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March 2005

March 28, 2005

続・世界の民主化をやるわよ

 ライス国務長官のアジア歴訪についての続き。

 先週のTimeのMarch28号に、今回のライス国務長官のアジア歴訪についての記事が載っていた。"A Welcome Guest"と題されたこの記事を読んでみると、アメリカが中近東とヨーロッパによってへとへとになっている時に、"Asia just kept growing, and growing, and growing."だったのだという。ホンマにそうか、とアジアの住人の一人であるワタシなどは思うわけであるが、ここで言うアジアとは、ユーラシア大陸の東端の島国のことだけではないので、アジア全体で見れば"growing, and growing, and growing."であったのは事実であろう。

 この記事によると、アメリカのアジアでのexcellentな関係国は、日本と中国とインドの3国であるという。今、アジアは民主化の動きが高まっている。ライスの上智大でのKeynote speechは、そうしたアジアの未来をアメリカはどう考えているかという表明であった。

 ライスは、中国に対して直接的に対立する意思はなく、"We have no problem with a strong, confident, economically powerful China."と言っている。もちろん、これは"We believe," she said, "that when China's leaders confront the need to align their political institutions with their increased economic openness, they will look around then in Asia and they will see that freedom works."と言っているように、中国が経済成長をすることによって自由と民主化を推進することを「信じている」からであって、そういう方向に行かない場合は、また別の対応を取るということであろう。しかながら、そのへんは中国側も理解していると思われる。今のところは、アメリカと正面から対立することなく、アジアでの一応のアメリカの影響を認めつつも、自己のパワーを拡大していくであろう。

 この記事に、"Powerful nations don't quite trust on another."であると書いてある。ようするに、アジア各国はお互いを信用していない。中国には台湾問題があり、かつ、当然のことながら日中関係は良いとは言えない。中国とインドの間にも対立がある。

 この、アジアの主要各国が対立しているということは、アメリカのアジア統治にとってまったく都合が良い。ヨーロッパは、アメリカに対抗するためにEUを形成し、それは今のところ順調に稼働している。それでは、アジアはどうだろうか。アジアは、いかなる姿でアメリカやEUに対応するのか。もっかのところ、アメリカに対抗できるのは中国だけである。中国は、やがてアメリカに対抗するアジアの大国になるだろう。日本は、21世紀になっても、戦後60年間のアメリカとの従属関係を今後も続けるようだ。そのことは、いかなる意味を持つのか。

 ライスは、上智大学でアメリカが描くアジアの21世紀を語った。では、我々、日本人はどのようにアジアの未来を考えているのか。そうしたスケールで物事を考えなくては、今のアメリカと対座することはとうていできない。

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March 27, 2005

世界の民主化をやるわよ

 ライス国務長官は、19日にそもそも上智で何を話したのだろうかと思い、どこかにスピーチ全文はないものかと探してみたら、在日アメリカ大使館のサイトにあった。

 読んでみて、うーむとうなった。なんかこのスピーチは、まるで19世紀から20世紀にかけてのセオドア・ルーズベルトかウッドロー・ウイルソンのスピーチを読んでいるように感じた。というか、このへん細かく言うと、1899年のジョン・ヘイ国務長官の「門戸開放宣言」から変わっていないなと思った。つまり、アメリカという国の外交政策は、大ざっぱに言うと南北戦争以後、全然変わっていないのである。アメリカというのは、変わらない国であったのだ。昔っから、アメリカはアジアに対して同じことばかり言っている。

 "Japan has set the example for political and economic progress in all of East Asia, helping to anchor the successes of the Republic of Korea and Malaysia, of Thailand and the Philippines, of Indonesia, of East Timor and of Mongolia. Japan has truly led the way."などを読むと、マッカーサー元帥が60年後の今の日本にやってきたのならば、こうしたことを言うのではないかと思った。日本は、アメリカによる他国の「民主化」が「成功」した輝かしいサンプルなのである。アジアの「未開国」である日本を「民主化」することは、ダグラス・マッカーサーの宗教的な理念であった。このへん、ライスは日本でこういうことを言うのならば、John Dowerの「敗北を抱きしめて」を読んでいるんだろうなあと思うが、読んじゃあいないであろう。

 つまり、このスピーチには、あるひとつの理念が濃厚にある。その理念とは「アメリカは世界を民主化しなくてはならない」という理念である。ライス国務長官が上智大学で語ったことは、「牛肉問題」とか、日本とアメリカは"a Strategic Development Alliance for our two countries"であるとかいう些細なことではなく(まー、牛肉問題は些細な問題じゃあないけどさ)、ここで語られたことは「世界を民主化する」ということなのだ。極端に言えば、日本でやった「民主化」を、アジア全域からイスラム諸国にまで「やるわよ」と言っているのである。

 であるのだから、このライスのスピーチに対して、「世界を民主化する」ってどうよ、という視点がマスコミになくてはならないのだが、日本のマスコミは、「牛肉問題」と「北朝鮮問題」しか取り上げず(つまり、自国のことだけしか関心を持たない)、ライスが語った、インド、中国、モンゴル、韓国、北朝鮮、フィリピン、台湾、マレーシア、シンガポールなどを包括したアジア全体の安定と発展と民主化という課題を取り上げるところはなかったように思う。

 "Every Asian nation, from Pakistan to Japan, understands our common interest in assuring a world free of terrorism, and virtually every Asian nation, too, has been willing to do its part to bring such a world into being."という言葉の「パキスタンから日本まで」という見方に注目しなくてはならない。こうした枠組みでアジアを見る視点を日本人は持っていない。

 ちなみに、戦前の日本のマスコミも、アメリカでの排日移民法とか対日経済封鎖とかいった個々の出来事ばかりを取り上げるだけで、それらの背後にある意図や、アメリカの世界観を国民に伝えようとすることはなかった。さらに話がズレるが、戦前の時から、日本の知識人は、なぜかソビエトに対しては過剰に思想や観念論を論じ、社会主義思想や共産主義思想を理解しようと努めるのだが、アメリカに対しては、強大な軍事力があることは理解しているが、精神や思想では、ただのお気楽極楽な物質文明の国としてしか(そーゆー面も確かにある)見てこなかった。

 このアメリカに対する見方を、根本的に変えなくてはならない時に来ていると思う。以前、ここでも書いたが、ようするに、今回の選挙でなんでブッシュが再選したのかということに、僕は今だにこだわっている。あの時、ワタシは保守思想とは何かということをカンガエマスと書いた。考えているのだ。そこで思ったのが、保守思想の台頭は、1964年のアリゾナ州の上院議員バリー・ゴールドウォーターの大統領候補指名受諾演説から考えていいのだろうかということだ。どうもそうではないのではないか。純然たる保守主義は、建国の父たちの理念に従い、不必要な海外介入はしない。世界を民主化しようなどという酔狂なことは思いもつかないのが、まっとうな保守主義である。つまり、これは保守主義の台頭と共に、南北戦争以後の「アメリカン・マニフェスト・ディステニィー」なのであるというように考えなくてならないのではないか。

