に費やすカネはすさまじかった。

 この時代、政府は、毎年の国家予算の約半分を軍事に、特に海軍の軍備増強に使っていた。国の予算の半分を軍隊に使っていたのである。明治の国民生活は極度の貧困であったのは当然のことであろう。ちなみに、現在の日本の国家予算に対する防衛費の割合は約5%程度である。ここから見れば、国の予算の半分も軍隊が(戦時ではなく、平時での話だ)に使うような国は、いかに異常な国であったかがわかるであろう。

 さらに異常ともいうべきことは、この状況を国民が耐えたということである。極東の列島の上で、長く平和に暮らしていた人々が、幕藩体制をわざわざ破壊し、近代国家へと変わったのは、とにもかくにも、このままでは世界に取り残されるという不安感からであり、強力な軍隊を持たなければ、自分たちもまた欧米の植民地にされてしまうという恐怖感からであった。そのために、ただの寄り合い所帯のようなものであった社会を、西欧で発生した「近代国家」に作り替えた。

 この作り替え作業は、決してラクであったわけではない。幕末の日本人は、好きで近代国家になったわけではなかった。同じ民族同志で、血で血を洗うような凄惨な内戦を経て、維新は成し遂げられた。そして、さしたる産業も、外国に売る商品もないのにも関わらず、このアジアの列島の住人たちは、欧米並の軍隊を持とうとしたのである。当然ながら、それらの負担は国民が支払った。明治は、食うものも食わずに、国家建設に邁進し、軍隊にカネを支払い続けてきた時代であった。この時代、裕福な暮らしをしていたのは都会の一部の人々のみであり、国民の大多数の生活水準は低かった。それでも不満が出てこなかったのは、貧しいことを美徳とするという江戸時代の価値観がまだ生きていた時代でもあったからであろう。

 しかしながら、それでも軍隊はカネが足りなかった。三笠をイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社に発注しようとした明治31年、海軍の予算は底をついていた。しかし、発注はしなくてはならなかった。とにかく強力な軍艦が必要なのである。時の海軍大臣山本権兵衛は万策がつき、内務大臣西郷従道のところへ相談に訪ねる。これより少し前、西郷が海軍大臣の時、山本は官房主事という役職で、大佐の身でありながらも、海軍省の老朽した幹部や無能な将官の大量首切りを行った。山本によるこの海軍の組織改革が、後の日露戦争での勝利の一つの要因になるのであるが、この大リストラを認めた西郷もまた海軍になにが必要なのかをよくわかっていた男であり、ようするに西郷と山本は日本海軍の改革者であった。

 さて、三笠をイギリスに発注したいがカネがない。このことを山本が西郷に相談した時、この西郷隆盛の実弟であり、維新の戦乱を戦った男は「それは山本サン、買わねばいけません」と答えたという。しかし海軍にはカネがない、よって「国家予算を流用しましょう」と言うのである。もちろん、犯罪行為である。「もし議会に追及されて許してくれなかったら、あなたと私が二重橋の前で腹を切りましょう。2人が死んで、主力艦ができればそれで結構なことではないですか」と語ったという。三笠は、西郷のこの決断によってできた。彼らは、自分たちが国家予算の半分ものカネを使っているということへの責任と使命感を持っていた。三笠は、そうした時代の、そうした政治の、そうした軍艦だった。

 上甲板後部から、前部へと歩く。大正15年(1923年)、三笠は当時「楠ヶ浦」と呼ばれたこの地に、コンクリートで固定され記念艦となるが、その艦首は横須賀の湾の向こうに広がる水平線に向いている。艦首でぼんやりと立っていると、数人の若い男女たちが、がやがやとやってきた。若者たちは、この艦首を見て「タイタニックができる!!」「タイタニックやれよ!!」とふざけあい始めた。

 タイタニックというのは、ジェームズ・キャメロン監督が豪華大型客船タイタニックが1912年に沈没した事件を映画化した、映画「タイタニック」のあるシーンで、レオナルド・ディカプリオ演じるジャックがタイタニックの船首に立つシーンのことであろう。三笠でこれをやるという発想もなんだなあと思ったが、だからと言って、この若者たちをどうこうと思う気持ちはない。明治の時代の若者たちの、ごく普通の自然の風景として、戦争に行くという光景があったように、平成の今の若者のごくあたりまえの風景として、こうした光景があるのだと思う。

