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June 20, 2005

a hundred years ago その5

 三笠の上甲板右舷から、湾上の猿島が見える。その手前に見える埠頭に、海自の艦が停泊していた。三笠公園にくる道の途中で見た、レーダーがある軍艦らしき船とはこの艦であった(後で調べてみると、どうやらあの船は、海自の護衛艦「はつゆき」であったようだ)。しばらく、三笠の甲板から海自の船をぼぉーと眺める。眺めていると、なにやら、一般の人も乗艦しているではないか。一般公開をしているようだ。シマッタぁ、と内心ここで思った。海自の艦が一般公開をしていたなんて知らんかった。それを知っていたのならば、あっちへ行くべきであった。なにが哀しゅーて100年前の軍艦の方に乗っていなければならんのか。

 と思ったのであるが、ここはやはり日本海海戦100周年ということで、この三笠にやってきたのであるだから、そーゆーミーハーなことを思ってはイカンなと思いなおした。それにしても、こうして三笠の艦上から、今の海自の護衛艦を見ていると、不思議な感覚になってきた。こっちとあっちの間には、100年の年月の隔たりがある。まるで自分が100年前の日露戦争の時代の人間で、それが現代の海上自衛隊の艦を見ているような気持ちになってきたのである。かわぐちかいじのマンガ『ジバング』の、太平洋戦争の時代にタイプスリップした海自のイージス艦「みらい」と日本海軍の艦が初めて遭遇するシーンでの、「みらい」を初めて見た日本海軍の側の水兵や将校の心情がわかるような気分になった。同じ日本の軍艦らしいが、なにかどこか違うと思ったであろう。

 あそこに見える、あれは一体なんなのか。ここで僕が思った「あれ」とは、海自の護衛艦であるだけではなく、多少大げさに言えば、明治38年の観点から見た海上自衛隊であり、さらに言えば、平成の現在の日本国の国防そのものなのであった。憲法によって、その行動が大きく規制されていて、それでも国を守れという矛盾した枠を科せられた自衛隊というものをどう考えればよいのだろうか。このへん、かなりざっくりとした見解なのであるが、今の海自はアメリカ海軍の「いち部隊」になっているとしかいいようがないと思うのであるが、どうであろうか。

 もちろん、こちら側(三笠側)には、ロシアの南下というさしせまった脅威があり、それに対抗することに民族の存亡がかかっていることであった。しかしながら、あちら側(海自側)(が発足した当時は)米ソ冷戦という状況であったが、日本人の誰もがそのことを実感として感じていたわけではない。いわば、アメリカの占領政策のひとつとしての日本の防衛であり、その体制は、戦後60年たった今日でも依然として続いている。こちら側は、アジアの発展途上の貧乏国だった日本が独立自尊をかけて、自分たちが作った国を守るために考えに考え抜いた軍隊であるが、あちら側は、どうもわかりにくい。そもそも、自衛隊は、現情勢下において日本国の防衛とはいかなるものであるべきかという思考から生まれた組織ではない。むしろ、政治的理由によって作られたものである。しかしながら、もし軍事力の最終目的が「戦争状態になることのないようにすること」であるのならば、戦後60年間は、それはそれで(かなり歪な姿で、であるが)その目的は達してきたことになる。しかし、その反面、失ったものも大きかった。作家福井晴敏が小説『亡国のイージス』で書いたように、現状では「亡国の盾」でしかない海自に一体なんの存在意義があるのだろうか。しかしながら、海自を「亡国の盾」にしているのは、今のこの国なのである。

 上甲板から、前部艦橋へと昇る。前回来たときは艦橋まで昇ることはなかったので、今回が初めてである。階段の勾配は急であり、いかにも「グンタイのフネ」という感じでゴツゴツしていた。とても昇りやすいとはいえない。それでいて、かなり高さもある。落ちたらケガをするなと思い。慎重に足をかけて昇る。これを駆け上れと言われたら、10年前の自分であれば難なくできたであろうが。今やれと言われたら、できなくはないが、かなり覚悟を要するであろう。しかも、息は切れるだろうなと思う。自分はもう軍艦に乗って戦争ができるような歳ではなくなったなとか思いながら階段を上る。