 必要以上に外国に介入しないという節度をもっていた建国の父たちの理念が、南北戦争を経て、20世紀に大きく変貌する。世界を「パックス・アメリカーナ」で覆わなくてはならないという理念に変わる。ウッドロー・ウイルソンとセオドア・ルーズベルトは、その理念の子みたいなものであった。そして、その理念をもってフランクリン・ルーズベルトのアメリカはノルマンディーに上陸し、ベルリンを陥落させ、ヤルタとポツダムで日本の占領政策を決定した。さらに、第二次世界大戦以後も、アメリカはこの理念をもって冷戦に勝利し、ソビエト亡き今、本格的に「世界の民主化」を推し進めようとしている。このビジョンを明確に打ち出したのはレーガン政権であり、それを受け継いでいるのが今のブッシュ政権である。つまり、ことは民主党だから、共和党だからというレベルの問題ではなく、もっと奥の深い「アメリカの精神」のようなものとして理解しなくてはならない。

 ライスは元々、ソビエト研究の学者であった。この時代の国際関係論の論者は、皆多かれ少なかれハンス・モーゲンソーとその弟子のヘンリー・キッシンジャーの現実主義政策の枠組みで物事を考える。しかしながら、ライスが上智で語った世界観は、キッシンジャーの現実主義世界観ではなく、レオン・シュトラウスを源とするネオコンの理想主義の世界観である。つまり、ブッシュの二期目の外交政策は、これまでのネオコン路線と変わっていない。むしろ、より一層、世界の民主化を、ぼーりょく的と呼ばれようが、ごーいんと呼ばれようがやるということなのであろう。ライスが上智で語ったことは、つまりはそういうことなんだな。

 Washington Post のライスの上智でのスピーチについて"Rice Puts Japan At Center of New U.S. Vision of Asia"を読むと、ライスが上智で語ったのは、日本に対してではなく、次に行く(これから「自由」と「民主化」の理念の対抗相手になる)中国に対して語っていたのであったことがわかる。

 ライスの「世界の民主化」構想について、Washington Postは"Rice Describes Plans To Spread Democracy"と題して報道している。日本のマスコミには、こうした世界を大きな枠組みで見る視点がない。

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March 24, 2005

「NASA World Wind」はスゴすぎ

 先日、某メーリングリストで「World Wind」というソフトのことを知った。えー、なになにとその紹介を読んでみると、うおおおおおっ、これは、絶対、使ってみたい、いや、使わなくてはならない、と即行で171MBをダウンロードし、インストールして使ってみた。で、ハマっている。僕のThinkPadだと、使っている途中で衛星を切り替えると、OSがフリーズするのがナンであるが、とにかくハマっている。

 これはすごい、スゴすぎ。この「World Wind」は、NASAが配布しているフリーソフトで、NASAの地球資源探査衛星ランドサットからの画像データを元に、地球全体をカバーする3Dの地球儀ソフトだ。このソフトを起動すると、ディスプレイに地球儀が現れて、それをマウスで自在に回転させることができる。

 ところが、である。それだけなのではない。このソフトのすごいところは、その地球儀の表面を、どんどんクローズアップしていくことができるのである。マウスのホイールを動かすことで、アメリカ国内の特定の都市ならば、道路や建物や車まで見えるのである。つまり、地球全体から道路1本まで眺められるソフトなのだ

 こういった上空の人工衛星からの映像は、これまで映画などで何度も見てきたが、実際、この目で見てみると、これはすごい(さっきから、こればっかだな)と思わざる得ない。しかも、これは自分の机の上のパソコンから見れるのだ。これをすごいと言わずして、何がすごいと言うのだろーか。気象情報や災害情報も表示できて、かなり楽しめる。フォーカスを近づけていくと、地表に人間の営みである文明があり、そして今度はフォーカスをぐっと離してみると、惑星地球の姿があるのは、ちょっと感動もんである。太陽系の第三惑星を調査しに来た知的生命体の気分になれる。

 画像データは、NASAだけではなく、USGS(米地質調査所)からも連動しているようだ。こんなすごいもんを、フリーで世界の人々に配布して公開するアメリカという国は、つくづくすごい国だと思う。ただまあ、これって、他人の国の地理情報を勝手に世界中に流してしまうということで、そんなことをしちゃあイカンような気もしないでもない。しかしながら、そもそも全地球上をカバーできる監視衛星を所有しているということは、世界のすべての国の地理情報はアメリカに筒抜けということなのである。いわば、アメリカが全世界を監視しているのだ。アメリカの政府当局は、このソフトで見るアメリカの主要都市の画像データの解像度並で、他国のデータを見ているのだろう。資源探査衛星より、軍事用のスパイ衛星の解像度はもっと高度なのではないかと思う。

 しかし、そうであっても「World Wind」は十分すごい。ポール・ヴィリリオの「戦争の知覚論」を引用するまでもなく、人間の世界認識において、これはもう革命的な出来事だと言っていいのではないか。もしかしたら、この「World Wind」というフリーソフトの出現は、多少大げさに言えば、人類の文化史に記入されるべきイベントなのかもしれない。このソフトを使って、ズームインやズームアウトを繰り返していると、なにか奇妙な感覚になる。これはもう「神の視点」ではないか。情報技術って、ここまで来たのか。

 画像データを見ながら、いろいろなことを考える。こうして、パソコンのディスプレイで見ている「世界」と、今僕たちが生きているこの「世界」って、どう関わるのだろうか、とか。考えすぎて、今ちょっとまとまらない。唯一、今言えることは。

 これはもう、いかなる国もアメリカとは戦争はできんな・・・・。
 と同時に、宇宙から見れば国境なんてものはないんだなと思った。


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March 22, 2005

他者を理解する想像力を取り戻せ

 20日は、地下鉄サリン事件から10年目であった。21日の"The International Herald Tribune"紙(通称、ヘラトリ)の後ろについている朝日新聞の英語版に、このことについてジャーナリストの江川昭子氏と、ドキュメンタリー映像作家の森達也氏のコメントが載っていた。

 江川さんのコメントは、10年たってもあの事件から学んでいない。学校でカルト教団に入信しないように教育すべきだみたいなことが書いてあって、相変わらずこの人は、なんだかなあと思った。学校教育で何やろうと意味ないんだけどなあ。良くも悪くも、この人は市民社会の内側の人なんだなあ。

 森さんは、"Recover our imagination to understand others"(他者を理解する想像力を取り戻せ)というタイトルのコメントの中でこう書いている。訳してみると、

"私はオウムの関連工場に入り、窓から外を見てみた。別の言葉で言えば、私はカメラを通してオウムの側から社会を見た。そして社会の異常さ(abnormality)を知った。私が見たものは、他者を理解するのに想像力を使わず、そして自分たちが理解できない者たちを嫌い、避ける社会であった。"

 そして、我々がここで他者を理解する想像力を取り戻さなければ、憎しみの連鎖を断つことはできないと書いている。

 話は少し変わるが、先日、紀里谷監督の映画『CASSHERN』DVDをオーディオコメンタリーで見ていて、この中で紀里谷監督の「自分たちは正しいということだけじゃあ、悲しみの連鎖はなくならないんだ」という意味の言葉があって、はっそうであったと思った。