 ひとときふざけ合った後、若い男女たちは、艦首の12インチ砲の前で各人おのおのポーズをとり、お互い携帯電話で写真を撮りあい、そしてまた騒がしく去っていった。数多くのロシアの艦船を沈めた砲は、100年後は若い男女たちの格好の撮影スポットでしかありえなくなっていた。平和というものの、ありがたさであろう。


(この稿続く)

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June 07, 2005

マイフォトに追加しました

先日行ってきました横須賀の三笠公園の写真をアップロードしました。
ついでに、以前掲示していました、去年行った根津神社の写真も復活させました。

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June 06, 2005

映画「クレヨンしんちゃん」を見る

 映画「クレヨンしんちゃん」シリーズの『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 』を見た。

 ここでショージキに言ってしまうと、「クレヨンしんちゃんだろ」と思っていた。映画「クレヨンしんちゃん」シリーズの『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、「クレしん」と言えども、その内容はすごくイイ、絶対に見るべきという声があることは知っていた。知ってはいたが、なにしろ「クレしん」なので、ふーん、そうなのって思っていた。そして先日、某所で「クレしん」映画の最高傑作作品は、『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 』であるということを聞いて、あーそうなのかぁと思っていた。でも「クレしん」だろと内心思っていたのである。「クレヨンしんちゃん」はマンガは何度か読んだことがあるし、テレビも何回か見たことがある。別に嫌いではないけど、とりあえず、ああした番組であるわけで。

 しかしまあ、それほどいいって言うのならば、じゃあ、ちょっくら見てみようかと、今日、近所のTSUTAYAで『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』と『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 』の2作品を借りて見てみた。

 最初に『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を見た。確かに、おもしろくていい作品だった。1970年代のノスタルジアがうまく描かれていたと思う。そういえば、あの頃はこんなものがあったなと思うシーンがいくつもあった。20世紀の昭和の方が「心」があったというのはよくわかる。

 というわけで、じゃあ次と『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 』を見た。「クレヨンしんちゃん」だよねと思ってカルイ気持ちで見始めた。

 しかし、だ。ところが、だ。これは良かった。ものすごく良かった。もう「これは良かった」というのを256回繰り返したい程、これは良かった。

 基本的な話は、しんのすけ一家が戦国時代にタイムスリップする話であるが、これほど時代考証がしっかりした時代劇映画を見たのは初めてだったと思う。まるで、これはもう日本史の戦国時代の資料映像アニメと言ってもいいぐらい、かなり時代考証にこだわっていることがよくわかる。絵の雰囲気が、もう「クレしん」ではない。しんちゃんの姿が、背景と合わないぐらい違うのだ。戦国時代の世界観を見事に再現している。物語の流れや台詞の良さ、殺陣の巧さなども良かった。それでいて、いつもの「クレしん」のギャクやお笑いもある。この作品を「クレしん」だと思って、今まで知ることがなかったことを深く後悔した。それぐらい、いい作品だった。

 城主の娘簾姫は、家臣の又兵衛を想っている。戦場では鬼と呼ばれる程の歴戦の戦士であるが、女性には奥手の又兵衛もまた簾姫を想っている。しかし、2人の身分はあまりにも違いすぎる。この簾姫と又兵衛の清い恋物語を軸に、なぜか戦国時代にやってきた、しんのすけのドタバタギャクが満載なのであるが、その一方で、自分の信じる忠義に従い、戦場での戦いに生きる実直で無骨な侍である又兵衛の生き方が描かれている。簾姫もまた、自分の信じるものに正直でありたいという生き方をする。

 あの最後のシーンの展開は、まさかああなるとは、思ってもみなかった。あのシーン、最初はなにが起きたのかよくわからなかった。戦いの不条理さ。「こんなに人を好きになることは、もう二度とないと思う」と簾姫はしんのすけに語る。そして、最後に現代に戻ったしんちゃんが空を見上げ「おじさんの旗だ」と言うシーンの次に、簾姫が空を流れる雲に向かって「おい、青空侍」と呼びかける声でエンディングになる。この声を聞いた時、泣いてしまった。この声は、悲観や落胆した声なのではない。あくまでも凛とした、青い空に似合うような声なのだ。だからこそ、失ったものの悲しみの大きさを感じる。簾姫は、その後どのような人生を送ったのだろう。かつて人は、こうして淡々と、しかし深く美しく生きていたのだと思うことができるいい作品だった。

