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May 2005

May 29, 2005

a hundred years ago その1

 100年前の5月27日は、日露戦争の日本海海戦で日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊をことごとく沈めた日であった。

 対馬沖の海戦にて、日本海軍はロシアの艦船を全隻沈める必要があった。もし、ロシアの艦船を逃してしまうと、満州(現中国東北部)での日本とロシアの戦争での日本側の補給線をロシア艦船によって攻撃されてしまうからである。補給が断たれれば、中国大陸での戦争は負けることになる。つまり、日露戦争はロシアの勝利となる。

この日、5月27日、この戦いを前にして、旗艦三笠に掲げられたZ旗の信号文は「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」。まさに、この一戦は明治日本の興廃の戦いであった。100年前の、この日露戦争でもしロシアの勝利となっていたら、満州から朝鮮半島はロシア領となっていたであろう。日本本土は、直接の植民地になりはしなかったと思うが、莫大な賠償金を課せられたであろう。これにより、昭和期に至っても日本経済は停滞し続けていたものと予測される。つまり、その後の東アジア史は大きく変わっていたものと思われる。

  その戦争に勝利した。

 この戦いは、勝つべくして勝った戦いでもあった。この戦争が始まるまでに、新興国家日本は徹底的な戦争準備を行い、ロシアとの戦争に勝つ軍隊を作り上げていた。それでも維新を生き残ってきた政治家たちは、大国ロシアに勝つとは信じていなかった。勝つのではなく、せめて負けることがあってならないというきわどい線の上を日本は歩み進んだ。そのために、ありとあらゆる努力を惜しまず、全知全能をかけて、日本人はこの戦争を戦った。

 いわゆる司馬史観では、この日露戦争の勝利の後の日本国と日本人は、大きく間違った方向に進んでいったということになる。つまり、明治は良くて、その後の昭和は間違っていたという見方である。この見方について、いくつか批判が出ている。司馬遼太郎は、明治の戦争は勝ったから明治日本は良くて、昭和の戦争は負けたから昭和日本は良くないと言っているだけだという意見がある。太平洋戦争は負けることに意義があったという考えも理解できなくはないが、それでは昭和の政治、外交、軍事には、なんの間違いもなかったのだろうかと僕は思う。大東亜戦争は正しかったという視点では、明治の日本と昭和の日本の違いを考えることはできない。

 日露戦争から100年後の今年、折りを見て日露戦争を何度か振り返ってみたい。

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May 26, 2005

仕事というもの その2

 「かまやつ女」と呼ばれる若い女性たちがいるそうだ。「かまやつ女」というのは、パルコのマーケティング雑誌「アクロス」の元編集者で、消費シンクタンク・カルチャースタディーズ研究所代表の三浦展氏が提唱した言葉である。原宿や下北沢や吉祥寺でよく見かける、おじさんみたいな帽子を被って、服装がラフでゆるゆるの格好をした20歳前後の女性たちのことを総称してこう呼ぶようだ。彼女たち外見が、1970年代に吉田拓郎作詞作曲の「ああ我が良き友よ」がヒットしたミュージシャンのかまやつひろし氏に似ているところからつけたようだ。

 もう少し詳しく描写してみると、

「昔の中年男性のような帽子をかぶっている。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィットで、ゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズかなにかをはいている。小物やアクセサリなどで多少キュートな感じを演出しているのだが、あくまでも小物である。近づいて、よーく見ないとわからない。ただ、とても楽ちんな格好であることにはかわりない。上半身はランニングのようなコットンのシャツなどを二、三枚重ねて着る「重ね着」が特徴。だらっと、ゆるく、ルーズに着るのがかまやつ流。そして上半身でも下半身でも肌が露出するのを非常にいやがる。」
三浦展『「かまやつ女」の時代ー女性格差社会の到来』

 三浦氏によると、彼女たちの価値観は、彼女たちのファッションのように「ゆるく」「頑張らず」「マイペース」「ゆっくり」「のんびり」であるという。競争して勝つとか、人の上に立つとかいった闘争心、向上心はほとんどなく、そもそも向上心がないということを表現したファッションがかまやつファッションであるようだ。そして、三浦氏はこう書いている。