 「自分たちは正しい」、でオワリ、ではダメなんだなと思う。市民社会側の「俺たちが正常で正しくて、お前らカルト教団は間違っているんだよ」という認識が、カルト教団側をますます「社会憎し」に追い込んでいく。もちろん、テロリストの行動を理解する必要はない。森監督は、社会の側を「異常」と書いているが、では、この社会は地下鉄にサリンをまくかというと、そんなことはしない。あの事件を起こした者たちの方が、もっと異常であったことは言うまでもないであろう。現在、長々と裁判が行われているが、なにを延々と時間をかけて、テロリストから問いただそうとしているのかよくわからない。テロリストは問答無用でその場で射殺する、それが国際社会の常識である。

 ただし、オウム真理教の教団については、オウム信者であるということで、みんな同じに見られている。カルト教団は異質である、異質なものを排除する、排除すればそれでいい、ということになっている。それが、新たなる反社会的なるものを生み出す土壌になるのではないだろうか。

 あの事件から10年がたった。この社会は、行き場のないあの事件への怒りと恐怖を、教団そのもの(そして、自分たちには理解できない一切のもの)に向けてきた。森監督のドキュメンタリー映画『A』『A2』を見ると、そのことがよくわかる。

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March 19, 2005

Condy, Are you sure?

「米国産牛肉は安全だと保証する」
コンドリーザ・ライス アメリカ国務長官 in 上智大学


しかしながら、
飼料検査は不十分 米会計検査院が指摘
そして、
米上院、カナダ産牛の禁輸継続法案を可決

ニューヨークタイムズの社説にはこう書いてある。
"The only responsible way to resume international trade in beef is to ensure the health of the cattle. And the only way to do that is to test the cattle - all of them,if need be - and to bring a categorical end to the feeding practices that can spread mad cow disease"
(牛肉の貿易再開の唯一の方法は、牛の健康を確実にするということである。そして、それを行う方法は必要ならば全頭検査である。狂牛病を蔓延させるエサの与え方を絶対にやめるべきだ。)
NYTimes, EDITORIAL, March 15

つまり、

「アメリカの言うことを聞いて、良かったことは唯の一つもありません。」
(大前研一)

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March 18, 2005

竹島 このやっかいなもの

 島根県議会が「竹島の日」を制定したという。しかし、この「竹島の日」というものを制定したからなにがどうなるのかよくわからない。こうした「日」を設定すれば、政府が竹島の領有権を強く主張するようになる(はずだ)と思ったのであろうか。17日の朝日新聞の社説は、あまりにも韓国寄りの社説ではマズイと判断したのか、意外なことに「日本が竹島の領有を主張するのは、もっとさかのぼった歴史の解釈の違い」によるものだとしている。朝日ならば「竹島は韓国の領土。日帝が侵略した」と書いてもおかしくないなと思っていたのであるが。しかし、「解釈の違い」というのは微妙な表現ではあるな。

 実質的には、現在、竹島は韓国の支配下にある。韓国の警備隊が駐屯している。仮にだ。この島は日本国の領土であるから、韓国は出て行けと日本政府が自衛隊を出動させると韓国と戦争になるのだろうか。今時、日本と韓国がこの小さな島(土地)をめぐって戦争をやるのもなんだかなあ。

 本来、竹島周辺の海域は「日韓暫定水域」とされ、両国の漁船の共有水域であるはずなのに、実際には韓国の漁船に有利であり、かつ、なぜか日本の漁船が竹島へ行くと韓国警察に拿捕されてしまう。ここまでされれば、島根県もここは(そもそも)日本の領土ではないかと大声で言いたくなるであろう。

 韓国は、竹島が韓国の領土であることには十分な根拠があると言いながらも、この問題を国際司法裁判所にもちこむことを拒否している。そうしたところ見ると、韓国は国際司法裁判所ではっきりさせてしまうと自分たちに不利になるということを知っているのではないか。大体、もし竹島が日本の領土ではないということになると、世界の数多くの国々の「領土」の考え方が根本的に崩れることになる。こんなことが通るはずはない。

 もともと、40年前の日韓基本条約で、竹島の領有権問題を明確にせず、「棚上げ」にしてきたため、今になっても尾を引いているわけであるが、この「棚上げ」というのも政治的解決方法としてアリかなとも思う。日本国の領土であることは国際的に明白であるが、それを言うと韓国の国民感情が怒るというわけで。それじゃあ、竹島は韓国領にするのかというと、今度は日本の国民感情は当然そんなものを受け入れることはできないわけで。

 暴論だなと思いつつ、あえて書いてみるが、竹島の領土権をめぐって、両国の国民感情が激化し、日韓関係が悪化してどうしようもなくなった場合は、この島を爆破して、洋上からなくすというのはどうであろうか。両国にとって、必要なのはこの水域での地下資源や水産資源の方であって、竹島ではない。もちろん、排他的経済水域によって、この竹島の領土権が、この水域での資源の所有権に関わってくるわけであるが、ここまで隣接した日本と韓国の間で、「島」の領土権で水域の資源の所有権を決めようということもないであろう。竹島は、補給基地として漁船が使うことができる(現に韓国の漁船はそうしている)ので、なくすわけにはいかないということもあるであろうが、国民感情から見て、この島が日本と韓国の共同管理になることはまずないのであろう。で、あるのならば、これが原因で両国の関係が悪くなるのならば、こんなやっかいなもんはなくしてしまった方がいい。

 ようは、この水域の資源と国防の2点がポイントであるのだから、この2点についての実質的な協議を両国の間で進めるべきであろう。

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March 17, 2005

米国産牛肉輸入問題をもう一度考える

 アメリカの次期駐日大使のトーマス・シーファー氏は、米上院外交委員会で行われた指名承認のための公聴会で米国産牛肉の輸入再開や、在日米軍の再編・再配置問題について日本に圧力をかける姿勢を見せたという。

 米国産牛肉については、以前、このブログでも書いたが、その通りの進展になってきた。ちなみに、全米牧畜業者牛肉協会(NCBA)のウェブを見てみると、the Farm and Foreign Agricultural ServiceのJ.B. Penn氏が今年の2月に開催されたthe NCBA Executive Committee via conferenceの席上で、"Japan was key to resuming trade with other Asian markets.” As Japan goes, so goes some of the other markets in the region,"と語ったという。日本市場はアジア市場への貿易を行う上でのキーであり、日本でうまくいけば、他のアジア諸国でもうまくいくのだと言っている。この時期におよんでも、なおかつこうしたことしか議題にならないのは、日本への牛肉輸出はすぐに再開されるものだと考えているからであろう。