 「クレヨンしんちゃん」、侮り難し。

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June 05, 2005

a hundred years ago その3

 どんどん歩いて行くと、右側に軍艦は見え続けているのであるが、なんと突然、左側に三笠公園の入り口が現れ、正面に右側の艦とは別の(艦橋にレーダーなどない)軍艦の艦尾が見えた。これが100年前の日本海軍の連合艦隊の旗艦三笠であった。右側に見える軍艦は、まだ遙か彼方にある。うーん、なんなんだこれは思ったが、とにかく三笠公園に着いた。

 三笠公園の中へ入ると、そこでは「日本海海戦100周年いきいき横須賀」というイベントの真っ最中であった。出店がいくつか出ていて、どうやら「よこすか海軍カレーの祭典」というものをやっているようであった。海軍カレーというのもなんだなと思うが、確か海自では、毎週金曜日はカレーを食べるというのをどこかで聞いたことがある。金曜日は、カレー以外は食っていけないのだろうか。どうやら横須賀では、海軍カレーはかなりポピュラーな食べ物であるようだ。ちなみに、僕はまだ海軍カレーなるものを食したことがない。出店のみなさんは、もうお昼どきを過ぎてしまったからなのか、閑散としていて、ジュースのたぐい以外は買うものももうないようだった。

 広場では、ライブコンサートがやっていた。日本海海戦100周年だからといって、自衛隊の音楽隊のコンサートというわけではなく、ごくフツーのロックのにーちゃんのバンドが演奏をしていた。よくわからんが、このへん、「いきいき横須賀」ということで、今日のイベントにも、年寄りかミリタリーオタクばっかりが集まるようでも困るので、とりあえずイマドキの音楽コンサートをやればいいんじゃないかという企画であることがよくわかったりするわけであるが。まあ、どうでもいいんだけど。自衛隊の音楽隊が来たのは、昨日だったようだ。

 公園の中央には、東郷平八郎の像がある。

 ここで改めて強調しておきたいことは、日本海海戦と東郷平八郎の名前は、実は海外でも「知っている人」は「知っている」という、たいへん知名度が高いものなのであるということだ。確かトルコであったか、道の名前にトーゴー・ストリートというのがあり、小学校では、教科書にアドミナル・トーゴーの写真も載っていて、日露戦争のことが授業で教えられているという。当時、帝政ロシアの圧政に苦しむトルコにとって、ロシアが日本に負けたことは喜ぶべきことであり、そのロシアの大艦隊を沈めた日本海軍の司令長官であった東郷は、いわばトルコ民衆のヒーローであった。トルコ以外でも、ロシアに虐げられていた国々にとって、日露戦争でアジア人がロシアに勝利したということは希望の光を与えることになった。日本では戦後の歴史教育では、日本海海戦のことなど教えない。日本人が知らず、むしろ外国の方がよく知っているというのが日露戦争であった。

 海戦史から見ても、日本海海戦は重要である。それ以前の海戦では、軍艦が木製から鋼鉄製になった時代の初期、船は艦首に衝角という角のように尖った部分があった。これで敵艦に体当たりして、敵の船体に穴をあけて沈めるのである。まるでギリシアかローマ時代の海戦か、あるいは海賊みたいな戦い方であった。なぜこうしたのかというと、当時の大砲では命中性能が低く、仮に敵艦に命中したとしても破壊力や殺傷力が少なかった。ようするに、砲撃では船は沈まないのであった。そこで衝角で敵艦に体当たりして、さらに水兵が甲板から敵船に乗り移って白兵戦を繰り広げるという戦法が最も効果的なのであった。しかしながら、やがて砲や火薬の技術が進歩し、命中精度も破壊力も格段と上がった。三笠はそうした時代の軍艦であり、日本海海戦は衝角で敵艦に体当たりするという戦法ではなく、砲撃によって勝敗を決めるという新しい戦法の時代の最初の海戦であった。

