仕事というもの その2
「かまやつ女」と呼ばれる若い女性たちがいるそうだ。「かまやつ女」というのは、パルコのマーケティング雑誌「アクロス」の元編集者で、消費シンクタンク・カルチャースタディーズ研究所代表の三浦展氏が提唱した言葉である。原宿や下北沢や吉祥寺でよく見かける、おじさんみたいな帽子を被って、服装がラフでゆるゆるの格好をした20歳前後の女性たちのことを総称してこう呼ぶようだ。彼女たち外見が、1970年代に吉田拓郎作詞作曲の「ああ我が良き友よ」がヒットしたミュージシャンのかまやつひろし氏に似ているところからつけたようだ。
もう少し詳しく描写してみると、
「昔の中年男性のような帽子をかぶっている。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィットで、ゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズかなにかをはいている。小物やアクセサリなどで多少キュートな感じを演出しているのだが、あくまでも小物である。近づいて、よーく見ないとわからない。ただ、とても楽ちんな格好であることにはかわりない。上半身はランニングのようなコットンのシャツなどを二、三枚重ねて着る「重ね着」が特徴。だらっと、ゆるく、ルーズに着るのがかまやつ流。そして上半身でも下半身でも肌が露出するのを非常にいやがる。」
(三浦展『「かまやつ女」の時代ー女性格差社会の到来』)
三浦氏によると、彼女たちの価値観は、彼女たちのファッションのように「ゆるく」「頑張らず」「マイペース」「ゆっくり」「のんびり」であるという。競争して勝つとか、人の上に立つとかいった闘争心、向上心はほとんどなく、そもそも向上心がないということを表現したファッションがかまやつファッションであるようだ。そして、三浦氏はこう書いている。
「しかし、これは個性化だろうか、多様化だろうか。
むしろこれは、若者のファッションの個性化でも、価値観の多様化でも何でもなく、現代社会の階層化を反映しているのではないか、と私は思うのだ。
もう、これからの社会は、なかなか年収も伸びないし、もっと高い地位の職業に就くことも難しい。そういう時代の雰囲気を感じ取った若い女の子が、かまやつファッションをしているのではないか、という気がするのである。」
つまり、「かまやつ女」の格好をしている若い女性たちは、異性の視線を意識したり、社会の期待に応えようという上昇思考や向上心がなく、今のままで楽しくマイペースで生活ができればそれでいいという考え方をしているとし、その考え方がファッションにも出ているというのである。
この「かまやつ女」の対称的位置にいるのが「六條女」である。「六條女」とは、東大法学部卒の女性タレント「六条華」(現在は、楠城華子に改名)からのネーミングであるという。「六條女」の女性たちは、高偏差値大学卒、有名企業に勤めていたり、独立した自営業を営んでいたりして、キャリア志向で、高収入で、容姿端麗、スタイルもいいという女性たちである。三浦氏は、この現在の若い女性の生き方の違いを、階層の違いであると捉えている。そして、こう書いている。
「つまり、高い階層に属する人間ほど、より高い階層を目指すか、いま属している高い階層を維持するために努力する。しかし、低い階層に属する人間は、より高い階層を目指さないし、努力しない。それでも、いま属している階層にいられるのなら、それでいいと思っているということである。」
しかし、である。ここまで読んできて、果たしてそうなのだろうかと思った。
この本を読んでまず思ったことは、ファッションというものだけで、なにゆえ、こんなにアレコレ言われなくてはならんのかいなということであった。この「階層化」という見方についても、社会学的観点から見れば、なんか無理があるような気がする。それに、かまやつひろしのスタイルと重ねるのも、うーむ、確かに似ているけど、「かまやつひろし」なのかというと少し違うような気がする。まー実際、年代が違うので、かまやつひろしについては、自分はよく知らないのだけど。
もちろん、「かまやつ女」の「自分らしら」イコール「楽ちん」「ゆったり」「ルーズであること」という価値観には同意はできないが。かといって、「六條女」の仕事イコール自己実現、そして私生活も充実させるためにカンバっていますというのも、別に悪くはなくて、どんどんガンバって下さいとしか言いようがない。つまり、どっちが上とか下とか言えないのではないかと思う。それに、「六條女」は(しかし、「六條女」というのもなんだなあ)幸福な人生なのかというと、これも人それぞれであろう。ファッションにしても、平日はバシッとスーツを着て、それなりに「シゴトをしています」という人であっても、休日はかまやつファッションで井の頭公園をぼおっと散歩していますという人だっていていいはずだ。あるいは、徹底的にシゴトに打ち込む日々を送っていたら、はっと気がついたら髪はボサボサ、服装はダボダボ、まるでかまやつファッションみたくなっていたということもあるだろう。