 しかしながら、事態がここまで政治問題化してしまった今日、ここで日本側が牛肉輸出を再開するとなると、どのような「科学的」根拠があろうとも、アメリカに屈したということになるであろう。食品の安全性という意味で言えば、牛肉に限らず、他の食品もまた安全というわけではなく、それはアメリカも日本も変わりはない。つまり、どの程度までのリスクならば許容できるかということである。日本人側からすれば、米国産の牛肉を食べなくてはならない理由はない。そこをアメリカ産の牛肉を「食べてもらう」ようにしていくのが商売のイロハであろう。以前ここでも書いたが、アメリカの業者でも個別に見れば良心的に検査をやっているところもあるはずだ。日本の流通・販売業者は、そうした親身な牧畜業者と密接な関係を持ち、アメリカ牛肉の販売促進を進め、地道にアメリカ産牛肉の安全性を日本の消費者に説明していくということができるはずだ。なぜか国家間の政治問題になっているから、話が全然進まないのである。

 日本側は買いたくないと言っているわけではない。また、科学的な厳密性云々の話ではない。ようは、日本の消費者が納得できるカタチで提供してくれと言っているだけなのだ。日本人の商慣習には「誠意」というものがある。しかしながら、この「誠意」を理解しようとしないのが全米牧畜業者牛肉協会であり、今の共和党政権なのである。

 それにしても、日本赤十字社は、たとえ一ヶ月以上でもイギリスに滞在した人は献血をお断りさせていただきますと言っている。その一方で、もし米国産牛肉がこのままでなんとなく輸入再開ということになった場合、あまりにも矛盾するように思えるのだが。

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March 16, 2005

NHKの番組改編は政治圧力が問題なのではない

 ライブドアとニッポン放送株の騒動ですっかり忘れ去られてしまった感があるが、NHKが政治家の圧力によって番組の内容を変更したと朝日新聞が報道し、NHK側はそうした事実はないと主張したことから始まった未だに真偽の定かでない出来事がつい最近あった。と、わざわざこう書かなくてはならない程、この出来事はまるでなかったかのようにマスコミから消えてしまった。

 というわけで、あの一件はなんであったのか。ことの起こりは、4年前(4年前なのだ!!)の2001年1月にNHKがとある「模擬裁判」(正式名称は、「「日本軍性奴隷制を裁く『女性国際戦犯法廷』」)についての特集の番組を放送しようとしたことから始まる。その「疑似裁判」は、民間団体「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」が中心になって、2000年12月に行われた。先の戦争での日本軍による従軍慰安婦について、その責任は日本国天皇にあるとし、昭和天皇を強姦罪で「有罪」とする判決にしたそうだ。そうだというのは、僕はこの番組を見ていないので実際のところよくわからないのだが、ようするにそのようだ。この天皇を「有罪判決」にするということだけを見ても、この集会はそっち方面の集会なんだなということがよくわかる。これをNHKが教育テレビで放送するというものなんだかなーという感じがしないでもないが、放送するっていうのだから、それもアリだとは思う。

 この「模擬裁判」の番組制作を企画したのは、NHKの関連会社「NHKエンタープライズ21」であり、制作会社の「ドキュメンタリー・ジャパン」と共にNHKに提案した、NHKは「NHKエンタープライズ21」に番組制作を委託、「NHKエンタープライズ21」は「ドキュメンタリー・ジャパン」に再委託するという形で番組は作成され、2001年1月に試写版が完成した。

 これがそのままオンエアされれば、それで何事もなく終わったわけであるが、やはりというか、当然というか、そうはならなかった。

 1月、NHK教養番組部長はこの試写版を見て、番組が趣旨から外れていると感じ、大幅な手直しを指示した。この指示により、「NHKエンタープライズ21」と「ドキュメンタリー・ジャパン」は内容に削除や変更を加えた。再度、部長試写が行われたが、まだ不十分であるとの指摘があったという。ここでかなりもめる。実質的に番組を制作した「ドキュメンタリー・ジャパン」の現場からすれば、いまさらなにを言っているのかということだろう。「ドキュメンタリー・ジャパン」の現場のディレクターは、この時の、NHK側の自主規制があまりにも度を過ぎているように感じたという。「ドキュメンタリー・ジャパン」は、この時点でこの番組への編集作業から降りる。以後、この番組の「改編」はNHKによって行われた。この時、「ドキュメンタリー・ジャパン」のディレクターは「共同制作ドキュメンタリージャパンの名は外して欲しい」とNHKに願い出たという。その時点では、その要求は了承されたが、放映された番組には、共同制作の項目に「ドキュメンタリー・ジャパン」の名が明記されていた。

 後に、2005年1月13日、番組制作局教育番組センターのチーフ・プロデューサー長井暁氏は記者会見の席で、番組を企画した下請け会社の視点が主催団体に近かったため、公明正大な客観性を強調して番組を制作してきたと発言している。ようするに、このチーフ・プロデューサーは、自分は公平な報道を心がけていたのだが、下請けが偏向した番組を作ってしまいましたと言っているのである。「ドキュメンタリー・ジャパン」は、この長井氏の発言がウソであることを主張している。「ドキュメンタリー・ジャパン」のウェブページでの「2005年1月12日付け「朝日新聞」記事以降のいわゆる「NHK問題」に関する報道について」によると、そもそも「主催団体」に近い考え方の要素だけでなく、別の視点の要素も盛り込んでいた「ドキュメンタリー・ジャパン」の構成案に対し、より法廷を主にした内容で行く方針を打ち出したのはNHK側であったようだ。

 つまり、今の時点では事実関係がまだ明白になっていないのであるが、勝手な推測で判断をしてみると、どうも「偏っていた」のは、このNHKのプロデューサーなのではないだろうか。そして、NHKの上サイドも、番組を制作した「ドキュメンタリー・ジャパン」の現場も、内容が内容なだけになるべく「偏らない」ように常識的な判断をしてきたのではないだろうか。

 そして、さらに話をややこしくているのが朝日新聞社という「もっと偏っている」マスコミ集団である。長井氏が「告発」した2001年当時の松尾武放送総局長は、朝日新聞の取材に対して、中川昭一衆院議員との会見での「圧力とは感じますよ」「圧力とは感じるが、それは一つの意見だったと聞く耳は持つ」「全体の雰囲気として、注意しろ、見ているぞという示唆を与えられた」という松尾氏の主観的な言葉だけで、中川衆院議員がNHKに対して圧力をかけたとしているのだ。また、安倍晋三衆院議員については、「(番組が)ひどい内容になっていると側聞していたので、NHKだから公平公正にちゃんとやって下さいねと言った」という言葉をもって、NHKに議員が圧力をかけたとしているようだ。これは、客観的な事実を事実として報道していることになるのであろうか。この程度で、政治家がマスコミに言論弾圧を行ったかのような報道がなぜ成り立つのであろうか。

 例えば、太平洋戦争中では、陸軍が出版社への紙の配給を管理していた。従って、出版社は軍部に逆らうと紙の配給を止められる可能性があったため、これに逆らうことができなかった。これをもって、出版社は軍部から「圧力」を受けていた(現に、検閲制度があった)とするのならばそれは正しいであろう。しかしながら、実際のところ、マスコミ各社は軍部からの「圧力」と戦うどころか、むしろ軍部に迎合することで、少しでも自社への紙の配給を有利に図ってもらうようにしていた。