「しかし、これは個性化だろうか、多様化だろうか。
むしろこれは、若者のファッションの個性化でも、価値観の多様化でも何でもなく、現代社会の階層化を反映しているのではないか、と私は思うのだ。
もう、これからの社会は、なかなか年収も伸びないし、もっと高い地位の職業に就くことも難しい。そういう時代の雰囲気を感じ取った若い女の子が、かまやつファッションをしているのではないか、という気がするのである。」

 つまり、「かまやつ女」の格好をしている若い女性たちは、異性の視線を意識したり、社会の期待に応えようという上昇思考や向上心がなく、今のままで楽しくマイペースで生活ができればそれでいいという考え方をしているとし、その考え方がファッションにも出ているというのである。

 この「かまやつ女」の対称的位置にいるのが「六條女」である。「六條女」とは、東大法学部卒の女性タレント「六条華」(現在は、楠城華子に改名)からのネーミングであるという。「六條女」の女性たちは、高偏差値大学卒、有名企業に勤めていたり、独立した自営業を営んでいたりして、キャリア志向で、高収入で、容姿端麗、スタイルもいいという女性たちである。三浦氏は、この現在の若い女性の生き方の違いを、階層の違いであると捉えている。そして、こう書いている。

「つまり、高い階層に属する人間ほど、より高い階層を目指すか、いま属している高い階層を維持するために努力する。しかし、低い階層に属する人間は、より高い階層を目指さないし、努力しない。それでも、いま属している階層にいられるのなら、それでいいと思っているということである。」

 しかし、である。ここまで読んできて、果たしてそうなのだろうかと思った。

 この本を読んでまず思ったことは、ファッションというものだけで、なにゆえ、こんなにアレコレ言われなくてはならんのかいなということであった。この「階層化」という見方についても、社会学的観点から見れば、なんか無理があるような気がする。それに、かまやつひろしのスタイルと重ねるのも、うーむ、確かに似ているけど、「かまやつひろし」なのかというと少し違うような気がする。まー実際、年代が違うので、かまやつひろしについては、自分はよく知らないのだけど。

 もちろん、「かまやつ女」の「自分らしら」イコール「楽ちん」「ゆったり」「ルーズであること」という価値観には同意はできないが。かといって、「六條女」の仕事イコール自己実現、そして私生活も充実させるためにカンバっていますというのも、別に悪くはなくて、どんどんガンバって下さいとしか言いようがない。つまり、どっちが上とか下とか言えないのではないかと思う。それに、「六條女」は(しかし、「六條女」というのもなんだなあ)幸福な人生なのかというと、これも人それぞれであろう。ファッションにしても、平日はバシッとスーツを着て、それなりに「シゴトをしています」という人であっても、休日はかまやつファッションで井の頭公園をぼおっと散歩していますという人だっていていいはずだ。あるいは、徹底的にシゴトに打ち込む日々を送っていたら、はっと気がついたら髪はボサボサ、服装はダボダボ、まるでかまやつファッションみたくなっていたということもあるだろう。

 「かまやつ女」的ライフスタイルは、昔の時代もそれなりの数はいた。今は、その数が昔と比べて圧倒的に数多くなったということなのだろう。その意味では、「六條女」も同じである。かつて、大多数の女性たちは、家庭に入るという選択肢しかなかった。しかし現代では、その選択の幅が大きくなったということなのだろう。女性の「かくあるべき姿」が消滅してしまった現代、誰もが「自分らしさ」を求めるようになった。それは、「かまやつ女」であろうと「六條女」であろうと同じであるように思える。

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May 24, 2005

仕事というもの その1

 このところ、連日、仕事をさせられまくりの状態になっている。「させられまくり」というのも、へんなコトバであるが、毎日午前0時近くに帰宅することや、土曜も日曜も仕事をして、自宅に帰るともはや疲れ果ててなにもする気もなくなるというのは、決して自分が望んでそうなっているわけではない。しかしながら、世の中には「自分がそう望んだわけではない」ことに、なぜだか知らんが関与せざる得なくなることがある。さらに、これも「自分がそう望んだわけではない」のに、社会的責任というものを負わせられる。ちなみに、そのことを考えれば、例えばJR西日本に向かって、さも自分たちが正義であり無誤であるかのような態度をとるマネは自分にはできない。多かれ少なかれ、自分もああした間違いをするかもしれないという気分が自分にはある。