 この艦橋で、東郷長官とその幕僚たちが指揮をとった。実際のところ、幕僚が一カ所に固まっていると、そこを砲撃された場合、指揮スタッフが全滅してしまうので、海戦時には、ここに立っていたのは東郷長官と参謀長の加藤友三郎少将と参謀の秋山真之中佐の3人であった。残りの幕僚は、この艦橋の下にある装甲で囲まれた司令塔にいた。

 ひととき、艦橋で風に吹かれながら、ぼおーと突っ立ている。あの日、ここでの光景は、さぞや劇的なシーンであったであろうが、100年後の今は、まったりとした青空の下で、とりあえず目前に見えるのは、アメリカ海軍横須賀基地と、その向こうになにやら団地らしきものが見えだけであった。

 日露戦争は、勝った後が良くなかった。戦後、同じ民族とは思えない程、日本人は変わってしまった。日本人は、日本が世界一の国だと思い込むようになった。もちろん、自分の国が世界一だと思うのは悪いことではない。しかしながら、常識的な国際比較の視点を日本人、特に政治家と軍人は持つことがなかった。世界に冠たる大日本帝国というイメージが一人歩きをし始めていた。

 江川達也のマンガ『日露戦争物語』であったか、幕末とは嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀にやってきてから、明治に改元される慶應3年(1867年)までのことを言うのではなく、明治38年の日露戦争の終結をもって終わると書いてあって、なるほどそうかと思ったことがある。日露戦争の勝利は、ただ単にロシアとの戦争に勝利したというだけではなく、ペリーが浦賀にやってきた時以来日本人が抱いてきた、欧米の植民地になるかもしれないという恐怖心と緊張感と、そして西洋文明から見れば未開のアジアの国であるという強烈な劣等感から解放されたということを意味していたのであろう。しかし解放されたのならば、健全な国際感覚を持てばいいのにと思うが、そうしたものはついに大日本帝国が終わるまで持つことはなかった。それは、強烈な劣等感の裏返しとしての常軌を逸した優越感でしかありえなかった。

 太平洋戦争では、日本海軍は日本海海戦のパターンである艦隊決戦方式でアメリカ軍と戦おうとしていた。しかしながら、時代は大艦隊が砲撃で雌雄を決するのではなく、航空機と潜水艦による攻撃の時代になっていた。それでも、バカのひとつ覚えのように艦隊決戦方式にこだわり、大和のような巨大戦艦を建造した。なぜそうなってしまったのかというと、日本海海戦での劇的勝利があったからである。

 日本海海戦での劇的な勝利とは、様々な要因の組み合わせによるものであって、決して東郷平八郎の決断が正しかったからだとか、作戦参謀の秋山が天才だったからというわけではない。事実、日本海海戦において、東郷はロシア艦船の動きについて誤認する。この誤認によって、三笠はロシア艦を危うく見失うところであった。もしバルチック艦隊を完全に殲滅することができず、一隻でも逃せば、この戦いは結果的に日本の敗北に終わるのである。この東郷の過ちは、第二艦隊の司令長官上村彦之丞中将と参謀佐藤鉄太郎中佐の的確な判断によって救われることになる。つまり、東郷といえども完全無欠ではなかった。しかしながら、日露戦争後、東郷は軍神となる。

 戦争とは、その戦争の前にどれだけのことを行ったかで、その勝敗の大半は決まる。日本海海戦は、戦いに至る何年も前から、ロシアに勝つために何をなすべきかを考え、実行し、あらゆる状況を想定し、必要な物資を準備し、十分すぎる程の訓練を行っていた。それでも現場では誤ちを犯した。しかし、過ちを修正することができる組織システムも持っていた。

 戦後、軍は国民にそうしたことを知らせようとはしなかった。国民もまた知ろうとはしなかった。日本軍は世界一だという、根拠のない信仰のようなものが生まれた。東郷を軍神とした日本海軍は、国際社会と軍事技術の変化に対応することなく、巨艦巨砲主義に走り、艦隊決戦主義にこだわった。やがて後の太平洋戦争で、ミッドウェーで大規模な損害を受け、レイテで壊滅的打撃を受けるが、それでも、まだ戦争を続行していった。昭和の日本海軍は、もはや明治の日本海軍とは別のものになっていた。そして、昭和20年(1945年)、大日本帝国海軍はその歴史を終える。