 この程度のことで、マスコミへの政治介入だとするのならば、なにをもって政治介入と呼ぶのか、その感覚が一般人と朝日新聞には違いがあるとしか言いようがない。どうやら、朝日新聞には朝日新聞独自の解釈基準があり、それは我々のものとは別のもののようである。なお、朝日新聞はNHKを訴訟するとのことであるが、今日に至ってもなされていない。

 この番組改変問題について、NHKの橋本元一会長は15日の衆院総務委員会で、共産党の議員からの質問に対して、政治介入は「なかったと考えている」と改めて説明した。政治介入があったか、なかったかと言えば、なかったという答えしか返ってこないのが当然である。むしろNHKについて質問すべきことは、NHKの判断による番組の改編の内容は適切なものであったのかということと、制作会社への対応に問題はなかったのかということであろう。1点目については編集権限はNHKにある以上、外部がとやかく言えることではないが、2点目のマスコミの現場における下請けの扱いについては、かなり構造的な問題がある。マスコミは、そのことを決してメディアに載せることをしない。むしろ、今回の出来事での着目すべき点は、NHKと朝日新聞が「言った」「言わない」という茶番劇なのではなく、事が公になった時、NHKの局の現場は、下請けの制作会社に責任をなすりつけて、自分は正しいとしたところにある。しかしながら、今現在に至っても、マスコミの論調はNHKと朝日新聞の「言った」「言わない」論争であり、NHKに対しては政治介入が「あった」「ない」論争になっている。朝日新聞からすれば、政治介入があったとして騒ぎを大きくすれば、自民党を叩くことができる。放送業界の下請け会社のことなど、どうでもよいのであろう。また、NHKもそれに触れて欲しくないのであろう。

またもや、事の本質はマスコミの手によって隠蔽されているのである。

参考資料
読売新聞の「ニュース特集」「NHK問題」のページ
「ドキュメンタリー・ジャパン」の元担当ディレクターによる事件の経過


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March 11, 2005

嫌米ではなく、まず事実を直視しよう

 「日本の自衛隊は軍隊なのに、なぜ他国の軍隊に警護を頼るのか」、イラクのサマワで7日に行われた英軍、オランダ軍、自衛隊の共同記者会見で、オーストラリアのメディアが太田清彦・第5次イラク復興派遣支援群長に質問をしたという。これはまったく当然の質問であって、オーストラリアのメディアであろうと、どの国のメディアであろうと疑問に思うのは当然である。唯一疑問に思わないのは、日本のメディアぐらいであろう。

 さて、この質問に対して、自分ならばどう解答するか考えてみた。考えるもなにも、真実を言うしかないであろう。

「えー、自衛隊は軍隊ではありません。かつて、総理大臣吉田茂はそう申しました。我が国の憲法では、戦力を放棄しております。では、アレはなんであるのか。半世紀前、そもそも日本の軍事力を解体したアメリカが、アジアの共産主義陣営に対抗するために、態度をコロッと変えて日本に再軍備化を求めました。アレは、GHQの指令により日本政府が創設した警察予備隊であります。保安隊と呼んでいる時期もありました。現在の日本では、自衛隊と呼んでおります。しかしながら、なんと呼ぼうと、その実体はGHQの指示で無理矢理作らされた警察予備隊であります。
 この元警察予備隊なるものが、今日、サマワにいるのは、日本国および日本国民の総意ではありません。アメリカの手前、行かざる得ないがために行っております。復興支援ならば、こんな軍隊、じゃあなかった元警察予備隊が行くよりも、民間企業やNGOが行うのが一番いいわけですが、アメリカ様が行けというから行っている次第であります。日本政府は、アメリカの意向にはとにかく従う。それ以外のいかなる目的もありません。それが最終的に、我が国の国益になると考えております。」

 そんなことはない。日本は独立した国家である、アメリカの言いなりになっているわけではない、と思うかも知れない。しかしながら、米国牛肉の輸入を再開せよという催促の電話をかけてくるということひとつを見ても、あの国がこの国をどう見ているか明白であろう。そして、そう見られるもなにも、実際の日本はアメリカの属国なのだから、しかたがない。

 では、どうしたらいいのか。アメリカはケシカラン。在日米軍なんか撤去させて、憲法を改正し、日本独自の本当の国軍を作るべきだ、と思ったとしても、今の軍事技術は米軍の存在なくして成り立たない。国の安全保障だけではなく、科学も経済もなにもかもアメリカの存在なくしてやっていけない。親米派が言う、アメリカにとにかく従っていくことが、日本国の国益になるというセリフには、それなりの説得力はある。そう考えると、吉田茂はやはり戦後史に残る政治家であった。吉田は、国家の国益と安全保障がいかなるものか、アメリカの占領下のあの時代の中で真剣に考え、考えた結論がこうだったのだ。その時代のパラダイムが、今大きく変わろうとしている。

 では、どうしたらいいのか。アメリカに従うことが、日本国の国益だとしても、それはいかなる国益なのか。そもそも、なにをもって日本国の「利益」としているのか。国家としての独立した体面を維持しつつ、世界に開かれた社会であるということはいかなることなのか。すべての話は、ここから始まる。他のいかなる場所からでもない。

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March 10, 2005

映画『ローレライ』を見た

 先日の土曜日、樋口真嗣監督の映画『ローレライ』を見てきた。まず見るに当たっては、これは小説とは別の話なんだと理解することにした。これは小説とは違うといちいち思っていたら、なんのための映画なのかわからん。小説は活字がえんえんと続くので(あたりまえか)、読んでいるこっちも思弁的、思索的になってしまうものであると思うが、映画は楽しんでナンボのものだ。映画で、あまり重ったるいことを考えてはイカン。さらに、『ローレライ』を見る前に、樋口真嗣と福井晴敏の対談本『ローレライ、浮上』講談社(2005)を読んだ。これを読むと、ガンダムの総集編みたいな内容展開にしていると書いてある。そうか、そーなのか。『劇場版ガンダム三部作』なのか、『地球光』『月光蝶』なのか。よーし、よーし、よーくわかった、と、なにがわかったのかよくわからないが、とにかくそーゆーことで、事前準備バッチリでいざ見に行った。公開初日であったのだけど、昼間は仕事をしていたので、池袋で深夜のレイトショーで見た。

 しかしまあ、これは戦争映画というより特撮映画、もしくは昔あった空想科学物語モノだなと思った。この映画について誰もが書いていることであるが、僕もこれは太平洋戦争を題材にして、実写で宇宙戦艦ヤマトとガンダムをやったような内容だったと思う。実際のところ、小説でもそうだったわけであるが、小説の場合はさらにいろいろな物事が書き込まれていて、それがそれなりにリアルさを出していたと思う。しかし、こうして映像で小説の基本的なストーリィのみを出されてしまうと、ここまで荒唐無稽な話であったのかと思ってしまった。