 解剖学者の養老孟司先生がどこかで書いていたことであるが、養老先生の職業は解剖学である。言ってみれば、死体を切り刻む職業である。死体を切り刻むということが、「自分に合った仕事」と思っている解剖学者はまずいないであろうと書かれていた。つまり、自分らしい職業を探すというのは、この世に自分らしい職業があるはずだということが前提になっているが、「自分に合った仕事」というものはないのである。そもそも仕事とは、社会のなんらかの需要に対する供給なのであり、それは「自分らしい」とか「自分らしくない」とかいうこととは別次元のことなのだ。仕事では、他人の理不尽に振り回されることもあれば、不本意なことをやらなくてはならないこともある。これほど高度に管理化された今の社会では、仕事を通しての「本当の自分」や「自分の個性」というものは存在しない。かつ、存在させなくてはならないものでもない。

 しかしながら、じゃあ、どんな仕事でもいいのかというと、人には向き不向きがあると思うので、そういうわけにもいかないであろう。それに組織の中の仕事とはいえ、程度の問題として個としての選択や判断はある。しかしながら、それもあくまでも「程度の問題」であって、基本的には仕事というものは、他者の要求に対する対応であり、自分の好きなことを好きなようにやるわけにはいかないものなのだという意識が根底にあって、その上で、なおかつ「自分らしさ」や自分の向き不向きがあると考えるのが妥当なのではないか。もちろん、だからと言って無理をする必要はないが、まったく無理をしないで、この世の中を生きていくことができるのは、働く必要がない資産家か公務員ぐらいではないか。このへんも程度の問題であろう。(補足:5/24にkakuさんより、この部分の文章は、公務員に失礼であろうとのご指摘があった。確かに公務員と言ってしまうと、警察官や自衛官も含まれるので、失礼と言えば失礼であろう。まことに、ごもっともなので「公務員」という箇所はないものと思って頂きたい。公務員さん、ごめんなさい。)

 昨今の「自分らしさ」とか「個性」とか(だけ)にこだわる若者たちを見ると、自分も昔はああだったかなあと思い、そうした思考の設定そのものに誤りがあるんよと言いたくなるのである。

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May 17, 2005

「成熟した国家」の天文学的借金

 細田官房長官は、財務省が発表した2004年度の国際収支速報で、所得収支が過去最高となったことについて、「基本的には歓迎している。成熟した国家としてのありようになっている」との見解を示したという。

 よくわからんのだが、「成熟した国家」ということと、国家財政の借金が751兆円もあって、消費税を19%にしようとしているということがどう関わるのであろうか。

 昨年度の所得収支が9兆7331億円の黒字であったとしても、751兆円の借金から見れば微々たるものであり、かりに100兆の税収増加があっても全然足りないのである。というか、もはや解決は不可能であろう。

 となると、残る手は国民負担である。しかし、これを一度にやってしまうと国民からの反発を招く。そこで考えられる手としては、日銀が日本の金融機関から国債を買う、金融機関はそのカネで国債を買う、これをぐるぐると繰り返していく、よって政府にはカネが入る。当然、ここでも問題は金利の支払いであるが、それは金利の上昇をさせない。日銀が押さえ込んでしまう。よって、金利の支払いもなんとかクリアする。こうやってずるずると時間だけはかせいで、あとは長期間にわたって、税金をじわじわと上げていき国民から徴収する、という手をとるのではないか。

 しかし、そうは言ってもこの天文学的借金を解消する日は来るのだろうか。来るとしても、そうとう先の未来の話になると思うのであるが。最大の課題は、こうした事実に対して、国民が気がつかないようにさせること、国家財政に不安を感じさせないようにすることであろう。それさえできれば、上記の方法はオッケーになるのだ。かくて、国民が財政の実態を見ないよう、気がつくことないようにする。外国から見れば、こうしたことはおよそ民主主義国家とは思えない、社会主義国家の姿そのものなのだとバレてしまうので、そうした「海外からの視点」を日本国内の日本人が持つことがないようにするのが肝要なのであろう。

