a hundred years ago その3
どんどん歩いて行くと、右側に軍艦は見え続けているのであるが、なんと突然、左側に三笠公園の入り口が現れ、正面に右側の艦とは別の(艦橋にレーダーなどない)軍艦の艦尾が見えた。これが100年前の日本海軍の連合艦隊の旗艦三笠であった。右側に見える軍艦は、まだ遙か彼方にある。うーん、なんなんだこれは思ったが、とにかく三笠公園に着いた。
三笠公園の中へ入ると、そこでは「日本海海戦100周年いきいき横須賀」というイベントの真っ最中であった。出店がいくつか出ていて、どうやら「よこすか海軍カレーの祭典」というものをやっているようであった。海軍カレーというのもなんだなと思うが、確か海自では、毎週金曜日はカレーを食べるというのをどこかで聞いたことがある。金曜日は、カレー以外は食っていけないのだろうか。どうやら横須賀では、海軍カレーはかなりポピュラーな食べ物であるようだ。ちなみに、僕はまだ海軍カレーなるものを食したことがない。出店のみなさんは、もうお昼どきを過ぎてしまったからなのか、閑散としていて、ジュースのたぐい以外は買うものももうないようだった。
広場では、ライブコンサートがやっていた。日本海海戦100周年だからといって、自衛隊の音楽隊のコンサートというわけではなく、ごくフツーのロックのにーちゃんのバンドが演奏をしていた。よくわからんが、このへん、「いきいき横須賀」ということで、今日のイベントにも、年寄りかミリタリーオタクばっかりが集まるようでも困るので、とりあえずイマドキの音楽コンサートをやればいいんじゃないかという企画であることがよくわかったりするわけであるが。まあ、どうでもいいんだけど。自衛隊の音楽隊が来たのは、昨日だったようだ。
公園の中央には、東郷平八郎の像がある。
ここで改めて強調しておきたいことは、日本海海戦と東郷平八郎の名前は、実は海外でも「知っている人」は「知っている」という、たいへん知名度が高いものなのであるということだ。確かトルコであったか、道の名前にトーゴー・ストリートというのがあり、小学校では、教科書にアドミナル・トーゴーの写真も載っていて、日露戦争のことが授業で教えられているという。当時、帝政ロシアの圧政に苦しむトルコにとって、ロシアが日本に負けたことは喜ぶべきことであり、そのロシアの大艦隊を沈めた日本海軍の司令長官であった東郷は、いわばトルコ民衆のヒーローであった。トルコ以外でも、ロシアに虐げられていた国々にとって、日露戦争でアジア人がロシアに勝利したということは希望の光を与えることになった。日本では戦後の歴史教育では、日本海海戦のことなど教えない。日本人が知らず、むしろ外国の方がよく知っているというのが日露戦争であった。
海戦史から見ても、日本海海戦は重要である。それ以前の海戦では、軍艦が木製から鋼鉄製になった時代の初期、船は艦首に衝角という角のように尖った部分があった。これで敵艦に体当たりして、敵の船体に穴をあけて沈めるのである。まるでギリシアかローマ時代の海戦か、あるいは海賊みたいな戦い方であった。なぜこうしたのかというと、当時の大砲では命中性能が低く、仮に敵艦に命中したとしても破壊力や殺傷力が少なかった。ようするに、砲撃では船は沈まないのであった。そこで衝角で敵艦に体当たりして、さらに水兵が甲板から敵船に乗り移って白兵戦を繰り広げるという戦法が最も効果的なのであった。しかしながら、やがて砲や火薬の技術が進歩し、命中精度も破壊力も格段と上がった。三笠はそうした時代の軍艦であり、日本海海戦は衝角で敵艦に体当たりするという戦法ではなく、砲撃によって勝敗を決めるという新しい戦法の時代の最初の海戦であった。
広場を一巡し、三笠の入り口の階段の前にくる。確か入場料があったはずであるが、みなさん、そのままどんどん入っている。どうやら今日は入場無料なんだなと思い、僕もそのまま入り口の階段を昇っていった。階段を上ると、上甲板の後部に出る。この上甲板の後部は、分厚いチーク材でできていて、この船がいかに入念に製造された船であるかがわかる。すぐに眼につくのが、巨大な艦尾主砲であるが、それはチラッと見るだけにして、後部シェルターデッキの下にある36式無線機を見に行く。以前ここに来た時も見ていて、よく知っているのであるが、僕は三笠というと、この無線機のことをまず思う。三笠は、無線機を持っていた。イタリアのマルコニーが無線機の実験に成功した後すぐに、日本海軍はこの最新科学機器を実用化していた。数に勝るロシアの艦隊に対して、日本海軍は作戦と各艦船の組織的な艦隊運動で勝つ以外に方法はなく、それを可能にする通信連絡手段は、当時発明されたばかりの無線機に頼るほかなかった。