 広場を一巡し、三笠の入り口の階段の前にくる。確か入場料があったはずであるが、みなさん、そのままどんどん入っている。どうやら今日は入場無料なんだなと思い、僕もそのまま入り口の階段を昇っていった。階段を上ると、上甲板の後部に出る。この上甲板の後部は、分厚いチーク材でできていて、この船がいかに入念に製造された船であるかがわかる。すぐに眼につくのが、巨大な艦尾主砲であるが、それはチラッと見るだけにして、後部シェルターデッキの下にある36式無線機を見に行く。以前ここに来た時も見ていて、よく知っているのであるが、僕は三笠というと、この無線機のことをまず思う。三笠は、無線機を持っていた。イタリアのマルコニーが無線機の実験に成功した後すぐに、日本海軍はこの最新科学機器を実用化していた。数に勝るロシアの艦隊に対して、日本海軍は作戦と各艦船の組織的な艦隊運動で勝つ以外に方法はなく、それを可能にする通信連絡手段は、当時発明されたばかりの無線機に頼るほかなかった。

 無線室から離れ、そこから中甲板への階段を下る。中甲板には、士官室や中央展示室がある。内部は改装されたらしく、記憶の中の以前の三笠の内部とはすいぶん変わっていた。三笠の大きな模型もあって、内部の構造といい、外観といい、三笠っていい船だなと思う。後の時代の戦艦大和は、なんかデカイだけで、よくわからんのであるが、三笠の構造とデザインはわかりやすくていい。いっそのこと、下甲板にある水兵さんたちの部屋も見せて欲しいのであるが、下甲板は土砂で埋まっているという。こうやって歴史博物館のようにしているのだから、完全復元して欲しいものだと思う。日露戦争の経過と戦況という説明のパネルがあって、当時のことがよくまとまっていた。真剣に考えながら読んでいくと、半日ぐらいかかるであろう。そうもしていられないので、ざっと見て次へ進む。

 ロシアの艦隊は、バルチック艦隊と呼ばれていた。この艦隊はロシア本国の艦隊であり、バルト海にあるリバウという軍港を基地としていた。極東のアジアには、ウラジオストック艦隊と旅順艦隊があった。しかし、これらの艦隊は、東郷司令官が率いる連合艦隊によって、黄海海戦にて旅順艦隊を、蔚山沖海戦にてウラジオストック艦隊に大規模な損害を与え壊滅状態にさせた。旅順艦隊の残存艦は、旅順に立てこもった。そこでロシアとしては、バルト海のバルチック艦隊を極東に送ることになったのである。送ることになったと言っても、バルト海は北ヨーロッパの海である。そこから、遙か彼方のアジア大陸の東の果てにまで行こうというのである。

 この時代、スエズ運河はすでにあった。しかしながら、スエズ運河はイギリスの管理下にあり、イギリスは日英同盟により日本の同盟国であった。よって、ロシアとしては、スエズ運河ができる以前のアジアへ行くルート、つまりヨーロッパを南下し、さらにアフリカ大陸を延々と南下し、南端の喜望峰を回ってインド洋へ北上しなくては、アジアには行けなかった。さらにインド洋を越えて、その先に東アジアがある。思うだけで気が遠くなるような旅になるのだ。しかも、一艘のヨットがホイホイと海を渡っていくのではない。ロシア海軍の大規模な艦隊なのである。バルチック艦隊は、日本海にやってきたというだけで世界史に残る偉業であった。しかしながら、さらに言えば、極東の日本に着けば、それで終わりなのではなかった。本来の目的は、その世界の果てにあるかのような海の上で、これから戦争をしようというのである。よくもまあ、そんな戦争をしようと思ったものだ。ロシア皇帝としては、東洋の猿がそれほど気に入らなかったのであろうか。