「かまやつ女」的ライフスタイルは、昔の時代もそれなりの数はいた。今は、その数が昔と比べて圧倒的に数多くなったということなのだろう。その意味では、「六條女」も同じである。かつて、大多数の女性たちは、家庭に入るという選択肢しかなかった。しかし現代では、その選択の幅が大きくなったということなのだろう。女性の「かくあるべき姿」が消滅してしまった現代、誰もが「自分らしさ」を求めるようになった。それは、「かまやつ女」であろうと「六條女」であろうと同じであるように思える。
« 仕事というもの その1 | Main | a hundred years ago その1 »
「かやまつ」タイプは野暮ったさを逆手に可愛さを演出しようとでもしているのかなと、勝手な推論をしています。どんなに不恰好に見えても、原宿や吉祥寺に集まるというのはそれなりの意図があるはず。容姿に自信がないけど、どうにかして自分を可愛く見せたい・・・こう思っている若い女性なら有り得ると思います。注目されたい、上昇したいという欲望も様々な形であらわれるのでは?
ところで、アニメのお姫様のような服装をした若い女性はどう分類するのでしょうか?今の街中ではこちらの方が目立つように思います。
Posted by: 舎 亜歴 | June 03, 2005 12:04 AM
いえいえ、そこが、そうした建設的な価値観はありません。「注目されたい、上昇したい」というのは、誰に「注目されたい」のか、どこへ「上昇したい」のかということがありますが、男性とか社会とかに「注目されたい」とか「上昇したい」とかいった意識はないようです。そうした価値観とは違う価値観なのです。ボヘミアン的価値観とでも言えます。こうした人々が、音楽やアートや文芸の良き批評家、消費者、生産者になってくれれば、日本でもボヘミアン文化が花開きます。
アニメのお姫様のような格好といいますと、ゴスロリ(ゴシックロリータ)ファッションでしょうか。あるいは、メイドファッションとか。
Posted by: 真魚 | June 04, 2005 11:54 PM
初めまして。リリィシュシュで検索して辿り着きました。
その女性格差なる考え方は
「希望格差社会」的な見方のようですね。
この本には↑うなずける点が多々ありました。
特に少子化の原因については、そうそう、
それを言ってほしかった!という内容でした。
女性格差についても同性から見れば
言い得ていると思います。
ただ、三浦氏とやらが女性格差を提唱する目的が
いまひとつよくわかりません。何を言いたいのでしょう?
Posted by: 川向こう | June 05, 2005 04:55 AM
川向こうさん、はじめまして。
三浦氏が言いたいのは、「かまやつ女」は社会のお荷物になると言いたいのではないでしょうか。「自分らしさ」というコトバにかこつけて、自己努力をしない、毎日をルーズに生きる女性たちがいるとしています。本書の中に書いていますが、「六條女」タイプから見ると、自分の力を出し切って生きていない「かまやつ女」へのイラタダしさがあって、またお父さん世代から見て「かまやつ女」は一体なにを考えて生きているのかわらないところがある、それを三浦氏の「かまやつ女の時代」で説明しようとしたのではないかと思います。
男性である僕の眼から見て、「かまやつ女」に確かにそうした面もあるのは否定できませんが、僕はむしろこの本は、あたかも人がファッションを選択しているのではなく、ファッションが人を規定しているかのように論じているように感じました。
Posted by: 真魚 | June 05, 2005 08:07 PM
そうなんですか。意識の格差というのは確かに存在すると思いますが、私にも階層という概念はよくわかりません。最近、いろいろな若い人たちとの接触がないので、私には実態はわかりません。ただ自分と同世代の、いわゆる「モラトリアム人間(いつまでもフリーターのような人)」と呼ばれていた人たちで言うなら、上昇志向がなく、変化を嫌い、ゆる系のファッションを好むという傾向があったのは事実です(逆が言えるかどうかは疑問)。社会のお荷物かどうかは、ファッションではなくニートかどうかというあたりではないですかね。見つけたら読んでみますね!