無線室から離れ、そこから中甲板への階段を下る。中甲板には、士官室や中央展示室がある。内部は改装されたらしく、記憶の中の以前の三笠の内部とはすいぶん変わっていた。三笠の大きな模型もあって、内部の構造といい、外観といい、三笠っていい船だなと思う。後の時代の戦艦大和は、なんかデカイだけで、よくわからんのであるが、三笠の構造とデザインはわかりやすくていい。いっそのこと、下甲板にある水兵さんたちの部屋も見せて欲しいのであるが、下甲板は土砂で埋まっているという。こうやって歴史博物館のようにしているのだから、完全復元して欲しいものだと思う。日露戦争の経過と戦況という説明のパネルがあって、当時のことがよくまとまっていた。真剣に考えながら読んでいくと、半日ぐらいかかるであろう。そうもしていられないので、ざっと見て次へ進む。
ロシアの艦隊は、バルチック艦隊と呼ばれていた。この艦隊はロシア本国の艦隊であり、バルト海にあるリバウという軍港を基地としていた。極東のアジアには、ウラジオストック艦隊と旅順艦隊があった。しかし、これらの艦隊は、東郷司令官が率いる連合艦隊によって、黄海海戦にて旅順艦隊を、蔚山沖海戦にてウラジオストック艦隊に大規模な損害を与え壊滅状態にさせた。旅順艦隊の残存艦は、旅順に立てこもった。そこでロシアとしては、バルト海のバルチック艦隊を極東に送ることになったのである。送ることになったと言っても、バルト海は北ヨーロッパの海である。そこから、遙か彼方のアジア大陸の東の果てにまで行こうというのである。
この時代、スエズ運河はすでにあった。しかしながら、スエズ運河はイギリスの管理下にあり、イギリスは日英同盟により日本の同盟国であった。よって、ロシアとしては、スエズ運河ができる以前のアジアへ行くルート、つまりヨーロッパを南下し、さらにアフリカ大陸を延々と南下し、南端の喜望峰を回ってインド洋へ北上しなくては、アジアには行けなかった。さらにインド洋を越えて、その先に東アジアがある。思うだけで気が遠くなるような旅になるのだ。しかも、一艘のヨットがホイホイと海を渡っていくのではない。ロシア海軍の大規模な艦隊なのである。バルチック艦隊は、日本海にやってきたというだけで世界史に残る偉業であった。しかしながら、さらに言えば、極東の日本に着けば、それで終わりなのではなかった。本来の目的は、その世界の果てにあるかのような海の上で、これから戦争をしようというのである。よくもまあ、そんな戦争をしようと思ったものだ。ロシア皇帝としては、東洋の猿がそれほど気に入らなかったのであろうか。
このバルチック艦隊の航海のさなか、乃木希典が率いる陸軍の第3軍が203高地から旅順港の残存艦に砲撃を与え、これを壊滅させた。日本海軍としては、残るはロシア本国から来るバルチック艦隊のみであった。日本は、バルチック艦隊もウラジオストック艦隊や旅順艦隊と同様に壊滅させなくてはならなかった。たとえ少数の艦船でも生き残れば、満州でロシアと戦っている日本軍に補給を送る海上輸送船を攻撃されるからである。ロシア帝国の大艦隊を、ロシアが「猿」と呼ぶ弱小貧乏国日本の海軍が倒さなくては、日本国の未来はなかった。彼らが思っていた日本国の未来とは、つまりは100年後の今の日本であろう。今のこの日本国と日本人のために、彼らは戦ったのである。
(この稿続く)
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北欧の小さな国、帝政ロシアに虐げられた歴史を持つ、確かフィンランドかスウェーデンだか、正確な国名は忘れましたが、トーゴー・ビールもあるそうですねw
Posted by: TATのひろ | June 05, 2005 11:19 AM
ひろさん、わざわざ、いたみいります。
トーゴービールというのはいいですね。三笠の中に東郷元帥の遺髪というのがあるんですけど、そんなものを拝むよりも、海軍カレーを食べながらトーゴービールを飲む方が健康的ですね。
Posted by: 真魚 | June 05, 2005 08:08 PM