 艦橋でしばらくたたずみ、ぼんやりとしていたが、そろそろ降りようと思った。見るべきものは見たとして、三笠から出る。今度、ここに来るのはいつのことになるだろうか。

 三笠公園の出入り口の隣の売店に入る。以前、ここへ来たときは、三笠のレリーフが入ったスプーンを買ったのだが、今はもうそうしたものはなくなっているようだ。ご存じ「よこすか海軍カレー」があった。なんと「海軍さんの珈琲」というものもあって、こっこれは、と思ってしまった。陸軍ならばなんであろうか、「陸軍さんの焼酎」であろうか。うーむ、なんかハイカラっぽくないな。


(「三笠を見に行く編」終了)

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Comments

明治から昭和を振り返るシリーズ、今後も楽しみにしています。ところで時代は一気に飛びますが、大戦が終わって朝鮮戦争が勃発した時に日本人は何も脅威を感じていなかったように記されています。それどころか中学や高校の教科書では、この戦争の特需景気で日本経済が息を吹き返したと書かれている始末。
ヨーロッパ人がベルリン封鎖で緊張きわまったのに対して当時の日本人は何を考えていたのか?ソウルは陥落したので、事態はもっと深刻なはず。それなのに一国平和主義者は「吉田反動内閣」を罵り、後の教科書では「特需景気」を絶賛するとは!

そもそも日本がなぜ朝鮮を植民地にしたか?半島から中国、ロシアの脅威を遠ざけるためである。・・どう考えてもこれは昭和史の謎だと思うのですが。

Posted by: 舎 亜歴 | June 24, 2005 at 02:23 AM

第二次世界大戦の終結は、米ソ冷戦の始まりですね。とにかくこの時代は、共産主義にどうするかということが最大の課題であった時代です。ベルリン封鎖から朝鮮戦争に至るこの時代の深刻さは、当時の日本人にはわからなかったと思います。GHQの占領支配下にあって、世界のことよりも自国の社会の立て直しにやっきになっていた時代ですから。

日韓併合はなぜ行ったのか。朝鮮の植民地経営で日本が儲かることはなかったですから、なぜ行ったのかは謎ですね。

Posted by: 真魚 | June 27, 2005 at 02:10 AM

真魚さん、

a hundred years agoの超大作、やっと読み終えました。キレギレで読んだので、内容についてのコメントは自信が無いので控えます。

ところで、この『三笠』、戦後はダンスホールとして使われていたのを、大平洋艦隊司令長官で日本海軍を撃破し、後、ミズーリ艦上で日本降伏受託書に署名したチェスター・ニミッツ氏の“強力な呼びかけ”で、保存の動きとなったそうですね。

アドミラル・トーゴーの信奉者であったニミッツの意を受けた米海軍が、横須賀にあった廃艦一隻を日本に贈与し、スクラップにして得られた約3千万円を三笠の復元に充てさせた、そういった事実については、この記念艦のどこかに示してあるのでしょうか?

そしてこういった事実を、東郷元帥についてと同様に、きちんと日本の教科書で教えて欲しいと願っています。それが私の言う、「嫌国教育」を止めること、であります。

Posted by: kaku | June 28, 2005 at 09:06 PM

前回のコメントは誤解を招きやすかったです。私が昭和最大の謎ではと言ったのは、朝鮮戦争の時の日本国民の態度です。復興で大変なのは日本人もヨーロッパ人も同じ。

それなのに日本人はソウルが陥落しても警察予備隊の創設に反対しながら、「特需景気」にわくと喜ぶ。節操がないとはこんな態度です。kakuさん。

Posted by: 舎 亜歴 | June 29, 2005 at 12:39 AM

kakuさん、

戦後の三笠の復興の話は艦内では説明されていません。ただ、三笠復興のカンパや資金援助をした人々の名前が刻まれているレリーフが艦内にあったと思います。

三笠記念艦はもっと充実して欲しいですね。今でもなんとかどうにかやっていますという感じです。これこそ国家がやるべきことであって、いっそのこと、国立の教育記念館にして欲しいです。

Posted by: 真魚 | June 30, 2005 at 01:27 AM

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