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May 15, 2005

mukulcast.comを聴いています

 韓国のインターネットラジオでmukulcast.comというのがある。これがなかなかいい。なにがいいのかというと、DJじゃあなかったCJ(Cyber Jockeyと呼ぶそうだ)が全員女性で、その声がこれがもーーーーめっちゃかわいい。

 試みに聞いてみたいという人は、まずmukulcast.comのウェブにアクセスをして欲しい。ここって当然のことながら全部韓国語なので、なにがなんだかよくわからんのだが、とりあえずここのウェブにアクセスをしたら右上の「24h MUSIC RADIO Channel」と書いてあるところの下の、これがまたなにが書いてあるのかわからんハングル語の文字のリストをどこでもいいからクリックして欲しい。すると、Windows Media Playerかなんかのソフトが勝手に起動して聴けるのではないかと思う。そうならなかったら、Windows Media Playerを自分で起動させて、「ファイル」の「URLを開く」でhttp://www.mukulcast.com/listen.asfと入力すればいい。Macユーザーの場合は、iTunesの「初期設定」の「ストリームを開く」を選んで、URLをhttp://cast2.mukulcast.com:11000と入力してOKを押せば聴くことができる。

 選曲は、韓国と日本のポップが多い。どちらかと言うと、日本のポップの方が多いかもしれない。CJのしゃべりもまた当然のことながら韓国語である。うざいコマーシャルも一切なく、CJのトークと曲だけ。とにかく、このトークがいい。かわいい。僕は日本語以外は英語しかわからん人間なので、何をしゃべっているのかまったくわからないのだけれど。なんか聴いていて、こっちも笑ってしまうような感じになる。実際、このCJっ娘たちはよく笑うのであるが、それを聴いてこっちもおもわず顔がゆるんでしまうのだ。東京の深夜のマンションの一室でパソコンを前にした自分が、どんなニヤけた顔をして韓国からの放送を聴いているのやらと考えたくもないけど(笑)、ほほまえしくなるのはしょーがないではないかと思う。これを夜中に聴いていると、高校の頃、ラジオの深夜放送を聴いていたことを思い出す。あの雰囲気によく似ている。

 思えば、歴史上、これほど大衆的規模で日本人と韓国人が接触した時代はかつてなかったと思う。今はネットで韓国からの情報に接することができる時代になった。近代の日韓関係はいろいろあったが、これからの日韓関係は変わっていくのではないかと思う。ネットの世界に韓国という新興国家の若い世代が大きく入ってきた。電脳空間でアジアは「ひとつ」のネットワークを形成していく。当然ながら、そこでの政治的対立やコンピューター犯罪やサイバーテロもこれから起こるだろう。しかし、そうした対立と混沌の中から生まれてくる新しいアジアのネットワーク社会を信じたい。

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May 14, 2005

手塚治虫『地上最大のロボット』を読む

 小学館ビックコミックスで、月に一回の連載をしている浦沢直樹の『PLUTO プルートゥ』の評判が高いので、どれどれとコミックスで今出ている第1巻と第2巻を買って読んでみた。なるほど、これはいい。この作品は、手塚治虫の『鉄腕アトム』の中のエピソード「地上最大のロボット」を原作にした作品で、浦沢直樹が現代的な視点から物語を描き直している。ロボットというか、アンドロイドについては、プロダクションIGのテレビ版『攻殻機動隊』や押井監督の映画『イノセンス』でかなり深く扱われていたが、鉄腕アトムに注目することは思いつかなかった。手塚治虫の作品では、『ブラックジャック』などは今読んでも十分におもしろく、かつ考えることがある作品であるのだが、アトムはそのかわいらしいキャラクターのせいか、どーもシリアスな作品と思うことなく、ただ単にスルーしていっただけだと思う。大体、アトムについては、僕はテレビで見ていただけで、マンガの方のアトムについてはほとんど読んだことがない。ロボットについても、アトムよりもキカイダーやマジンガーZの方が親近感がある(ガンダムや汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンにいたっては親近感以上のものを感じるのだけど)。ようするに、アトムは幼少期にテレビで見ていたというだけであって、今ひとつ親しみ感がなかったのであった。