 ただし、僕もまた宇宙戦艦ヤマトとガンダムを見て育った世代なので、これはこれで、こういうもんなんだと入り込むことができた。このへん、樋口監督も福井さんも僕といわば「同世代」であり、抵抗全然なし。福井晴敏がパンフの中で書いていたが、例えば現代の海上自衛隊もの(例えば『亡国のイージス』とか)で、こうしたファンタジーをやってしまうと、もはやマンガ以下になるであろうが、第二次世界大戦ものであるのならば、空想科学モノ的な物語は可能だ。むしろ、こうしたジャンルが、日本映画で多く扱われてこなかったのが不思議だ。かつてエンターティメント的観点から戦争を扱ったのは、アニメであって日本映画ではなかった(まったくなかったわけではないが)。敗戦国日本では、戦争を「エンターティメントにする」ということ自体が許されるものではなかったのだろう。しかしながら、それを堂々とやり、なおかつ戦争の持つ不条理さを表現し得たのが富野監督のガンダムであり、それを見て育った世代が、同じような手法で太平洋戦争の空想科学物語映画を作ったのが『ローレライ』であった。(だから、本格的軍事映画を期待して見ると、裏切られるから期待しないように。)

 ストーリィの展開は、小説を読んでいないとわからないところがあるんじゃあないかなと思った。見終わった後で、パンフに上映時間が2時間8分と書いてあったが、そんな長く感じなかった。なんか、すごく早く終わったような気がする。さすがガンダム総集編的編集であるが、展開が全編にわたってフラットなトーンになっている感じで、起伏感に乏しい。最後の戦いのシーンは、なにゆえもっと大規模な戦闘シーンにならなかったのか。ここまで持ち上げておいて、これで終わりではそれはないだろうと思った。予算の都合なのだろうか。

 いくつかの印象的なCGの風景描写があった。月が煌々と照らしている夜の海上を「伊507」が進んでいく風景は美しかった。ほんの数秒程度しか画面に出なかったのであるが。それと、8月6日朝、広島の(後に、原爆ドームと呼ばれる)産業奨励館の上空の晴れた空を一筋の飛行機雲が流れていく風景のシーンがあって、これを見た時、僕はちょっと衝撃を受けた。この風景は、半世紀前のあの時の、あの時間の、あの場所で、あの空を見上げた人がおそらく見たであろう最後の風景であったに違いない。この風景は、実際にはこの世に残っていない風景描写である。それがこうして一瞬だけなのであるが見れたことで、ちょっとしたタイムスリップ的感覚になった。

 「大人の起こした戦争で、若者を頼りにしてすまなかった。俺たちは自分以外の何か見えないものに身を委ねる生き方しかできなかった」という意味の絹見艦長のセリフがあったように思う。この言葉を聞いて、あっそうだったなと思った。特攻隊員というのは、少年兵であったことを忘れていた。あの時代の大人は、若者を特攻兵器の操縦者として使っていた。この特攻について、小説の方ではそれほど深く書かれていなかったと思う。映画では、絹見艦長はかつて特攻攻撃を認めないことがあったため、海軍内部では「腰抜け艦長」と呼ばれていたというセリフがある。映画では、特攻というものにフォーカスをあて、そんなものに若者を使う大人たちは一体なにをしているのかという意味があったように思う。絹見艦長たち「伊509」の大人たちは、そうした時代そのものを抱えて自ら海底に沈む道を選択し、若い2人に生きていくことを促した。浅倉も、ある意味では絹見と同じで、こっちは東京もろとも「自殺」しようとしたわけで、その方法があまりにも過激だっただけだ。

 これを見ながら、平成の今の時代だって、ワカイモンを犠牲にして、大人たちは自己の安泰を図っているではないかと思った。太平洋戦争で生き残った子供たちが作った戦後日本であるが、今日、またもや大人たちは若者を犠牲にしようとしている。しかも、そうしたことをやることで、なんらかの現状の打開になるのかというと、そんなものはまったくたく、明るい未来はないという意味で、あの時代も今も同じだなと思った。今の時代は、大人が始めた戦後日本の経済的繁栄というもののために、今の若者は犠牲になっているのではないか。そんなことをふと思った。

 役所広司が熱演している。こうした映画にはお決まりの仲代達也や丹波哲朗が出なくてよかった。パウラは綾波レイ(ってゆーより、フォオ・ムラサメ?)なのであるが、綾波には似ていない香椎由宇で、これはこれでいいかも。あと、ワタシとしては、ですね。妻夫木聡はどうでもよくて、あの「リリィシュシュ」の忍成君が出ているではないですか。ほんの少ししか出ていないのだけど。それと、非常によかったのが軍医役の國村隼。この人はいい役者だ。いつも名脇役の人である。最後の方の、時岡がライカを渡すシーンでホロッとなってしまった。いい軍医さんでした。柳葉も例によって中間管理職が似合う。石黒賢はどうでもよし。阿川佐和子は、なにゆえこの人が出たのか。父親が海軍関係の作家だからなのか。よくわからん。堤真一の浅倉大佐は、みょーにはまっていた。こういうタイプは、帝国陸軍にはいなかったな。しいて言えば、元関東軍参謀の石原完爾中将がいたがルックスが全然違う。

 全体的に見て、印象に残るいい映画だったと思う。同じくCGを多用していた篠田監督の『スパイ・ゾルゲ』(本木雅弘の演じる尾崎秀実以外見るものなし)より遙かにいい。ただ、浅倉大佐がなぜこうしたことをしたのか。絹見少佐やパウラの心情の変化などは、映画だけではわからないと思う。この映画は、人物の心理を映像で表すよりも、派手な特撮の方が主体になってしまっている。しかしながら、逆に、広島の上空を飛ぶB29の飛行機雲の風景や、月夜の海の上を進む「伊507」の光景や、アメリカの駆逐艦から魚雷やヘッジホッグが発射されるシーンのスピード感や、潜水艦の内部の閉塞した雰囲気などは、活字ではなかなか表現し得ないものだ。小説も映画もどっちも良し。

 というわけで、冒頭で小説と比べないと書いたワタシであったが、しっかり比べているじゃん。

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March 07, 2005

堤家の異母兄弟

 西武鉄道グループの前会長の堤義明氏が逮捕された。西武グループの創業者は、父親の堤康次郎である。堤康次郎は東急の五島慶太と並んで、昭和前期の代表的な事業家であり、その強引な土地商売で有名であった。なんとなく、コクドを見ていると「戦前の会社」的感じがする。このへん、堤康次郎の時代と変わっていないのだろうと思う。もともと、この「名義偽装株」の手法は、父親の堤康次郎が考案したものだったようだ。康次郎は、西武鉄道は堤家の財産であるとし、徹底的な一族支配を強いてきた。息子は、それを忠実に守ってきたのだと言えよう。それは、違法行為であったわけであるが。

