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June 13, 2005

a hundred years ago その4

 もう一度、上甲板に上がり、艦尾から艦首へと甲板を歩く。晴朗というわけではなかったが、不愉快な湿度もなく、カラッとした横須賀の青い空が頭上に広がっていた。

 甲板では、海上自衛隊の人がなにやら三笠のおみやげ品や(日本海軍の、ではなく、海上自衛隊の)記念品を売っていた。海自って、こうやって宣伝ができるからいい。陸自で一般の人の客寄せができるビックイベントは、富士の総合火力演習ぐらいであろう。仮に、市ヶ谷かどこかの陸自の駐屯地で日露戦争の陸戦で使用した28インチ砲を展示したとしても、誰も見にこないだろうなあと思う。

 甲板を歩きながら、明治の日本のことを考えた。

 三笠は、日本が製造した船ではない。日本がイギリスに発注し購入した軍艦である。三笠は、明治33年(1900年)にイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社にて建造された、当時の世界最新鋭の戦艦であった。この時代、日本は弱小貧乏国であったが、軍隊に費やすカネはすさまじかった。

 この時代、政府は、毎年の国家予算の約半分を軍事に、特に海軍の軍備増強に使っていた。国の予算の半分を軍隊に使っていたのである。明治の国民生活は極度の貧困であったのは当然のことであろう。ちなみに、現在の日本の国家予算に対する防衛費の割合は約5%程度である。ここから見れば、国の予算の半分も軍隊が(戦時ではなく、平時での話だ)に使うような国は、いかに異常な国であったかがわかるであろう。

 さらに異常ともいうべきことは、この状況を国民が耐えたということである。極東の列島の上で、長く平和に暮らしていた人々が、幕藩体制をわざわざ破壊し、近代国家へと変わったのは、とにもかくにも、このままでは世界に取り残されるという不安感からであり、強力な軍隊を持たなければ、自分たちもまた欧米の植民地にされてしまうという恐怖感からであった。そのために、ただの寄り合い所帯のようなものであった社会を、西欧で発生した「近代国家」に作り替えた。

 この作り替え作業は、決してラクであったわけではない。幕末の日本人は、好きで近代国家になったわけではなかった。同じ民族同志で、血で血を洗うような凄惨な内戦を経て、維新は成し遂げられた。そして、さしたる産業も、外国に売る商品もないのにも関わらず、このアジアの列島の住人たちは、欧米並の軍隊を持とうとしたのである。当然ながら、それらの負担は国民が支払った。明治は、食うものも食わずに、国家建設に邁進し、軍隊にカネを支払い続けてきた時代であった。この時代、裕福な暮らしをしていたのは都会の一部の人々のみであり、国民の大多数の生活水準は低かった。それでも不満が出てこなかったのは、貧しいことを美徳とするという江戸時代の価値観がまだ生きていた時代でもあったからであろう。

 しかしながら、それでも軍隊はカネが足りなかった。三笠をイギリスのビッカース・ソンズ・アンド・マキシム社に発注しようとした明治31年、海軍の予算は底をついていた。しかし、発注はしなくてはならなかった。とにかく強力な軍艦が必要なのである。時の海軍大臣山本権兵衛は万策がつき、内務大臣西郷従道のところへ相談に訪ねる。これより少し前、西郷が海軍大臣の時、山本は官房主事という役職で、大佐の身でありながらも、海軍省の老朽した幹部や無能な将官の大量首切りを行った。山本によるこの海軍の組織改革が、後の日露戦争での勝利の一つの要因になるのであるが、この大リストラを認めた西郷もまた海軍になにが必要なのかをよくわかっていた男であり、ようするに西郷と山本は日本海軍の改革者であった。

 さて、三笠をイギリスに発注したいがカネがない。このことを山本が西郷に相談した時、この西郷隆盛の実弟であり、維新の戦乱を戦った男は「それは山本サン、買わねばいけません」と答えたという。しかし海軍にはカネがない、よって「国家予算を流用しましょう」と言うのである。もちろん、犯罪行為である。「もし議会に追及されて許してくれなかったら、あなたと私が二重橋の前で腹を切りましょう。2人が死んで、主力艦ができればそれで結構なことではないですか」と語ったという。三笠は、西郷のこの決断によってできた。彼らは、自分たちが国家予算の半分ものカネを使っているということへの責任と使命感を持っていた。三笠は、そうした時代の、そうした政治の、そうした軍艦だった。

 上甲板後部から、前部へと歩く。大正15年(1923年)、三笠は当時「楠ヶ浦」と呼ばれたこの地に、コンクリートで固定され記念艦となるが、その艦首は横須賀の湾の向こうに広がる水平線に向いている。艦首でぼんやりと立っていると、数人の若い男女たちが、がやがやとやってきた。若者たちは、この艦首を見て「タイタニックができる!!」「タイタニックやれよ!!」とふざけあい始めた。

 タイタニックというのは、ジェームズ・キャメロン監督が豪華大型客船タイタニックが1912年に沈没した事件を映画化した、映画「タイタニック」のあるシーンで、レオナルド・ディカプリオ演じるジャックがタイタニックの船首に立つシーンのことであろう。三笠でこれをやるという発想もなんだなあと思ったが、だからと言って、この若者たちをどうこうと思う気持ちはない。明治の時代の若者たちの、ごく普通の自然の風景として、戦争に行くという光景があったように、平成の今の若者のごくあたりまえの風景として、こうした光景があるのだと思う。

 ひとときふざけ合った後、若い男女たちは、艦首の12インチ砲の前で各人おのおのポーズをとり、お互い携帯電話で写真を撮りあい、そしてまた騒がしく去っていった。数多くのロシアの艦船を沈めた砲は、100年後は若い男女たちの格好の撮影スポットでしかありえなくなっていた。平和というものの、ありがたさであろう。


(この稿続く)

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Comments

このシリーズは大変興味深く読ませてもらいました。今の日本は当時の日本とある意味で似ています。日露戦争を契機に大国にのし上がった当時の日本に対し、大国にのし上がろうとする今の日本。

明治の日本は大国になってからの身の処し方は良くなかった。これからの日本にはどんな教訓がもたらされるか?

ところで、先週末に私は帰省していましたが、その間のkakuさんと激論となったようですね。私の出る幕はなかったようです。

a hundred years agoはその5で「三笠編」を終わりにします。その後は、日露戦争に関係がある「乃木邸編」「日比谷公園編」などと続けようと思います。今年いっぱいをかけて、時々書く予定です。明治の時代から平成の今を考えてみようと思います。

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