 『PLUTO プルートゥ』は、読んでおもしろいと思った。とにかく、アトムやお茶の水博士やウランちゃんなどと言ったおなじみのキャラが登場するが、当然ならながら浦沢直樹のキャラクターになっている。浦沢直樹と言えば、『YAWARA!』や『MONSTER』が有名であるが、僕がよく読んだのは『MASTERキートン』だった。その浦沢直樹が『鉄腕アトム』をリメイクするのだ。

 さて、1巻、2巻と読んでみて、手塚治虫の原作が読みたくなった。しかし、アマゾンでも在庫切れになっていて、そう簡単には入手できないようだ。今日、神田神保町のマンガ専門店にふと入ってみたら、『PLUTO プルートゥ』の大型本では手塚治虫の『地上最大のロボット』が一緒にセットなって販売されていたではないか。値段が税込みで1800円という高さなので、ちょっと考えたが、ええーい、買ってしまえというわけで買ってしまった。こんなんだから、いくら働いてもお金が貯まることはない(きっぱり)。

 そこで、手塚治虫の『地上最大のロボット』である。中近東のとある国の王が、世界の王になろうとしてできなかった野望をロボットに託し、大金を注いで世界最強のロボットを科学者に作らせる。プルートゥと名付けられたこのロボットは、世界の各地にいる合計7体の最高技術で製造されたロボットを破壊することを命じられ、それを確実にこなしていく。興味深いのは、プルートゥはただ単に殺戮を行うマシーンではなく、倫理的な判断もできるロボットであるということだ。一度アトムに助けれられて、その恩を返すという義理も人情もあるロボットなのだ。しかしながら、プルートゥは7体のロボットを倒すことを命じられている以上、その命令に従うとしている。プルートゥやアトム以外にも、この物語に出てくるロボットはみなどれも「人間らしさ」を持っている。この物語は、世界の王になりたかったという一人の人間の欲望が、数多くのロボットの「生」を奪っていくという物語である。ラストは、とりあえず事態は収拾するが、後に残るのは荒涼たる破壊の跡と、悲しみとやるせなさというラストで終わる。唯一、アトムが希望らしきことを語るが、それはただの願望にすぎず、人間はまたこうしたことを繰り替えすということをよく理解していたのが手塚治虫であった。

 浦沢直樹の『PLUTO プルートゥ』では、ロボット(ちなみに、今の時代のSFものは「ロボット」とは言わずに、「アンドロイド」と呼ぶと思うが、あえて「ロボット」という言葉を使っているところに原作へのオマージュを感じる)の対比としての「人間」とはなにかということがさらに深く追及されている。中央アジアのペルシア王国の国王ダリウス14世は独裁体制を築き、近隣諸国を圧倒的軍事力で侵略し中央アジアを支配しようとしていた。これに対し、世界のリーダーを自負するトラキア合衆国は、国連で「大量破壊ロボット製造禁止条約」を呼びかけ、ペルシア王国に大量破壊ロボットが隠されていると主張し、調査団を派遣する。この調査団の名前の「ボラー調査団」の「ボラー」の意味や、ペルシア王国のロボット兵団を作った天才的科学者の通称が「ゴシ博士」というのも原作を読むとわかる。そして、やがてペルシア王国との戦争になり、数多くの罪のない人々やロボットが殺され破壊されていったという状況の上で物語は進んでいく。第2巻で、アトムはプルートゥのものらしき人工知能から発信された通信に「巨大な苦しみ」を感じる。これが何であるのか。『地上最大のロボット』を読んだ今、なんとなくわかるような気がする。

 結局、ロボットたちが本当に戦うべき相手とは誰なのか。なにがロボットにロボットの殺戮をし向けているのか。浦沢直樹は、手塚治虫のこの名作をどのように表現していくのか。今後楽しみだ。

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May 05, 2005

『Samurai7』はイイ

 過去見てきたアニメの中でベストを挙げよと言われたら、『serial experiments lain』『新世紀エヴァンゲリオン』『ご先祖様万々歳』『機動戦士Zガンダム』『ターンエーガンダム』『攻殻機動隊』『人狼』『機動警察パトレイバー2』『LAST EXILE』『プラネテス』等々と挙げることができるが、『プラネテス』のDVDの最終巻を見た後で、もはや気になるアニメがずーとなかった。