 このバルチック艦隊の航海のさなか、乃木希典が率いる陸軍の第3軍が203高地から旅順港の残存艦に砲撃を与え、これを壊滅させた。日本海軍としては、残るはロシア本国から来るバルチック艦隊のみであった。日本は、バルチック艦隊もウラジオストック艦隊や旅順艦隊と同様に壊滅させなくてはならなかった。たとえ少数の艦船でも生き残れば、満州でロシアと戦っている日本軍に補給を送る海上輸送船を攻撃されるからである。ロシア帝国の大艦隊を、ロシアが「猿」と呼ぶ弱小貧乏国日本の海軍が倒さなくては、日本国の未来はなかった。彼らが思っていた日本国の未来とは、つまりは100年後の今の日本であろう。今のこの日本国と日本人のために、彼らは戦ったのである。


(この稿続く)

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June 01, 2005

a hundred years ago その2

 先日の日曜日、三笠を見に行こうと思った。

 三笠記念公園にある三笠は、10年以上も前の学生時代に一度か二度行ったことがある。別に、あれから10年以上たったから、最近の三笠はイージスシステムを搭載していますというわけでもなんでもなく、10年前に見た時のままで、今も横須賀にあるんだろうなと思った。しかしまあ、今年は日露戦争100周年ということだし、100年前の27日は日本海海戦の日だったし。やっぱ休日は運動ということで歩かなくてイカンよなとかいろいろ思い、それじゃあ、ちょっと横須賀へ行ってみっかと思った。

 横須賀は、東京から遠い。三笠がある三笠公園の最寄りの駅は、京浜本線の横須賀中央という駅になる。遠いなあと思う横浜より、さらにもっと向こうにあるのである。横須賀といえば、海幕のある市ヶ谷以上に、海自のメッカみたいな場所だ。ここには自衛艦隊司令部や潜水艦隊司令部などがあって、アメリカ海軍の太平洋第7艦隊極東司令部もあるのだ。なんとなく、横須賀は海軍の街というイメージがある。このへん、どちらかというと陸自に親近感がある僕としては、なんかこー違和感というか、なんかしらんけど横須賀に行くと、兵隊は銃をかついて野山を駆けめぐるのがヘータイなんだみたいな意識がみょーにこみ上げてきてしまうのである。

 それはともかくとして、横須賀中央駅についた。さて、三笠公園は、確かこっちの方角だったかなと、テキトーに判断して、駅からテクテクと歩く。10分ぐらい歩いていると、どうもこっちの方ではないのではないかという不安がふつふつとわき上がってきた。なんか湘南高校という学校の前に来てしまった。三笠公園へ行く道の途中に、こうした学校はあったであろうか。なにしろ前回来てから10年以上もたっているのでわからん。これは道に迷ってしまったような気がする。道に迷った時は、まず自分がどこにいるのかわかる位置まで戻るべきだ(てゆーか、最初から道順を確認しておくべきであったような気もするけど)。そこで、こりゃあもう駅まで戻ってもいいやとばかりに、今歩いてきた道を戻ることにした。

 戻る途中に、コンビニがあった。これはラッキーとばかりにコンビニへ入る。雑誌のコーナーでマップ本を堂々と立ち読みする(おいおい)。湘南高校ってどこになるのかと見てみると、なんと、全然反対方向ではないか。このまま歩いていたら、ますます三笠から遠ざかることになるのであった。うーむ、危なかった。ふむふむ、この前の道をとにかくまっすぐ歩いていけば、右手に郵便局が見えるのだな。そこからさらに数十メートル先に、三笠公園に至る道があるのだな。よっしゃあ。状況開始。

 これでコンビニに入った目的を達したので、即座に店を出ようかと思ったが、このまま出てしまうと、もしかしたら、店に入ってからのワタシの行動を見ていた店の人が、あっ、このおっさんは、道に迷って地図を立ち読みするために店に入ったんだなと思うのではないか。しっ失敬な、そっそんなことするわけないじゃあないですか。いやだなあ。そうそう、歩いてきて喉が渇いていたんですよ。というわけで、ペットボトルの水を買う。

 コンビニを出て、またもやテクテクと歩く。歩いていくと、さっき見た地図の通りに右手に郵便局が見えてきた。よしよし、この先だな。さらに歩いて行くと、道の向こうに、なにやら軍艦のような姿が。敵艦見ゆ!じゃなくて、あれが三笠か!ついに目的地に着いたのだろうか!!

 でも、なんか艦橋にレーダーらしきものが見えるんですけど・・・。

(この稿続く)

IMG_050601_01

彼方に見える軍艦の姿

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