Posted by: 川向こう | June 06, 2005 03:44 AM
>ファッションが人を規定しているかのように論じているように感じました。
確かにこうした議論には違和感を感じても不思議ありません。これがもっと極端なのは犯罪報道です。わずかなキーワードを強調するので、素人目にもこれが犯罪の実態だろうかと疑問を抱くことが多いです。
例えば幼女誘拐殺人などでは、犯人のロリコン趣味や恵まれない家庭状況、社会的境遇などを面白おかしく「解説」しています。実際には家庭や社会に恵まれないロリコン趣味の持ち主は何十万、何百万もいながら、凶悪犯罪に走るのは例外的存在です。こうしたキーワードが独り歩きするようになると、犯罪を犯さない人にも無用の偏見が生ずるようになります。
注)私は人権問題として議論している。ロリコンを良い趣味とは思っていない。念のため。
お受験殺人では「引きこもり」というキーワードが面白おかしく書き立てられ、この病気に対する偏見を助長するとして厳しい抗議の声があがった。
安易な分類でわかったようなことを言うと、犯罪者の人権もさることながら、全く関係のない人の人権まで傷つけかねないのは恐ろしいです。
ファッション評論ならまだ他愛がないで済みますが、時と場合によっては深刻な事態に発展しかねません。
Posted by: 舎 亜歴 | June 07, 2005 01:41 AM
短絡的な表現で一括りにするだけでは意味がないと思います。
「引きこもり」といわれるような人たちについては、即犯罪という偏見を持つのではなく、なぜそういう人が増えているのかを考えることが重要だと思います。
日テレなどで深夜にやっているドキュメンタリー番組ではそのような取り上げ方をしているのですが、人が見る機会が少ない時間帯なのが残念です。それと比べ、「かまやつ女」などは括る意味があるのかどうかが疑問です。
ところで実はブログを始めたばかりで、BBSとの区別がよくわかっていません。ブログの使い方をもう少し勉強してみます。
Posted by: 川向こう | June 07, 2005 08:18 PM
舎さん、
理解できない犯罪が起きた時、理解できる内容で理解をして安心をしたいのだと思います。そうした趣味であった、そうした家庭環境であった、だからこうした犯罪をしたのだと理解して、自分はそうではないと思って安心をしたいのではないでしょうか。マスコミは、本当の犯罪の動機や背景を考えようとも思わないし、また考えてもどうなるものでないと思っているのではないかと思います。
Posted by: 真魚 | June 08, 2005 01:02 AM
川向こうさん、
「かまやつ女」は、ファッションでの市場調査の話であって、それ以上、それ以下のものでもないと思います。それをあたかも現代女性論みたいな感覚で述べられてしまっているので、そこに問題があると思います。ところが、例えば朝日新聞社の雑誌「アエラ」なんか、この手の特集をよくやるんですよ。結局、こう論じられると「わかりやすい」んです。内容の質よりも、わかりやすいかどうかが優先されてしまうんです。かくて、ますます単純な世の中であるかのようになって、誰も本質を見ないようになっていきます。
ブログとBBSは違うものですが、僕の場合はなるべく、こうしてみなさんが会話できるようでありたいと思っています。
これからもよろしくお願いします。
Posted by: 真魚 | June 08, 2005 01:03 AM
確かにそうですね。メディアも含めて、短絡的な風潮があると思います。「南セントレア市」など、自治体までが流されやすくなっていることが気になります。
ブログのマナー等わからないままに不躾に書き込んでしまい、失礼しました。議論をしてもいいのか、テーマが逸れてもいいのかなど、書き込んでから躊躇している有様なので、学習の後、またよろしくお願いします。
Posted by: 川向こう | June 08, 2005 12:37 PM