 堤義明氏の逮捕について思うのは、その兄の堤清二氏である。康次郎は、百貨店事業(当時は、池袋駅前の百貨店1店だけだった)を次男清二に、土地と鉄道の事業を三男義明に渡した。清二氏は、もともと父親を批判していた。大学時代に共産党に入党し、積極的に文筆活動を行うが、後に共産党の内部抗争の中で党を離れる。父親には相続拒否をしたという。作家辻井喬の一連の小説作品には、父親への相克と愛憎が主題になっているものが多い。パルコの経営を実質的に任せていた増田通二が、渋谷でデザイン的な広告と「文化」戦略で成功し、池袋の西武百貨店では紀国憲一、田中一光らが中心になって美術館や出版社を作っていった。以後、セゾンは百貨店経営と文化活動を融合した事業を展開していく。堤清二氏自身もまた辻井喬というペンネームを詩を書き、小説を書く文化人であった。1980年代に清二氏の西武セゾングループが果たした文化的役割は、いくら強調してもしすぎることはない程、大きなものであったと思う。あの頃の池袋の西武百貨店は楽しかった。

 商売というものが、製品やサービスを提供するものであるのならば、まずライフスタイルやあるべき生活の理念を伝え、次にそのライフスタイルに必要なモノとしての製品やサービスを販売するというビジネスモデルは、80年代当時は衝撃的なことであったし、今でも通じるのではないかと思う。ただし、そうは言っても、あくまでも販売手段としての「文化」であるため限度はある。限度はあるが、だからと言って商売の目的は営利目的であり、儲かればそれで良いと言い切ってしまうと、精神の貧困さ以外のなにものももたらさないと思う。もちろん、だからといって、採算を度外視して、次の生産ができるはずがない。このへんのバランスをどう判断していくかであろう。

 義明氏の経営に対して、清二氏の経営の方が良かったと言うつもりはない。ブランド品に対抗するために「無印良品」を出したが、「無印良品」自体はまたブランドになってしまったと語る清二氏は、分裂していると言えば確かに分裂しているところがあった。セゾングループは、「生活総合産業」というビジョンを掲げ、事業の拡大・膨張に走っていったが、バブル期になにを間違ったのか父親と同じように土地の売買に手を染める。このためバブル崩壊後、リゾート地などの不動産開発を手掛けていた西洋環境開発が巨額の赤字経営になり、清二氏は私財100億円を出して精算し、自ら経営から身を引く。この時を境にして、経営者堤清二も、堤清二のセゾンも消えてなくなる。今日、セゾン美術館もWAVEもなくなってしまった。リブロポートもなくなってしまったし、リブロと一緒にあったアート専門のショップのアール・ヴィヴァンもなくなってしまった。消費社会に対して、あれほど批判的であった文化人堤清二氏が、なにゆえ不動産の売買に手を出したのかよくわからない。西武セゾンの強みは、土地という不動産ではなく、イメージやコンセプトといった「シンボリック」なものであったはずだ。セゾンが、セゾンらしからぬことをやった時、西武セゾンの文化事業は崩壊していったのである。

 5日、清二氏は、コクドの株式について、株の持ち分を確認する訴えを東京地裁に起こした。2月に、義明氏の実弟で元プリンスホテル社長の猶二氏が、コクド株の持ち分確認を求めて裁判を起こした時、清二氏は、コクドについて「独裁的に管理されてきた企業」であり、「経営者のモラルからみて重大な逸脱がある」という陳述書を裁判所に提出した。その陳述書では、「今回の西武鉄道とコクドが引き起こした事件は時代とともに変化する価値基準からみて社会に受け入れがたい事件であると同時に、経営者のモラルからみても重大な逸脱があります」また、「康次郎の残した事業の大きな部分がだれにも分割されないまま、公私混同の極端な事例として義明氏個人が牛耳っていたとすれば、社会正義の観点からも税の公平という点からもあいまいなまま封印していいとは考えられない」と批判している。清二氏にとって、コクドと異母兄弟義明氏を批判することは、すなわち父親康次郎を批判することなのだろう。

 義明氏は、父親の残したものを自ら変えることができなかった。世の社会通念や社会正義といったものよりも、父親の影に従うだけの人生であったのだろう。義明氏がそうであったからこそ、父親はこの息子を後継者にしたのだと思う。そして、堤義明のまるで合わせ鏡のような正反対の、康次郎へのアンチテーゼ的存在としての堤清二は、父親の亡き後の遙かな後年である今日に至っても、なおかつ父親を批判せざる得ない。この2人は、老年になった今日でも堤康次郎という巨大な父親の魂魄の中にいる。

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March 04, 2005

『終戦のローレライ』を読む その3

 というわけで、読了しました。

 潜水艦の戦記物小説であるわけだが、あの戦争とその後の60年間の日本の姿を顧みるような作品だった。そして、読み終えてみると、不思議にこれからの時代に希望を感じていることに気がついた。あの戦争と、それに続く戦後60年間の時代の意味を正面から見据えた作品だった。

 読了した今、感じることは、ようするに、「まだ終わっていないんだな」ということだ。なにが、まだ終わっていないのか。それは、ある意味においては、あの戦争そのものがまだ終わってはいないのであり、戦後の日本民族の復興ということが、まだ終わっていないのだということだ。戦後の日本について、浅倉大佐が言ったことは正しい。確かに、日本はこうなったし、日本人はこうなった。しかし、これで終わりではないのだ。浅倉が言う、戦後、日本人は「百年もすれば国の名前も忘れた肉の塊になる」で、オワリではないのである。

 あの戦争では、厖大な人々が亡くなった。戦火の中で生き残った人々が、この戦後日本を作った。この戦後日本に対して、浅倉のような見方をすれば、確かにそれはその通りであろう。しかしながら、食べるものもなく、あたり一面焦土と化した状況の中で、彼らはまず物質的に国を復興させること以外のなにができたであろうか。あの時代の国際社会の中で、アメリカに依存せざるして、どのように国際社会の中での位置を保つことができたであろうか。

 『終戦のローレライ』のラストは、「伊507」から離れたもう1人の主人公の若者が、その後の戦後の日本社会を生きていき、歳老いた老人になった今、あの戦いで死んでいった人々の意思を受け継ぐことができず、その後の人生は自分の生活を守って働いていくだけで精一杯であったことを悔やみ嘆く。

「自分という人間がいようがいまいが、この国にはなんの影響もなかった。目の前の仕事に追われて、雑事に振り回されて、それだけで精一杯だった。自由が腐ってゆくのを、指をくわえて見ているだけだった。こんなちっぽけな人間を生き延びさせるために、艦長たちは死んでいったのか?君の兄さんや掌砲長、機関長、軍医長たちは死んだのか?そうだとしたら、あんまりにも間尺が合わなさすぎる。清水や河野たちに、<伊507>のみんなに、おれはなんと言って詫びたらいいんだ・・・?」

 しかし、この若者と共に「伊507」から離れ、共に戦後の人生を歩み、共に老いて老婆になった女性は言う。「詫びることなんかないじゃない。」と。「あなたがずっと感じてきた痛みも、いま流している涙も。そういうことも全部ふくめて、いま私たちは生きている。きっとね、それが大事なことなのよ。」

 戦争で死んでいく者たちもいれば、生き残る者たちもいて、やがてそこから新しい命がはぐくまれ、そこに希望が生まれる。この物語の本当の主人公とも言うべき、数奇な運命を辿ってきたこの女性は、その人生の終わりに次の世代に未来の希望を託す。