 いや、ずーとなかったというとウソになるな。実は、『ウィッチハンターロビン』の第1巻を見たら、これイイじゃんということで、そのまま、ずるずると全巻をレンタルで見てしまった。『ウィッチハンターロビン』は、全編に漂うゴシック的なダークさと、スタイリッシ感覚のある映像、ヒロインの瀬名ロビンのモノトーンのしゃべり方がなかなかよくて(いえ、こうしたゴスファッションで、あまり笑わなくて、ボソッとしたしゃべりしかしない子が個人的に好きというわけではないけれど・・・・)、音楽も良かった。物語的には、最初は『Xファイル』のような感じであったのだが、後半は話がなんかいまひとつまとまりに欠けた感じだった。最後まで、ハイクオリティーを維持して欲しかったと思う。それをやるのは大変だということはよくわかっているけど、TV版の『攻殻機動隊』はそこを見事にクリアしていた。

 『ウィッチハンターロビン』を全話見終わった後、もういいアニメはないのかと思って、深夜のTSUTAYAのアニメコーナーをいい歳をしたオジサンがゴソゴソと物色していたら(不気味だ・・・)、なんかよさげなアニメあったではないか。タイトルは『Samurai7』。解説を読むと、黒澤明監督のあの『7人の侍』のリメイクだという(そのまんまのタイトルだよな)。しかも、だ。制作はあの『LAST EXILE』を作ったGONZOである。これはなんか、すごくいいかもと思い、さっそくDVDの第1巻を見てみた。やっぱりイイ。この作品はイイ。

 というわけで、GONZOの去年TV放送されたアニメ作品『Samurai7』を今見ている。発売しているDVDは現在のところ第8巻までで、レンタルでは7巻まで出ている。舞台は、日本の時代劇であった原作とは異なり、遠い未来の架空の惑星の架空の時代という設定で、「侍」はメカロボットやサイボーグになっている者もいる。長い戦乱が終結した時代の中で、農民から米を強奪する悪い「侍」(「野伏(のぶ)せり」)がいて、そうした「野伏せり」を倒すために、農民は腕の立つ侍を探し、村を守ってもらおうとする。その農民の願いに応えるのが、カンベイたち7人の侍なのであった。

 と、ここまでは原作の黒澤監督の『7人の侍』を忠実にリメイクしているのが、違う部分も当然あって、キララやコマチといった日本アニメ定番の萌え女の子キャラも出てきて、このへんジューブン楽しめる(楽しめるって、なにを・・・)。黒澤御大も、こうした萌えキャラまでは作れなかったであろう。こうして物語は、最初は黒澤監督の映画とほぼ同じなのであるが、途中からさらに大きく展開していく。『攻殻機動隊』も終わってしまった今、こうして毎月の新作DVDが出るのを待つアニメはひさしぶりだ。

 さて、こうなると原作の映画がもう一度見たくなり、さっそく黒澤監督の『7人の侍』をまた見てみた。もう何度も見ているのだけれど、いい映画は何度見てもいい。

 改めて見てみると、三船敏郎が演じる豪快な菊千代は、実に重要なキャラクターであったことがわかる。三船敏郎は赤ひげ先生や椿三十郎の渋くて寡黙なイメージが強いが、このはしゃぎまくり騒ぎまくる、とにかく自由奔放な百姓上がりのサムライ(?)の菊千代を見るたびに、この役者は本当にいい役者だったと思う。菊千代がいるおかげで、この映画の幅と奥行きが広がっている。志村喬の勘兵衛もいい。武術に優れているだけではなく、人格を磨き、高い知性を持ち、人心を統率できる本当の侍の鏡のような人。加東大介、千秋実もいい。宮口精二の演じる居合いの剣客の久蔵はホントかっこいい。

 今の日本では、こうした映画はできないだろうなあと思う。監督もそうだが、こうしたいい役者はもういないよなあ。もはやアニメでしか、この映画はリメイクできないのだなと思う。農民を愚かで醜い者たちとして描いているが、最後のシーンで勘兵衛が言う「勝ったのは俺たちではなく百姓だ」というセリフが深い。『Samurai7』では、このシーンをどう表現するのか楽しみだ。何度見ても思うが、この映画は本当にいい。監督もすごいが役者も良かった。昔の日本映画は良かった。

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