 ここに作者のメッセージを感じる。あの戦争で死んでいった者たちの意思を継ぐのは、これからこの日本社会に生きる我々なのであろうと思う。この世の中は、カネがすべてで、即物的で、おもしろくなんともない社会であり、これが戦後日本そのものなのだけど、だからと言って、ここで終わってしまっては、浅倉が言った通りになるだけだ。つまり、まだ戦後は終わってはいないのである。今までとは違う戦後日本を、これから作ることができるはずだ。2005年、平成17年になっても、日本民族の復興はまだ途中なのだ。福井晴敏の『終戦のローレライ』は、読み終えてそう感じることができるいい作品であった。

 それにしても、これほどの小説をどのように映画化したのか。
 うーむ、期待するような、なんかコワイような・・・・。

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March 03, 2005

『終戦のローレライ』を読む その2

 現在、下巻の最後の方を読んでいる。読み終わった後での、全体を通して感想は別に書くとして、浅倉大佐がやろうとしたことについて考えてみたい。ちなみに、映画では浅倉大佐は堤真一が演じる。

 以下、ネタバレあり。

 浅倉は、ローレライ・システムをアメリカに渡し、その条件として、アメリカによる3発目の原爆投下の目標を小倉にではなく東京にしようとする。東京には、政府と軍部と、そして天皇がいるからだ。浅倉は、これらを日本から抹消しなくては、敗戦後の日本人の本当の独立はないのだと考える。なぜか。政府も軍部もポツダム宣言を前にして、天皇在権、国体護持のみにこだわるか、さもなければ徹底抗戦を唱えるだけで、誰も、この後の国のことを考えないからである。やむにやまれぬことからアメリカとの戦争になり、一億玉砕を唱えてきたが、陛下の御意志により終戦となったというストーリィーになり、ここに「責任」の2文字は存在しない。浅倉は、そうした政府や軍部の無能さや無責任さを糾弾する。つまり、このままでいくと、これほどの厖大な犠牲を出した戦争の総括もせず、誰も責任をとらないまま終戦となり、そのままで、日本人はアメリカの巨大な軍事力による占領を受けることになるのである。

 浅倉は語る。
「本来、個々人が持ち得ていた美徳や道徳観念を、義務として押しつけられた瞬間から、日本人は精神の豊かさを失った。我々は箍が外れ、米国の物量経済が真空地帯になだれ込んだら・・・・日本人は呆れるほど簡単に米国に尻尾を振るようになるだろう。指針を失った人心は形だけ真似た経済至上主義に飛びつき、まやかしの自由を謳って飢えを見たそうとする。そして、義務化された美徳や道徳観念は否定され、急速に人の心から消えていく。その先にあるものは・・・・復興に名を借りた欲望の暴走。狡猾、打算、成算。東洋の敗戦国を基地化し、植民地主義に変わる政治的支配の実験場として、ありとあらゆる試みを国家規模で押しつける勝者の傲慢。それを勝者の正義として受け入れる、敗者たる日本人の卑屈さ。」

 だから、浅倉は東京に原爆を落とし、腐った過去を断ち切ろうとする。
「神州など存在しない。現人神も存在しない。日本人の精神をぎりぎり支えてきた柱・・・幻想をこの手で打ち砕き、冷徹な現実を見据える目で己とはなにかを問いかけることだ。」「見つけられぬ者もいるだろう。あくまで幻にすがろうとする者もいるだろう。だが、そんな人間はこれからの先の日本、空前の精神的侵略に耐えなければならない日本にはもとより不要。真実の己を見出し、血と肉の通った美徳と道徳観念を取り出してこそ、日本民族は再興し得る。民族として尊厳をもって物量経済を御し、世界に比肩する国家になるんだ。」

 浅倉は、日本はアメリカに蹂躙される前に、国家の切腹をすべきだという。なるほど、いかにもという気がしないでもないが、一理ある考えであると思う。三島由紀夫の檄文にも通じるものがある考え方である。だから、原爆を落としていいとは思わないが、浅倉のこの考えを頭から否定することはできないであろう。もちろん、富野監督の映画『逆襲のシャア』の最後のシーンで、ネオ・ジオンの総帥のシャアがアクシズを地球に落とし、地球人類を粛正するということに対して、アムロが言った「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない」という名セリフは、ここでは浅倉大佐に向かって言うべき言葉であろう。

 実は、戦争が終わった直後の占領下の日本で、戦争責任問題はかなり深く論じられていた。丸山真男、大塚久雄、加藤周一、南原繁、共産党の徳田球一、宮本顕治、野坂参三らが、日本人の「主体性」や「戦争責任」について論じていた。いわゆる「天皇退位論」があったのが、この時期である。多少大げさに言えば、この時期、日本から天皇制がなくなってもおかしくもなんともない状況だった。それほど、日本人のナショナル・アイデンティティをめぐってラディカルな議論が1950年頃まで続いていた。しかしながら、その後、戦後思想は大きく変わり、平成の今、我々はそうした議論が過去になされていたことを知らない(学校の授業で、そんなこと習わないしぃ)。

 というわけで、『終戦のローレライ』の浅倉大佐の思想から、日本の戦後思想について書こうと思ったが、本日は、もはやそんな気力も体力ももうないのであった。あー、歳は取りたくない。

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March 01, 2005

『終戦のローレライ』を読む その1

 今週末から劇場公開ということで、なにしろあのガメラの樋口さんということで、やはりこれは見に行かなくてはということで、その前に原作を読んでおこうということで、と「ことで」「ことで」が続き、ということで、昨日の日曜日に福井晴敏の原作本を買ってきた。

 ちなみに、買ったのは文庫版の方ではなく、分厚いハードカバーの上下本の方だ。コレ表紙のデザインがカッコいい。福井晴敏は、以前、ターンエーガンダムの小説版である『月に繭 地には果実』を読んで以来、2作目ということになる。『亡国のイージス』も読んでいなくて、『終戦のローレライ』を読みを終わったら次はこれを読もうと、こっちは文庫版の方を買ってきた。

 今、上巻の終わりの方を読んでいる。会話が、あの時代の人間はこんな思考はしないよなあ、と思う内容なのであるが、それはまあ小説なんだからこれもアリだと思う。それにしても、これはもうガンダムだなと思う。「ゼータ」と「逆シャ」ではないか。アレは、どう見てもサイコミっつつ、ネタバレになるので書かないでおこう。あー、あと、「最終兵器ナントカ」もあるな。

 それにしても、日本海軍が、自分たちのことを「帝海」と呼ぶのは、僕は見たことも聞いたことも、読んだこともないのであるが、どこからこの言葉をもってきたのだろうか。しかしながら、この作品は、国家と戦争を正面からよく論じていると思う。本当は、小説の中ではなく、今の日本のマスコミなりで、こうした議論がされるようになればいいのにと思う。

 軍令部の浅倉大佐の考えは、どのようなものなのか興味がある。彼は、アレをどうしようというのか(なんつったって、アレだからなあ)。このへん下巻で明らかになるであろう。絹見艦長は、読んでいてこの人のイメージは役所広司になるんだよな。

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